執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
幕末の大老井伊直弼、桜田門外にて凶刃に散る!犯人はだれ?
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日本史の大きな転換点と言われる幕末の大事件『桜田門外の変』に関して、標的となった幕府大老井伊直弼(いい なおすけ)はどうなったのか?そしてこの事件は幕末の歴史をどう動かして行ったのかを明らかにします。
目次
『桜田門外の変』とは?
まず簡単に100文字説明をいたしますと:
『安政7年(1860年)3月3日朝9時過ぎ頃、未明よりの雪をついて登城中の彦根藩の行列を、尊王攘夷派の水戸脱藩浪士ら18名が襲撃し、駕籠に乗っていた幕府大老・彦根藩主井伊直弼が暗殺された歴史的事件です。』(100文字)
(画像は江戸城桜田門です)
江戸城桜田門外で大老井伊直弼の行列に何が起こったのか?
『桃の節句』3月3日祝賀のため、在府大名総登城の日、水戸脱藩浪士関鉄之介(せき てつのすけ)に率いられた水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士有村次左衛門(ありむら じざえもん)を加えた18名が、彦根藩主大老井伊直弼の行列に切り込みました。
襲撃時には、ぼたん雪を伴う激しい降雪の為に大老(総理大臣)井伊直弼の警護の武士たちは、刀に黒い柄袋(つかぶくろ)をかぶせ全身には動きづらい雨具を身に着けていたようで、これが襲撃者たちに幸いしました。
列をなして待っていた諸大名が午前8時に開門となったのを機に桜田門をくぐり始め、井伊直弼の行列は御三家尾張藩の行列が通り終わった午前9時頃に、桜田門からほんの400mくらいの彦根藩上屋敷からの出発しました。
伴回り、警護の武士20名、駕籠(かご)や挟箱(はさみばこ)を担ぐ足軽以下40名の総勢60名ほどの行列で、前日までに水戸浪士の不穏な動きが情報として伝えられていたはずでしたが、かなり手薄な警備の行列となっていました。
丁度桜田門へ左折して入ろうとするところで、折からの”桃の節句祝賀の大名総登城”を見物しようとする町人・地方武士の見物人が沿道で見守る中、見物の田舎武士に紛れていた水戸浪士隊18名が、”駕籠訴(かごそ)”を装った水戸浪士森五六郎(もり ごろくろう)によって行列が止められ、警備兵が前方に気を取られ前方に移動したまさにその時、警備のスキをついて井伊直弼の駕籠を狙った水戸浪士黒沢忠三郎(くろさわ ちゅうざぶろう)の拳銃の銃撃を合図に堀側(左側)より6名、屋敷側(右側)より8名が籠を狙って一斉に切り込みました。
この最初の銃撃で井伊直弼は負傷して駕籠から出れず、警備の武士は刀に雨除けの柄袋がしてあったために剣を機敏に抜けず鞘(さや)を握ったままで、剣撃を受け軒並み指を飛ばされながら防戦するありさまで、あっと言う間に直弼の駕籠は警護者がいなくなりました。
既に至近距離から黒沢の拳銃で撃たれて重傷で、さらに駕籠の外から数人の剣で刺されて、瀕死の直弼は駕籠の外に引きずり出され、薩摩示現流(薬丸自顕流)の手練れ薩摩藩士有馬次左衛門によって首級を切り落とされました。
有村が井伊直弼の首級を刀の先に刺して突き上げ、それを合図に襲撃隊は彦根藩邸と反対側へ引き上げ始めました。
他藩の武士で終始この出来事を近隣の屋敷から見ていた者の記録では、襲撃から首級を上げるまでの時間はものの3分ほどであったと言います。
現場を実際に踏査してみましたが、確かに雪で見通しが悪かったとは言え、彦根藩邸からものの350mくらいのところで起こった変事ですから、門衛からの連絡でそれから援軍が飛び出たとしても10分もあれば現場に到着出来た距離です。
