執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
天下人豊臣秀吉の『唐入り』は、大明国を震撼させた!ホント?
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目次
豊臣秀吉の『唐入り』は、”朝鮮”と”明国”にどんな影響を与えたの?
朝鮮の対応は?
秀吉軍の朝鮮侵攻は、天正20年(1592年)4月13日に始まりました。
小西行長(こにし ゆきなが)・宗義智(そう よしとし)らの率いる1番隊17800名は700余隻の軍船に分乗し、天正20年(1592年)4月12日に釜山蒲(プサンプ)に到着、”明に至る道をあけろ(明征討への先導をせよ)”と云う『仮道入明』を申し入れましたが、当然ながら朝鮮側に拒否され、翌4月13日未明より釜山城へ一斉攻撃を始めました。
強力な防戦体制を採ってなかった守備隊は正午ごろには壊滅、釜山城はほどなく陥落して、ここから7年に渡る戦争が始まりました。
長らく明国の従属国である”李氏朝鮮”は、国防のための平時兵力がそもそも数万程度しかおらず、その内の精鋭部隊は北部の女真族防備に回されていたため、他の地域は治安維持に必要な程度しか配属されていないのが実情でした。
そこへ、豊臣秀吉の実戦精鋭部隊が襲い掛かったのですから、最初から勝敗は見えていたようで、開戦から1か月ほどで首都漢城(ハンソン)が陥落してしまいます。
しかし朝鮮軍の反攻は意外に素早く、順調な進軍で釜山からの補給線の伸びきっていた秀吉軍は、その後ゲリラ活動に転じた朝鮮軍と日本軍による統治活動が始まった途端に反感を持った住民らによって補給路を寸断されて苦戦を強いられ始めます。
全くの外地であることを考慮に入れない秀吉軍の占領政策は、住民の反感を買ってたちどころに破たんし、合わせて5月に長年海賊対策に腕を磨いて、重装備をしている李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮海軍に豊臣水軍が大敗すると、朝鮮近海の重要な制海権を失って日本からの補給も困難になる事態を迎えます。
年末になって明の名将李如松(リールーソン)率いる重装備の明国精鋭部隊本格参戦が始めると、占領していた小西軍が平壌城で敗退し、完全に劣勢を強いられじりじりと押し戻され始めます。
豊臣秀吉得意の情報・調略活動が、言葉の通じない朝鮮と言う外地での準備不足もあって、全く機能しなかったことが実戦部隊の大きな敗因となりました。
豊臣秀吉が日本の全国統一を進めて行くことに関して、天皇・幕府の権威をフルに使って、戦わずして相手を従えて来た成功例が、秀吉を傲慢にさせ、状況判断を誤らせたのではないかと考えられます。
日本人とは違う人々を相手に、日本国内と同じように事を進めようとした戦略にムリがあったようです。
それで、朝鮮側の戦後対応ですが、、、
慶長3年(1598年)8月の豊臣秀吉の死去により、徳川家康ら大老から在朝鮮日本軍の撤退命令が出されます。
一、太閤御薨去ニ付テ、・・・、石田ハ博多へ打通ラレ、又家康公ヨリハ徳永石見入道式部卿法印寿昌・宮木長次郎豊盛御使トシテ朝鮮ヘ渡海シ諸将ヲ集メ、太閤御遺言ニ任セラレ、朝鮮在陣ノ面々何レモ帰朝アルヘキ旨、相達セラル、
(引用:北島万治 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第3巻 「鍋島直茂譜考補」惣勢自朝鮮帰朝 慶長三年戊戌』2017年 平凡社)
と言う事で、このように、大老の徳川家康から、使命された使僧が10月1日に渡海し朝鮮南部に散らばっている各武将宛てに帰国命令を伝えたようです。
撤退命令を受けて日本軍は無血撤退を目指して交渉したものの上手くゆかず、11月18日には最後の海戦が観音浦(クワンウムポ)で行われ、朝鮮水軍との激戦となり、朝鮮も司令官の李舜臣(イスンシン)が戦死しました。
しかし、日本軍はなんとか11月25日には、全軍が釜山浦からの撤退を終えることが出来ました。
徳川家康は、時間を置かずに対馬の領主宗義智に対して、”朝鮮との国交回復命令”を出します。
当然乍ら、朝鮮側は何の返答もせず、慶長5年(1600年)9月の『関ケ原の戦い』で徳川家康が勝利して外交権を得た頃、朝鮮側も慶長5年末に”在朝鮮明国軍”が完全に本国へ帰還し、双方とも国交回復条件が整って行きました。
その後、李氏朝鮮も日本(徳川家康)側の努力を認め、慶長9年(1604年)に使節を日本に派遣し、国交回復の道筋がついて行きました。
明国の対応は?
