執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
大老井伊直弼は『安政の大獄』で『開国派』を粛清した?なぜ?
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幕末日本で開国を求める運動に身を投じている有為の若者に対して、”投獄・拷問・処刑”の弾圧(安政の大獄)を実行し、一部で歴史的巨魁(きょかい)とされている井伊直弼(いい なおすけ)の真相を明らかにして行きます。
目次
安政の大獄って何なの?
簡単に”100文字説明”いたします:
『安政5年(1858年)5月末から始まった、14代将軍の後継争いに端を発した大老井伊直弼による慶喜派と水戸一派への大弾圧事件で、最終的に反幕府勢力全体にまで広がり吉田松陰も巻き添えを食って命を落とした。』(文字数100字)
なぜ安政の大獄は始まったか?誰が主導したのか?
13代家定の病弱暗愚により発生した14代将軍の継嗣問題を巡り、前例どおり血統論を取って紀州家の徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推す幕閣と、明君論を取って実子の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)を推す水戸斉昭一派の間で対立が起こります。
折しも『開国問題』が発生しており開国へ舵を切り無勅で”日米修好通商条約”を締結するなど迷走する幕閣の対応に、老中阿部正弘が招聘した外様雄藩からも批判の声が上がり、水戸斉昭は尾張家などを動員して『井伊直弼以下違勅の幕閣追放行動』を起こします。
それに対抗して、強硬な水戸斉昭に”実子慶喜を利用した幕政乗っ取り”の嫌疑をかけて、時の大老井伊直弼の弾圧が始まります。
事態を憂慮した外様の雄藩”島津斉彬”が藩兵の動員も含めた武力収拾に動き始めますが、途上で斉彬は急死して、そのかわりとして何を勘違いしたのか朝廷より”水戸斉昭”に白羽の矢が立てられて、幕政改革の”密勅”が水戸藩に降ります。
これに激怒した井伊直弼は、これを”水戸斉昭の陰謀”と決めつけ”密勅降下”に関係したと考えられる”勤王の志士”を含めた関係者の大量検挙に動きます。
この捕縛対象者の人選は、井伊直弼の懐刀で京都在住の長野主膳(ながの しゅぜんー国学者・直弼の師)が中心となって実行し、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、橋本左内(はしもと さない)、梁川星厳(やながわ せいがんー捕縛前に病死)などを皮切りに、天皇近くの延臣にまで追及の手はおよび連座したものは100名以上に及びました。
吉田松陰に関しては、間部老中暗殺計画発覚で長州藩の手によって安政の大獄とは無関係に萩の野山獄に収監されていたものが、幕府より”水戸斉昭政権簒奪計画”への一連の関与を疑われて江戸に移送されて、取り調べの折に無関係と判断がされたものの、あえて本人から間部老中暗殺に関する供述があり、それが問題視されて斬首刑に処せられたもので自殺に近い形であったと考えられます。
(井伊直弼像 画像引用:Yahoo検索)
安政の大獄で大物政治家は処刑されたのか?
表舞台に出ていた主な大物政治家
一橋慶喜(一橋徳川家当主)==隠居・謹慎
徳川慶篤(水戸藩主)==隠居・謹慎
松平春嶽(福井藩主)==隠居・謹慎
徳川斉昭(元水戸藩主)==永蟄居
徳川慶勝(尾張藩主)==隠居・謹慎
伊達崇城(宇和島藩主)==隠居・謹慎
山内容堂(土佐藩主)==隠居・謹慎
堀田正睦(佐倉藩主)==隠居・謹慎
松平忠固(上田藩主)==隠居・謹慎
朝廷関係主な重罪者
近衛忠煕(左大臣)==辞官・落飾
鷹司輔煕(右大臣)==辞官・落飾
鷹司政通(前関白)==隠居・落飾
三条実万(前内大臣)==隠居・落飾
とあり、重罪には問われたものの、皆処刑は免れました。
主な処刑者
吉田松陰(元長州藩士)==斬罪
橋本左内(松平春嶽家臣)==斬罪
頼三樹三郎(京都町儒学者)==斬罪
安島帯刀(水戸藩家老)==切腹
鵜飼吉左エ門(水戸藩家臣)==斬罪
鵜飼幸吉(水戸藩家臣)==獄門
茅根伊予之介(水戸藩士)==斬罪
梅田雲浜(小浜藩士)==獄死
飯泉喜内(三条家家来)==斬罪
日下部伊三治(元水戸藩士・薩摩藩士)==獄死
解説
処刑者は水戸藩中心に行われ、水戸藩は家老まで切腹させられています。
続いて朝廷は水戸斉昭の姻戚関係が狙われており、梅田雲浜は”斉昭と朝廷のつなぎ役”をしていたことが咎められています。
あくまでも”水戸斉昭の陰謀”という疑惑を中心に事態が進んだことがわかります。
井伊直弼はこの”安政の大獄”のターゲットに”徳川幕府滅亡の本命”であるもっとも恐ろしい”薩摩藩”を完全に見落としていることが分かります。
折角偶然に”倒幕の動き”を捉えたにも拘わらず、見逃してしまった”この見落し”が幕府の致命傷になったことが明白ですね。
倒幕運動の本線は井伊の考えていた”水戸”ではなく、”薩摩”だったことを今日の私たちは知っている訳ですが、もしここで井伊直弼が薩摩藩関係者を壊滅させておけば、明治維新はなかった可能性が高くなります。
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井伊直弼はなぜ開国派の吉田松陰らを処刑したのか?