彦根藩邸より約50名の藩士が鉄砲・槍などを手に飛び出して現場に到着した時には、もう襲撃隊は1名の遺体を残しただけで立ち去っており、襲撃された彦根藩行列の横を次の紀伊藩の行列がその現場を遺体を避けながら通過していました。
水戸浪士の襲撃が如何に短時間でなされたかがはっきり分かります。
彦根藩の後始末は約1時間ほどで、遺体の収容と現場の処理(血がしみ込んだ土をも4斗樽4個掻き取る)を終えました。
井伊直弼の首級は薩摩藩士有村次左衛門が持ったまま現場を脱出しましたが、有村は重傷を負っており引き揚げ途上遠藤但馬守邸前にて自刃し、首級は遠藤家が預かっていましたが、夕刻に彦根藩が回収しています。
彦根藩の損害は、井伊直弼を除いて伴回り8名死亡、10名重軽傷、足軽以下3名軽傷となりました。
襲撃側は、攻撃に参加した16名のうち、1名闘死、4名自刃、8名自訴(最寄りの大名屋敷へ自首)で、残りの無傷の3名は攻撃不参加の2名(指揮官関鉄之介、検視見届け役岡部三十郎)とともに、薩摩軍と合流の為京へ向かいました。
しかし襲撃者が京で待ち受けていた薩摩藩は、事前にまとまっていた話とは違って、攘夷派志士の話には藩主島津久光(しまづ ひさみつ)は全く乗らずに関係した志士・藩士を処分して、”決起と同時に京へ藩兵派遣などという薩摩ー水戸の志士同志の取り決め”は反故にしてしまい、水戸側の実行部隊は幕府の捕吏と水戸藩に追われる身となって、一部の浪士を除いてほぼ全員捕縛され江戸の小伝馬町の牢で斬首されました。
(画像は東京小塚原回向院にある桜田義士の墓です)
大老井伊直弼はなぜ襲撃されたのか?
嘉永6年(1853年)の黒船来航以来の外交政策を巡って幕閣が自信をもって当たることが出来ず、広く大名・学者に意見を求める動きをしたため、その”場当たり的な対応”を批判する勢力が”天皇”を神輿(みこし)に担ぎ上げる形で拡がって政治力を持ち始めました。
その中で、朝廷とのつながりが強く、水戸徳川家初期の水戸光圀(みと みつくに)が進めた”水戸学”で『尊王攘夷』を強く進める藩主水戸斉昭(みと なりあき)が国論を2分する『攘夷(外国排斥)派』の旗手となって行きます。
その為、一方の『開国』を進める幕閣と攘夷派水戸斉昭は鋭く対立をしていく状況になって行きました。
開国政策を進めていく老中首座阿部正弘(あべ まさひろ)とその次の老中首座堀田正睦(ほった まさよし)は攘夷派の旗手水戸斉昭との妥協点を探りながら進めて行く政局の状況下、将軍の継嗣問題で水戸斉昭の実子一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)が有力候補となって浮上しました。
その後、政局運営にもたつく老中首座の堀田正睦が失脚して、溜間(たまりのま)の代表として彦根藩主井伊直弼が大老に立ちました。
ここから、井伊直弼と水戸斉昭の激しい対立抗争が始まって行きます。
安政5年(1858年)4月23日に大老に就任した井伊直弼は、5月には14代将軍の一橋慶喜就任を排除するべく、紀州藩主徳川慶福(とくがわ よしとみ)の継嗣を確かなものし、6月19日には『日米修好通商条約』を無勅で締結するなど、矢継ぎ早やに政策を推し進めて行きます。
この無勅での条約締結に反発した水戸斉昭は第一陣の詰問使として6月23日に一橋慶喜を差し向け、翌24日午前中に第二陣として福井藩主松平慶永(まつだいら よしなが)を、そして午後から尾張徳川慶恕(とくがわ よしくみ)、水戸斉昭、水戸徳川慶篤(とくがわ よしあつ)、一橋慶喜、越前松平慶永と一橋派・慶喜派全メンバーで押しかけて『三家の押しかけ登城』と有名になった規定違反の無断登城を行ないましたが、井伊直弼を追い詰めることに失敗してしまいます。
この結果を受けてダメ押しとして井伊直弼は、翌6月25日、第14代将軍に紀伊徳川慶福の継嗣決定が公表します。
