風雲児織田信長はプレーボーイで側室も美女揃いだった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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戦国の風雲児織田信長の秘密のベールに包まれた側室たちを紹介します。

 

武功夜話』でハッキリした織田信長と側室吉乃の出会いをお教えします。

 

織田信長の唯一の正室濃姫(奇蝶)の消息を推測します。

 

織田信長の最初の子供は誰が生んだのか明らかにします。

知られている織田信長の側室にはどんな女性たちがいたの?

豊臣秀吉漁色家(ぎょしょくか)であったことは非常に有名ですが、通説では、”織田信長”の妻女は”一妻六妾”と言われているようです。

 

戦国期の名のある大名は、後継者を残すこと(子作り)が大きな仕事でしたので、信長は少ない方だ(笑)と言います。

 

最初の正室”帰蝶(きちょうー奇蝶・濃姫)”には子供が出来なかったのですが、その後織田信長の子供は、判明しているだけで13人の息子と10人の姫がいると言います。

 

正室をもし”帰蝶”ひとりだけであったとするならば、子供はすべて側室の生んだ子達となります。

吉乃(きつの)ー 嫡男信忠(のぶただ)・次男信勝(のぶかつ)・長女徳姫(とくひめ)の母

(生駒吉乃生家ー2018年4月4日投稿者撮影写真画像)

 

本名は、生駒類(いこま るい)。”信長(幼名:吉 法師)の(乃)女”と言う意味で、吉乃(きつの)と呼ばれたようです。

 

当時、信長の織田弾正忠家の支配地外であった尾張上四郡小折村(現愛知県江南市)にあった信長の母(土田御前ーどたごぜん)の親類筋にあたる、生駒八右衛門(いこま はちえもん)の屋敷に入り浸っていた信長が、夫の戦死により若後家となって実家に出戻っていた”類(るい)”に一目ぼれしたようです。

 

吉法師と言う信長の幼名が使われていることから、信長の生駒屋敷への出入りは、元服前からと考えられますが、当時の生駒屋敷は馬借と灯油の商いを手広く手掛けて成功しており、屋敷内に食客が常時滞在するなど一種の”梁山泊”の様相を呈しており、諸国の情報が大量に集まる場所でもありました。

 

そこへ、父信秀の命でもあったのか、社会勉強と情報収集の為に吉法師(信長)が出入りをしていた訳です。一説には信長は父の命で”散所(河原者の集まる場所)”にまで出入りしていたと言われ、それゆえ下層民(商人)の世界に若年ながら精通していたと考えられます。

 

つまり、”そんじょそこらの若様とは出来の違う信長坊ちゃん”は当時の生駒屋敷などでは、”イイ顔の悪ガキ”だったと思われ、吉乃(類)も悪童の信長を昔からよく知っていたと考えられます。

 

生駒の当主も当然親戚筋の織田弾正忠家の嫡子であることは重々承知の上で、類と信長の関係を容認したと思われます。

 

時期的には、信忠の生まれたのが、弘治3年(1557年)で、吉乃が出戻ったのが、弘治2年(1556年)とされています。

 

正室帰蝶の信長への輿入れは『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』によれば、天文18年(1549年)2月24日であり、父斎藤道三(さいとう どうさん)の敗死が弘治2年(1556年)4月20日で、帰蝶が父道三の肖像画(遺影)を岐阜常在寺に奉納したのが、永禄元年(1558年)頃とされ、以後帰蝶の記録上の消息は忽然と消え去ります

 

この事から、”帰蝶の不明の消息”に関して歴史作家楠戸義昭氏の説では、父道三の死後実兄の父殺しの衝撃からか、信長の正室帰蝶は母小見の方譲りの病弱の故か弘治3年(1557年)から永禄元年(1558年)の間に死去した可能性が高いとしています。

 

つまり、信長と吉乃の関係は、タイミング的には正室帰蝶が病床にあった前後である可能性も否定できないようです。

 

一方、信長の”国盗り”では丁度謀叛を起した実弟の信勝(のぶかつ)を謀殺して、弾正忠家内での実権をやっと確定させた頃に当ります。

 