明国は、豊臣秀吉の”征討計画”を朝鮮侵攻が始まる前から情報を得ており、遼東半島と山東省での防備を固めていました。
朝鮮国王から明帝に対して、1592年5月10日に、”日本の朝鮮侵攻”が報告されました。
朝鮮国咨して称く、「倭船数百、直ちに釜山を犯し、房屋を焚燒す。勢い甚だ猖獗なり」と。・・・
(引用:北島万治 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 「明実録」万暦二十年五月己巳』2017年 平凡社)
として、日本の軍船が釜山港に侵入して、焼き打ちをしたことを報告しています。
明の神宗万暦帝は、6月2日になってから、、、
遼東撫鎮に精兵二枝を発し、朝鮮を応援するを命ず。仍て銀二万を発し、彼の国に解赴して軍を犒い、国王に大紅紵絲二表裏を賜いて之を慰労す。仍て年例銀二十万を発し、遼鎮の備用に給す。兵部の奏に従う也。
(引用:北島万治 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 「明実録」万暦二十年六月庚寅』2017年 平凡社)
大意は、”遼東の鎮撫に朝鮮救援のために二部隊の精兵を送ることを命ず。朝鮮には銀二万両を送って軍を慰労し、国王には大紅紵絲二着分を与えることとする。そして毎年の軍事予備費として20万両を遼東鎮撫に給付して事態に備える事とする。”とあり、、、
日本の朝鮮侵攻に対して、遼東の守備隊を早速朝鮮への救援に向かわせる対応を行なっています。
そして、6月から明帝の命令通り、明将の祖承訓(ソウチョンシュン)が5000名の遼東の兵を引き連れて鴨緑江を越えて朝鮮の援軍として出動します。平壌城へ朝鮮軍3000名とともに攻め込みますが、狭い城内で日本軍の鉄炮の一斉射撃を受けて壊滅します。
この敗北に衝撃を受けた明政府は、立て直しに名将と言われる李如松(リールーソン)を東征提督に任命して派遣し、4万3千の騎兵中心の大部隊を編成し、12月下旬に鴨緑江を越えて義州に入ります。
翌年正月5日に、李如松軍は朝鮮軍1万を加え、5万の大軍で平壌城へ攻めかかります。城を護る小西行長を中心とする守備隊は、善戦しますが、支えきれずに退却してここに平壌城は陥落します。
これを境に、日本の朝鮮侵攻軍は劣勢に転じて行き、豊臣秀吉の渡海は不可能となって行きました。
しかし、明国の台所事情は度重なる北方民族の侵入と蜂起により防衛経費の膨張で破たんに瀕しており、実のところ朝鮮への救援などしている場合ではない状況でしたが、結局、二度に亘る日本の朝鮮侵攻により、1600年までの8年近くの駐屯と救援を強いられてしまいます。
この戦いは、外征と違って出陣しても明は利益を得られる宛てはなく、せいぜい軍の駐屯経費の一部を朝鮮に負担させるくらいのものでした。
しかし遼東半島経営は、前漢時代から中国政権の重要な政治問題で、領土防衛上ここ遼東地域にも国境を接する属国である朝鮮を日本に獲られる訳にはいかない明政府の政策方針もあり、明帝の素早い決断と救援出動となったようです。
しかし、この南倭(日本軍)の侵攻による朝鮮防衛にかかる経費は、明政府をも引き倒しかねない負担となって重くのしかかって行き、明の懸念する北虜(女真族ー後の清国)はますますこの遼東の北部に勢力を拡大して行き、40年後に明国は清に滅ぼされることとなります。
(画像引用:釜山浦ACphoto)
『唐入り(からいり)』は、元々織田信長の構想なの?
