執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
女城主・井伊直虎!徳川家康へ井伊の子”虎松”を託す!
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幕末の幕府大老”井伊直弼(いい なおすけ)を出した徳川家の重臣井伊家の成り立ちがすべて分かります。
平安後期から続く遠江国井伊谷(いいのや)の名族井伊家は、常に崖っぷちに追い込まれながらも、しぶとくたくましく生き残って行きます。
武田・徳川・今川の戦国列強の狭間で、もう滅亡寸前の時期に政権のバトンを渡され、長じて”徳川四天王”のひとりとなった『井伊直政(虎松)』を育て上げて井伊家を存亡の危機から救った”井伊直虎”と言うパワフルな女性の物語です。
目次
戦国の女城主『井伊直虎(いい なおとら)』とはどんな人物なの?
かつて井伊家は、南北朝期に南朝に味方して以来”負け組”となり、”勝ち組”で守護大名となった今川氏の配下に組み込まれて辛酸をなめ続けていましたが、そんな井伊家に井伊直虎は天文5年(1536年)頃に井伊氏第22代・直盛(なおもり)の娘として生れました。
徳川幕府が寛政年間(1789~1801年)に編纂した大名・旗本の系譜書の『井伊家』の項には、『…ー直盛(なおもり)ー直親(なおちか)ー直政(なおまさ)ー…』とあり、直盛の次に”直虎”の名前はないと言います。
第22代直盛には男子がいなかったため、直虎の許嫁となっていた養子の亀の丞(直親)が跡継ぎとなりましたが、今川氏の陰謀で井伊宗家の直系親族の男たちが次々命を落として行く中、直親まで暗殺されてしまって血統上は女性の直虎しかいなくなり、直親の子虎松(直政)の存在を今川の魔手から隠しつつ、井伊家の当主をやり遂げました。
今川義元(いまがわ よしもと)亡き後を継いで、暴政を続けた今川氏真(いまがわ うじざね)も滅び、直親の子虎松(直政)を徳川家康の傍へ送り込んで、やっと直虎は”井伊家の展望”を開いたのでした。
つまり、系図では、『直盛ー直親ー直政』なのですが、直政の存在を今川の目から隠して、直虎自らが井伊家の当主となって井伊家を支えていたのです。ですから本来なら、系図で『直盛ー直親ー直虎ー直政』となるべきですね。
直虎に守られて成長して、家康の側衆として送り込まれた”虎松(井伊直政)”は、徳川家で異例の出世を遂げ、徳川四天王のひとりとして、家康の天下取りを支え続けました。
井伊直政は直虎の存命中は”元服”せずに、元服時は22歳になっていたと言いますから、直虎は20年ほど井伊谷の当主(城主)をやっていたことになります。
このように、井伊直虎は女性にも拘わらず男の名前を名乗り、井伊家の当主として戦国の世を明晰な頭脳と知恵をもって乗り切った、女丈夫・名政治家です。
『本能寺の変』があった同じ年の天正10年(1582年)8月26日に没し、享年46歳位(生年が不明確の為)だったと言います。
(画像は浜名湖です)
井伊直虎は女性なのに、なぜ井伊家の当主となったのか?
簡単に云えば、前章にもあったとおり、今川氏の井伊家乗っ取りを目的とする執拗な圧迫政策・謀略により、次々と直系親族が亡くなって行き、井伊宗家の跡継ぎが女性の直虎しかいなくなってしまったからです。
直虎の元許嫁で井伊家当主の井伊直親が今川氏真に暗殺されたあと、意外な事に今川氏から送り込まれた付け家老小野但馬守(おの たじまのかみ)も、当の今川氏真(いまがわ うじざね)も直虎の当主相続を認めています。
今川方は直虎(当時は”次郎法師”)が女性であることは十分承知なのですが、女性ならばあとでなんとでもなる(これで井伊家乗っ取り完成)と油断をしたのでしょうか?
私は、、、
私見ですが、直虎が女性と言うほかに、井伊家の出自に理由があるような気がします。
名家の井伊宗家の名前を残したまま、実質今川のコントロール下に置く方が、世間体(対朝廷政策)も良いし、果実は自分のものになる(当時の井伊谷の実質石高は2万5千石位と見積もられます)と言うのが、彼らの考えではないかと思います。
まあ、力で圧迫して井伊宗家を乗っ取ったと言うよりは、力のない無害な直系子孫(直虎)に家を継がせて、井伊宗家を保護している体裁にすることがこの時代の方便でもあったという事でしょう。
幕末の徳川幕府大老井伊直弼(いい なおすけ)と井伊直虎はどんな関係なの?