この『安政の大獄』は、あくまでも”水戸斉昭の陰謀”に加担したものをあぶり出し、その扇動に乗った関係者も罪に問われています。
つまり、井伊直弼は幕政全体の方針が時流を捉えて運営できておらず、事態が深刻であることは自覚しつつも、幕府が政権を運営している現状を根底からひっくり返すような動き(倒幕運動)が出ているとは考えていなかったようです。
ですから、”幕府の運営を譜代・親藩だけで回す現行制度に変更させようとする政治的動き”くらいに考えていて、水戸宰相の謀略(御三家は参政出来ないという家康以来の規則を変えようとする動き)が大本命と考え、その動きを弾圧していたのです。
という事で、、、
井伊直弼の頭の中に、『開国派』・『倒幕派』の存在が政治的に成長・拡大して来ていると言う認識はなかったようです。
ですから、”水戸の陰謀に加担する輩”として弾圧をしていたので、少しでも関係が疑われれば投獄されました。
捕縛された”勤王の志士”たちは、私たちが学校で教わったように”開国派”として捕まった訳ではなさそうです。
たまたま”水戸謀略事件”の捜査中に関係者として引っかかっただけで、たまたまその中に”勤王の志士”がいただけだと考えられます。
吉田松陰の場合は、この時にはもう『倒幕派』になっていたと考えられますから、その『開国・倒幕』のキーワードで井伊・長野主膳が動いていれば当然対象者になっていたはずです。
なぜか取り調べが終わり”関係なし”と判断されかけた段階で、わざわざ自ら老中暗殺の一件を持ち出している訳(しゃべってから”しまった!”と松陰自身も思ったはずです)ですから、如何に幕吏側に”松陰の罪状”が念頭になかったかがわかります。
彼は聞かれもしてない暗殺計画を自供して処刑されているので、その時点では『ただの挙動不審者』扱いだったと考えるのが至当で、絶対”政治犯扱い”ではなかったと思います。
藩主として名君と言われる直弼がなぜ『赤鬼』とまで呼ばれたのか?
井伊直弼は、文化12年(1815年)に彦根城二の丸で第13代彦根藩主井伊直中(いい なおなか)の14男(庶子)として生まれました。
13代直中には男子が多く更に直弼は庶子のために養子の口もなく、父が亡くなってから部屋住みのまま32歳になるまで彦根に住み続けますが、兄たちが皆他家へ養子で出て行く中に一人売れ残っていた直弼は、弘化3年(1846年)に兄の14代井伊直亮(いい なおあき)の世子が死去したため、急遽兄の養子・世子となって、嘉永3年(1850年)に直亮死去により、直弼は15代彦根藩主となります。
直弼は藩主になると、藩政改革を果断に実施して善政を引き、名君と称されるようになります。
この当時、吉田松陰でさえもその直弼の藩主としての名声を聞きその善政を賞賛していて、その後も松陰は直弼に対して好印象を持ち続けて、無勅の条約締結の際もその首謀者は、老中首座堀田正睦と紀州藩附家老水野忠央で、井伊直弼は操られているにすぎないと考えていたほどでした。
しかし、『安政の大獄』が始まりその実行が第二段階に入り、在京の”勤王の志士たち”の捕縛・投獄にまで広がり始めると、彦根藩開祖の猛将井伊直政が”赤備えの鎧”に因んで『赤鬼』と称されていたのに模して、子孫の大老井伊直弼は権力を振りかざして反対者を断罪に処す姿から『井伊の赤鬼』と称されるようになりました。
権力を握るにつれて人格が変化して、善人が悪逆非道の人物になっていったような認識を明治以来の『薩長史観に基づく歴史教育』で今の私たちは持たされています。
しかし、直弼のような理論を積み上げていくタイプの政治家は、自分で正しいと信じたことに関しては、誰が何と言おうと冷徹に実行しただけなのではないでしょうか?
