西郷隆盛が、なぜか寛大だった戊辰戦争『庄内藩処分』の謎?

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幕命とは言え、『江戸薩摩藩邸焼き打ち』を実行した荘内(庄内)藩に対して、征討軍総司令官である西郷隆盛の処置はなぜ寛大だったのかがわかります。

 

新政府初代兵部大輔(国防大臣)であった長州の大村益次郎は、なぜ暗殺されたのかを明らかにします。

 

なぜ、東北の荘内(庄内)酒田に西郷隆盛を顕彰する『南洲神社』がなぜあるのかがわかります。

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荘内藩は、幕末に『江戸薩摩藩邸焼討ち』を行なった?

官軍(薩長軍)と荘内(庄内)藩は、後から思えば双方の関係は不幸な始まり方でした。

 

最初は、元治元年(1864年)7月に長州が引き起こした『禁門の変(きんもんのへん)』の後始末で、御所に発砲して朝敵となった長州藩の江戸中屋敷の接収でした。

 

当時、京都の『新撰組』に対応して、江戸の治安維持にあたる『新徴組(しんちょうぐみ)』総裁でもあり、江戸市中警備を任とする荘内藩家老松平権十郎(まつだいら ごんじゅうろう)が、老中水野忠清(みずの ただきよ)から命ぜられたものです。

 

 

7月26日の早朝、松平権十郎以下180余名の荘内(庄内)藩士に、川越藩・郡上藩・三根山藩の藩士に加わり、松平権十郎を補佐して後に荘内(庄内)藩のキーマンとなる荘内(庄内)藩士菅実秀(すげ さねひで)、中村次郎兵衛(なかむら じろべえ)らが邸内に入り、退去勧告をしました。

 

 

そして問題の出来事は、慶応3年(1867年)12月25日の早朝、江戸薩摩藩邸に荘内藩家老石原倉右衛門(いしはら くらえもん)指揮の下、荘内(庄内)藩500名、上山藩300名、鯖江藩100名、岩槻藩50名にて薩摩藩邸を包囲し、賊徒引き渡し交渉決裂により、幕府軍事顧問仏国ブリューネル砲兵大尉の指揮によって砲撃し討ち入りました。

 

 

この結末は、幕府軍側11名、薩摩藩邸側64名の死者を出し、逮捕者112名を数える大事件となりました。

 

 

しかし、幕命による治安維持活動の一環であり、複数の藩と共同で任務に当っているだけだったことから、荘内(庄内)藩の犯罪とは云い難く、『鳥羽・伏見の戦い』にも参戦していないため、実は、翌慶応4年(1868年)1月10日に薩長新政府が公表した朝敵名簿』にも、当初荘内(庄内)藩は載っていなかったのです。


(画像引用:フェリーチェベアト撮影の戊辰戦争の薩摩藩士像

『戊辰戦争』における官軍と朝敵荘内藩との戦いとは?

薩長と幕府軍が鳥羽伏見で衝突してから4ヶ月目に入って薩長新政府軍は、秋田藩・津軽藩にも荘内藩討伐を命じ、4月14日に討伐隊は兵300名で仙台を出発しました。

 

 

討伐隊の作戦参謀は薩摩の大山格之助(おおやま かくのすけ)で、仙台兵100余名も同行します。新政府軍は天童城下に入り、さらに進めて新庄城を拠点に荘内国境に迫ります。

 

4月23日夜、新政府軍は荘内領清川口に進撃し、腹巻山から荘内軍に奇襲攻撃を掛けました。

 

 

新政府軍の動きを事前に察知していた荘内軍は、待ち構えて応戦します。最初は新政府軍優勢でしたが、白兵戦になった夕方には新庄へ追い返します。

 

そしてこの時、会津から”会荘軍事同盟”を結びに使者が来ており、26日にその話をまとめに会津へ出向いた菅実秀らは、会津若松城で会津藩主松平容保公らのほか、同盟の打合せに来ていた仙台藩、米沢藩の要人とも懇談しました。

