執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
幕臣 勝海舟は、幕末の巨星 坂本龍馬をどのように作った?
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『明治維新』に至る大きな山場である『江戸城無血開城』を、官軍の猛将西郷隆盛(さいごう たかもり)を相手にやってのけたことで有名な幕臣勝海舟(かつ かいしゅう)は、幕末の巨星 坂本龍馬の師匠でもあり同志でもありました。
勝と龍馬の出会いから、ふたりで海軍を作って行き、大樹である徳川幕府の終焉を演出して行った様子を解説します。
”討幕勢力”との政治的な駆け引きを龍馬が進める中、勝は一体なにをしていたのかを確認しましょう。
密かに言われている『龍馬暗殺の勝海舟黒幕説』も明らかにします。
目次
坂本竜馬は本当に幕臣勝海舟を斬りに行ったの?
龍馬と勝は、龍馬が17才で江戸へ剣術修行に出ていきなり”ペリー来航”に遭遇してから、およそ9年後の文久2年(1862年)12月頃に出会っています。
龍馬は嘉永6年(1853年)に江戸へ出ていきなり”黒船”の洗礼を受け、刺激を受けたのかその年の12月に兵学者佐久間象山(さくま しょうざん)の門を叩きます。
佐久間象山の妻は偶然に勝海舟の実妹でしたが、この時は龍馬と勝の接点はなかったようです。
後年の勝海舟の放談によると、『まだ攘夷派だった千葉道場の(佐那の兄の)千葉重太郎(ちば じゅうたろう)と一緒に坂本龍馬がやって来て、開国派の巨魁勝海舟を斬りに来たと言う。説得を続けると今度は感心して門人にしてくれと言って弟子入りした。』と云います。
また異説では、福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)のところに、龍馬他2名がやって来て議論し、春嶽が横井小楠(よこい しょうなん)と勝海舟への紹介状を書いたとあります。
当時、勝は海軍奉行竝(並)を拝命(文久2年8月)して、事実上海軍の総責任者として”軍艦”の運行と”操練所”の人材育成・訓練で多忙を極めていた時期です。
よほど強力な紹介状がない限りこの多忙な幕府の高官勝海舟との面会の可能性はないと思います。
やはり、龍馬はこの松平春嶽の紹介状を持って、勝海舟のところへ出向いたのでしょう。
となると、話の内容・相手の出方次第によってはとしても、『斬りに行った』と言うのはどうなんでしょうか。
この当時大老井伊直弼(いい なおすけ)暗殺の後の”幕政改革”で、松平春嶽が復活して「政治総裁」に就任し、その顧問として横井小楠がおり、勝と親しい大久保一翁(おおくぼ いちおう)も御側衆にいるなどして、”開明派”が力を持ち始めていました。
そして龍馬は、まさに政治の新しいうねりの渦中へ首を突っ込み始めていました。
この時の勝海舟との出会いはそれからの龍馬の運命の歯車を大きく動かすこととなるのです。
(引用画像:勝海舟像)
坂本龍馬は、勝海舟から何を学んだのか?
龍馬が勝に会いに行った理由は、勿論”斬りに行く”ためではなくて、目的がありました。
京都で尊攘派志士と交わる内に、春嶽の知己を得て横井小楠の”思想”に触れて行きます。
しかし、”思想”ではなくて、現実を変える事の出来る”政治・経済”により惹かれる龍馬は、実際に幕府海軍(軍事力)を動かす力を持つに至った『勝海舟』に関心を寄せていました。
狙い通りに春嶽の紹介を得て勝海舟に面談し、想像通りの人物であることを直感した龍馬は即座に弟子入りを志願したものと思われます。
果して、勝はどんなことを龍馬に教えたのでしょうか?
勝は、龍馬に『海軍の技術』を教え込みました。
勝の弟子には、まさに塾頭の佐藤与之助(さとう よのすけ)がおり、勝の塾の運営はこの実直で忠実な男がやっていました。
龍馬も『神戸海軍操練所』の塾頭と言われていますが、正式には幕府の許可を得て同時に運営されていた勝の私塾の方の塾頭と言うのが正しいのではないでしょうか。
龍馬は勝塾の実際の運営はまったく手を出しておらず、龍馬の先輩格で勝の執事のような”佐藤与之助”がすべてを仕切っていたようです。
龍馬はこの時期は”勝政治塾”の塾頭・政治秘書だったと言った方が良いのではないでしょうか。つまり勝に下っ端の尊攘志士のままでは体験できない”政治の世界”を連れまわされていたのです。
勝が幕閣からにらまれずにあのまま”海軍操練所”を運営していたらどうなっていたのかと思いますが、いずれにしても徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が『徳川家の政権』を手放さない限り、やはり早晩勝は辞職することになっていたでしょう。
そういう意味では、結果的に龍馬はもっともよい時期に勝の手からは離れて行った(勝海舟の罷免・神戸海軍操練所の閉鎖)のかもしれません。
勝海舟は長崎出張になぜ坂本龍馬を同行させた?