信長がやっと尾張統一に目処を付け始めた時で、病死した?正室帰蝶に代り生駒吉乃を得て、信長が大きく戦国に羽ばたく時期となります。

 

吉乃は、永禄2年に徳姫を出産して以来、3年続きの出産がたたって病床に臥せっていて、永禄6年に竣工した小牧山城にて永禄9年(1566年)5月13日に死去しています。

 

信長は翌永禄10年(1567年)に美濃稲葉山城を攻略して、美濃を征服し城を岐阜城を改称し、吉乃の死を忘れ去るかのように、築城わずか4年あまりの小牧山城を破却して、『天下布武』実現に向かって岐阜城への移転を行ないます。

 

お鍋(なべ)の方 - 信高(のぶたか)・信吉(のぶよし)・お振(ふり)の母

お鍋の方は、織田信長の後半生を支えた女性と言われています。

 

現近江八幡市小田町の辺りの豪族高畠源兵衛を父に小田城に生まれ、本家小倉家の山上城主小倉賢治(こくら かたはる)の妻となっていました。

 

織田信長は永禄2年(1559年)2月に、不穏な動きを見せる東幕府たる”古河公方”方である駿河今川義元の上洛目的の”尾張乱入”阻止のために、上洛し”京都幕府”の将軍足利義輝に謁見し、救援要請をします。

 

この時、東方に与する信長暗殺部隊も京都へ派遣されており、その魔手を逃れるために、近江の八風街道の峠越えを当地の領主小倉賢治の援護を得て無事に伊勢桑名へ抜け清洲へ帰着しました。

 

その時以来、小倉賢治と織田信長との友好関係は続きますが、一方六角氏と織田氏の関係は”信長の上洛の動き”で悪化の一途を辿り、織田氏との友好関係を近江国主佐々木六角氏より詰問され、小倉賢治は切腹に追い込まれ、子供を六角氏に人質に取られてしまい、夫人『お鍋の方』はこの状況を打破する為に、この原因となった織田信長のところへ直訴に及びます。

 

その美形の若後家『お鍋の方』はそのまま岐阜城へ留め置かれ、永禄11年(1568年)9月の上洛戦において、六角氏を観音寺城から追い払い、無事『お鍋の方』の子息を救出し感謝した『お鍋の方』はそのまま信長の側室に収まります。

 

その後、信長との間に2男1女が生まれ、天正4年に『お鍋の方』の出身地に近い”安土城”が着工され、安土へ移転すると、安土城では『お鍋の方』が奥向きの采配を振るい、後に『安土殿』と呼ばれたのは、『お鍋の方』とされています。

 

天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変(明智光秀の乱)』の後、いち早く『お鍋の方』は岐阜城へ戻り、信長の遺品をまとめて、岐阜崇福寺へ納め保護します。

 

程なく天下を奪取した豊臣秀吉から、召し出され秀吉の正室”おね”の女房衆とされますが、実態としては秀吉の側室となったと考えられます。

 

その為、当然ながら織田信長の妻として秀吉から俸禄(所領)を付けられ厚遇されることとなります。

 

しかし、”関ケ原の戦い”で西側への加担(秀吉の側室だったことか?)を咎められて所領も失い、晩年は京都に居住し慶長17年(1612年)没します(享年65~70歳と言われます)。

 

坂氏の女(ばんしのむすめ) - 三男信孝(のぶたか)の母

坂氏の女は、永禄元年(1557年)に叔父である熱田神宮神官の岡本太郎右衛門良勝(おかもと たろうえもんよしかつ)の屋敷で、織田信長の三男となる信孝を出産します。勿論岡本は信長から命を受けていたと思われます。

 

そもそも熱田神宮は、織田家の手厚い保護を受けており、多数の神兵を有し、大宮司家千秋家の千秋季忠(せんしゅう すえただ)なども、神官大宮司でありながら信長の家臣でもあり、後日の歴史的事件である『桶狭間の戦い』にも参戦し討死しているほどです。

 

