執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
大御所『徳川家康』は『影武者』だった!いつスリ替わったの?
スポンサーリンク
江戸幕府を開き、徳川260年の基礎を築いた『大御所・徳川家康』の数々ある『影武者話』を解説します。
どうしてこんなに『家康の影武者説』が出てくるのかその理由を明らかにします。
家康のなぞの行動が”影武者へのすり替わり”と考えるとほとんど解けます。
目次
『徳川家康の影武者説』はあるの?ないの?いくつあるの?
『徳川家康の墓』の話と連動しますので、大まかに『影武者説』は3つあります。
すり替わった時期別に:
- 永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦』の後、岡崎城に戻って以降暗殺
- 慶長5年(1600年)9月15日の『関ケ原の戦』の戦闘初めに暗殺
- 慶長20年(1615年)5月7日の『大坂夏の陣』の戦闘中に討死
と分類されます。
1.に関しては、家康期の朱子学派儒学者”林羅山(はやし らざん)”の残したと言われる『駿府政事録(すんぷせいじろく)』にある記述から始まっています。
林羅山(道春ーどうしゅん)は、慶長19年の『方広寺鍾銘事件(ほうこうじ しょうめいじけん)』の立役者で、豊臣家が改修した京都方広寺の梵鐘の銘文に「国家安康」の文字を見つけ、これが徳川家康を呪詛したものであると言いがかりをつけて、豊臣家を滅亡へ導いた人物です。
また、家康の知恵袋とも言えるお伽衆のような立場の人物で、家康から始まる徳川将軍四代に仕え、学問所の”昌平校(現東大)”を始め徳川幕府の基礎を作った人物のひとりでもあります。
その『駿府政事録』の記述とは、「家康が供回り衆との雑談の中で、自分は幼少の頃、又右衛門(またえもん)某と云うものに銭五百貫で売り飛ばされたことがあり、9歳から19歳くらいまで駿府で暮らしていたと話した。」と云う衝撃的なものでした。
これが基になって「徳川家康別人説」が生まれ、その説を最初に世に出したのが、明治35年(1902年)に発行された村岡素一郎氏の著書『史疑 徳川家康事蹟(しぎ とくがわいえやすじせき)』です。
この村岡説に触発されて、「スリ替わり影武者説」が種々展開して行きます。
2.に関しては、幕末に編纂された徳川家正史である『徳川実紀(とくがわ じっき)』にある記述から始まります。
『徳川実紀』は徳川家康から第10代将軍家治までの日々の出来事を日付順に記載した本編と逸話をまとめた附録からなっています。
この中の『関ケ原の戦』の項に、”霧の立ち込める中、家康の本陣に使い番の野々村四郎右衛門(ののむら しろうえもん)某の馬が家康の馬にぶつかり、家康が腹をたてて太刀を抜いて野々村に切りかかった”との記述があり、この関ケ原の戦の始まりの大事な時に、”家康が乱心した”と書かれています。
これについて、『関ケ原の戦』の準備は万端滞りなく整っており、大将家康がこの大事な時に若手の使い番が馬の扱いを間違えたくらいで太刀を抜いて大立ち回りをするのは、家康の性格から考えてあり得ないとの解釈から出ています。
つまり、”この時、使い番に扮した刺客が家康を殺害し、家康に脇に控えていた『影武者家康』がとっさに太刀を振るってその刺客に切りかかった。”というのが真相だろうと言うのです。
この『徳川実紀』の記述は、村岡説に触発されて家康の殺害の手がかりを探していた研究者たちの目に止まった疑問の一文だったようです。
3.に関しては、戦国大名三好長慶(みよし ながよし)に菩提寺で、大阪府堺市にある『南宗寺(なんしゅうじ)』に”徳川家康の死を想起させる板額”が存在し、それに基づいて昭和42年(1967年)に元水戸藩家老の子孫である三木啓次郎氏が発起人となり、パナソニックの創業者松下幸之助氏らが賛同して建立した徳川家康の墓があります。
この説に関しては、”都市伝説”に近いモノがありますが、家康が埋葬されたという『開山堂(かいざんどう)』の跡地に幕末の幕臣山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)の筆になる”この無名塔を家康の墓と認める”との碑文があり、開山堂近くの”坐雲亭内の板額”に元和9年(1623年)7月10日に徳川秀忠が、8月18日に徳川家光が訪れたとの記録が残っています。
こうした事から、徳川家康は慶長20年(1615年)5月7日の『大坂夏の陣』で討死していたと言う説が生まれました。
以下、詳しく見て行きましょう。
(画像引用:Yahoo画像 徳川家康像)
『桶狭間の戦』以後に家康は影武者にすり替わった?