 

これで、4月11日に仙台と二本松の真ん中にある”白石城”に仙台藩の呼びかけで、奥羽23藩が集合して成立した『奥羽列藩同盟』の諸藩が連合して薩長新政府軍へ当たる雰囲気が醸成されていることを実感し意を強くして帰国しました。

 

また、荘内には”酒田”があり、東北随一の商業港として古来蝦夷(えぞ)からの北前船の中継地として殷賑(いんしん)を極めていました

 

そのため、日本中に知られた豪商”本間家”があり、この度の戊辰の戦いも本間家から軍資金10万両が提供され、荘内藩は新式銃によって奥羽越随一の装備で近代化された軍隊となっていました

 

 

そしてついに5月1日に、会津・仙台を中心とした列藩同盟軍が3000名が、薩長軍700名を迎え撃ちます。

 

 

ところが、薩長軍の勝る火力の差のせいなのか、或は兵力に勝る列藩同盟軍の油断からか、はたまた会津藩が白河口総督に当時既に実戦に暗い人物となっていた家老西郷頼母(さいごう たのも)を起用したことからか、主力の会津藩が白河口で大敗してしまいます。

 

 

加えて、藩論がまとまらないまま戦争に突入した仙台藩は、本当はとても薩長新政府軍と戦える状況になかったと考えられ、実は『奥羽越列藩同盟』はスタートの時点から無理筋だったと言えそうです。

 

 

結果、秋田藩を始めボロボロと同盟軍から離反して行くなど、会津・荘内は最初の見通しとは大違いで、回りに味方がいない孤独な戦いを強いられることとなりました。

 

 

奥羽同盟を結んで、最後の一兵になるまで戦い抜くと誓い合った会津藩がとうとう9月22日降伏、鶴ヶ城開城となりました。

 

 

残った僅かの藩も順次落城となる中、士気・軍備とも官軍を勝っているとして、荘内藩は全員城を枕に討死の覚悟で、まだ降伏の気配すら見せませんでした。

 

 

しかし、もう既に降伏している会津と、荘内と親しい米沢藩の家老千坂太郎左衛門(ちさか たろうざえもん)の”時勢はすでに徳川に味方をしていない”と言う理を尽くした説得と、西郷隆盛が現地入りしたこともあり、荘内も9月25日には征討軍への降伏・帰順を受け入れました。

『戊辰戦争』後の荘内藩にたいする処分とは?

明治元年(1868年)9月27日に、北越出征軍の総指揮官として、荘内入りした西郷隆盛は、帰順した荘内藩からの城受領を部下の黒田清隆に任せ、自分は全く荘内藩士の前には出ませんでした

 

 

また、その『叛逆首謀者』に関しても、荘内藩の申告通り既に戦死していた家老の石原倉右衛門で良しとする黒田清隆の判断に西郷は異議を唱えませんでした

 

 

荘内藩の処分に関しても、西郷はもう戦が決して帰順しているのだから荘内は旧領地にそのまま安堵させようと官軍(総督府)の中で主張したところ、長州の大村益次郎(おおむら ますじろう)が強硬に反対をしたようです。

 

当時臨席していた土佐藩士佐々木高行(ささき たかゆき)によると、「公明正大な西郷と、陰有り後ろ暗き人の多き長州人」と表現しています。

 

 

やたら敵方責任者を処刑にしたがる人間が多い長州人は、文久年間の京都での”狂気の暗殺行動”そのままに、まるで異民族に対するように敵対者を殺すことが当然と考えているフシがあり、ここに戦闘員が武士階級が多い薩摩と農民階級が多い長州との落差が垣間見えるところです。

 

 

最終的に、明治元年末に新政府から下された”荘内処分”は、会津戦争で焦土と化した”会津への移封”で、長州大村益次郎の意向を強く反映したものになりました。

 

 

 

荘内藩の老公酒井忠発(さかい ただあき)は、重臣の菅実秀(すげ さねひで)を呼び、とても呑めない新政府の”移封命令”の撤回工作の命を下します。同時に、酒田の豪商本間家も動き出します

