明治の元勲『西郷隆盛』!なぜか写真が存在しない!ホント?

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日本史上の超有名人・幕末維新の英雄『西郷隆盛』の真影写真が見つかっていない事実に迫ります。

これはホンモノではないかと思われるものを探し出しました

しかし、ホンモノはだいぶ上野の西郷さんと違うみたいです。

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『西郷隆盛の写真』は本当に無いの?

よく言われる話として、西郷隆盛本人が極端な”写真嫌い”だと云う話が有名ですが、明治の教育者・郷土史家の西田実氏著『大西郷の逸話』によりますと、、、

その有名なエピソードとして、、、

明治初年頃に明治天皇が、西郷にご自身の衣冠束帯のお写真を賜り、交換で西郷の写真を所望されました。

しかし、その後西郷からは何の連絡もなくしびれを切らした明治帝は更に、ご自身は大礼服、皇后さまは十二単衣の御真影を西郷に下賜されましたが、やはり西郷からは写真の提出はなかったようです。

周りの人々がこれは不敬に当たるのではないかとはらはらしましたが、家人の曰く”西郷は、たとい陛下のご命令であろうとも、臣下たるものが、自身の見にくい姿を写真に撮ってお上に献上するなどもっての外”と考えているのではないかとのことで、結局そのままとなりました。

また、明治5年に当時欧米視察中の大久保利通から、現地米国の写真館で撮った礼服を身に付けた自身の肖像写真が送られてきたところ、、、

『尚々貴兄の写真参り候ところ、如何にも醜体を極め候間、もう写真取りは、御止め下さるべく候。誠に御気の毒千万に御座候』

と東京から米国へ宛てた手紙の欄外に記述したと言います。

更に、『江戸城無血開城』の交渉相手である幕臣勝海舟から、西郷の写真を所望するつもりで、自分の和服姿に刀を杖についた立ち姿の写真を送り、『奉呈西郷大兄 海舟勝義邦』と自署して送りましたが、その後返事もなくそのままになったと伝わっています。

写真を撮らないので送り様がなかったとも言えますが、前述の大久保利通への返書の欄外書きなどを見ると、写真に自身の姿を残すことを極端に嫌っていたことが見て取れます。

後に”汽車に乗る事”も嫌がっていたように聞いていますので、どうやら、筋金入りの”写真嫌い”と言うか”文明開化嫌い”だったのは本当ではないかと思われます。

そんなことから、”『西郷隆盛の写真』はこの世に存在しない”と言われ、今では”これが西郷隆盛の写真だ”と言う代物はほぼニセモノとされています。

とは云うものの、明治の大写真師 上野彦馬(うえの ひこま)の某日の日記に”西郷隆盛の写真を撮った”との記述があり、写真が何枚か撮られたことはあるようです。

しかし、この日記にある上野彦馬の撮ったと言われる西郷が写っている写真は、現在に至るまで発見されていません。

しかし、後述する真贋論争で喧しい(かまびすしい)『フルベッキ群像写真』など数点が発見されていますし、今後も発見されるかもしれません。

と言う事で、、、今でも”明治の元勲西郷隆盛”の『真影?』は発見されていないのです。

『フルベッキ群像写真』とは何か?

フルベッキ』と言うのは、オランダ系移民で米国オランダ改革派教会の宣教師(本名:グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック)のことです。

1859年に上海経由で長崎に来日し、禁教の影響で宣教師が出来ず長崎の私塾で英語を教えていました。

この時、佐賀藩の大隈重信(おおくま しげのぶ)と副島種臣(そえじま たねおみ)がフルベッキから英語の個人教授を受け、その後フルベッキは元治元年(1864年)に幕府の”長崎英語伝習所”のお雇い外人として勤務します。

この時の生徒に大山巌(おおやま いわお)などもおり、さらに前島密(まえじま ひそか)、陸奥宗光(むつ むねみつ)なども加わり、その後長崎の警護を受け持っていた佐賀藩の伝習所のようになって、後の討幕の志士たち(伊藤博文、岩倉具視の子弟ら)に英語・洋学を教える師となりました。

後年このフルベッキの働きで新政府と米国の関係が深くなって行ったと考えられます。

この時、薩摩藩や土佐藩からのフルベッキ引き抜き工作が行われ、結果佐賀藩はフルベッキに1000両もの高給金を支払ってやっと引き留めることに成功したようです。

こんなところにも、維新以降に見られる新政府内部の対立構図(薩摩対長州/過激公家)が見て取れますね。

維新後の明治2年(1869年)になると、新政府からフルベッキの東京招請が行われ、その後フルベッキの意見が大隈重信を通して岩倉具視へ通り、1871年の欧米視察『岩倉使節団』につながって行きます。