井伊直虎に徳川家康側近に送り込まれた虎松(直政)は、徳川家中で異例の出世を遂げて『徳川四天王』のひとりとまで言われ、合戦では常に先鋒を務めて活躍し『小牧長久手の戦い』では、”井伊の赤鬼”と呼ばれて恐れられます。
”関ケ原の戦い”では、西軍先鋒に対して東軍の主力として激戦に及んで軍功を上げ、その論功行賞で関ケ原後に近江彦根の地(旧石田三成領地の佐和山地区)を家康から賜り、以来ここを本拠地として井伊家は幕末まで徳川幕府の重鎮として繁栄します。
つまり、井伊直弼は井伊直虎が守り支えた井伊宗家の末裔と言う事になります。
徳川家康の天下取りを支えた四天王とは?
酒井忠次(さかい ただつぐ)大永7年生(1527年)
本多忠勝(ほんだ ただかつ)天文17年生(1548年)
榊原康政(さかきばら やすまさ)天文17年生(1548年)
井伊直政(いい なおまさ)永禄4年生(1561年)
の4人です。
しかし、”徳川四天王”とは後付けの命名で、いずれも江戸時代に譜代大名として高い地位に有り続けた家柄から判断されているようです。
この中で、三河松平時代からの功臣は酒井忠次だけで、あとの3人は側近から出世して行って別名で”徳川三傑”とも言われています。
酒井忠次(さかい ただつぐ)
酒井氏は、徳川氏と三河松平家の初代松平親氏(まつだいら ちかうじ)を共通の祖先とし、家康の父広忠時代には岡崎松平家の重臣として酒井一族は重用されていました。
後の家康腹心の本多正信、徳川三傑”榊原康政”の父長政らはもともと酒井家傍流に所属していました。
酒井忠次は戦いにおいて、家康本隊と連携する大規模な別動隊を指揮し、”長篠の戦い”、”小牧長久手の戦い”などで武功を上げました。
本多忠勝(ほんだ ただかつ)
本多忠勝は少年期から家康に近侍して、1560年頃から前線指揮官として活躍を始めました。
小身家臣の出身で、家康に精勤することによって認められて来て、大規模な家臣団を持たないため、家康から与力を命じられた小身家臣団を束ねた軍団の指揮を任されていました。
猛将で知られ、”関ケ原の戦い”の時は家康の直下桃配山麓で、全軍の軍監のような役割でこの世紀の一戦を指揮して東軍を勝利に導きました。
本多忠勝の娘”稲(いなー小松殿)”が、真田昌幸の長男信之へ正室として嫁ぎ、真田一族の生き残りに貢献し、真田一族は幕末まで続く家柄(信州松代藩)となりました。
榊原康秀(さかきばら やすひで)
本多忠勝と同様に少年期から家康に近侍して、同様に大規模な家臣団を持たないため、時には傭兵の起用も行い、軍紀を乱しかねない軍功争いを引き起こすこともあるなど子飼いの兵を多く持たない為に厳しい戦いを強いられていたようです。
しかし、徐々にその武功が認められ、猛将として名を成してゆきます。
井伊直政(いい なおまさ)
徳川氏の甲斐への進出により、多くの武田旧臣が徳川方へ参入することになりましたが、家康はそれを側近の井伊直政の指揮下におくことにより戦力化を進めて行きました。
そのため、直政は『旗本先手役』中、最大の戦力を持つに至り、一番若手でしかも三河ではなく遠江(奥浜名の井伊谷)の出身であるにも関わらず、まさに徳川の”武の要”として期待され、信頼されていたことが分かります。
直政が今川・武田・徳川の戦国の領袖たちの争奪の地となった遠江の井伊家出身であると言うその政治感覚も買われていたのではないでしょうか。
家康は、自身の親衛隊にも武田旧臣を多く起用し、後年それが幕府の『大番組(おおばんぐみ)』と言う組織になり、将軍家の親衛隊の一角となっていましたが、武田旧臣の子孫が大きな比重を占めていたと言います。
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徳川四天王のひとり井伊直政(いい なおまさ)と井伊直虎はどんな関係なの?