岡本太郎右衛門良勝も、後年信孝が北伊勢の名族神戸具教(かんべ とものり)のところへ養子に入る時に、信孝に補佐として付けられ、信孝取次衆のひとりとなっています。

 

利発で器量もある彼女の息子信孝は、信長に期待され将来を嘱望されていましたが、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変(明智光秀の乱)』での”織田信長の死”によって暗転します。

 

つまり信孝は、『山崎の戦い』の”勝利をてこ”に政権を簒奪(さんだつ)しようとする豊臣秀吉に上手くしてやられ、柴田勝家とともにこれに対抗しようとしましたが失敗し、人質となっていた信孝の母である”坂氏の女”も豊臣秀吉によって”串刺しの刑”と言う残忍な方法で処刑されてしまい、本人も後日切腹しました。

 

稲葉貞通の女(いなばさだみちのむすめ)

これは、織田信長が稲葉山城攻略をした時、内応した斎藤家重臣3名の内のひとり稲葉一鉄の孫娘です。

 

内応する時の人質にでも出したのでしょうか。それに信長が手を付けた訳ですね。

 

困ったものですが、子供の有無に関しては伝わっていません。

 

しかし、信長には母不詳の子供が男4名、女6名もいますのでひょっとすると誰かの母なのかもしれませんね。

 

羽柴秀勝の母(養観院)

秀勝は、永禄11年(1568年)の信長上洛の年に生まれ、四男『於継丸(おつぎまる)』と称されました。

 

信長がやっとの事で、稲葉山城をおとして美濃を手に入れたばかりの頃です。

 

どう考えてもこの女性は美濃国の関係者で、前述の稲葉一鉄の孫娘か、馬場殿のどちらかでしかないような気がします。

 

しかし、名流土岐一族につながる貴種の馬場殿を大事にして美濃勢に気を使う信長が、その間に出来た大事な息子を下賤の出の羽柴秀吉の処へ養子に出すでしょうか。

 

もし仮にどちらかだったとすると、ここはやはり、秀勝は稲葉一鉄の孫娘の生んだ子どもとするのが妥当のような気がします。

 

時期的に云ってもそれは嵌りそうな話です。

馬場殿(ばばどの)

実は、彼女が側室であったと言う確証はないようですが、可能性が濃厚な女性です。

 

彼女は、信長が手こずっていた道三の息子斎藤義龍(さいとう よしたつ)の娘(斎藤道三の孫娘)です。

 

まむしの斎藤道三(さいとう どうさん)の孫ですから、おそらく信長の最初の正室帰蝶(きちょうーまむしの娘)によく似た評判の美人だったと考えられます。

 

これには経緯が史料(永禄4年5月11日の義龍病死以降の記事)にあります、、、

 

其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。
(引用:『濃陽諸士伝記 齋藤氏由来の条 412頁 』国立国会図書館デジタルコレクション

 

信長は、難敵斎藤義龍が病死したことを受けて早速、まだ稲葉山城が敵城にもかかわらず、龍興に対して前領主斎藤義龍の遺児である娘をよこせと難くせをつけており、ここにはすでに重臣に渡りがついていることと、信長が評判の美形である馬場殿に執心なようすが感じられます。

 

”ふざけるな!”とばかり、義龍の継嗣斎藤龍興(さいとう たつおき)が怒り心頭に発しているようすが見て取れます。

 

これで話は途切れたと言われていますが、その後織田信長は、永禄10年(1567年)8月15日に稲葉山城を斉藤龍興を降伏させる形で落城させており、どう見てもその時馬場殿は信長の側室になったと考えられます。

 

後年、美濃武士に睨みの利く”岐阜殿”と言う”信長の妻”が存在していたことはよく知られていますので、この女性は生きながらえた正室の”帰蝶”であるとの説もありますが、おそらくこの時の『馬場殿』ではないかと考えられます

 

生駒殿(いこまどの)ー 信長五女 永姫(えいひめ)の母

普通『生駒殿』とは、信長最愛の妻と言われる『吉乃(きつのー本名:類ーるい)』の事を指しますが、この『生駒殿』はどうやら別人のようなのです。

 