言い方を変えると、その後政権を取った明治薩長新政府にとっては、”義士”と祭り上げた水戸藩士のテロ行為により落命した旧幕府の権化である大老井伊直弼はどこまでも悪人にしておく必要があったのではないかと思います。
この辺りに歴史評価の難しいところがあり、隣国のスポークスマンがよく云う勝てば官軍の『歴史認識』が生まれる素地があるのだと考えさせられるところですね。
私見ですが、歴史にはいい悪いはなく、なんびとも歴史の出来事に対して”裁判官”になる資格はないのだと肝に銘じる次第です。
幕閣内に意見の不一致はなかったのか?
『開国』に関しては、幕閣の結論は『開国実行』で決まっていたようです。
しかし、当時の老中首座の阿部正弘(あべ まさひろ)が嘉永6年(1853年)ペリー来航時に”海防参与”として入閣させた水戸斉昭は、コチコチの攘夷主義者(水戸学)であり、最後まで持論を変えなかったことから不一致と云えば不一致でした。
とは言え、水戸斉昭は顧問の立場だったので、本来は聞かれるまで主張してはならないのですが、”烈公”と称されるくらい論陣を張る人物で、阿部老中は懐柔するつもりで入閣させたものの、牙を剥かれ噛みつかれる結果となってしまい大失策となりました。
その後阿部老中が指名した後継者堀田正睦(ほった まさよし)が老中首座(内閣総理大臣)になり、手下の岩瀬直震(いわせ ただなり)が外交担当でとりまとめ、その後井伊直弼が大老となったのちも岩瀬が担当をつづけて行くこととなります。
井伊直弼は勅許なしでの条約締結は反対で、結果岩瀬の暴走により『日米修好通商条約』はあっさり締結されてしまったと伝わっています。
一応、責任者の井伊は反対だったけれど、担当者の岩瀬が井伊の意向に反して勝手に条約を締結したとされていますが、これはないような気がしますがどうでしょうか。
やはり閣内は意見一致しており、『条約締結』は勅許のあるなしかかわらず既定方針だったような気がします。
そもそも幕府は政策方針に関して、従来から事前に朝廷の許可を取りながらやって来たことはなかったはずです。
そのためいかに幕府の政治的な”権威”が凋落していたかの証拠とされてはいますが、開幕以来の政治方針から云えば、”勅許”など必要としない訳です。
この辺りに当時の討幕派の屁理屈があるような気がします。
聞いている私たちは以前からずっと朝廷が政治的な判断をし続けているような錯覚を起こしてしまって、 この時の幕府の無勅締結の判断は”怪しからん!”とまるで尊王攘夷の志士のような気分で決めつけますが、これはおかしいのですね。
言い方を変えると、朝廷に判断を求めた幕閣の考え方が変だと言えます。
という事で、、、
状況から幕閣内では一応『開国実行』の大方針に不一致はなかったと考えるのが妥当だと思います。
安政の大獄は後の日本にどう影響したのか?
直後の展開に関して考えますと、、、
前の章でもお話しましたように、井伊ー長野が薩摩勢力を無傷で残してしまった事から、巨人島津斉彬(しまず なりあきら)急死のショックを乗り越えて、朝廷ー反幕府勢力ー江戸城大奥に強い影響力を持ったまま動きはじめます。
井伊直弼の勘違いの”水戸征伐”だった”安政の大獄”でしたが、巻き添えを食った形の開国派の指導者たちの損失は大きいものがありました。
勿論長州の”京都に殺戮の嵐を巻き起こした暗殺実行部隊”は真っ先に狙われて仕方のないところですが、学者・指導者が表舞台から姿を消し、結果一部の下級公家と薩摩の志士たちの手で倒幕運動が展開されていくことになりました。
薩摩を中心とする倒幕勢力は、足並みを乱すことなく歴史の中心を歩み始め、幕府と正面からぶつかって消耗した長州を尻目に京・江戸でのテロ活動の中心となって行きます。
役割的には西郷隆盛(さいごう たかもり)がテロを含む軍事戦略担当(江戸での”赤報隊”が有名)で、大久保利通(おおくぼ としみち)が朝廷を含むオルグ活動・政策担当だったようです。
こうして、大獄後の『桜田門外の変』で大黒柱の井伊直弼を失った幕閣は、評論家だらけの寄り合い所帯の状況で言わば身内の争いを続け、その間に薩摩が中心となる”倒幕活動”により、ついに最終戦争の『戊辰戦争』へと追い込まれて行きます。
安政の大獄がなかったらその後はどうなっていたか?