前述のように、江戸時代の徳川家の呪縛が解けた明治時代になってから、やっと『神格化されていた徳川家康』に対する論評や批判も書けるようになりました。
江戸時代初期から世に出ていた種々の文書の中に、意外に記載されている『徳川家康』に関する疑問点が改めて洗い出されることになり、その最初が明治35年(1902年)に出版された村岡素一郎氏の『史疑 徳川家康事蹟』でした。
ここでは、林羅山の『駿府政事録』にある身内の気を許した雰囲気の中での不用意な家康の話から、従来公けになっている今川家に人質として云々の『家康の人質話』とは全く内容がちがう”駿府滞在理由”が家康自身から開陳されました。
ここから『ホンモノの家康=竹千代=松平蔵人元康(まつだいら くろうどもとやす)』ではない、『ニセモノ家康=世良田二郎三郎元信(せらた じろうさぶろうもとのぶ)』が出現します。
村岡説によると、松平蔵人元康が岡崎城主になった永禄3年(1560年)から信長と『清州同盟』を結ぶ永禄4年(1561年)の間に、”すり替わり事件”は起こったとされます。
駿府で売られた”ニセ家康”は長じて『願人坊主(がんにんぼうず)』となって諸国放浪していた世良田二郎三郎元信は、野武士の頭目となり、『桶狭間の戦』の混乱の中、井伊氏が守る浜松城を仲間とともに奪取し、駿府へ攻め上がる織田軍と合流する腹積もりでした。
しかし、そのまま駿府まで攻め上ると思われた織田信長が、そのまま清州へ帰ってしまったので、仕方なく今川系の支城を攻めて回りますが、岡崎松平勢は強く、結局降伏して松平元康の手勢となります。
律儀な松平蔵人元康は”『桶狭間の戦』で太守今川義元討死後”も今川家と手を切らずに織田勢と戦い続け、永禄4年(1561年)12月5日に1万の軍勢で織田信長を討つべく織田領へ攻め入ります。
ところが、尾張の守山へ来たところで、重臣阿部大蔵定吉(あべ おおくらさだよし)の子息弥七郎(やしちろう)の勘違いによって、元康は陣中で後ろから斬られてしまい絶命します。
直後に元康の死をひた隠して、急遽岡崎へ引き返した松平軍は、途中割愛しますが、松平家重臣の了解のもと”世良田二郎三郎元信を松平元康の影武者”としてすり替えさせます。
この後起こる『松平信康事件』は、ニセ家康となった世良田二郎三郎元信による”ホンモノの元康を知る正室築山殿と嫡男信康の口封じ”だったとするものです。
この守山での奸臣による暗殺事件(通称”守山崩れ”)は、天文4年(1536年)2月4日に祖父松平清康(まつだいら きよやす)の身の上に起こった事と通説で言われているのと、全く同じような内容の事件なのですが、本当はこの永禄4年に起こった事件が真実で、後に26年前の事件に編集しなおして記載したものだと村岡氏は主張しています。
この説には、歴史作家八切止夫(やぎり とめお)氏も支持していますが、村岡氏が偽書の疑いが濃い『三河後風土記』を引用史料として使っているため、細部に間違いがあると指摘しています。
『関ケ原の戦』の直前に家康は影武者にすり替わった?