そうした『フルベッキ』が、東京(江戸)へ上京する直前の明治元年頃に長崎にあった『佐賀藩 蕃学稽古所(さがはん ばんがくけいこしょ)』の教え子たち46名もの生徒(志士)たちと一緒に撮ったというものが『フルベッキ群像写真』(撮影:上野彦馬)と呼ばれるものです。

問題は、この写ったメンバーの中に後の明治天皇を始め、坂本龍馬・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允などキラ星の如く維新の志士たちがいるとの意見が出されたことです(この写真の真贋はいまのところ未解決です)。

『西郷隆盛本人』が写っていると言われている写真は?

前述したように、正式に西郷の写真と認定されたものは今のところありませんが、一般的にこれではないかと言われている物は、、、

  1. 『フルベッキ群像写真』(上野彦馬撮影)
  2. 『13人撮り写真』(上野彦馬撮影)
  3. 『スイカ西郷』(内田九一撮影)
  4. 『大坂造幣寮前写真』(内田九一撮影)

くらいが衆目を集めている写真でしょうか。

『フルベッキ群像写真』(上野彦馬撮影)


(画像引用:ウィキペディアフルベッキ群像写真

 

この写真が一躍脚光を浴びたのは、歴史雑誌に肖像画家”島田隆資”氏による『維新史上解明されていない群像写真について』(『日本歴史』1974年1月号)という論文に掲載されてからでした。

それは、幕末維新史を書き換える大スクープ写真として有名になりました。

前述していますが、西郷隆盛はこの写真の中央部後列のフルベッキの後ろに立つ”マントの男”だとされています。

これに付き、ノンフィクション作家斎藤充功氏は著書『消された「西郷写真」の謎』(2014年 学研パブリッシング)で、”スーパーインポーズ法による遺骨鑑定”の手法を使い(専門家に依頼)、似ていると言われている”肥後直熊作の肖像画”とフルベッキの”マントの男”の鑑定をしています。

これは、別人』との鑑定結果が出て来ました。

”マントの男”の正体は分かりませんし、鑑定結果が絶対とは言い切れませんが、どうもこの解像度の低い”フルベッキ写真のマントの男”は、西郷隆盛ではない可能性が高くなりました。

『13人撮り写真』(上野彦馬撮影)


(画像引用:世界の謎と不思議ー13人撮り写真
この写真は、薩摩藩が薩英戦争の講和修好のために、第12代藩主島津忠義の代理として宮之城島津家当主島津久治と長崎へ派遣し、その折に、公式行事が終わったのちに上野彦馬の写場で映した記念写真です。

写っているのは、藩主の久治と島津宗家・宮之城家に仕える家臣団です。

この写真で、西郷ではないかと言われているのは、右奥端に立つ大きな侍です。この人物は研究者によれば、宮之城島津家家臣”床次正蔵”だとされ、西郷ではない可能性が高いと言えそうです。

『スイカ西郷写真』(内田九一撮影)


(画像引用:世界の謎と不思議ースイカ西郷
この写真は明治2年に東京浅草に出て来た内田九一(うちだ くいち)の写真館『九一堂万寿写真館』にて撮影されたもので、薩摩藩関係者6名が写っています。

この写真も『西郷隆盛の写真発見』と言う事で、過去明治以降何度も新聞紙上をにぎわせている有名な写真のようです。

新説が発表される都度、解説される写真上の登場人物に変動が出るのですが、向かって右から2人目の座っている人物が”西郷隆盛”だと言うのは変わりません。

これに対して、この『スイカ写真』が話題になるたびに、鹿児島出身者?から猛烈な反論が出て、島津家子孫の方々の証言も加わって論争が続いています。

この島津家関係者の口から、この6名が写っている写真の中で昔から”西郷隆盛”に比定されている問題の人物は、藩医だった”小笠原瑞哿(おがさわら ずいか)”であるとの証言が出ています。

生涯鹿児島から外へ出なかった人物とされ、名前は『瑞哿(ずいか)』ですが、島津家の家人からは頭がスイカのように大きなことから、この藩医は”スイカ”と呼ばれていたとされています。

元鹿児島市長で生粋の薩摩人である、故”勝目清(かつめ きよし)”氏が、1965年に発表された渡辺武氏の『スイカ西郷説』に、翌1966年に猛反論して”何度も何度もあれを『西郷』だと間違えて言う人が現れるが、あの人物は藩医の小笠原瑞哿に間違いない!”と当時はまだ生存されていた島津家関係者、子孫の方の証言(反証)を精力的に集めて反論されています。