 

 

荘内藩には、過去にも天保12年(1841年)に一揆による”転封命令”を撤回させた事例がありました。この時も酒田の豪商本間家が裏で動き活躍しています。

 

 

今回は、相手が幕府から朝廷に替わっただけだったと言えそうです。前回と同様に”移封”は荘内藩酒井家ばかりではなく、酒田の豪商本間家の存立をも危うくする大事件なのです。

 

 

菅実秀の嘆願活動は、頼みの西郷は新政府内で揉めて鹿児島へ引きこもってしまっており、新政府の役人からは相手にされずで困難を極めました。

 

 

菅の活動資金(新政府要路への賄賂)は本間家が3万両ほど用意し、本間家は京都の本願寺経由で新政府の要人公卿三条実美(さんじょうさねとみ)、岩倉具視(いわくら ともみ)へも働きかけました。

 

 

そうした中、明治2年(1869年)6月になって荘内藩に対して新政府から、会津へではなくて磐城平(いわきだいら)へ8月までに”移封”を完了せよとの命が下ります。

 

やむなく、先発隊が磐城平へ赴いたところ7月22日になって突然、太政官名で「荘内復帰」の沙汰が下ります。しかし、荘内藩の一年分の歳費に相当する金70万両の献金が付帯事項として付いていました。

 

 

本間家の裏工作が功を奏したものの、その決定に面白くない長州の大村益次郎が移封を取りやめる代わりに70万両の献金を言い出したものでした。

 

 

ところが9月に入って、大村益次郎は同じ長州藩士にではありますが、刺客に襲われて負傷し11月にその傷がもとで死去します。果たして本間家の力はどれほどのものだったのでしょうか?

 

 

後に、西郷の盟友大久保利通(おおくぼ としみち)の子分となっていた明治の元勲大隈重信(おおくま しげのぶ)によると、”あの話(移封中止)は、自分と菅が話し合って決めたもので、荘内藩は(献金の話を)承知だけすれば良い、あとは払えなければ払わなければよいではないかと言ったが、結局そのお金は半分くらいしか払われなかった”とまるで西郷のような感じで語っています。

 

 

果たして、長州の大村益次郎は誰の命令で暗殺されたのでしょうか?西郷はもともと荘内藩の旧領地はそのまま安堵せよと言っていた訳ですから、大久保もその意向に沿った決定をしたのでしょう。

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戊辰後の薩摩藩と荘内藩の関係は?

西郷隆盛を顕彰し祀る”南洲神社”は全国に4ヶ所ありますが、そのひとつは庄内地方にあります。

 

荘内藩降伏・恭順のあと、城の受け取りに来た新政府軍黒田清隆の恩情に満ちた決定に感激した荘内藩士は、明治2年(1869年)に菅実秀が代表で東京にいる黒田清隆の下へ御礼に行きます。

 

そこで、すべては当時司令官であった”西郷隆盛”の指示に基づいて下されたものであることがわかり、荘内藩の面々は”大西郷の存在”を知ることになります

 

 

そして、今後の藩の指導を託するのは西郷をおいてほかにはいないとの藩議までするに至ります。

 

 

このように一気に西郷隆盛と言う人物に傾注した荘内藩は、翌明治3年(1870年)、中殿様の酒井忠篤(さかい ただずみ)自ら西郷の教えを受けるとして兵学修行のため、藩士70余名ほど引き連れて薩摩へ留学するところまで行きます。

 

 

殿様の忠篤も、一書生として西郷に師事し、一兵卒として桐野利秋(きりの としあき)、篠原國幹(しのはら くにもと)ら大隊長の指揮によって鉄砲を担ぎ、軍服を着て調練に励んだとあります。

 

 

そんな真摯な姿と、藩士と寝食を共にする姿を西郷は認め、後日新政府のドイツ兵学研究の一員にこの殿様忠篤を加えたと言われています。

 

 