勝は江戸から将軍家茂(いえもち)を乗せて、文久4年(1864年)1月8日に、幕府雄藩連合艦隊計8隻で大坂天保山沖に到着しました。
この時、勝は幕府艦隊の乗組員が不足したため、土佐藩から帰国命令が出ていた龍馬をそのまま乗組員として乗船させ、龍馬の意志でもあったと思いますが、結果脱藩をさせてしまいます。
そして、参与と閣僚が同席する京都での打合せの席で徳川慶喜より勝に、2月5日に長崎への出張命令が下されます。
用向きは、フランスなど四か国の外国艦隊が企画する下関攻撃阻止でした。
勝は、この長崎行きに龍馬、塾頭佐藤与之助の子息など14名の門弟を引き連れて2月14日に神戸を出て、途中、この当時職を辞して熊本へ帰郷している横井小楠のもとへ龍馬を寄らせます。
長崎では横浜からやって来たオランダ総領事との談判となり、結果”2か月ほどの攻撃延期”を勝ち得ています。
そして、長崎には1か月以上の滞在となり、勝は長崎出張を利用して神戸の塾生に長崎を見せ、関係者と会わせていたのではないかと思われます。
このメンバーの一部が、翌年には龍馬とともにその長崎で日本最初の商社と言われる”亀山社中(かめやましゃちゅう)”として動き始めるのですから、何が幸いするかわからのものです。ひょっとしたら、勝は自分も含めたこの事業の行く末を既に見据えていたのかもしれません。
勝はこの時、塾生たちと朝鮮・大陸の探索も考えていたと言われていますが、幕府からの帰還命令で4月4日にやむなく長崎を引き払い、上方へ引き上げます。
帰還の途次、再び横井小楠のところへ龍馬を寄らせ、小楠の甥2人を引き取って神戸へ引き上げます。
3月21日に小楠から勝は、小楠の考える”海軍”というものを開示した『海軍問答書』と云うものを受け取っており、その時ついでに甥ふたりの神戸海軍操練所への入所を依頼されていたようです。
つまるところ、『龍馬ら塾生たちを長崎に同道した理由』としては、長崎の豪商小曽根乾堂・英四郎(こぞねけんどう・えいしろう)親子、グラバー商会トーマス・グラバーら長崎関係者との顔繋ぎが目的のひとつだったのではないかと想像されます。
徳川慶喜の付けた目付 能勢金之助(のせ きんのすけ)が帯同していたと云うものの、勝は上手く塾生たちを長崎の関係者に引き合わせていたと考えると、今まで疑問だった翌年の龍馬の”亀山社中”の立ち上げの極めてスムーズな動きがよくわかりますね。
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勝海舟が海軍奉行を罷免された時に、残された龍馬と塾生をなぜ薩摩西郷に託したのか?