その功あって、ほぼ鎮火していた『スイカ写真西郷真影説』ですが、その後1989年に鹿児島の出版社”著作社”から出版された『大西郷謎の顔』に掲載された、宇高随生(うたか ずいせい)氏の『歴史写真考証の条件(西郷隆盛の真影)』と言う論文で、問題の写真は右から大久保利通(おおくぼ としみち)・西郷隆盛・(島津久光公四男の)島津忠欽(しまず ただたか)・(島津久光公三男の)島津珍彦(しまず うずひこ) ・(江戸老舗和菓子『金沢丹後』店主の)三右衛門(さんえもん)・(有栖川宮小姓の)小野熊三郎楯美(おの くまさぶろうたてよし)と特定されました。

右から2番目の人物が”西郷隆盛本人”だと確認できた決め手は、明治4年1月16日に土佐藩山内容堂との土佐での協議に、西郷が出かけた通称『高知会議』の折、西郷が投宿した土佐の旧家竹村家の当主竹村与左右武智の当日の書付記録が竹村家で発見され事でした。

そこには、西郷のある身体的特徴(耳の形)が克明に記録されていました。

その特徴が『スイカ西郷写真』の右から2番目の人物と一致が見られたため、その人物が西郷本人とほぼ確証を得る事が出来ました。

反論は山ほどある問題の写真ですから、当然絶対とは言えませんが、宇高氏の論証に無理はないように感じました。

私見ですが、写真にある2番目の人物の”凄みのある佩刀”が、”西郷隆盛本人”だと語っているような気がしました。

藩医ではあんな佩刀は持ち歩きませんよね。

また、斎藤充功氏の前出の著書の中で、『大久保利通の真正写真』を使った『スーパーインポーズ法』による鑑定によって、『スイカ西郷写真』の一番右側の人物が『大久保利通』であることが確認されました。

これで、この大久保利通が親しく肩に手をおく2番目の人物は、やはり大久保利通の盟友・朋輩である西郷本人である可能性がよりはっきりしたようです。

『大坂造幣寮前写真』(内田九一撮影)


(画像引用:ジャパンアーカイブズー大阪造幣寮前
これは、明治帝が明治5年(1872年)から始めた『六大巡幸』の最初『明治天皇西国・九州巡幸』の1枚で、撮影は天皇の御用写真師の内田九一です。

撮影は明治5年(1872年)6月5日に『大阪造幣寮前』でなされたと推定されています。

西郷隆盛は近衛都督として出発から還幸まで供奉しているところから、明治帝のお出ましを待つこの写真には当然指揮官の西郷隆盛本人が写っているはずです。

整列した近衛兵の前にいる指揮官3名の真ん中が西郷隆盛と言われていますが、画像が極めて不鮮明でハッキリ特定出来ません。

この写真でおもしろいのは、写真の左下になんと犬がちょろっと写っているのです。

幾らでも修正が効くはずの”天皇巡幸の公式写真”では、これはあり得ない1枚です。

西郷の存在を暗示する稀代の写真師内田九一の作為でしょうか・笑。

しかし、前出の斎藤充功氏の著書の例の鑑定では、この人物は意外なことに西郷とは別人との結果が出ています。

ところが、『フルベッキ群像写真』の”マントの男”と同一人物であるとのおもしろい結果が出ています。

本当にフルベッキ写真の”マントの男”は誰でしょうか?

今後の研究が待ち遠しいところです。

『西郷隆盛に近い親族』の写真はあるのか?

写真が普通にネットで見れるのは;

 

〇西郷の弟の西郷従道


(画像引用:ウィキペディア西郷従道

〇従兄弟の大山巌


(画像引用:ウィキペディア大山巌

〇西郷の2番目の妻”愛加那(あいかな)”との長男の西郷菊次郎


(画像引用:ウィキペディア西郷菊次郎
〇3番目の妻”糸子”との長男の西郷寅太郎


(画像引用:ウィキペディア西郷寅太郎

くらいでしょうか。

西郷隆盛の肖像を考えた時、


(画像引用:ウィキペディア西郷隆盛

 

これは上野の西郷像のモデルとなったお雇い外人キヨッソーネの描いた肖像画です。

この絵は、顔の上半分を弟の従道から、下半分を従兄弟の大山巌から参考にして描いたと言われています。

それくらい肉親の類似性と云うものはあるようです。

『スイカ西郷写真』の反論者である元鹿児島市長の勝目清氏の論文の中に、”島津家には島津の顔があり、薩摩の人間には見ただけでわかる”と言われていますが、やはり西郷家の顔と云うものもこの伝で行けば、親戚筋、出来れば直系の親戚筋の顔立ちがやはり一番似ていると言う事になりましょうか。

