英雄『西郷隆盛』は『征韓論』の陰謀で失脚させられた!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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名前は知っているけど、中味は詳しくわからない人が多い西郷隆盛『征韓論』の真相を明らかにします。

『維新』が成ってからの新政府の首脳たちの行状を西郷隆盛がどう見ていたかがよく分かります。

『征韓論』は”政治紛争”だったことと、決着は大久保利通のクーデターでケリがついたと言う真実を解き明かします。

そもそも『征韓論』とはなに?

朝鮮と日本の関係は、豊臣秀吉の”朝鮮出兵”により途切れていた国交が、17世紀に徳川家康が外交政策で復活し、江戸時代中は対馬藩宗家を通じて継続していました。

日本の1868年の『明治維新』により成立した新政府は、新たに朝鮮政府との関係を宗家経由ではなくて直接結ぶべく、外交交渉に入りますが、李氏朝鮮は”自国の鎖国政策”継続の妨げとなる”武力革命によって成立した日本の明治新政府”を警戒して関係樹立を事実上拒みます

日本からの外交文書も受け取ろうとはせず、外務当局者とも会おうとしません。

明治5年(1872年)になると朝鮮国内で排日行動(釜山に日本の公館がありました)が出始め、新政府は朝鮮での在留邦人の安全確保を検討せねばならない事態に発展して行きます。

これに対して日本国内では、在留邦人の保護のために、派兵する意見が強くなっていました。

しかし、、、

新政府は、明治維新後の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月まで、岩倉具視(いわくら ともみ)を正使とする所謂『岩倉使節団』が欧米諸国へ派遣され、政府首脳陣がそっくりいなくなると言う状況となっていました。

その留守を預かる太政大臣三条実美(さんじょう さねとみ)を代表とする『留守政府』は、いよいよ朝鮮に対する態度を決めねばならなくなり、事前に台湾で発生した事件の解決の為に、清国との交渉に出掛けていた外務卿副島種臣(そえじま たねおみ)が、清国から”台湾問題と朝鮮問題に不介入”の言質を取って帰国して来ました。

つまり、台湾・朝鮮に関しては関知しないので勝手にしてほしい、日本が武力外交行動に出ようがどうしようが文句をつけないと言う意味です。

留守政府の中では、参議板垣退助(いたがき たいすけ)が国内の『征韓論(せいかんろん)』花盛りの空気に乗って、外交礼節を無視して侮日的行動をとり続ける李氏朝鮮への”即時の派兵”を主張しているのに対して、参議西郷隆盛は自身の派遣を含む武装兵士を伴なわない”平和的な説得使節派遣”を主張します。

議論の末に明治6年8月に閣議決定して、西郷の朝鮮派遣は決まりすでに明治帝への上奏も済んでいました。

そこへ、9月13日になって新政府の正式首脳陣たる『岩倉使節団』が帰国して来ました。

通説によれば、、、

朝鮮が国交を開こうとしないため、明治6年(1873年)に新政府参議の西郷隆盛ら5名は、朝鮮へ武力を用いても開国させようとする『征韓論』を主張しましたが、欧米から帰国した岩倉具視(いわくら ともみ)らが反対して『征韓論』が受け入れられず、辞表を出して下野した西郷隆盛は、明治10年(1877年)になってから鹿児島士族に推されて『西南戦争』を起こしました。

と言うような話となります。

新政府参議で留守政府の事実上の首班格であった西郷隆盛が明治6年(1873年)に自らの朝鮮遣使を主張し、帰国してからそれに反対する大久保利通と衝突し、10月に、西郷隆盛板垣退助(いたがき たいすけ)、江藤新平(えとう しんぺい)、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)、副島種臣の5参議が一斉に辞職し、ついに明治新政府が分裂する事態となった事件(明治六年の政変)となりました。

又、『岩倉使節団』一行は欧米文明に触発されて日本の近代化の急務を痛感し内政優先を心に期して帰国したので、留守政府の決めた『征韓論』に反対せざるを得なかったともいわれています。

西郷は主張している平和外交的な『遣韓(けんかん)』ではなくて、本気で『武力征韓(ぶりょくせいかん)』を考えていたとされ、今に至るまで一般的にはそう理解されています。

近年、西郷は『征韓(武力侵略)』ではなくて、あくまで『交渉(親和交渉を目的とした遣韓使)』であったと言われ始めていますが、なお、異説扱いとなっています。


(画像引用:ウィキペディア征韓論

西郷隆盛は『征韓論』を本気主張していたのか、ただ陰謀に巻き込まれただけか?

