執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
なぜ!東京上野公園の『西郷隆盛』は、犬を連れているの?
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上野公園の西郷隆盛の銅像はなぜ犬を連れた浴衣姿なのかを明らかにします。
本当に西郷隆盛は犬好きだったことが分かります。
あの銅像は誰がいつ作ったのか、そして銅像は西郷本人と似ているのかも検証します。
目次
東京上野公園の『西郷さん』の銅像はなぜ犬を連れているのか?
この銅像は東京名所になるくらい超有名なものです。
その上、親しみやすい浴衣姿の西郷隆盛(さいごう たかもり)が、その大きな体とともに愛らしい顔つきですっかり国民に定着しています。
この銅像のお陰で西郷隆盛の印象はとても良くなっていると言っても過言ではないと思います。
西郷隆盛は、”明治維新の功労者”でありながら、明治10年(1877年)に『西南戦争』を起こして政府転覆を図ったため”朝敵”となりましたが、明治22年(1889年)に”大日本帝国憲法”が発布された特赦により名誉回復をしました。
そこで、維新の功労者”西郷隆盛”を顕彰するために、吉井友美ら薩摩関係者の声掛りにより運動が起こり、各界から2万5千余名の寄付を集めて、明治31年(1898年)12月18日に東京上野公園にて時の総理大臣山縣有朋、勝海舟、大山巌、東郷平八郎らの臨席を得て、盛大に除幕式が執り行われました。
製作は、大山厳(おおやま いわお)、松方正儀(まつかた まさよし)、樺山資紀(かばしま すけのり)、西郷従道(さいごう じゅうどう)ら薩摩出身の重鎮に、旧幕臣榎本武揚(えのもと たけあき)も加わった『銅像建設委員会』から、当時の日本の彫刻界の第一人者『高村光雲(たかむら こううん)』に依頼されました。
当初、”直立不動の陸軍大将の軍装姿”で往時の西郷隆盛らしい姿での製作を依頼されていたようですが、叛乱を起こした”朝敵”・”賊徒”にもかかわらず一般民衆の人気も高い”西郷隆盛のイメージ”に対する警戒感が政府内に強く、途中からその声に押されるように今の”軍人を連想させない”人畜無害な現在の姿に急遽変更されたものでした。
これは、西郷が暇つぶしにやっていた”兎狩り”へ出かける時の姿で、傍らに猟犬として”薩摩犬の愛犬ツン”を連れて兎狩りへ出かけた時のものなのですね。
アイディアは西郷隆盛の従兄弟で元帥陸軍大将公爵であった大山巌の発案とされています。
わたしなど、てっきり”西郷さんが犬を連れて散歩”しているくつろいだ姿かと思っていましたが、そうではなかったようです・笑。
と言う事で、、、
上野の西郷隆盛像が犬を連れている理由は、”兎狩りへ出かける西郷”の姿なので、そのために猟犬として薩摩犬の愛犬”ツン”を連れているという訳です。
(上野公園西郷隆盛銅像 2017/05/10撮影)
西郷隆盛は犬好きだった?
西郷隆盛と渡り合って”江戸城無血開城”したと云われている幕臣”勝海舟”は大の犬嫌いで通っています。
文政12年(1829年)勝が7歳の時に、将軍家斉の孫初之丞のお相手役として召し出されたことがありました。
その後9歳か12歳の時に、宿下がりの折の帰宅途次、猛犬に襲われて急所に重傷を負いました。
それ以来、勝は”犬が大の苦手”となったとの逸話が伝えられています。
一方、西郷は”大の犬好き”で通っていたようです。
郷土史家西田実氏の著作『大西郷の逸話』によると、『天下一の愛犬家』と言われていますが、、、
毎日庭に降りて、犬にやさしく語り掛け、毛並みを整えたり食事を世話をしていたと言います。
京都祇園の名妓”君竜”さんの回顧談では、『木戸・大山・伊藤などのお歴々は夜来てどんちゃん騒ぎをしますが、西郷さんは昼間に犬(寅と言う)を連れて来て、いつも犬と鰻飯を食べてそのまま帰って行きはって、本当は西郷はんが一番偉い人だったですね』と語っているようです。
ある時、西郷が愛妾を2人抱えたと云う話が噂になり、確かめに行った部下に西郷が見せたのは、2匹の猟犬だったと言うような話もあります。
又、金品を受け取らない西郷も犬の絵だけは受け取るとの話があって、それを聞きつけた外国人たちが犬の絵を贈っていたようで、西郷が下野して鹿児島に帰った後、家財を整理していた家人が長持ち一杯の犬の絵を見つけたと言います。
西郷が下野して鹿児島に帰ってから飼育した猟犬は10数頭に及んだと言われています。
”西南戦争”時にも犬2頭を連れて参戦していて、およそ7ヶ月におよぶ戦の最中にも、時間を見つけ犬を連れて狩猟にも出かけていたと言われますが、狩猟よりも犬と行動することが好きだったような感じですね。
以上を見てみても、西郷隆盛は大変な犬好きであることがはっきりしました。
銅像の制作者は誰?