その目で、ネットで確認できる写真の顔を見た時、糸子夫人との長男寅太郎は顔の形が島津家の殿様顔に近いうりざね顔の糸子夫人似で、西郷隆盛の厳ついごつい顔立ちとは違う感じがします。

それで、弟の従道、従兄弟の大山巌、愛加那夫人との長男菊次郎を見てみると、目が3人とも同じ目で、おそらくこれが西郷の目なのかなと思います。

並べてみると顔の形もどこか類似性があり、まさに”スイカ顔”のような気がするのです。

私見ですが、西郷隆盛の写真と言われているものの中では、一見するイメージとの違いがあるわりには、漂う雰囲気から『スイカ西郷』が一番”西郷顔”としてしっくり来る気がします。

まとめ

通説では、西郷隆盛の『真影』写真は存在しないと言われています。

しかし、調べてみると写真師側の記録に西郷隆盛を撮影したと云う話が残っているようです。

私たちの西郷隆盛のイメージは『上野公園の西郷隆盛像』にある”顔・姿”に大きく支配されています。

そのイメージに合致する写真は、確かにどこを探しても見当たりません。

結局、上野の西郷像(西郷にあった事もないお雇い外人キョッソーネの描いたイメージ)が、もともと実物とは違うのではないかとの疑問もわいてきます。

案外このギャップが、西郷隆盛の真影が発見できない理由かもしれないなとの感想も持ちます。

当時の関係者の話を調べると、上野の西郷像に関して「別人だ!」・「ちょっと違う!」との意見は少数派で、大半は「だいたいあんな感じで、よく似ていると思う」という話が多く遺されています。

一方写真が見つからない理由として、西郷は名うての『写真嫌い』で、しかもわずかに出回った写真も本人が回収・処分して回ったなどと云う話まで出てくる始末です。

親族を中心に”明治帝が西郷に写真の提出を所望されたのを断ったとの逸話”を前面に出して、”西郷の写真嫌い”の性格を強調します。

しかし、薩長閥の維新政治の反動か、庶民・民間での”西郷人気”は衰えを見せず、『西郷隆盛の写真発見!』と云う話は明治以来今に至るまで、途切れることなく続いています。

今回、過去からある所謂『スイカ西郷写真』に関して調べてみると、ほぼこれが西郷隆盛の真影だと結論付けた昭和52年(1977年)の宇高随生氏の論文『西郷写真を巡るなぞ』と、スーパーインポーズ法にて件の”スイカ西郷”に写っている大久保利通がホンモノであることを立証し、問題の人物が西郷隆盛である可能性を高めた斎藤充功氏の『消された「西郷写真」の謎』(2014年)で更に補強されていました。

やはり、東京上野の”九一堂万寿写真館”で天皇の御用写真師内田九一によって撮影されたとされる所謂『スイカ西郷写真』は、ホンモノではないかとの印象を強めました。

もし、本当にこれが『西郷隆盛の真影』だとすると、今までの私が知っている『西郷隆盛の顔』とずいぶん違うものだと感慨深いものがありました。

参考文献

〇斎藤充功 『消された「西郷写真」の謎』(2014年 学研パブリッシング)

〇芳即正 『大西郷 謎の顔』(1989年 著作社)

〇西田実 『大西郷の逸話』(2013年 南方新社)

〇加治将一 『西郷の貌』(2015年 祥伝社文庫)

〇ウィキペディア  グイド・フルベッキ

〇ウィキペディア フルベッキ群像写真

〇ウィキペディア西郷隆盛像

〇ウィキペデア大山巌

〇ウィキペデア西郷菊次郎

〇ウィキペデア西郷寅太郎

〇『世界の謎と不思議ー西郷隆盛 本当の顔 本物の写真 フルベッキ写真 13人撮り写真

〇ジャパンアーカイブズ『【1872年】大阪(明治5年)▷造幣寮で天皇に謁見する陸軍兵

〇前坂俊之オフィシャルウェブサイト『歴史秘話「上野の西郷さんの銅像はこうして作った」「西郷さんと愛犬」の真相ー彫刻家・高村光雲が語る。

〇Yahoo知恵袋『【西郷どん】西郷隆盛の本当の顔は一般に知られている肖像画の「あの顔」で間違いなかった!』作者:ishikawanoyoshiieさん

〇世界の謎と不思議『西郷隆盛 本当の顔 本物の写真 フルベッキ写真 13人撮り写真

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