所謂通説からは、ほとんど存在が無視されているようですが、明治6年(1873年)10月17日付で西郷から、朝鮮遣使を閣議決定するに至った経緯を説明する『始末書(しまつしょ)』と言う公式文書が政府(太政大臣三条実美宛て)に提出されています。

この文書は研究者の間で、評価が分かれる文書のようで、未だ通説のつまり”西郷は最初から朝鮮を侵略するつもりだったー『征韓論』”を覆すものと言う評価は固まっていません。

『始末書』の問題の箇所は、、、

『・・・・護兵の儀は決て不宜、是よりして闘争に及候ては最初の御趣意に相反し候間は公然と使節被差立相當の事に可有之、・・・・』

ー文献引用:川道麟太郎『西郷「征韓論」の真相』(勉誠出版)-

(・・・護衛兵を連れて行くのはよくない。それが原因で戦を誘発しては最初の目論見である親和に反し、ここは正式に使節を立てて行くのが良い・・・)

つまり、日本政府には開国を迫るために使節を派遣するなら、護衛兵として一個大隊を立てて、先方に襲われても良いように準備をして行くべきだとの方針があり、西郷はそんなことをしたら、朝鮮との戦争が起こりかねないから、武装をせずに行くべきだと主張しています。

だから、西郷は所謂『征韓論』ではなくて、『交渉論』の立場だと言う研究者と、その使節に危害が加えられたら、それを理由に派兵すると言うあくまでも”侵略”が目的の『征韓論』だと言う立場の研究者がこの『始末書』の解釈を巡って対立しています。

挑発目的の使節の派遣は、現代日本の常識では非常に好戦的な問題のある考え方ですが、当時の”時代の空気(武士の感覚・軍略)”では、ごく普通の考え方であったようです。

例えば、『戊辰戦争』の引き金となった慶応4年の『江戸薩摩藩邸焼討ち事件』の事は、西郷隆盛が自前の『赤報隊』に指示を出して謀略・テロ活動をさせ、幕府のおひざ元の江戸の治安を悪化させて、幕府を挑発して引き起こさせたものであることは、当時の人たちは皆知っていた訳です。

ですから、、、

今更、西郷が朝鮮に平和的な使節を派遣すると言ったところで、誰も本気だとは思っていなかったと言う事ですね。

ところが、川道麟太郎氏『西郷「征韓論」の真相』によると、、、、

後に、征韓論者と決めつけられた西郷の『朝鮮遣使』の建議を潰した当事者である岩倉具視の明治7年(1874年)4月6日付の大久保利通への書簡に、

”・・・・同氏(西郷大将)には初めから決して征韓はこれなく、使節のみにて人事を尽くし、その上でもなお、相手から無礼をもって答えたなら、内国の軍備を数年間に整頓して、その上で討罪とのことです。”

ー文献引用:川道麟太郎『西郷「征韓論」の真相』(勉誠出版)

とあります。

岩倉は西郷の考えを好意的に理解したのかどうかはわかりませんが、もしこの”岩倉書簡”がホンモノなら通説の『西郷の征韓論』は、どうやら本当に存在しなかったのではないかと思われます。

信じられないことに、西郷は、通説とは真逆の意味で”本気モード”だったのです。

とは言え、西郷は声高に『武力征韓』を思わせる発言を色々な書簡に残しているのですが、どうやら”戦闘現場・戦上手の武将の軍略・駆け引き”、”武将である西郷らしい考え方”だったようなのです。

西郷は元治元年(1864年)7月23日~12月27日の”第一次長州征伐”の時も、敵方へ乗り込んで談判に及んで一応の決着をつけていますので、説得に自信があったのかもしれません。

それに、大久保利通と図って西郷隆盛を蹴落とした、当の本人である陰謀家の岩倉具視が言っていたのですから、どうやら西郷には『頭からの「征韓」』の考えは本当になかったようですね。

と言う事は、最悪の場合は本気で死ぬ気だったのでしょうか?