前述しましたが、『吉乃』は3人目の子になる徳姫を永禄2年(1559年)に出産してから、産後の肥立ちが悪く、床に臥せった生活が続きます。

 

その後信長は永禄2年2月に上洛し、永禄3年(1560年)5月に一世一代の大勝負『桶狭間の戦い』を勝利に導くなど、多忙な毎日が続いており、生駒屋敷の『吉乃』のところへも足が遠のいていた様子です。

 

永禄6年(1563年)に小牧山城を落成させると、信長は正室扱いの『吉乃』に生駒屋敷(小折城)からの移転を求めます。

 

この時『吉乃』の兄の生駒八右衛門は、『吉乃』が簡単に動かせない病状であることを、小牧山城へ出向いて信長に謁見して説明したとあります。

 

つまり信長は、徳姫出産以来、床に就く『吉乃』をほとんど見舞いにも行っていない状況だったことがわかります。

 

この間4年近く、他の側室(坂氏など)もいる訳ですが、とりわけ『吉乃』を気に入っている信長にしてはおかしなことです。

 

これは私見ですが、その間、子は成したとは言え、信長の相手が出来ない妹を見て、生駒八右衛門が手を打って、縁者で吉乃(類)に似た少女を吉乃の代役に立てて、信長に世話したのではないでしょうか。だからこそ、吉乃の小牧城への移動が難しいとの相談を八右衛門は信長に直談判の及んだのでしょう。

 

以後、この代役『生駒殿』本人は直接歴史の表面には出て来ませんが、信長との間に出来た五女『永姫(えいひめ)』が、後年大身大名となった前田利家の家へ嫁ぐことによって、彼女は『永姫の母(生駒殿)』として歴史に記録を残すこととなりました。

 

信忠の乳母 - 三の丸殿(さんのまるどの)の母

信長家臣滝川一益の一族で、信長の嫡男信忠の乳母だったと言われています。

 

三の丸殿は信長が安土城へ移った天正4年(1576年)以降に生まれたもので、『本能寺の変』当時、4~5歳だったと考えられます。

 

安土城から安土の留守を預かる蒲生賢秀の差配で日野城へ避難し、秀吉の勝利後一旦日野城を退出しますが、後日また蒲生氏に身を寄せ、そのまま三の丸殿は蒲生氏郷の下で養育されました。

 

後年、伏見城へ隠居した太閤秀吉は、蒲生家からこの織田信長の遺児である姫を召し出して、側室として伏見城三の丸に囲い、以後彼女は『三の丸殿』と呼ばれることになります。

 

こうして、秀吉最後の華である”醍醐の花見”で秀吉の晩年を飾ることとなりました。

 

信忠の乳母であった母は、信長の後継争いで反秀吉側に付いた実家の滝川一族が破れて行く騒乱の最中、失意の中で死去したものと考えられます。

 

土方勝久(ひじかた かつひさ)の女(むすめ) - 九男信貞(のぶさだ)の母

土方勝久は信長の家来でしたが、永禄12年(1569年)10月、信長が次男信雄(のぶかつ)を北伊勢北畠氏へ養子に入れた折、補佐する付侍となり信雄の近臣となりました。

 

天正4年(1576年)11月25日の北畠一族粛清の折、活躍しその功で信長より領地を拝領したとされています。信長の死後、信雄の”三家老誅殺”にも加わったとされ、その後信雄⇒秀吉⇒家康と巧妙に渡り歩いています。

 

織田信長は、その娘を側室にして、9男信貞を得ています。行く末心配な出来の悪い次男信雄が北畠家へ養子に行くにあたり、この家臣から人質として娘を預かったのだろうと思われますが、たちまち”お手付き”になったのでしょう。

 

公家三条西家実枝(さねえだ)の女

朝廷の出来事を記載した史料『御湯殿上日記』の天正9年(1581年)3月6日の条に

 

・・・三条所のあこゝといふもの、信長に焦がれたるよしさたあり・・
(引用:”楠戸義昭 『風雲児信長と悲運の女たち』2002年 学研文庫”より)