天正5年(1600年)9月15日未明より、天下分け目の『関ケ原の戦』が始まります。
上杉征伐を決めて関東まで進軍する徳川家康に釣り出されるように、近江佐和山城で蟄居していた石田三成(いしだ みつなり)が毛利輝元(もうり てるもと)を総大将に挙兵します。
黒田長政(くろだ ながまさ)による西軍毛利勢の調略を事前に完了させていた家康は、ほぼ『関ケ原の戦』を勝利する目算で臨みました。
嫡男徳川秀忠(とくがわ ひでただ)に任せた35000の軍が延着する以外はほぼ計画通りに事前準備を終えていたので、当日の朝霧が立ち込める中、余裕をもって着陣しようとしていました。
そこへ、使い番の若手の武士が馬の操作を誤って家康の馬にぶつけて来ます。
腹を立てた家康は、太刀を抜き放ってその使い番の武士野村四郎右衛門(のむら しろうえもん)に切りつけます。
この出来事を徳川家正史『徳川実紀(とくがわ じっき)』では、「大御所が一時の英気を発しただけ」と記載しています。
しかし、この冷静な『狸オヤジ家康』が、”乱心”と言われるほど怒り狂った出来事を、わざわざ記録に残した本当の理由は、実はこれが刺客による『家康暗殺』だったのではないかと言われています。
つまり、”使い番に扮した刺客(忍び)が家康を刺殺し、それに気が付いた家康の影武者(世良田二郎三郎)が刺客へ切りつけた。”と言うのがこの騒ぎの真相だというのです。
其の他徳川家正史『徳川実紀』には、”大谷吉継の勧めで、三成が家康暗殺を企てた話”、また”島左近”も家康の宿舎に夜襲を掛ける話を企てたなど色々あり、西軍も家康の調略作戦をある程度予想をし、”家康暗殺”にて対抗しようとしていたようです。
小説家”隆慶一郎氏”は著書『影武者 徳川家康』の中で、西軍石田三成の重臣で知将の『島左近(しま さこん)』が旧武田の忍びを使って家康暗殺をしてのけた後、影武者”世良田二郎三郎”が家康になり替わって徳川家を引っ張っていく様を描いています。
後の徳川秀忠とニセ家康の長く続く暗闘の記述は、まことにリアリティがあり、通説にみるはっきりしない性格の秀忠とは、全く違った秀忠の本当の正体が強烈に浮かび上がってくる話は、家康の『神格化』問題の必然性とも絡み、話をとても面白くしています。
スポンサーリンク
『大坂夏の陣』の最中に家康は影武者にすり替わった?
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2012年8月29日付]にて紹介された”徳川家康の墓”の記事で、『大坂夏の陣で家康が討ち死にした伝説』は蘇りました。
慶長20年(1615年)5月7日の『大坂夏の陣』で、徳川家康の茶臼山本陣は、真田信繁の突撃隊に攻め込まれ、家康を固めるはずの旗本たちは一目散に逃げまどい、『馬印』は引き倒され『三方ヶ原の戦』以来2度目の屈辱でした。
この時、本陣は平野辺りまで押し戻され、家康は駕籠に乗って逃げ出しました。
この逃走中に、家康は”後藤又兵衛(ごとう またべえ)の槍”に刺されて死去したとされています。
堺の『南宗寺(なんしゅうじ)』まで落ち延びて駕籠の戸を開けるとすでに家康はこと切れていて、南宗寺の開山堂の床下に仮埋葬されたと伝わっています。
そして、なんと開山堂の板額には、元和9年(1523年)7月10日に徳川秀忠、8月15日に家光が寺を訪れたと記載されています。
今でも南宗寺の塀の瓦には葵の御紋が付いており、徳川家所縁の寺であったことを示しています。
南宗寺は戦国大名三好長慶(みよし ながはる)の菩提寺ともなっていて、一時は畿内の天下を取っていた三好長慶の影響力もあり、当時の南宗寺は大伽藍であったようです。
その時の住持が大徳寺首座であった後に有名となる沢庵(たくあん)禅師で、この功にてか、”紫衣(しい)事件”に連座し”流罪”となりましたがその後赦免されて、徳川家光から乞われて近侍となっています。
どうやら、”家康の墓”については伝説臭いですが、南宗寺と徳川家には何らかの関係はあったような感じです。
さて、肝心のこの説の”影武者”ですが、家康の孫娘・登久姫(とくひめ)と結婚していた信濃飯田藩主”小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)”だと言われていますが、当時秀政は47歳で家康(74歳)との年齢差が大きくかなりの無理スジと思われます。
この『徳川家康”大坂夏の陣”討死説』は、家康の駕籠を槍で突いたとされる後藤又兵衛が前日の5月6日の”道明寺の戦”で伊達軍の鉄砲に胸板を打ち抜かれて討死していて、5月7日に家康駕籠の攻撃は不可能なことと、前述の影武者の妥当性も疑われるのです。
折角、南宗寺と徳川家との関係がありそうなのに、『家康討死』の可能性の立証がむずかしそうです。
しかし、件の徳川家正史『徳川実紀』によると、5月8日の大坂城落城後、家康は逃げるように土砂降りの中、京都二条城へ馬で駆け戻っていると言います。
戦勝軍の大将としては、不可思議な行動で、これは、秀忠が『秀頼親子』の助命を受け付けなかったことに腹をたてたと言われていますが、実は役目の終わった影武者が秀忠に消されるのを避けるために一目散に逃亡したとも取れます。
いずれにしても、翌年には老齢?ながらぴんぴんしていた家康が、よくわからない死因で亡くなっていますので、”影武者が消された”可能性がないとは言えないのです。
まだまだ結論の出ない問題だと思います。
徳川家康には『影武者すり替え説』が多く出てくるのはなぜ?