その後も薩摩と荘内の交流は続き、西郷が「明治六年政変」で下野したあと鹿児島に設立した私学校へも荘内藩の子弟を私学校へ入学させ、明治10年の『西南戦争』では、進んで従軍し戦没しています。

 

 

重臣の菅実秀も鹿児島を訪れ、西郷と親しく接し寝食を共にして西郷に深く傾倒していくことになります。

 

 

現在でも、昭和44年(1969年)に鹿児島市と鶴岡市は『兄弟都市の盟約』を締結しており、市民レベルでの相互交流を盛んに催しており、5年ごとに盟約記念式典を実施するなど、濃厚な交流を続けています

 

 

西郷隆盛の遺徳をしのぶ心がここまで引き続いているのも、この『戊辰戦争終結』当時の荘内藩士の”西郷隆盛”に対する気持ちがどれほどのものであったのか想像されるところです。

実は、薩摩の近代化の功労者は荘内人だった?西郷も教え子のひとり?

この人の名前は、幕末の洋学者で、本間郡兵衛(ほんま ぐんべえ)と言います。

 

酒田の本間家の分家の出身で、江戸に出て蘭学を学び、あの有名な絵師である葛飾北斎にも師事して、「北曜(ほくよう)」と号しました。

 

勝海舟ジョン万次郎福沢諭吉福地源一郎らとも知り合いで、勝塾の蘭学講師をしていたこともありました。

 

江戸ばかりではなく、長崎にも出入りしており、幕府の”遣欧使”に随行もしてヨーロッパへも出かけました。

 

そうした中、薩摩藩の進歩的家老小松帯刀が元治元年(1864年)開校した藩の洋学校の”開成所”の英語教師を長崎でグラバーに推薦を頼んだところ、宣教師のフルベッキなどの推薦もあり、この本間郡兵衛が薩摩へ行くことになりました。

 

 

ここで郡兵衛は、「薩州商社草案」を起草し、日本で一番早く”株式会社”を提案しています。

 

また、薩摩藩は、慶応元年(1866年)に、イギリスへ4名の使節団と15名の留学生を送り込んでいますが、人選はこの開成所出身者を選んでいます

 

 

この人材派遣は、イギリスとの深まる交流の大きな力となって行きますので、本間郡兵衛は薩摩の若手群像に英語教育を与えた人物として、薩摩の近代化に大きく貢献することとなりました。

 

 

こうした前段があったので、西郷隆盛は『戊辰戦争』の折、荘内に攻め入る軍の司令官黒田清隆に対して、

 

 

「黒田君、羽州荘内とくに酒田湊は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」
(引用:佐高信『西郷隆盛伝説』角川文庫より)

 

 

と言わしめたと考えられます。

 

西郷隆盛が示し、長州大村益次郎がいきり立った”荘内処分”の理由は、こうした事が背景にあったと思われます。

 

しかし、当の郡兵衛は、荘内藩が降伏する2ヶ月ほど前に、仇敵薩摩のスパイとして疑われ監禁されたまま、荘内藩によって毒殺されています。

 

 

これが、荘内の未来に大きな禍根を残した可能性は否定出来ないでしょう。

有名な『西郷南洲遺訓』をまとめ、後世に残したのは元荘内藩士たち

西郷隆盛の話と云えば、鹿児島かとすぐに思いますが、この有名な『西郷南洲遺訓』を残したのは、なんと荘内藩士たちだったんですね。

 

明治3年(1870年)11月、荘内藩中殿様酒井忠篤(さかい ただずみ)は、前述のとおり藩士70余名を引き連れて鹿児島を訪れ、100日余りも鹿児島に滞在し、西郷ら薩摩藩士に教練を乞い、西郷らと寝食を共にするような付き合いを繰り広げたのです。

 

この『西郷南洲遺訓』は、この時、藩主とともに100日余りも西郷と過ごした菅実秀三矢藤太郎石川静正らが荘内に帰国してから、西郷の言行をまとめたものでした。

 