堀杏庵(正意)『朝鮮征伐記』によると、、、
信長公、西國退治の大将として秀吉公を遣はせし時、・・・、毛利退治早速功成らば、・・・某は夫れより九州を切り従へ、早速平治すべし、然らば一年の所務を下さるべし、こヽにて勢を揃へ兵粮を貯へ、大船を造り、朝鮮に入るべし、・・
(引用:堀正意 『朝鮮征伐記 巻之一 朝鮮上賀表事附関白命諸卒事 4~5頁 』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”その昔、織田信長公が豊臣秀吉を毛利攻め(中国攻め)の大将に起用した時、毛利の征伐がすんだら、九州をすぐ平定しましょう。その後一年頂ければ、そこで軍勢を整え、兵糧を貯え、大船を造って、朝鮮へ攻め入りましょう。”と豊臣秀吉は、並み居る織田軍重臣たちの前で、大風呂敷を拡げ、織田信長も上機嫌で、分かったドンドンやれと言っているようです。
時期的には、秀吉の命令違反に対する信長の勘気が解けて、豊臣秀吉に播磨への出陣命令の出た天正5年(1577年)10月頃の話でしょうか、或は織田軍が天正10年(1582年)3月の武田攻め勝利の後、秀吉が備中高松城へ本格的に毛利攻めを開始した5月頃の事でしょうか。
一説によれば、、、
織田信長と豊臣秀吉は、東アジアにおける”明国主導の国際秩序”を打倒して日本中心とした新しい国際秩序を創り出そうとしていたと言うのですが、、、
どうも、公式の史料的には織田信長に関して、そんなことを考えていた明かな形跡は見当たりませんが、キリシタンには漏らしていたのかもしれません。。。
・・・信長は、事実おこなわれたように、都に赴くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。・・・
(引用:ルイスフロイス 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史③ 織田信長篇Ⅲ 第2部第55章』2014年 中公文庫)
とあり、時期的には、天正10年(1582年)6月2日の『明智光秀の乱(本能寺の変)』の直前の記事と思われますが、ルイスフロイスの記述にあるような内容を、織田信長もつい本音を漏らしていたのかもしれません。
歴史家の松田毅一氏の作成された『信長と南蛮人の交渉年譜』によれば、織田信長とルイスフロイスは信長の生前になんと記載のあるだけでも14~15回は面談しているようで、フロイスが信長の本音を知っている可能性は高いものと考えられます。
つまり、平たく言えば、”大陸への進出”と云う事でしょうが、秀吉に関しては、先ほどの『朝鮮征伐記』よりも、、、
態申遣候、
・・・、
・・・、秀吉日本国之事ハ不及申、唐国迄被付候心ニ候歟、・・・、
・・・、
(天正十三年)九月三日
一柳市介とのへ(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集<二> 1614一柳市介宛朱印状』2016年 吉川弘文館)
大意は”秀吉は日本の事は云うに及ばず、唐国(明国)まで征服する”とあり、この天正13年(1585年)の発言が、豊臣秀吉が『明国征伐の考え』を口にした初めだとされている事から、こちら文章の方が有名です。
それから、豊臣秀吉からキリシタンに対して、、、
(1586年)五月四日の聖女モニカの祝日に、日本イエズス会副管区長(ガスパル・コエリヨ)師は大坂城に赴いた。
・・・、
日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この日本国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に譲り、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。それゆえその準備として大軍を渡海させるために目下二千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。なお予としては、伴天連らに対して、十分に艤装した二隻の大型船を斡旋してもらいたいと願う外、・・・(引用:ルイス・フロイス 松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス 日本史4』2012年 中公文庫)
と、イエズス会のコエリョ師に対して、重装備を艤装済みの軍艦2隻の斡旋を依頼しています。もう完全に『唐入り』準備です。
”織田信長”と”豊臣秀吉”の共通項は、当時の戦国大名の中で、図抜けて経済感覚が鋭かったことだろうと考えられます。
武辺者が大半を占める戦国期の織田家中にあって、織田信長は出自が卑しくとも抜群の経済感覚を示す豊臣秀吉を、惜しみ・可愛がり・重用して行きます。
そう考えると、『商品物流・貿易』が生み出す利益に注目する織田信長の弟子的存在と考えられる豊臣秀吉のパフォーマンスは、信長から教わったもの・身に着けたものとも言えそうです。
当時の東アジアでの『明国主導の国際秩序』とは、やはり経済面・貿易面の事となりますので、織田信長は平清盛以来中国との貿易で利益を上げて来た日本の武家政権トップとして、中国に牛耳られ続けている”東アジアの貿易”の枠組みに挑戦する方針だったと考えられます。
織田信長には、『海禁政策』を採って貿易相手国に制限を加える明国に、政治的プレゼンスを武力で強めて、日本の東アジアでの貿易を拡大させる方針が根底にあったのではないかと思われます。
簡単に云えば、”明国の好き放題にはさせておけない!”と云う事でしょうか。
それを実現しようとしたのが、あとに続いた豊臣秀吉であったとみると、表面的にはでは狂気としか思えないような”豊臣秀吉の『唐入り』行動”も意図が透けて見えて来るような気がします。
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豊臣秀吉が”明を征服したら、天皇を北京に動座させる”と云ったのは本当なの?