事の発端ともいうべき村本素一郎氏は、著書『史疑 徳川家康事蹟』のなかで、”我が国は、およそ300年ごとに、政権に「貴賤の転変」が起こっているのではないか”との考えを述べています。
つまり、身分の嫌しき者が政権を取って行くと言う事で、その中で家康だけが”由緒正しき清和源氏の末裔でと言うのはおかしい”と疑問を持つことから始まったと言います。
徳川家も”どこの馬の骨かわからない身分の出身者”のはずだと言うことで、明白に「非人階級(ササラ者)」の出身者であると村本氏は断定しています。
当時戦国期の大名(下剋上の大名)は皆、同じような”よくわからない卑賎の出自”をもっている傾向が多いようです。
例えば、豊臣秀吉なんて農民出身とは云いますが、どこで何をやっていたのかほとんど不明ですよね。
少しキャリアーがはっきりしてくるのは、侍大将になる頃からではないでしょうか。
家康はこうした事に加えて、信長・秀吉と違って、後に260年もの長期政権樹立に成功したことから、超人的な活躍を70年以上の長きにわたって”家康と言うひとりの人間”が続けて行けたことを世の人が奇妙に思っているからではないでしょうか?
いつも結果的には、上手くやるのは、ひとりでは無理なはずだと皆が考えていることから、”すり替わり”が頻発するのではと思います。
しかも、「忍耐強い」以外には、案外人格が違うのではないかと思える変化(発言・行動)を家康から感じるからかもしれません。
出身母体の「岡崎松平家」ですら、祖父清康・父広忠ともに配下の者に暗殺されるなど、奇妙な経歴です。
本人の出自・幼年時ともに、一筋縄ではいかない経歴のように思えます。
まず、三河平定するまでもよくわかっていないと言った方が良さそうです。
こんな怪しいキャリアーなのですから、本人の「すり替え説」が多出しても仕方ないような気がします。
まとめ
繰り返しになりますが、『徳川家康の影武者説』は、従来から大体3説にまとまっているようです。
①『桶狭間の戦』後に家康と影武者がすり替わった(松平蔵人元康と世良田二郎三郎元信)
②『関ケ原の戦』の直前に家康が暗殺され、影武者がすり替わった(徳川家康と世良田二郎三郎)
③『大坂夏の陣』で討死し、影武者が急遽立てられてすり替わった(徳川家康と小笠原秀政)
3説ともに徳川家サイドで書かれた文書に手がかりになる説明が残っており、それを基に組み立てられています。
①説に関し、最初の村岡説では、『守山崩れ』が祖父の清康に起こったことではなくて、元康の時永禄4年(1561年)だとしています。
歴史作家”八切止夫”氏は、村岡説を弁護しつつも、村岡氏が史料として挙げている『三河後風土記』は、近江の沢田源内と言う人物の出したニセ本(所謂偽書)の可能性が高く、これを史料扱いするのは問題としています。
と言う指摘はしましたが、八切氏も”『守山崩れ』での松平蔵人元康の死去・世良田二郎三郎元信とのすり替わり説”を支持しています。
そして、あくまでも二郎三郎がその後変わった”徳川”と三河の”松平”は通俗史の伝えるように、松平が徳川に変ったもの(元は松平家)ではなく、徳川に変ったのはあくまでも一時元康の影武者役を務めた”世良田二郎三郎元信”が立てた一族だとしています。
②は、歴史作家”隆慶一郎氏”の『影武者 徳川家康』が設定しているような徳川秀忠と影武者二郎三郎の暗闘が、歴史の事件の解明に役立ちそうですね。
③は、墓に関しての物証と『徳川実紀』の大坂城から一目散に二条城へ引き上げた様子が追証となるかも知れませんが、どうも家康の討死に関して確証がない感じです。
どれも魅力的ですが、やはりここは”通俗史”に反し”奇説”と言われますが、村岡氏が提起して、八切氏が援護射撃している『家康の出自問題』に言及していた①の説が一番説得力がありそうです。
参考文献
島右近 『家康は関ケ原で死んでいた』(2014年 竹書房新書)
榛葉英治 『新版・史疑 徳川家康』(2008年 雄山閣)
隆慶一郎 『影武者 徳川家康(上)』(1995年 新潮文庫)
隆慶一郎 『影武者 徳川家康(中)』(2001年 新潮文庫)
隆慶一郎 『影武者 徳川家康(下)』(2000年 新潮文庫)
宮本昌孝 『家康死す(上)・(下)』(2014年 講談社文庫)
八切止夫 『徳川家康は二人だった』(2002年 作品社)