この三家の無断登城に対して、井伊直弼は7月5日、水戸斉昭に『重謹慎の将軍命令』を出してその政治活動を封印し、その他の参加者ともども政界からの追放に成功します。
しかし、この前代未聞の御三家に対する処分発表は、井伊直弼の『専断』の印象をさらに強めることになりました。
この知らせを薩摩で受け取った一橋派の薩摩藩主島津斉彬(しまづ なりあきら)は、即座に藩兵を引き連れて上京し幕府に圧力を掛けることを画策しますが、東上途上で急死してしまいます。
この情報に衝撃をを受けた朝廷は、島津斉彬の代わりに水戸斉昭にその幕政一新の期待を込めて、8月8日に孝明天皇からこの幕政を批判する『戊午の密勅(ぼごのみっちょく)』が、幕府と水戸藩に対して出されます。
この江戸時代の幕藩体制を覆す『戊午の密勅』と言う前代未聞の”朝廷の政治関与”に激しく反発した井伊直弼ら幕閣は、この朝廷工作をしたと疑われる者と水戸藩関係者の捕縛・投獄を開始します。
これが歴史上『安政の大獄』と言われる事件の始まりでした。
水戸斉昭の仕業と決めつけて、斉昭からの直命であった証拠を見つけようと懸命の井伊直弼は水戸関係者への徹底した弾圧行動と、そのシンパ行動が認められる『勤皇の志士・学者』にまで弾圧の網を広げていきます。
これが『安政の大獄』の性格を『水戸藩への探査・弾圧』から『開国運動をする若者・志士・学者』への弾圧へと変えていきます。
井伊直弼はあくまでも水戸斉昭の抹殺を狙った政治行動のつもりでしたが、世(歴史)の受け取り方は”進歩的な開国運動をする若者への弾圧”と受け取られて行きます。
一方、主役の水戸藩への弾圧は熾烈を極めて行き、家老の安島帯刀(あじま たてわき)まで切腹と云いながら斬刑に処されるなどされ、藩内で大老井伊直弼に対する怨念が高まって行き、東上途上で亡くなった島津斉彬の”幕政改革”の遺志を継ぐ薩摩藩の一派から『井伊直弼暗殺』の誘いがあって、いよいよ井伊直弼に絞った薩摩ー水戸合同の暗殺計画が動き始めます。
しかし、結果的に薩摩は水戸をそそのかしただけで、京へ藩兵を派遣する決起行動をするような薩摩の志士の話を本気にした水戸藩士は井伊直弼襲撃を敢行し、襲撃企画責任者の高橋多一郎・庄左エ門父子などは、大坂まで薩摩軍を迎えにまで行って、約束どおり決起に呼応して現れない薩軍に絶望して自刃しています。
なぜ井伊大老への襲撃は成功したの?
水戸藩士の不穏な動きは、幕府の諜報網にキャッチされており、十分な警戒がされていたはずでした。
事変の数日前にも数件の情報がもたらされ、この段階で登城当日の警戒は十分になされるべきだったのでしょう。
まさに、この一点しかない時間と場所ピンポイントで暗殺は実行されました。
暗殺が成功した理由は:
- 当日の天候
- 警備側の油断
に尽きるのかと判断されます。
当日は朝から季節外れの大雪に見舞われ、彦根藩の行列は雨天対応で行列に参加する藩士は雨合羽と刀には柄袋をしっかりハメていました。
そのため、行列が襲われた時に、すぐ刀を抜くことが出来ず鞘をもって剣撃を受けざるを得ず、周囲には彦根藩士の切り落とされた指が累々と残されていたと記録されています。
そして、襲撃において水戸藩士の森五六郎が行列前方に切りかかったため、警備の目が前方に引き付けられて、本来藩主の駕籠を警備せねばならない藩士が前方に移動を始めてしまったようです。
その間隙をついて、水戸藩士黒沢忠三郎が駕籠へ襲撃の合図の拳銃弾を撃ち込み、これが駕籠の至近距離からだったため偶々井伊直弼に命中して、井伊直弼が駕籠から出て迎え撃つことが出来なかったのです。
警備の人数は20名ほどのですが、行列が長く伸びていたことを考えると、そもそも非常に手薄な警備であったと言わねばなりません。