豊臣秀吉は、朝鮮征討軍から去る5月2日に首都”漢城”陥落の報告が入ると、天正20年(1592年)5月18日付で、喜び勇んで早速、関白豊臣秀次に次の有名な朱印状を出します。
覚
一、殿下、陣用意不可有由油断、来年正二月比、可為進発事、
一、高麗都、去二日落去候、然間、弥、急度被成御渡海、此度大明国迄も不残被仰付、大唐之関白職可被成御渡候事、
・・・、
一、大唐へ叡慮うつし可申候、可有其御用意候、明後年可為行幸候、然者都廻之国十ケ国可進上之候、其内にて諸公家衆何も知行可被仰付候、下ノ衆可為十増倍候、其上之衆ハ可依仁躰事、
・・・、
一、日本帝位之儀、若宮・八条殿何にても可被相究事、
・・・天正弐十
五月十八日 秀吉(朱印)
関白殿(引用:北島万治 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 325頁 「古蹟文徴」天正二十年五月十八日 豊臣秀次宛 豊臣秀吉朱印状 』2017年 平凡社)
大意は、、、
- 関白殿下の出陣の用意をしなくてはなりません。来年1~2月頃の予定です。
- 高麗(朝鮮)の都は5月2日に陥落しましたので、いよいよ渡海して、この度は大明国までも残らず占領して、唐国(明国)の関白になるようにしてください。
- 天皇には、唐国(明国)へ御動座していただくので、用意をしなくてはなりません。再来年くらいに行幸なされるように。その時は、都周辺の国を10か国くらい差し上げ、公家衆にも知行をお渡しし、下級の方はこれまでの10倍くらい、上級の方は身分に応じて。
- 日本国の帝位は、若宮様か八条殿にでもお願いして。
などと、豊臣秀吉は先走った考えに有頂天になって、本気で関白豊臣秀次に朱印状にて命令を下しています。
これは、周囲の者にそっと漏らしたという程度のものではありません。
また、豊臣秀吉は、正室の於寧(おね)にも、、、
ひんき候まゝ、一筆まいらせ候、かうらいのミやこ、すきつる二日に
らっきょつかまつり候、それにつき、うへさま御とかい御いそきなされ候、
かうらいへこされ候しょくんせいのふねとも、・・・、そのふねまかりつきしたい、まつ御
むままハりまて、めしつれられ、御とかいなさるへきとの御事にて候、・・・一、うへさま御とかいなされ候ふねとも、いそき御もとし候て、しょせいめしよせられ、たいたうへ時日をうつさすさいつかハされ、とうねんちうに、ほつきんのミやこへ御さをなさるへきとの御ゐにて候事、
・・・・
一、につほんのていわうさまをからのミやこへすゑさせられへきあいた、その御よういあるへきよし、おおせあけられ、・・・
・・・
一、うへさまはほんきんのミやこに御さ所をなされ、又、それをも、たれそ御すへなされ、につほんのふなつきにんほうふ□□きよ所を御きわめなさるへき□□、
・・・
五月十八日 山きち
御ひかしさま 御きやくしんさま(引用:北島万治 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 328~331頁 「組屋文書」天正二十年五月十八日 御ひかしさま・御きやくしんさま宛 山中長俊書状』2017年 平凡社)
これは、”豊臣秀吉の祐筆山中長俊から北政所の侍女宛書状”の体裁を取った”秀吉から正室於寧への手紙”です。
大意は、、、
- お手紙をします。高麗(朝鮮)の都が去る5月2日に陥落しました。それにつき、私は自らの渡海を急いでいます。朝鮮征討軍の船の用意が付き次第、先ず馬廻り衆を召し連れて渡海します。
- 日本の天皇様を明国の都北京へ行幸していただく準備をしています。
- 明国の北京の都を制圧したら、後を誰かに任せて、自分は日本の港からまっすぐ行ける明国の”寧波(ニンポー)”の町に居を据えるつもりです。
というようなことで、朝鮮などは問題にせず素通りして明国に軍を進めていく夢を語り、天皇を北京に動座させるつもりであることも明記されています。
筆まめな豊臣秀吉は正室の”於寧(おね)”に包み隠さず自身の考えを述べているようですから、この時点では本当に本気だったようです。
豊臣秀吉の『唐入り』の理由は、秀吉の領土欲なの?