どうして西郷隆盛は、盟友大久保利通と対立して行ったの?

通説では、『征韓論』を巡っての対立に主に焦点を当てていますが、先ず根底にあるものは、『西郷南洲遺訓』にある政府首脳陣の腐敗を問題視する西郷の姿勢でしょうか。

”廟堂(びょうどうー政府)に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。・・・・萬民の上に位する者、己れを慎み、品行を正くし、驕奢(きょうしゃー贅沢)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、・・・・然るに草創の始に立ながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、・・・・天下に對し戦死者に對して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。”

ー文献引用:山田済斎編『西郷南洲遺訓』(岩波文庫)ー

と、しきりに西郷隆盛はその腐敗ぶりを嘆いています。

そして、清貧を貫く西郷に対して、その腐敗首脳の中に、従僕が40数名もいるような豪奢(ごうしゃ)な邸宅を営む盟友”大久保利通”も入っているのです。

それから、西郷を実質的な首班とした”留守政府”に対する疑念を大久保利通が抱いたことです。

つまり、『岩倉使節団』は出発前に、”留守政府”との間に重要案件は単独で決めずに相談をすることなどを取り決めていましたが、現実には急ぎで決めねばならないことばかりで、結果的に学制・徴兵令・地租改正などの重要案件が使節団組に相談なく決定されていたのです。

要するに内政の主導権を留守政府首脳(つまり西郷隆盛)が握る状況となり、使節団(大久保・岩倉)は国政の場からはじき出された形になっていたのです。

巻き返しを図る使節団組は、この『西郷の朝鮮派遣』だけは、なんとしてでも食い止めねばならないと言う事態を迎えていた訳です。

内政の主導権を取り戻さねばならないと言うあせりを抱いた使節団組の大久保と、留守政府首班の西郷は、従来の盟友関係をこじらせてはっきりした『対立関係』に陥って行きました。

評論家佐高信(さたか まこと)氏の『西郷隆盛伝説』から、会議の席上での西郷隆盛と大久保利通のやり取りを引用すると、

大久保:「朝鮮のことは、今しばらく時機を待ちたいと思う。今日のわが国は内治を整えて、国力の充実を図り、しかるのち外に及ぶのが順序である。」

西郷:「時機は今である。一日をゆるうすべきじゃごあはん。内治のことはこのことに取りかかったとてやれる。」

「いや、それが問題である。もし談判が思わしく行かぬ日には、兵を動かすことになるほかあるまい。それでは実に国家の大事、内治のごときは、ために犠牲にせねばんるまい。」

「それがおはんの勘違いじゃ。このことはすでに閣議をへて定まっとる。」

「前閣議がどうあったか、それは拙者共の知らんことだ。」

「そりゃ、おはんな、本気で言うとか。おはんらの留守中に決めたが、不服といわっしゃるか。おいどんも参議で御座る。おはんらが不在じゃからとて、国の大事を投げうって置いては、おいどんたちの職分が立たん。留守の参議が皆集まって決めたことに、何の悪いことが御座るか。三条太政大臣も御同意で、すでに聖上の御裁下まで経たことでごわすぞ。」

「拙者共の不在中は、大事件は決めぬという約束では御座らぬか。」

「だれかの発議でそんなこともあったが、それは無理と申すもの。」

「そりゃ今となっては卑怯で御座ろう。」

「控えなされ。だれが卑怯か心に問いなされ!」

ー文献引用:佐高信『西郷隆盛伝説』(角川文庫)ー

とあります。

もはや、幕末よりの西郷隆盛と大久保利通の盟友関係は修復不能の対立関係になってしまいました。

『明治六年の政変』とは?