 

とあり、朝廷の日誌として有名な『御湯殿上日記(おゆどのうえにっき)』に、公家の”あここ”と言う娘が信長に惚れたと記載があるようですが、この女性はおそらく朝廷側から信長への”献上品”なのでしょうね。

 

この時期には、朝廷(正親町帝)と信長の厳しい政治的駆け引き・綱引きが、翌天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変(明智光秀の乱)』まで続きますので、時期的には十分可能性のある話だと考えられます。

 

この姫君との間に子を成したかどうかわかりませんが、その翌年に信長が本能寺で横死していますので、一切不明となっています。

 

お駒 - 実は信長の最初の子である『乙殿(おつどの)』の母

信長にはすでに正室『帰蝶』がいた頃(天文18年以降)に、信長付きの侍女だった『中條(ちゅうじょうーお駒)』に手が付き、妊娠したお駒は信長の傅役の平手政秀(ひらて まさひで)により、信長配下にいた埴原常安(はいばら つねやす)の妻として『乙殿』を出産したと言います。

 

永禄10年(1567年)11月に信長より埴原常安に20貫文(この当時は200~300万円程度)の知行地が与えられていますが、これは時期から見ると『乙殿』の元服料かもしれません。

 

その後、常安は尾張在住の吏僚として活躍し、『本能寺の変』後は、次男信雄に仕え500貫文(この当時は5000~8000万円程度)を知行します。

 

しかし『乙殿』には成人後の記録もなく、早世した可能性があると思われます。

 

塙直政(ばん なおまさ)の妹(直子ーなおこ)

塙直正は、織田信長の直属の親衛隊(赤母衣衆ーあかほろしゅう)に属していました。

 

平手政秀によって『中條』が取り上げられたため、すぐに直子に手を出したと考えられ、直子は天文23年(1554年)5月5日に那古野城で男子(於勝丸ー信正)を生んでいます。

 

母の身分が低い事を理由に、後から吉乃の生まれた信忠が嫡男とされ、信正は”庶長子”と呼ばれ、後年32歳で出家して”見性軒(けんせいけん)”と称し、94歳までの長寿を全うしました。

 

直子も出家して”明鏡院智勝尼”となりましたが、その後の資料はないようです。

 

兄の塙直正は妹が側室になったこともあり、信長に引き立てられ、その後大活躍をして侍大将で方面軍司令官へと大出世を遂げましたが、天正4年(1576年)大坂の本願寺戦の最中、今の大阪難波三津寺筋辺りで討死しました。

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織田信長と側室吉乃(きつの)は、どこで知り合ったの?

前述していますが、吉乃の実家である生駒家屋敷(小折城)での事です。

 

おそらく、信長が生駒屋敷に勝手に出入りを始めたのは、馬に乗れるようになって遠出することが出来るようになってから、、、10歳くらいではないかと推察します。

 

昔から出入りする織田の若君信長のことは生駒の娘類(るいー吉乃)も見知っていたようです。

 

しかし、信長が類のことを意識するのは、夫の土田弥平治(どた やへいじ)が討死したことによって後家となり、実家である生駒屋敷に出戻っていた時だと言います。

 

近年、愛知県江南市で発見された”前野家文書『武功夜話』”によれば、、、

 

すなわち上総介信長様、美濃斎藤道三入道の御息女、御縁組以前に、郡邑生駒蔵人の女吉野女、上総介様の御手付きあり。この生駒の後家殿、土田弥平治討死候いてより、雲球屋敷に罷り候ところ、上総介様、雲球屋敷へ御遊行、目を懸けなされ殊のほか御執心の揚句、上総介様の御たねを宿し罷り候なり。
(引用:吉田蒼生雄全訳『前野家文書 武功夜話<一>吉法師様という信長公と成る事の条』1995年 新人物往来社)

 

とあります。

 

雲球屋敷と言うのは、生駒八右衛門の屋敷ー小折城のことです。この”前野家文書『武功夜話』”の伝えるところによると、生駒の親戚一統は、そもそも信長の織田弾正忠家とは敵対する尾張上四郡を支配する岩倉の織田信安の家来筋の者ばかりでした、