最初は、筆写されて広まり、『西南戦争』後、西郷が逆賊となってしまったため、赦免された明治23年にやっと印刷刊行されました。

 

 

それでも、まだ荘内だけにとどまり、全国に広まるのは、明治27年に佐賀県人片淵琢が『西郷南洲先生遺訓』を出版してからになります。

 

内容は、前述したように、西郷の身辺に100日余りもいた荘内藩士たちが西郷の言行を記録していたもので、”聞き書き”されたものです。

まとめ

薩長の目指していた倒幕は、徳川幕府を倒すことを目標にしていたものでした。

 

事実、西郷の戦いは慶応4年(1868年明治元年)の4月11日に江戸城無血開城した日に終わったはずでした。

 

しかし、旧幕府軍の残党が会津を目指して終結していく動きが出始め、鳥羽伏見の緒戦を戦った会津軍がまだ健在のまま国許に戻る中、反新政府武装勢力として大きく立ちはだかる可能性もありました。

 

討幕を達成した新政府として、その後の戦いは不要のものだったと言う論議も多々ある中で、慶応3年夏から慶応3年10月14日の『大政奉還』を経て、12月25日の『江戸薩摩屋敷焼討ち』まで西郷の中にあった『武力討伐』への思いは薄れて行ったような気がします。

 

 

つまり、会津討伐の必要性については、西郷を中心とした東征軍総督府の決定となって実行されます。

 

異説では、成立したばかりの新政府軍は寄せ集めで、共通の敵としての『幕府』が滅びた後、その軍の統制を維持するために、共通の敵として『会津藩と荘内藩』を血祭りに上げる対象としたのが、”奥羽討伐の理由”だと言われています。

 

しかし、西郷にとって討幕はすでに達成されており、ダメ押しも程度ものと言うところ、とことんやる長州の過激な意見に押された結果でしょうか。

 

 

長州は生真面目な会津藩に京都で散々やられた腹いせ・仕返しとしか思えない会津攻撃に執念を燃やします

 

 

逆に西郷は、討幕戦争でやり過ぎた武力行使に反省しつつ、深く自省の心理状態に入って行き、後世の”人格者西郷隆盛”を形作るような印象を与えて行くことになったのではないでしょうか。

 

 

江戸開城以後の征討軍・官軍の戦果は長州の大村益次郎の指導によるものと言えそうです。

 

 

そんなタイミングでの西郷の”荘内攻め”だった訳ですから、以前薩摩藩が非常に世話になった本間郡兵衛先生の生誕地の酒田(荘内藩)を力押しの武力制圧するつもりは、西郷にはさらさらなかったのではないかと思われます。

 

 

そこでひとつ問題は、この西郷隆盛が引き起こした『西南戦争』に、荘内から応援軍は派遣されませんでした。そしてついでに言えば、あの西郷隆盛最大の理解者と言えそうな勝海舟も、全力を挙げて旧幕臣の西南戦争参戦を阻止しました。

 

 

荘内藩は”荘内の西郷”とまで言われる菅実秀が、西郷救援の声が藩内で声高に上がる中にあって、全力を挙げてこの動きを阻止し、前述のとおり旧幕臣は勝海舟が止めました。

 

 

菅と勝に共通することは、西郷隆盛の人物に心酔していたことです。

 

 

西郷にすれば、”自分に対する「義」より、生き残って新日本の発展に尽くす人材になってほしい!無駄死にはするな!”と言う西郷の思いを菅と勝は理解していたということでもありそうです。

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参考文献

〇佐高信 『西郷隆盛伝説』(2010年 角川文庫)

 

〇星亮一 『奥羽越列藩同盟』(2009年 中公新書)

 

〇佐々木克 『戊辰戦争』(2011年 中公新書)

 

〇奈良本辰也 『西郷隆盛語録』(2010年 角川ソフィア文庫)
高野澄

〇西田実 『大西郷の逸話』(2013年 南方新社)

 

〇星亮一 『戊辰の内乱』(2006年 三修社)

 

 

 

 

 

 

 

 

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