一般的には、『征韓論』論争に敗れた西郷隆盛が明治6年(1873年)10月23日に参議を辞し、翌10月24日には西郷を応援した参議である板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣も辞表を提出して、5参議が一度に辞めると言う異常事態となりました。

前述したように、欧米に派遣された”岩倉使節団”より早い5月26日に帰国した大久保利通は、西郷を首班とする”留守政府”が使節団の出発前に取り決めた”使節団への相談”もなしに国家の重要案件を独断で決定していたことを知ります。

つまり、大久保は新政府首脳陣がこぞって参加した”岩倉使節団”が外遊中に、内政の主導権を完全に西郷の”留守政府”に奪われていたことに気が付いた訳です。

その後”留守政府”は西郷の朝鮮派遣を8月17日の閣議で決定し、朝鮮との戦争の危機が迫っていました。

9月13日に”岩倉使節団”が帰国し、留守政府の強硬な対朝鮮外交には反対する事で岩倉・木戸・大久保・伊藤ら首脳陣は一致し、大久保の参議就任も行って西郷の対朝鮮強硬論(所謂『征韓論』)を止める算段に入ります。

しかし、10月14日の閣議では、西郷と大久保の大激論となり、未決のまま翌15日に閣議再開となりますが、西郷はもう言うべきことなしとして欠席し、結果、西郷を恐れた太政大臣の三条実美は岩倉の同意を得て”西郷の即時朝鮮派遣”を決定してしまいます。

これに対して、大久保・岩倉・木戸の参議辞職を申し出があり、間に挟まった太政大臣三条実美は10月18日早暁に錯乱して人事不省の容態となり、翌19日に太政大臣の辞表を提出します。

大久保利通はこの機を逃さず、太政大臣代理に岩倉を就任させて、10月23日の明治帝への閣議決定奏上の際に、岩倉意見として『西郷の朝鮮派遣延期』を付帯させることに成功します。

この大久保の動きに気が付いた西郷は、10月22日の夜岩倉邸へ押しかけ、付帯意見の撤回を求めますが、岩倉から拒絶されます。

果して、明治帝は10月23日に岩倉から上奏を受け、この岩倉意見を入れて翌24日に『西郷の朝鮮派遣延期』を裁可します。

こうして、岩倉を屈服させることに失敗した西郷は、10月23日に敗北を認める形で参議の辞表を提出します。

明治帝は、西郷以下5参議の辞表を受理し、大久保・木戸の辞表を却下し、ここに『征韓論』を巡る政争は大久保ら内治優先派の勝利に終わり、新政府首脳陣は留守政府から内政の主導権の奪還に成功し、改めて岩倉・大久保・木戸を中心とする新体制が出来上がりました。

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西郷はなぜ参議を辞めたの?

前章に記述したように、西郷は『征韓論』と云う名の政争に敗れたように見える事件(ほぼ大久保のクーデターとも言えそうです)が原因で辞表を出しています。

西郷が辞表を提出したのは、岩倉が正規の手続きを踏んで決定された閣議決定に、恣意的に勝手に自分の意見をつけて明治帝に上奏すると言う、『太政官職制』・『正院事務章程』と言う政府の根本組織法に明確に違反する行為を、留守政府の首班として止めれなかったことに対する責任を取ったと言うことでもありました。

この新政府の大事な根本法律を踏みにじる岩倉の行為は、当然大久保と打ち合わせた上で、政権奪還の奇手として行われました。

既に決まったものを自分の都合の良いように書き換えたのですから、新政府の首班代理としてあり得ない行為でした。

つまり、所謂『征韓論論争』では、明治6年(1873年)10月15日に、岩倉使節団の帰国組を入れた中で行われた正式閣議決定で『西郷の朝鮮即時派遣』が決まっている訳ですので、西郷隆盛は論争には勝っていることになります。

その後の大久保と岩倉の”イカサマ行為に、騙し討ちにされた訳です。

それを突いてさらに論争を続けることが必要だったのですが、西郷にとって『天皇の裁可』・『天皇の権威』は重いものだったのでしょう。してやられたと分かった瞬間に”辞意”を固めます。