 

しかし、この岩倉の殿様は”武人の器に非ず日毎歌舞狂言酒色に明け暮れ、到底岩倉の城保ち無き有様なれば、手前共を始め近在の者何れも身の振り方に苦慮仕るところ”と言う状態で、一統はこの生駒屋敷で起こった吉乃のことで、一気に新進気鋭の若武者信長を担ぎ上げることに腹を固めたとあります。

 

そんな天下様以前の”尾張統一途上の織田信長”にとって大きな支持勢力として、この生駒の一族が吉乃のことを契機に加わったことが分かります。

 

そのため、信長の美濃との成婚の重要性を考え、吉乃の存在を美濃勢に隠すため、”吉乃を生駒屋敷から丹羽郡井上庄の井の上屋敷へうつし隠し置き候なり”と言う細工までしてくれます。

 

この時を境に、尾張上四郡の約半分ほどの地域を本拠地とする大勢力生駒の一統”川並衆(兵力約2000名)”が、織田信長の配下に入ったことになります。

 

生駒吉乃は織田信長の正室なの?

定説では、、、

 

織田信長の正室は生涯、美濃斎藤道三の息女『帰蝶(きちょう)』ひとりだったと言われています。

 

しかし、この奇蝶には子供が出来ず、また生来の”女好き”ですぐ女性に手を出す信長の気質から”側室”の人数はかなりの数に上ります(それでも戦国では少ない方だと言います)。

 

こんなことから、よく信長は”衆道(しゅどうーゲイ)”だとの話が出ますが、信長の美少年好きと言っても実際に”美貌”と確実に言えるのは、小姓の『万見仙千代重元(まんみ せんちよしげもと)』だけではないかと思います。

 

森蘭丸(乱丸)も武辺の家柄でいかつい体格をしていた可能性が高く、どうも前田犬千代(としいえ)と同じ作り話ではないでしょうか。

 

信長は自分自身がかなりの”イケメン”だったことから、身分と相まってかなりの”モテおとこ”だったので、やはり”女好き”だったと考えるのが妥当だと思います。

 

話を元に戻しますと、、、

 

正室帰蝶は美濃の名族から嫁に来たと言うプライドが高く、信長との夫婦仲は極めて冷めており、その反面女好きの信長は凝りもせず、あちらこちらの女性に手を出していましたが、正室帰蝶は”信長の女癖の悪さ”には口出しもしなかったと言われます。

 

そして、弘治2年(1556年)4月20日に、父道三が息子の義龍に殺されて以降は、父の肖像画を寺に寄贈したと言う記事から帰蝶の消息が途絶えます

 

夫婦仲が冷めているだけでは、あれだけ派手に活躍する織田信長の正室の消息が途絶えることはあり得ないことから、帰蝶の離縁説・死亡説が出ている訳です。

 

実際はどうでしょうか。。。

 

廿七日、乙亥、辰戌刻小雨灌、天晴、〇・・・、故一色義龍後家壺爲所持、可被出之由信長連連被申、一亂之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可爲自害、國衆大なる衆十七人、女子之男以上丗餘人可切腹由也、仍中分失佛に治定、今日無事成了、・・・
(引用:『言継卿記 第四巻30 永禄12年7月27日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

美濃制圧後に、信長が故斎藤義龍夫人に持っている名物の壺を献上しろと命じたところ、彼女が抵抗して”信長本妻兄弟女子十六可爲自害”とあり、あなたが攻め入った合戦で、失ったと言っているでしょう。無理強いするならあなたの妻兄弟が自害しますぞと脅したことが載っています。

 

これだけ、美濃衆・斎藤一族に睨みの利くのは、信長の正室帰蝶が生存している可能性があるのではないか?とされている記録です。

 

ところが、、、前述した『馬場殿』の記事に、、、

 

其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。
(引用:『濃陽諸士伝記 齋藤氏由来の条 412頁 』国立国会図書館デジタルコレクション

 