前述したように、”銅像建設委員会”が制作依頼したのは、当時の日本の名工・彫刻の第一人者の”高村光雲(たかむら こううん)”でした。
”犬”は、高村光雲が皇居前の”楠木正成像”を制作した時に、正成が騎乗する”馬”の制作を担当した動物彫刻の第一人者”後藤貞行(ごとう さだゆき)”です。
高村光雲の話によると、あの構図は『兎の山狩りの構図』といい、建設委員会で”堅苦しくなくて磊落(らいらく)な感じ”を出せればいいと言う事で決まったと言います。
これだと『兎狩り』の姿が最初から決まっていたようなお話ですが、前述しましたように、政府からの圧力で高村が当初制作していた”軍装姿の西郷さん”はお蔵入りになっています。
さすがに彫刻界の第一人者は、余計なことはおっしゃいませんが、すんなり制作出来た訳ではなくおよそ3年の歳月が必要でした。
その中に”犬”の話があります。
あの犬は兎狩りに使う桜島産の『薩摩犬』と言う、今や”絶滅危惧種”となりそうな珍しい犬でかなりの小型犬で、野生の血を引く獰猛(どうもう)な猟犬です。
制作当時はすでにこの犬”ツン”は死んでおり、又この犬種を探しても見つからずやっと見つけた犬はオス犬(ツンはメス)だったようです。
しかも薩摩犬はかなりの小型犬のため、西郷さんの銅像とのバランス上、実物よりかなり大き目にする必要がありました。
西郷像の大きさが約3.7mとなっていて実物の西郷隆盛の2倍なので、実物の薩摩犬の2倍と言う意味ではなくて、像とのバランス上2倍より大きく作る必要がありました(例えば西郷像の頭部は実物比より大きく作ってあります)。
ところが、”犬”の制作者の後藤は”写実の鬼”のような人で、実物の大きさに拘り、制作プロデューサーの高村の”西郷像とのバランス上大き目に”と言う指示に従わない(つまりそんなことを言うならこの仕事から降ろしてもらうと言う態度)ので、大変困ったとのエピソードが伝わっています。
なかなか芸術家同志のやり取りも難しいものだったと思います。
恐らく、高村は最初”軍装の西郷さん”で制作をしていたのですが、途中から政府の横やりで”兎狩りの西郷さん”に変更になり、急ぎ後藤貞行に依頼をしたので、後藤も少しへそを曲げていたのかもしれませんね。
何とか説得に応じて制作したようですが、やはり出来上がったものはかなり小さ目だと言われています(結局後藤は、高村の言う事を聞かなかったのではないでしょうか・笑)。
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西郷隆盛の像はどこにあるのか?
西郷さんの像は、ゆかりの地にそれなりに存在しますが、有名なのは東京上野公園を入れて東京と鹿児島に全部で3つです。
1.東京上野公園内『西郷隆盛銅像』高さ3.7m
(上野公園西郷隆盛像(高村光雲作)2017/05/10撮影)
所在地:東京都台東区上野公園7-47
設置:明治31年(1898年)
作者:高村光雲(後藤貞行、岡崎雪聲)
モデル:イタリア人画家エドアルド・キヨソーネのコンテ画?
2.鹿児島市美術館近隣『西郷隆盛銅像』高さ8m
(画像引用:ウィキペディア西郷隆盛像(安藤照作))
所在地:鹿児島県鹿児島市城山町4-36
設置:昭和12年(1937年)
作者:安藤照
モデル:元山形県議の一般男性?
3.”霧島市西郷公園”内『現代を見つめる西郷隆盛像』高さ10.5m
(画像引用:ウィキペディア霧島市西郷公園西郷隆盛像(古賀忠雄作))
所在地:鹿児島県霧島市溝辺町麓856-1
設置:昭和63年(1988年)
作者:古賀忠雄
モデル:未詳
上野公園の銅像は本物の西郷隆盛に似ているの?
こんな質問が出てくる背景は、、、
- 西郷隆盛本人の写真がほとんど存在しないこと
- 明治31年(1898年)の除幕式の時、西郷隆盛の実弟西郷従道に連れられる形で、参列した糸子夫人が銅像の幕が取り払われた瞬間に、飛び上がってびっくりして、”ンダモ、ンダモ、宿ん人は、こげなお人じゃなかったのに、、、、”と発言したこと
西郷は写真嫌い?