本当の大久保の狙いは、西郷一人ではなく、留守政府のメンバーで正論を吐くもの全員を一掃することにあったようで、狙いは西郷よりも”江藤新平”だったと言われています。

江藤は西郷と同様に、新政府幹部へ清貧と言わずともきちんとしていることを求め、その行状を厳しく見ていました。

江藤の追及に、特に長州系の幹部(例えば、伊藤博文、井上薫、山縣有朋ら)の汚職摘発の手が厳しく迫っていました。

長州派の長である木戸孝允から、首班格の岩倉・大久保に対して働きかけがあるものの、江藤は西郷の豪力を頼んで長州系の汚職を摘発する構えでした。

岩倉・大久保は目の上のたんこぶである江藤を閣外に追放し、更に中央政界からの抹殺をも狙っていたようです。

大久保は結局、長州閥の汚職もみ消し工作をしたい岩倉からの要請に応えて、そのために必要な政権奪還を達成しようとしていたようです。

下野した後の江藤は、その後起こる”佐賀の乱”の下手人として処刑されてしまいますが、実はこの”佐賀の乱”は、大久保の完全な演出だったと云う話があり、信じられないことに当事者である江藤新平と佐賀士族は、大久保の熊本鎮台からの鎮圧軍の出動命令が出るまで”佐賀の乱?”を知らなかったと言われています。

シナリオは、大久保がまだ東京にいた江藤新平に、留守政府での苦労をねぎらって骨休めの帰国を促し、ゆっくり九州で温泉逗留をさせ、江藤がやっと佐賀入りするかしないかのタイミングに、大久保から”佐賀の不平士族の乱”を扇動していると言われ、その時点でやっと江藤は大久保に嵌められたことに気が付いたと言います。

そして、大久保はこの『佐賀の乱』だけは、自ら九州まで出張して、江藤の息の根を止める現場指揮までしている念の入れようでした(最初から殺害するつもりだったのでしょうか?)。

すべて見通していた西郷は、鹿児島からさぞかしうんざりした気分で、長州閥の走狗となった元の盟友”大久保利通”の情けないパフォーマンスを眺めていたことでしょう。

前述した『西郷南洲遺訓』にあるように、もう西郷は新政府幹部の呆れた”権力マニアぶり”に失望していたのです。

そして、自分の成して来た『倒幕維新』の理想とは程遠い明治新政府の現実の『真相(姿)』に絶望していたのかもしれません。

もし西郷が下野しなかったらその後はどうなったか?

下野しないタイミングとすれば、明治6年(1873年)10月15日の閣議で決定されて、岩倉に勝手に修正された奏上内容が10月24日に裁可された後、引き続き参議として留まって、巻き返しを考えた場合と言う事になります。

大久保は相当の覚悟で、太政大臣代理となった岩倉にイカサマの奏上をさせたらしく、その後の西郷達との論戦を十分覚悟して準備していたようです。

そんな様子から、西郷の巻き返しがあるとすると、新たな閣議の招集とともになされたと思われます。

しかし、そうはなりませんでした。

考えなければいけないのは、長州閥が不敬にも天皇の事を『玉(ぎょく)』と称しており、幕末の当時”孝明天皇”の崩御以降新帝『明治帝』は怪人公家岩倉具視と長州閥がずっと掌中にしている状態であったことです。

西郷と明治帝の交わりはそれなりに報告されていますが、どうも西郷下野前後の様子を見ると、伝えられるような親しい関係が本当にあったのかどうか、あったとしたらもっと天皇マターでの西郷救助の手があっても良かったような気がします。

和やかな話が伝わっている割には、明治帝は西郷サイドに立った判断をしていないような気がします。

私見ですが、、、西郷はそのこと(〇〇は西郷が崇めるべき方ではなくなっていたこと)に気がついていたのではないかと思います。

話が横道に逸れましたが、つまり、大久保に西郷派参議の一掃方針があり、それがシナリオ通りに実行されてしまうのを見ていますと、下野せずに西郷が中央に留まり続けていても結局政権復帰は難しいのではないかと言う、そんな見通しを西郷自身が持っていたのではないかと思われます。

ただし、西郷が政権に留まれば、西南戦争はなかったか、或はあってもただの士族反乱で、あのような大戦争になった可能性は低くなると考えられます。

西郷が首領に立つことによって参集した人材によって、”西郷軍”は粛々と形作られて行ったのですから、西郷が下野せずに政府の端くれに立っていれば、島津久光のもとで決起できる薩摩士族は限られてくるでしょう。