勝海舟は、元治元年(1864年)7月23日から始まった『第一次長州征討』の幕軍の実質司令官となっていた西郷隆盛と9月11日に大坂で面談していますが、その前の8月に京都にいた西郷のところへ龍馬を行かせて”人物”を見させています。
8月23日に神戸の海軍操練所に帰って来た龍馬は、『初めて西郷に会す其人物茫漠(ぼうばく)として模促(もそく)すべきなし、之を大きく叩けば大なる答えを見、之を小さく叩けば小なる答えをみる。』と言う有名な西郷評を述べています。
9月11日に大坂の宿舎で、勝と西郷は初の会見を行っています。
勝は西郷の人物をなるほど龍馬の云う通りだなぁと思い、ここで西郷に対して『幕府はもうだめだ!』と話して自説の『開国論』を熱弁したようです。
西郷は大久保への手紙でこの時の勝海舟のことを絶賛しています。
この会談で、結果的に”長州征討”に関して自身の考えが定まらず、対応に困っていた西郷は”目からウロコ”の気持ちとなり、はっきり”倒幕”へ動き始めることとなります。
その後長州に対しては、当初の”薩摩の為にならない相手としてとことん壊滅させる”と言う考えを改めて、後日の”倒幕のパートナー”としての力を温存させる方針へ切り替えます。
こうしたやり取りがあった勝と西郷ですが、勝はこの会談で西郷に惚れ込み日本の将来を託す人物と評価したので、熱弁を振るったものと考えられます。
勝の行動を見ていると『幕臣なれども、反幕』と言う複雑な勝の”人となり”が出ているようです。
3月に自分がかつて”海軍”を学んだ長崎に龍馬ら弟子たちを連れて行き、9月に上方で彼らの引き受け手の人物である薩摩の西郷を見つけるなど、、、
6月5日に起こった『池田屋事件』、7月19日に発生した『禁門の変』で、反幕勢力の一部の人間が勝海舟の”海軍”の中に含まれていたことから責任を取らされることなど、その後の自身の身の上に降りかかる事が分かっていて、まるでその準備をしていたような軌跡です。
勝はその通りに11月10日には海軍奉行を罷免され、その後2年は自宅蟄居となりますが、既に9月に西郷と出会った時に、自分の育てた”新しい日本で活躍の出来る人材”を託せる人物は西郷しかいないと考えていたのではないでしょうか。
その後、勝が思い描いた通り、西郷は”第一次長州征討”の始末がついてすぐに、勝の”海軍操練所廃止”で戻る場所のない龍馬ら脱藩浪士の修練生たちを薩摩で保護します。
こうして、勝の”思い”は西郷の手助けを借りながら、龍馬を通じて実現されていくことになります。
坂本龍馬は『亀山社中』が動き初めてから勝との関係はなくなった?
筆まめな龍馬ですが、不思議に勝海舟宛の手紙はほとんどないようです。
龍馬と勝の事は、勝海舟の日記から今に伝えられています。
しかし、勝の日記に元治元年(1864年)8月23日に龍馬が京都で西郷と面談した折の感想を述べたことが記載されて以後、龍馬との直接接触した記録は途切れているようです。
その後江戸に蟄居している勝のもとに、西郷はたびたび相談・意見交換を行い、さしずめ勝はこの時期の薩摩藩の政治・外交顧問(幕府関係の相談)のような立場でした。
しかし、西郷に預けてしまった龍馬らの事に関しては、勝はまったく関心を示さなくなったように見えます。
勝は、慶応元年のその時期、勝の代わりに上方へ外交担当として呼ばれた、勝と親しい大久保一翁から幕閣の情報を詳しく入手しており、薩摩には正確な状況分析が伝えられたのではないでしょうか。
一方龍馬は、長崎で『亀山社中』の立ち上げをやりその後中岡慎太郎とともに、5月に中岡の最初の仕掛けが失敗した『薩長盟約(同盟)』の締結に向けての活動にのめり込んで行きます。
この時期には龍馬と連絡を取れていない勝は、友人の幕臣大久保一翁と西郷他薩摩関係者からの情報は頻繁に上がって来るものの、西郷が厳格に情報管理をしていたのか、この龍馬と中岡の動き(薩長盟約締結)に関しては全くつかんでいなかったようです。
つまり、大久保一翁が『薩長盟約(同盟)』の件をつかんでいなかったので、当然西郷(薩摩)が言わない限り勝には情報が入らないわけです。
その後、『薩長盟約(同盟)』締結直後の慶応3年1月23日には、龍馬が伏見で『寺田屋事件』に遭遇して重傷を負うなどしていますが、勝は反応を示してはいません。
勝は、以前あれだけ気にかけ手をかけていた”愛弟子龍馬”に対して、薩摩の西郷に身柄を引き継いだ後は本当に無関心な様子なのです。
龍馬は元々、”勤皇の志士”で、”尊攘激派”との付き合いもそこそこあり、勝とは住んでいる世界が少し違っていました。
勝がそもそも龍馬と距離を取っていることは身分のある人なので仕方ない気がしますが、問題は、あれだけどんなところにも出かけて行く龍馬が、自由に動ける立場だったにもかかわらず、自分からただの一度も勝に会いに行っていないことです。
勝の日記から龍馬の記述が消えた原因は、前から勝に手紙を書いて来ない龍馬なので彼が勝のところへ来なくなったことによって、記述する話題が無くなってしまったと言うことです。
ひょとすると、龍馬側からもある程度”勝海舟”を見切ってしまったところがあったのかもしれません。
勝にしても、すでに卒業してしまった人間は懐かしさはあるにしても、連絡がなければそれだけのことでしょう。
結局、龍馬と勝は”同志”ではなかったという事です。
私たちは、”子弟関係の連絡”はずっと続くものだと勝手に決め込んでいますが、卒業した後はそんなに連絡はしないものです。
おそらく、龍馬は弟子としてあと5年か10年もすれば、挨拶くらいには出かけたかもしれませんが、なんせ、海軍操船所が閉鎖されて3年もたたないうちに龍馬は亡くなっているので、仕方ないことではないでしょうか。
同じ会社の人間なら、あり得ないですが、フリーの立場同志なら疎遠になることも有り得ると思います。
それに、、、龍馬は多忙すぎましたね。
勝海舟は元治元年10月に上方から江戸へ召喚される時に、その後起こりうる事態(海軍奉行罷免・海軍操練所閉鎖)をすべて把握した上で、龍馬に”自分はもう失脚して力がないので、これからの事は全部自分で考えて、判断して行動しろ!後のことは、すべて薩摩の西郷に話してある。”くらいの事を言ったのかもしれませんね。
『坂本竜馬暗殺の黒幕は勝海舟』という説がある?