明治初年に西郷贔屓(ひいき)の明治天皇から、ご自身のご真影(しんえい)を額に入れて西郷に下賜(かし)され、西郷も写真を撮って朕(ちん)に出せと言われたものの、畏れ多いとの思いからとうとう出さず仕舞いだったと言います。
同様に、江戸城無血開城でやり合って親しくなった幕臣勝海舟からも写真の贈呈があり、西郷の写真を所望したがとうとう実現しなかったようです。
陛下の懇請にも、写真を撮らなかったことから、巷で出ている『西郷隆盛の写真』と云うものは全てニセモノの可能性が高く、事実上存在しないのではないかと言われています。
今、一番有名なのは、オランダ系アメリカ人宣教師”フルベッキ”が元治元年(1865年)2月に長崎の”上野彦馬写真館”で撮ったされる所謂”フルベッキ集合写真”です。
後の明治天皇も含めて46名の幕末・維新の主人公たちが一枚に納まっていると言うもしホンモノなら驚愕(きょうがく)の幕末写真です。
ここに問題の『西郷隆盛』も写っており、その不鮮明な写真と、上野の銅像の西郷さんとは確かにほぼ一致をしない感じなんですね。
とは言えこの稿では、この写真の真贋(しんがん)問題はしないこととします。
そもそも写真嫌いな西郷隆盛が写っている事自体がおかしいですけどね。
『宿ン人は、こげなお人じゃなか、、、』と鹿児島弁でつぶやいた糸子夫人の発言の真意
ここは、二通りの解釈が成立しそうです。
- 西郷はこんな無様な格好で人様の前に出ることは一度もなく、西郷はこんな事はしないと言う意味
- 顔がまるで違う別人だと言う意味
1.に関しては、除幕式に出席の鹿児島関係者も含めて、糸子夫人以外は聞かれれば、銅像は概ねあんな風貌でそれなりに西郷によく似ているとの発言をしているようです。
また、郷土史家の西田実氏の著書『大西郷の逸話』によると、除幕式の糸子夫人の発言時に隣にいた実弟の西郷従道が糸子夫人の足を踏んで”シーっ”と言って、更に夜自宅で家族全員の前で”銅像に関して西郷家の者があれこれ言ってはいけない”と釘を刺しているようです。
明治政府の”西郷人気への警戒感”は、当時でもかなり根深いものがあり、それに配慮した西郷従道の発言とも考えられますが、一般的には素直に”糸子夫人が正装をしていない西郷隆盛の姿に驚いた”とされています。
2.に関しては、お雇外人の画家・彫刻師キヨソーネの絵が原画になっています。
キヨソーネの来日は明治8年(1875年)で、すでに西郷隆盛は鹿児島へ戻っており、その2年後(1877年)には『西南戦争』で自刃していますので、実はキヨソーネは西郷とは会ったことがないようです。
キヨソーネが描いた”西郷像”と云うものは、実弟の西郷従道と従兄弟の大山巌から類推した想像画らしいのです。
そう考えると、その絵を原画にしたと言われる上野の西郷像はあまり似ていない可能性もありそうです。
つまり、糸子夫人の発言が『この銅像は別人』だと言った可能性を否定はできないのです。
まとめ
何気にいつも見ている上野の『西郷さん』ですが、ふと犬を連れていることが気になりました。
設置場所が公園と言う事もあり、”犬を連れての散歩”しかもくつろいだ姿はよく似合います。
少し調べてみると、西郷さん本人がたいへんな犬好き(愛犬家)であることが分かりました。
それに幕末動乱の京都で、祇園まで犬を連れて出かけていたとは思いもしませんでした。
西郷さんが”『西南戦争』を起こすきっかけとなって行った新政府重鎮たちとの諍い”もこの祇園の姐さんたちの発言にその真相が良く表れているようです。
本当に西郷さんは新政府の「腐敗」に腹をたてていたのですね。
犬を連れて昼間祇園を冷やかして回るなど、新政府の重鎮たちへの”嫌味”としか取れませんね。
また、明治31年に行われた東京上野公園の銅像の除幕式で、西郷さんの妻糸子が”この銅像はうちの人ではない”と言う意味の発言をしたことに関して、実弟西郷従道の正式な見解としては”西郷隆盛と言う人は人前に正装をせずに出る人ではない”と言う意味だと言う事になっています。
そして、西郷従道のこの見解から”西郷人気”を恐れる新政府の警戒心というものが尋常でないものだとも感じました。
また、全国的に信奉者を持つ『愛国者』としての西郷隆盛を考えた時なぜかこの西郷隆盛が、あの『靖国神社』に祭られていない事実が不可思議に思え、”政府の『靖国』に対する公けの説明”と不整合を起こすことから、これが案外『明治維新の真相』を現しているのではないかと感じます。
つまり、あの犬を連れた愛嬌のある姿は、『西郷隆盛』を忘れないようにする民族の知恵なのかも知れませんね。
参考文献
・ウィキペディア西郷隆盛像
・前坂俊之オフィシャルウェブサイト”歴史秘話「上野の西郷さんの銅像はこうして作った」(「西郷さんと愛犬」の真相ー彫刻家・高村光雲が語る。)”
・住友グループ広報委員会名品の履歴書”楠木正成像”
・松浦玲 『勝海舟』(1987年 中公新書)
・西田実 『大西郷の逸話』(2013年 南方新社)
・加治将一 『西郷の貌』(2016年 祥伝社文庫)