前述したように、天下人”織田信長”は全国制覇した後の『唐入り』の夢を、キリスト教宣教師のルイス・フロイス神父に語っていたようですが、その理由としているのが貿易による海外進出だけでなく、配下の諸大名たちに与える”恩賞としての海外領地の獲得”だったと言われているようです。
豊臣秀吉の『唐入り』もほぼ同じような発想があったと考えられます。
そして『唐入り』のもうひとつの大きな理由として考えられるのが、織田信長と同様に豊臣秀吉もルイス・フロイス神父に色々語っていたようなのですが、そのフロイスによれば、、、
関白は莫大な富を獲得して栄達をきわめ、華やかな成功裡に全日本の絶対君主となり、六十六ヵ国のすべてを自らの支配下に置いた。・・・。
彼には唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、・・・・。この子供は三歳の折に世を去ったが、彼はその死を悲しむのあまり、姉の子である甥(秀次)に天下を譲り、強大な軍勢を率いてシナへ渡り、その地を武力で征服し、この企てに生命を賭し、名誉あり優れたその企画を試みた日本史上最初の君主として、自らの名を後世に不滅ならしめ、その回想を永遠に留めようと決意した。(引用:ルイス・フロイス 松田毅一・長谷川桃太訳 『完訳フロイス日本史5 第三部四五章』2014年 中公文庫)
とあり、、、
宣教師ルイス・フロイスは、豊臣秀吉の『唐入り』を”外征をした日本で最初の君主になる”と言う秀吉の名誉欲だと喝破しています。
豊臣秀吉の『唐入り』は、もう日本最高の地位と莫大な富を手に入れてしまった秀吉の残った目標だったと云う事のようです。
なぜ豊臣秀吉は自ら渡海しなかったの?
前述のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、、、
関白が都から名護屋に赴き、・・・、彼は、自らも出馬する意向を示したばかりか、かならず実行すると語り、何頭か自分の馬を朝鮮に送るように命じた。・・・そして、あちらから吉報が着くたびに、表向きには早期に渡海したいと言い、・・・、自分のために、美々しく飾った豪華船を多数用意し、大小合わせて八千艘を超える船舶を名護屋に集結させた・・・。
彼は、記述のように思慮をめぐらし、狡猾さによって、・・・十五万の人間を朝鮮に投入したのであるが、今はあちらに行っている船舶の引き揚げを命ずるに至った。
それは、たとえその遠征に加わったことを後悔して日本に帰ることを望む者がいたとしても、その人々に乗船の便を与えないためであった。
そして、出帆の用意をさせ、すでに足を踏み入れて乗船するかのように見せかける・・・。
予としては用意万端を整えて朝鮮国に渡り、・・・。しかるに名護屋にいる側近の重立った武将たちは、・・・、朝鮮海峡の怒涛と荒波に身を曝すことは危険であるから、この時期を避け、・・・明年三月までえんきされたい、・・・予は、彼らがあまりにそれを願うので、その時節まで延期することにする・・・と。
彼は主要な港に衛兵を配置して、あちらに渡っている者が日本に帰ることがないように監視させ、その警戒には特に注意を払うようにと命じた。(引用:ルイス・フロイス 松田毅一・長谷川桃太訳『全訳フロイス日本史5 第三部五0章』2014年 中公文庫)
とあり、“豊臣秀吉自身は、上手く行ったら現地朝鮮へ出かけるつもりだったが、結果が思わしくないので、行く素振りだけして行かず、渡海させた兵士の帰還・脱走は厳しく監視すると言うズルいやり方をしている”と、宣教師フロイスは秀吉に厳しい記述をしています。
これによると、戦況悪化によって渡海を諦めたと受け取れます。
事実、最初の”海が荒れており、天候が落ち着く春先まで渡海を伸ばす”と言うのは、緒戦から勝ち続けていた朝鮮遠征軍が、天正20年(1592年)7月8日~10日の李舜臣(イスンシン)率いる朝鮮水軍との『閑山島(ハンサンド)・安骨浦(アンゴルポ)の海戦』で大敗を喫し、朝鮮南岸の制海権を失ったことが原因でした。