斎藤龍興(さいとう たつおき)が、”信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、その妻死後に遺し難し。況や妾などとは、緩怠過ぎたる申分。・・・”と激怒しながら、信長の正室”帰蝶”がすでになくなっていることを述べています

 

これによると、”壺”の話も同じ美濃衆斎藤一族に睨みの利く『馬場殿』が信長の妻(側室)に収まっているとすると、やはり『帰蝶』はすでに亡くなっていると見る方が筋が通るようです。

 

とすれば、『吉乃』が亡くなった後に、岐阜城の『馬場殿』を”本妻”と言っている以上、帰蝶が死去した後の”妻”であった小牧城の『吉乃』も『織田信長の正室ー本妻』と見て良いのではないでしょうか。

 

吉乃の死後、織田信長の愛妾はだれ?

『吉乃』の死後となると岐阜時代からとなるのかもしれませんが、前述の項目から考えると、、、

 

吉乃が病床に就いてから小牧城時代
  1. 坂氏の女(ばんしのむすめ)』   ー三男”信孝”の母
  2. 生駒殿(いこまどの)』      ー五女”永姫”の母

 

岐阜城から安土城
  1. 馬場殿(ばばどの)』       ー不明
  2. お鍋の方(おなべのかた)』    ー”信高”、”信吉”、”お振”の母
  3. 信孝(のぶたか)の乳母』     ー”三の丸殿”の母
  4. 養観院(ようかんいん)』     ー”羽柴秀勝”の母
  5. 土方勝久(ひじかた かつひさ)の女』ー九男”信貞”の母
  6. 稲葉貞通(いなば さだみち)の女』 ー不明

大体こうなりそうです。

 

不良少年のようだった頃の若き織田信長には彼女はいたの?

信長の少年時代は、”大うつけ者”と言う当時の世評の割に、父を尊敬し言いつけを良く守り武芸に励む”良い息子”の記事が多く、どうもよく分かりません。

 

実際、父信秀は”教育パパ”だったようで、評判の学者、兵法者を遠方より呼び寄せ、良馬を買い求めて日々の鍛錬を信長に求め、信長は英才教育を施されて行きました

 

そんな中、実学教育の場として、母方の尾張上四郡にある”生駒屋敷”への出入りを勧めていたのではないでしょうか。

 

信長の”かぶき者スタイル”は、実戦の合戦スタイルとも言え、諸国の河原者(ホームレス)が集まる”梁山泊”のような”生駒屋敷”への装束としては最適だったようです。

 

『前野家文書ー武功夜話』では、信長が小姓ら親衛隊を引き連れて”若様スタイル”で生駒屋敷に現れてような記述になっていますが、それは最初はあり得ない話で、後年の信長の話を前野一族子孫としての格好付けに使ったに過ぎないと考えます。

 

この当時の乱世の最前線である生駒屋敷(小折城―砦ですね)で”若殿スタイル”はないのではないでしょうか。薄汚い格好で出入りしていた以外考えられません。そのままの格好でお城の若殿様が町へ戻って来るから”かぶき者”などと言われたのでしょう。

 

さて、本題ですが、、、

 

そんな真面目少年”吉法師(きっぽうしー信長)”も、取り巻きの悪童たちの雰囲気に押されて、城の侍女に手を付けます。これが、前述した『お駒(おこま)』です

 

いつ頃の事でしょうか?まだこの後始末にジイの”平手政秀(ひらて まさひで)が活躍していますし、そもそも侍女が付いていたのですから那古野城(なごやじょう)へ移り”初陣”前後くらいでしょうか。

 

とすると、14~15歳くらいですね。当時としては普通だったのかもしれませんね。

 

ホンモノの”ワル”ではないですから、今のように手あたり次第に”ナンパ”して女の子を泣かせて回ると言う事はなかったのではないでしょうか。

 

まとめ

戦国の天下取り(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の内、秀吉、家康に比べて信長の女性関係は、正室の『濃姫(帰蝶)』以外にあまり話題に上っていませんでした。

 

ところが、歴史作家の津本陽氏の『下天は夢か』が1986年12月から日本経済新聞に連載されて、織田信長の女性関係が一気に有名になりました。

 