こんな疑いもあるんですねぇ。
この根拠となっているのは、、、
龍馬は『大政奉還建白』に当たって、先の『船中八策』をベースとした『新政府綱領八策』と云うものを作っていますが、その中に新政府の盟主として、『〇○○ヲ盟主ト為り・・・』とあります。
龍馬が『大政奉還』の翌日に作り上げた新政府の人事案『新官制擬定書』によると、前述の『盟主〇○○』に当たるものとして『徳川慶喜』がハッキリ上がっており、『参議』の欄に”坂本龍馬”の名前も上がっているのに、”勝海舟”の名前はどこにも見当たらなかったとされています。
当時すでに幕閣の端に復帰していた勝はその情報を入手できる立場だったようで、これを見て激怒し、自身が散々裏切られて来た問題児”徳川慶喜”が盟主になっていることで、従来となにも実態が変らない事となり、これを作った龍馬と大きな対立が生まれたとされています。
まぁ、簡単に云えば、それが原因で『龍馬暗殺の意志』を固めたと言います。
もうひとつ、勝は暗殺実行犯とされている”原田信郎(はらだ のぶお)”と、直心陰流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝で同じ幕府の講武所に努めていたことがあるとされています。
しかし、この説は仮に勝海舟が本当にそんな憎悪の感情を坂本龍馬に抱いたとしても、時間的な問題から非常に無理がありそうですね。
真実は、闇の中ではありますが、私にはあり得ない説だと思われます。
”可愛さ余って憎さ百倍”と云う言葉もありますが、やはり”憎悪を抱く”にはそれなりの長い時間が必要だと思います。
こんな”短期間”では、又こんな”大事”では起こり得ないと考えます。
まとめ
幕末の巨星 坂本竜馬と幕臣勝海舟の関連に関して、疑問になるところを調べてみました。
一介の脱藩浪士の龍馬は、用意周到に時の権力者松平春嶽の紹介状を持ち、江戸の四代道場主の息子千葉重太郎を付き添いに連れて、多忙を極める勝海舟のところに乗り込んで来ました。
忽ち、幕末の志士龍馬は勝の信頼を得て、水を得た魚のように勝の期待通りに走り回り、幕臣勝の動きにくいところを脇に回ってサポートして行きます。
勝は龍馬に勝の知り得た『海軍』を教え込みます。
龍馬は勝のネームバリューと人脈をフルに利用して、どんどん成長して行き、勝から西郷に後見を託されて以降、”海軍”を使って薩長の”倒幕勢力”に協力して行き、盟友中岡慎太郎とともに黒子として働き、とうとう『薩長盟約(同盟)』を成立させます。
龍馬は、師匠勝海舟の思惑を超えるスピードで成長・活躍し、大樹徳川幕府を倒す裏方を務めて行きます。
勝の罷免以降、龍馬と勝の関係が切れたように見えるのは、龍馬が勝から『卒業』したと考えるのが妥当のような気がします。
『龍馬暗殺』に関して、勝海舟黒幕説がありますが、状況から見ると動機・手段ともに薄弱のような感じで、この説は決め手に欠けるような気がします。
参考文献
松浦玲 『坂本竜馬』(2008年 岩波新書)
松浦玲 『勝海舟』(1968年 中公新書)
松浦玲 『勝海舟と西郷隆盛』(2011年 岩波新書)
平尾道雄 『海援隊始末記』(1976年 中公文庫)
平尾道雄 『陸援隊始末記』(1977年 中公文庫)
加治将一 『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)
加治将一 『幕末維新の暗号(上)・(下)』(2011年 祥伝社文庫)
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