その後の文禄2年(1593年)1月になると鴨緑江を越えて来た李如松(リールーソン)率いる明軍に小西行長の軍が大敗して、平壌が陥落し、戦局は一気に悪化して豊臣秀吉の渡海は全く不可能となりました。
また、、、
秀吉が支えている後陽成天皇(ごようぜい てんのう)から、朝鮮出兵に際して、豊臣秀吉自身の渡海を思いとどまるようにとの『宸翰(しんかんー天皇の御手紙)』が出ています。。。
高麗国への下向、嶮路波濤をしのかれむ事、無勿躰候、諸卒をつかハし候ても、可事足哉、且朝家のため、且天下のため、かへすかへす発足遠慮可然候、勝を千里に決して、此度の事おもひとまり給候ハヽ、別而悦おほしめし候へく候、猶勅使申へく候、あなかしく、
太閤とのへ(引用:北島万治 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 「後陽成天皇宸筆御消息」』2017年 平凡社)
大意は、”太閤自身が高麗国へ険しい道や荒波を越えて行かれる事は、恐れ多いことです。部下を遣わされるだけでも良いのではないでしょうか。朝廷のため、天下のため、ご出発はお止めになるべきです。日本から指揮されることにして、この度は思いとどまって頂ければ、大変よろこばしく思います。”とあります。
豊臣秀吉の渡海を止めるために、後陽成天皇が宸翰まで出しておられるのですから、ここは秀吉の「渡海中止」の名分が立ったということなのでしょうか。
豊臣家滅亡は秀吉の『唐入り』失敗が原因なの?
大義名分もなく、見返りもない”朝鮮戦役”で大名たちは、どんどん疲弊して行き、大名たちに不満が溜まって行きました。
そう言う不安定な朝鮮戦役の国内政治情勢の中、『唐入り』の重圧は、石田三成を中心とする外征促進派の秀吉側近グループと内政重視外征反対派の豊臣秀次・徳川家康らの一門・大名グループとの主導権を巡る内部抗争が激化して行く気配を見せていました。
そして幾つかの暗殺事件(千利休切腹事件・豊臣秀保変死事件など)と思われるものが出始め、そしてとうとう、石田三成ら秀吉側近側の「クーデター」であったことが現在疑われている大事件『豊臣秀次事件』が発生します。
事態は、文禄4年(1595年)7月の石田三成ら秀吉側近グループによる豊臣秀次の”謀叛糾弾”に始まり、悲惨な秀次一族の粛清へとなって行きます。
これにより、豊臣秀吉は大事な大事な豊臣政権後継者の”豊臣秀次”を自ら粛清してしまい、豊臣家滅亡の直接的な原因を自ら作ってしまったと考えられています。
豊臣秀吉の淀殿に出来た子供の”秀頼”可愛さといいますが、実は秀吉の側近中の側近である石田三成がおのれの権勢を維持するために、結果として主君豊臣秀吉に墓穴を掘らせ、豊臣家を滅亡に導いていたと言う”歴史の後知恵話”となりました。
『朝鮮戦役』による国内政局のゴタゴタがこの結果を生んだとも言えそうですから、豊臣秀吉の『唐入り』は、自ら豊臣政権の寿命を縮めたと言えそうで、あながち”狸オヤジの悪だくみ”ばかりが豊臣政権を滅ぼしたのではなかったのかもしれません。
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まとめ
豊臣秀吉の話と言えば、この『唐入り(朝鮮出兵)』を避けて通れないほど有名です。
今の私たちから見れば、なんでこんな事を仕掛けたのか全く謎なのですが、この”歴史的大事件”は日本国内は言うに及ばず、関係諸国に大きな影響を与えて行きます。
天正20年(1592年)4月の緒戦から秀吉の朝鮮侵攻軍と戦っている朝鮮軍は、防衛戦力の脆弱さから侵攻軍に押され続けますが、当初は日本軍の侵攻を歓迎していた庶民が占領統治に入り始めた日本軍の『検地』実施辺りから反発を強め、彼らが敵対する両班階級の組織する”朝鮮義勇軍”へ身を投じる者が増え始めました。
7月に入り李舜臣(イスンシン)の朝鮮海軍が日本水軍に大勝利してからは、一気に朝鮮社会の状況は変化し、当初”解放軍”として庶民に受け入れられた日本の朝鮮侵攻軍は、忽ち”朝鮮侵略軍”と認識され、制海権を失ったことと合わせて、食料の現地調達の道を失いました。