これは、1959年の”伊勢湾台風”で、愛知県江南市の旧家吉田家の土蔵が崩れたことにより、吉田家に伝わる古文書『武功夜話(ぶこうやわ)』が世に出たことから触発されて始まったようです。

 

織田信長を取り巻く女性たちを、世の中の一般人に見える形で出したのが、津本氏の小説なのでした。

 

私も当時日経新聞に連載される織田信長の姿が、通説で認識していたものと相当違い、知らない女性たちが次々登場するのを驚きの目で読んだ覚えがあります。

 

ともあれ、ベールに閉ざされていた謹厳実直・冷血漢であると通説で考えられていた、天下人織田信長を支えた女性たちが現れました。

 

気位の高い妻”帰蝶”とは冷えた関係で、美少年好きで”衆道に血道を上げる戦国武将の典型”と考えていた”織田信長像”が大きく変わりました。なんと織田信長の子供は、判明しているだけで13人の息子と10人の姫もいると言うではありませんか。

 

そして、その中で母の名前が判明していない織田信長の子供たちは10名ほどもいるのです。

 

本当に子供がいないとわかっているのは、正室の『濃姫(奇蝶)』だけです。記事に記述した側室たちだけでも2人は子供に関する事がわかっていません。

 

信長の家族に”不明”が多いのは、やはり信長本人が天正10年(1582年)6月2日に嫡子信忠とともに暗殺されてしまい、その織田家の大混乱に乗じて、配下の武士階級の出身ではなかった豊臣秀吉と言う人物に政権を乗っ取られてしまい、一気に織田政権が崩壊したことが織田家の家族崩壊に拍車をかけたようです。

 

武家は合戦に負けて当主が討死すると、その一家の子女は離散するのが運命(さだめ)のようです

 

 

10代の頃信長は、、、

 

『かぶき者』などと言われ、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信秀の二枚目の跡取り息子とあっては、街場での若い女子の評判はそのカッコよさでかなり高かったのではないかと思います。

 

しかし、街場の娘出身の側室は一人もいません。武家が街場の女性など相手にしないと思うかもしれませんが、この信長の祖父は町衆を押える為に、町の有力者のところへ自分の娘を嫁に出しています。

 

今思うほど、当時の武家と町衆の垣根は高くなかったと考えられます。この身分制度の垣根を分厚くしたのは徳川家康が作った江戸時代です。

 

つまり、これだけモテ男の信長であれば、生駒屋敷のようなことが、織田弾正忠家支配下の津島でも熱田でもあっておかしくないのですが、記録にないのです。

 

信長は、世間から『大うつけ者』などと呼ばれる若年者だったにも拘わらず、実際はかなり倫理観のしっかりしたまともな若武者であったことが分かります。

 

おそらく、最初の妻、正室帰蝶に対する思いはかなりのものであったのではないでしょうか。

 

そして、織田信長の人生において、正室・御台所とまわりから呼ばれた女性は、、、

 

  1. 帰蝶(きちょう)    -那古野城・清須城
  2. 吉乃(きつの)     -小牧山城
  3. 馬場殿(ばばどの)   -岐阜城
  4. お鍋の方(おなべのかた)ー安土城

 

だったのではないかと考えられます。

 

間違いないことは、正室・側室ともに当時評判の絶世の美女ばかりであったことです。

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参考文献

〇楠戸義昭 『風雲児信長と悲運の女たち』(2002年 学研文庫)

〇新人物往来社編 『信長をめぐる七人の女』(1991年 新人物往来社)

〇阿部一彦 『「武功夜話」で読む 信長・秀吉ものがたり』(2013年 風媒社)

『美濃國諸舊記 巻の二 土岐頼藝松波庄五郎を立つる事 41頁』国立国会図書館デジタルコレクション

『言継卿記 第四巻30 永禄12年7月27日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

〇吉田蒼生雄全訳 『前野家文書ー武功夜話』(1995年 新人物往来社)

〇谷口克広 『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年 吉川弘文館)

 

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