襲撃側は、まさに井伊直弼の駕籠だけを目指してその周囲に配置されていて、左側6名、右側8名の14名が一斉に、拳銃の合図で駕籠へ切り込んだのですから、数の上からも防御は不可能だったと言えそうです。
それでも警備の藩士20名がほぼ全員近くが駕籠の周りを固めていたら、おそらく襲撃は不首尾に終わったのではないかと思われますので、やはり警備上の手落ちと云っていいのではないでしょうか。
現場に立ってみると分かりますが、本当に旧彦根藩邸と桜田門は目と鼻の先なのです。
まさかあのような場所で、しかも江戸城の真ん前で襲撃されるとは考えもしなかったのではないでしょうか。
また、映画などでよくあるように、襲撃側の浪士が物陰に隠れているような想定がありますが、そうなると隠れる場所は他の大名屋敷の建物ですから、かなり行列と距離が出来ます。
実際には、襲撃から終了まで3分ほどだったと目撃証言がありますので、襲撃者は大名行列の見物人に扮して行列のすぐ近くにいたことが分かります。
歴史上、江戸城近くで登城中の大名行列が襲われた事例はなかったようですので、幕府が警備のために現在の警視庁よろしく”旗本”を総動員して当日の警備に当たらせると言った指示・行動もなかったという事ですね。
やはり、これは『油断』なのですね。
昔の大名行列は、本当に命懸けの警備が必要だったんですね。江戸初期まではそんな不穏な雰囲気があったのではないかと思いますが、このような幕末期になって武士の警戒心も緩んでいたんでしょうね。
しかし、考えてみると現在の『警視庁』が桜田門外に設置してあるという事は、やはりこの井伊直弼の『桜田門外の変』と全く無関係とは言えないのかもしれませんね。
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藩主を暗殺された彦根藩はどうなったの?
江戸幕府のルールでは、藩主が跡目も決めてない時期に”不慮の事態”で亡くなった場合・不祥事を起こした場合は、その藩は『改易・お取り潰し』が『決まり』となっていたようです。
有名な江戸元禄時代の”赤穂浪士47士の討ち入り事件”を生んだ『浅野内匠頭の殿中刃傷事件』はこれに該当します。
この『桜田門外の変』の場合はもまた、まさにこの条項に該当します。
この件に関しての実際の幕府の処理はどうであったのか?を見てみますと、、、
公式記録では、”藩主が急病を発したための急遽相続願い”が彦根藩より出され幕府に受理された後、井伊直弼の死去となっているようです。
これは、譜代筆頭の井伊家の取り潰しによる混乱(例えば彦根藩士による水戸藩への敵討ちなど)防止と、”安政の大獄”で過酷な弾圧を受けている水戸藩の取り潰しによる水戸藩士の暴発を防ぐ両面の解決策を考慮した残された幕閣の苦心の対応策でした。
結果的に井伊家は子息愛麿(井伊直憲)への相続が認められ断絶を免れることが出来、水戸藩も御三家の立場での取り潰しを免れることが出来ました。
幕府も『赤穂浪士の悲劇』が教訓になっていたのかもしれませんね。
しかし、『桜田門外の変』の関係者の処分が大方片付いた文久2年(1862年)に薩摩の島津久光が藩兵を率いて江戸に入り、幕政の刷新を要求し老中たちの罷免とともに井伊直弼の断罪(安政の大獄など)が政策の罪が問われ、彦根藩は従来の京都守護職を解かれて石高も35万石から25万石へ減封されてしまいます。
この時の事が尾を引いたのか、戊辰戦争で彦根藩は幕府を見限り新政府側に鞍替えし、積極的に幕軍と戦うことになります。
幕府の権威を守るために弾圧と云う手段まで使った井伊直弼は、水戸藩士にその弾圧の恨みを受けて謀殺させられ、その『桜田門外の変』が原因で井伊家の後継となった井伊直弼の子息の井伊直憲は、”戊辰戦争”で藩を率いて直弼の敵側になるはずの新政府軍に参加して幕府を滅ぼす側に立つと言う奇妙な因縁話となりました。
『桜田門外の変』後、日本はどう変わったのか?