こうした”焦りによる侵攻初期の占領政策の失敗”が、日本軍全体の足を引っ張ってゆくこととなり、日本で織田信長らが宗教勢力との戦いに苦労したことと同じ理由である”庶民を敵に回した”形に陥って、この段階で”秀吉の朝鮮出兵”は”失敗”となることが運命づけられました。
若い伸び盛りの頃の秀吉なら、絶対に犯さない”世間を敵に回す”失敗を最初からしでかしていたのです。
そして、強力な明国正規軍の大軍による軍事援助が年末に入り、年の変わる文禄2年(1593年)正月から一気に秀吉の朝鮮侵攻軍は押し戻されて行きます。
一方、軍事援助に踏み切った明国側も、遼東北部から勢力を強めつつある女真族(後の清国)対策に勢力をつぎ込んでおり、財政的には厳しい状況で、加えて朝鮮出兵が出来した為、明国政府も秀吉の侵攻のおかげで寿命を縮めて行きました。
日本国内では、豊臣秀吉がこの『唐入り』に精力を傾注している間に、動員された大名間での対立が激化し、秀吉の意を尊重する主戦派と国内政治重視の非主戦派の対立が先鋭化し始めていました。
それは、秀吉側近グループが、秀吉の威を借り、先手を打って国内派の重要人物の粛清に走り出したことから、とうとう大事な”秀吉後継者(豊臣秀次)を抹殺してしまうと言う愚を犯して、秀吉没後に豊臣政権の没落を引き寄せて行くこととなります。
これも、この豊臣秀吉『唐入り(朝鮮出兵)』の大きなインパクトが日本の歴史を動かしたと言えるかもしれません。
また、海外においても、、、
明国も秀吉の朝鮮侵攻軍に手を取られている隙に、満州人”ヌルハチ”がトップとなった”女真族”の勢力拡大を許してしまい、結果1618年には女真族の建てた”清国”に攻め込まれ、1644年にはモンゴル人が建国した”清”の中国支配が始まります。
そして豊臣秀吉の朝鮮侵攻軍を1598年に追い出すことに成功した”李氏朝鮮”も、明国と運命を共にするように、1636年にはモンゴル女真族の国”清”に服属してそのまま20世紀を迎えます。
豊臣秀吉の『唐入り』は、明国・李氏朝鮮の双方に多大な打撃を与えて国力を衰えさせ、ひょっとすると『清国』創設の手助けをしたのかもしれません。
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参考文献
〇貫井正之 『秀吉が勝てなかった朝鮮武将』(1992年 同時代社)
〇桑田忠親 『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)
〇ルイスフロイス 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス 日本史3~5』(2014年 中公文庫)
〇松田毅一 『南蛮史料の研究』(1967年 風間書房)
〇堀正意 『朝鮮征伐記』通俗日本全史第二十巻 (国立国会図書館デジタルコレクション)
〇日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』(2015年 洋泉社)
〇脇田修 『秀吉の経済感覚』(1991年 中公新書)
〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <二> 』(2016年 吉川弘文館)
〇北島万治 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1~3巻 』(2017年 平凡社)
〇李啓煌 『文禄・慶長の役と東アジア』(1997年 臨川書店)
〇藤田達生 『天下統一』(2014年 中公新書)
〇小和田哲男 『豊臣秀吉』(1995年 中公新書)
〇松田毅一・長谷川桃太編訳 『秀吉と文禄の役』(1992年 中公新書)
〇山内譲 『豊臣水軍興亡史』(2016年 吉川弘文館)
〇北島万次 『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(2012年 岩波新書)
〇山本博文・堀新・曽根勇二 『偽りの秀吉像を打ち壊す』(2013年 柏書房)
〇鳥津亮二 『小西行長』(2010年 八木書店)