そして、西郷が下野の時に出した辞表は、「参議」・「近衛都督」・「陸軍大将」のものですが、実は、「陸軍大将」辞職は受理されていないのです。

大久保も”江藤追放は必達”であったけれども、西郷に関しては”軍の要”として新政府に残ってくれることを希望していたように思われます。

つまり、”政治には口を出さない軍人”としての西郷の能力と人気に期待をしていたのでしょうか。

また、もし西南戦争が起きなかった場合、あの薩摩出身の人材が全部残っていたら、ずい分明治の日本の政治は変わっていただろうことは想定されます。

ひょっとすると、明治の元勲たちの没後に準備されて行った『大東亜戦争』は無かったかもしれませんね。

まとめ

征韓論』と言えば、西郷隆盛が強引に朝鮮開国を武力をもって迫ろうとした所謂”侵略論”であると言う認識が通説です

調べてみると、西郷は留守政府の政策立案(政府づくり)に忙殺されるような日常で、新政府幹部がやるべき仕事を全部放り出して無責任に外遊に出かけてしまった後、後事を引き受け噴出する難事に奮闘しています。

そもそも、『征韓論』問題に発展した朝鮮が日本の外交文書受け取りを拒否したきっかけは、その文書に使われていた”貴字”の日本側の乱用?にあったようです。

日本では、全く問題にしていないのですが、外交文書にあった『天皇』の『皇』の文字は、”中国の皇帝”にだけしか使用が許されない貴字であったことから、長らく中国の隷属国に安住している李氏朝鮮にとっては、”日本と言う国は全く持って不敬な言葉遣いをする無礼な奴”だと考えた訳です。

もう、最初から話がかみ合わない訳ですね。

ともあれ、もたもたしていては、日本の安全保障にも関わってくる問題なので、西郷としては、礼を尽くして早く話をしに行くべきだと主張しただけですが、当時の日本の世論はこの朝鮮の行為は、武力を用いても糺さねばならないと言う議論が沸騰していました。

つまり朝鮮へ行くことは、すなわち『武力侵攻』であるとみなされて行ったのです。

問題は、これが『岩倉使節団』の外遊中に起こって、使節団帰国後の10月15日に”西郷の遣韓使”が閣議決定されたことにありました。

帰国した使節団の政府首脳(岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文)らは、重要案件を勝手に決めていた留守政府は政権の乗っ取りを図っていると判断し、この『征韓論』を巡って政権奪還行動へ打って出ることとなります。

中心となったのは西郷の盟友大久保利通で、その論争の過程で病に倒れた首班の三条太政大臣の代理として、岩倉具視を送り込んで明治6年(1873年)10月15日に閣議決定された”西郷の朝鮮派遣”を天皇への奏上段階でひっくり返してしまいました。

この違法行為を使った大久保の逆転劇”イカサマ奏上”で西郷の朝鮮派遣は延期となり、『征韓論』論争に西郷は敗北しました。

これが今では『征韓』の行為そのものの”論争”と言う話にすり替わっていますが、実態は使節団政府の留守政府からの”政権奪還”政争だったことがことが判明しました。

一面でこれは、前述のように江藤新平らが摘発する予定の長州系の維新の重鎮たちの”汚職の摘発つぶし”だったと言えそうなのです。

もし、”西郷留守政府”がそのまま残っていたら、私たちが今教えられる明治の元勲のメンバーがずいぶん変わっていて、初代の総理大臣すら別人になっていた可能性まであると言う恐ろしい話だったようです。

これが『征韓論』の真の正体だったようですね。

参考文献

〇川道麟太郎 『西郷「征韓論」の真相』(2014年 勉誠出版)

〇佐高信 『西郷隆盛伝説』(2010年 角川文庫)

〇安藤優一郎 『西郷隆盛の明治』(2017年 洋泉社)

〇山田済斎編 『西郷南洲遺訓』(2000年 岩波文庫)

〇毛利敏彦 『明治六年政変』(1979年 中公新書)

〇ウィキペディア征韓論

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