現役の幕府大老が白昼江戸城の入口で襲われると言う事態に、幕府の権威は大きく損なわれ、その後の文久2年(1862年)1月15日に老中安藤信正が江戸城坂下門外にて、またしても水戸浪士に襲撃される事件が起こります。
今回は、警備を強化していたため安藤老中は負傷だけで事なきを得ますが、もはや幕閣の権威は地に落ちて行きます。
そこへこの文久2年(1862年)3月16日に薩摩藩主島津久光が藩兵を率いて薩摩を出発して4月に入京し、十分に朝廷との打ち合わせをした後6月に江戸へ入り、幕府に対して軍事力をちらつかせながら”幕政の刷新”の要求を出し、7月6日に一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に就任させます。
これによって、一橋慶喜始め井伊直弼によって失脚させられた首脳陣たちが表舞台に復帰するなど、故島津斉彬の構想に従って大きく幕府の政治は変化していくことになります。
しかし、すでに日本を取り巻く政治情勢は幕府・将軍の力で時局を乗り切れるような状況になく、時代は”明治”へ向かって大きく動いて行きます。
『桜田門外の変』は、幕府の強権を発動した大老井伊直弼の横死によって、”徳川幕府支配が終焉”へ向かうこととなる”大きな時代の転換点”になりました。
『桜田門外の変』が起こった場所(現在はどうなっているのか)は?
明治以降も江戸城は天皇の皇居として、そのまま使用されているため、桜田門は当時の場所に存在します。
その門の前に通る内堀通りを挟んで、正に桜田門外に日本の警察の総本部”警視庁”の建物があるのは、偶然なのでしょうか?
また、井伊直弼が拠点としていた旧彦根藩上屋敷(藩邸)も”憲政記念館”として敷地がそのまま存在します。桜田門から見るといわゆる”指呼(しこ)の距離”にあることが分かります。誰も江戸城前のこの距離の間に襲撃されるとは考えないのではないでしょうか。
まとめ
すべては嘉永6年(1853年)6月3日午後5時に、時の大統領フィルモアの親書を携えて浦賀沖に現れたマシュー・ペリー率いる米国海軍東インド艦隊による”黒船来航”から始まりました。
翌年約束より半年も早く再来航したペリーとの間で、老中首座の阿部正弘は『日米和親条約』を締結して箱館・下田を開港し、ここに200年続いた徳川幕府による所謂”鎖国”が解かれて、日本は開国への道を辿ることとなります。
その後幕府は、下田に駐在した米国総領事タウンゼント・ハリスより『日米修好通商条約』の締結を迫られ、政変により大老に就任した井伊直弼によって、孝明天皇の勅許なしに安政5年(1858年)6月19日に締結されます。
黒船来航後12代将軍家慶が死去し、後継の13代家定が病弱暗愚だったため、継嗣問題が大きくクローズアップされ、13代の時にも候補に挙がった一橋慶喜を明君として推す慶喜派と、血統を重視して御三家紀伊家の徳川慶福をおす紀伊派の抗争が始まりました。
大老に就任した井伊直弼はバリバリの紀伊派であり、実子である一橋慶喜を推す水戸斉昭との間の対立が激しさを増し、大老井伊直弼が問答無用で紀伊の徳川慶福を継嗣に内定したため、慶喜派は幕閣の『日米修好通商条約』の無勅締結を攻め、井伊大老の追放を画策します。
対する井伊直弼は、過激な攘夷思想で幕府の開国政策を阻む御三家水戸斉昭の勢力を削ぐため、”安政の大獄”となる水戸藩への弾圧行動に出ます。
結果、これが水戸藩士の恨みを買い、直接的な井伊直弼への襲撃事件『桜田門外の変』へと発展をしてしまいます。
併せて、この『安政の大獄』は後に開国派へ転身する過激な『攘夷主義者たち』が対象者に多く含まれていたことから、『攘夷』を『倒幕』へと変化させてしまう事となり、相次ぐ政治的失態と要人襲撃により権威の失墜した幕府を崩壊へと導くこととなりました。
その為、この一連の”開国運動”の象徴的な出来事として『桜田門外の変』は位置づけられることとなりました。
参考文献
永江新三 『安政の大獄』(1966年 日本教文社)
吉村昭 『桜田門外ノ変ー上下』(1995年 新潮文庫)
徳富蘇峰 『桜田事変』(1984年 講談社学術文庫)
原田伊織 『明治維新という過ち』(2015年 毎日ワンズ)
瀧澤中 『「幕末大名」失敗の研究』(2015年 PHP文庫)
加治将一 『竜馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)
加治将一 『幕末・維新の暗号ー上下』(2011年 祥伝社文庫)
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