井伊直政は、井伊直虎の元許嫁井伊直親の子です。
家督を継いだ父直盛に男子がいなかったため、直虎の祖父直宗の弟直満の子である亀の丞(直親)を直虎の許嫁とし井伊宗家を継がせることとなりました。
しかし、今川家の魔手は直満に及びその子亀の丞にも義元から殺害命令が出てしまい、亀の丞は家臣の助けで身を隠します。
その逃亡が7年を越えて、長じた亀の丞に側室が出来て、子を成してしまいます。
一途な直虎は、逃亡10年を越えた頃にやっと帰国して来たこの許嫁の裏切りを許せず婚約は解消となりますが、直虎の父直盛は亀の丞を一族の娘と祝言を上げさせ、そのまま井伊宗家の跡取りとします。
こうして亀の丞は”井伊直親”と名乗り直盛の養子として井伊宗家を継ぎ、直虎は出家をして、一族の僧”南渓(なんけい)”の計らいで”次郎法師(じろう ほうし)”を名乗り、尼ではなく僧侶となって仏門に入ります。
ところが、運命の永禄3年(1560年)5月19日の”桶狭間の戦い”で今川義元とともに父直盛が討死してしまいます。そして永禄5年(1562年)12月14日、当主井伊直親が今川の付け家老小野氏の讒言(ざんげん)で義元の跡継ぎ今川氏真によって惨殺されます。
唯一残ったのは祖父の井伊直平(なおひら)でしたが、これも今川氏真の謀略で殺害され、とうとう井伊家の直系男子はいなくなり、一族の生き残りは直虎ひとり(直親の子の虎松はいます)となってしまいます。
そこで、”次郎法師”は還俗して、”直虎”を名乗り、永禄8年(1565年)井伊谷城の城主となり、直親の子虎松(直政)の存在を隠しながら守り井伊家の存続に全力を傾けて行きます。
このような困難に見舞われながらも直虎は直政の養母のような存在で、今川の魔手から跡取りの虎松(直政)を守りつつ、井伊家存続のために尽くしました。
井伊直虎も出陣し、戦闘に参加したの?
井伊直虎は2年間城主として頑張っていましたが、家老の小野氏に『徳政令』を巡る謀略でハメられ今川氏真によって政治的にも失脚させられ、居城の井伊谷城(いいのやじょう)を追われます。
軍務は今川の城代となった小野氏に課せられ、永禄11年12月に武田信玄の遠江攻略への防衛に出撃しました。
と言う事で、井伊直虎は武芸も確かな女武将でしたが、記録に残るような出撃の機会はなかったようですが、この時代の女城主は別人(男子)を名代に立てて出陣させるのが、ふつうの作法だったようです。
しかも、直虎はこの西遠江の地域から外へ一度も出ていない人物のようで、駿府も京も知らなかったのですね。
この井伊直虎が守った『井伊家』とはどんな経歴の一族なの?
井伊家は、平安末期に朝廷の巡検使であった公家の藤原共資(ふじわら ともすけ)が遠江に下向した際に、ここに住みつき、”藤原”を”井伊”と変えて井伊家の始祖になったと伝えられています。
南北朝時代に井伊家は後醍醐天皇の南朝に味方して、皇子のひとりの宗良親王(むねよし しんのう)はここを拠点としました。
そのため、足利幕府(北朝)から遠江守護として送り込まれた今川氏との対立が続き、折しも後年徳川家康の天下取りの舞台となった関ケ原(当時は青野原)で延元3年(1338年)1月南北朝両軍が激突し、結果北陸の新田義貞軍との合流失敗により宗良親王も出陣した南朝軍が敗北をしました。
今川氏も執拗に井伊家に武力行使を続けていて、吉野より帰還した宗良親王ととも戦って更に7か月間持ちこたえていましたが、ついに足利軍に井伊家は降伏し、宗良親王は駿河へ逃れて行きました。
その後、北朝側の足利尊氏が政権を取って、観応元年(1350年)に今川氏が再び駿河・遠江の守護に任ぜられ、井伊氏はとうとう今川氏の配下となってしまいました。
つまり、北朝勝利により南朝側に立った”井伊家”は、北朝・足利側の”今川家”の膝下に組み込まれ、あくまで井伊家をつぶそうと図る今川家の長期間に亘る執拗な暴政と戦い続けることとなって行きます。
守護大名の今川義元を討ち取ったと言う意味で、織田信長による”桶狭間の戦い”はその時は大参事でしたが、結果は井伊家が生き残り幕末期まで名を残す大大名となったきっかけとなったと云えそうですね。
まとめ
NHK大河ドラマに”井伊直虎”が取り上げられることになったので、あの有名な幕末の”井伊大老”につながる話として『女城主・井伊直虎』のアウトラインを書いてみました。
『井伊の赤備え』で有名な猛将のイメージが非常に強い、”井伊直政”の出生の秘密とその後の困難な境遇に初めて触れて驚きでした。
戦国の世にあって女性は本名どころか幼名すら残らない地味な存在ですが、”井伊直虎”は、井伊大老につながる猛将”井伊直政”を無事育て上げた”ビッグママ”として、井伊家の血統を守り続けた功績には大きなものがあります。
日本の家系の凄さは天皇家に始まって、この井伊家も初代共保(ともやす)からとすると、寛弘7年(1010年)とされていますので京都の五摂家には及ばないにしても、1000年以上も続く家系・名家になることになります。
本記事は、その井伊家のともし火が消えようとした450年くらい前の危機にあって、あきらめることなくつないで行った”次郎法師(直虎)”の物語でした。
参考文献
楠戸義昭 『女城主・井伊直虎』(2016年 PHP文庫)
呉座勇一編 『南朝研究の最前線』(2016年 洋泉社)
渡邊大門編 『家康伝説の嘘』(2015年 柏書房)
ウィキペディア 『武家政権』