あくまで私見ですが、、、
一番に考えられることは、『桜田門外の変』はなく、井伊直弼は大老・老中首座に居続けていたという事です。
直弼の2代前の老中首座阿部正弘の”黒船来航”に起因する失政で、広く幕外まで政治に関する意見を求めてしまったために、”幕府の政治的権威”を大きく低下させることになりました。
状況的には島津斉彬の計画していた幕閣(内閣)の構成員を従来の”譜代・親藩”のみとせず、外様大名である雄藩藩主を入れる形への移行をせざるを得ないことになっていたでしょう。
こうなると、『要人暗殺等のテロ活動を含む攘夷運動』は藩主の強権で抑えられていた公算が強い(事実薩摩藩は藩内過激派を処刑しています)ので、京都における長州藩の引き起こしたテロ活動・治安悪化もなかったわけで、つまり”新選組”も組織されなかったことになります。
幕府の権威失墜は止まらないはずですから、穏便な形での政権移行(戊辰戦争はなかった)が成ったような気がします。
新政府も薩長閥が大きな権力を振るうこともなく、徳川慶喜は貴族院議長くらいに収まっていたのではないでしょうか?
西南戦争もなかった公算が強いので、薩摩も人材を失うことなく、後の新政府を長州出身者に牛耳られることもなかったでしょう。
また敵視された水戸藩も『安政の大獄』で多くの人材を失いましたので、もし”大獄”なかりせば、新政府の中に多数の人材を送り込めたことでしょう。
そして、新政府の軍隊が長州と薩摩がトップを占めることがなくなったかもしれないので、後のいくつもの戦争を日本はやらなくて済んだ可能性もここにあります。
まとめ
私のような一般人が『安政の大獄』で一番の謎に思うのは、なぜ『開国派』のはずの大老井伊直弼が『開国派の勤王の志士たち』を投獄・処罰・処刑したかという事でした。
その答えは、なんと”吉田松陰”の江戸での取り調べの時の松陰と幕吏のやり取りを見ると判明します。
幕府は、”大獄”を進めていきますが、『水戸公の陰謀』の証拠が挙がって来ません。
そこで捜索範囲を広げ始めますが、その時長州藩の野山獄に収監されている吉田松陰にも白羽の矢が立ちます。
結果、松陰は水戸公の陰謀とは無関係であることが判明して正に解き放たれそうになったその時、吉田松陰が『間部老中の暗殺計画』を話し始めます。
これにびっくりしたは幕吏でしたが、さらに驚いたのは吉田松陰だったのです。
自分の逮捕容疑が『倒幕の一環である老中暗殺計画』であると思い込んでいたのですが、そうではなかったことをそこで理解して発言を後悔するのです。
そのように伝わっていますが、実際には既に挙げられたいる学者・知識人たちから”倒幕計画”は出ているはずですから、松陰は水戸の陰謀ではなくてそちら側の一味とされたのではないかと思います。
あくまでも”老中暗殺”という不埒なことを考える犯罪者としてですね。
要するに、井伊直弼が『開国論者』を狙ったわけではなくて、逮捕してみたらそうだったという事ですね。
しかし、これらの供述調書から『倒幕運動』の実態が出てくるはずですが、なぜ薩摩関係者が見逃されたのか不明ですね。
この見逃しが徳川幕府の滅亡を招くことになるのですから、本当に歴史は怖いですね。
参考文献
永江新三 『安政の大獄』(1966年 日本教文社)
原田伊織 『明治維新という過ち』(2015年 毎日ワンズ)
瀧澤中 『「幕末大名」失敗の研究』(2015年 PHP文庫)
安藤優一郎 『「幕末維新」の不都合な事実』(2016年 PHP文庫)
一坂太郎 『司馬遼太郎が描かなかった幕末』(2013年 集英社新書)
八切止夫 『新選組意外史』(2002年 作品社)
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