奥羽で戦い、德川家康に『関ケ原の戦い』を勝たせた最上義光!
目次
最上義光とは何者なの?
最上義光(もがみ よしあき)は、天文15年(1546年)正月元日に生れ、慶長19年(1614年)に亡くなる迄、安土桃山時代から江戸時代初期に亘って活躍した戦国大名で、歴史上有名な仙台の伊達政宗(だて まさむね)の伯父として知られています。
そして最上家第11代目当主にして、徳川幕府の山形藩57万石の初代藩主となりました。
そもそも最上家と言うのは、南北朝期の文和3年(1354年)より奥州管領職にあった斯斯波家兼(しば いえかね)の次男波兼頼(しば かねより)が初代となります。
父家兼死去後、嫡男直持(ただもち)が奥州管領を引継ぎ、出羽地方支配に延文元年(1356年)より、弟兼頼(かねより)が山形へ派遣されたことから始まったようです。
・・・山形殿ハ出羽守護ニて御座候、大崎ハ奥州の探題ニて御座候、・・・(以下略)、
(引用:仙台市史編さん委員会編『仙台市史 資料編1 古代中世』所収『奥州余目記録 237頁』1995年 仙台市)
大意は、”・・・山形氏(最上氏)は出羽守護で、大崎氏は奥州の探題である。・・・”位の意味です。
つまり、記述にあるとおり父斯波家兼より、嫡男直持(ただもち)は奥州探題を継承して大崎氏の祖となり、弟兼頼は山形で出羽守護となり最上氏の祖となったと言う事になります。
後年「伊達政宗」で知名度が高くなった伊達氏が台頭するまでは、奥州では大崎氏と最上(山形)氏が同族にして両雄でした。
系図によれば、最上義光は最上家始祖の斯波兼頼から11代目の当主とされ、言わば軍事貴族の末裔と言えます。
家兼ー①兼頼ー②直家ー③満直ー④満家ー⑤義春ー⑥義秋ー⑦満氏ー⑧満敦ー⑨義定ー⑩義守ー⑪義光
(参考:山形市市史編さん委員会編『山形市史 史料編1 最上氏関係史料 最上家譜 14~15頁』1973年 山形市)

(画像引用:山形城ACphoto)
最上義光は、『関ケ原の戦い』でなぜ東軍徳川方へ付いたの?
先ず、最上義光が家督相続をした時の政治構想ですが、、、
義光於本懐者、立石寺於一山中、他宗住居之儀不可有之候、其上諸篇威徳院、殊我々以談合相調之旨、不可有相違候、依如件
義光(花押)
立石寺
永禄拾三かのへむま年正月吉日
(引用:山形市市史編さん委員会編『山形市史史料編1 最上氏関係史料 立石寺文書 169頁』1973年 山形市)
大意は、”
最上義光(もがみ よしあき)の本懐(ほんかい)と言うのは、立石寺(山寺)敷地内に天台宗以外の僧の居住を望ない事です。種々威徳院と相談して行きます。
最上義光(花押)
立石寺(りっしゃくじ)
永禄十三庚午年(1570年)正月吉日
”位の意味です。
ここでの、家督相続した最上義光の『本懐』の真意とは何かという事ですが、実は義光の政治構想である『始祖である斯波兼頼が出羽守護(羽州探題)当時の領地回復』にあったと言われています。
永禄11年(1568年)から天下獲りを始めていた織田信長、天正10年(1582年)からは豊臣秀吉と、天下を握った権力者との関係を巧く繋ぎ、、、
如芳礼、其後杳々絶音問御床敷存候處、示給本望候、仍此間、従関白様爲上使、金山宗洗公當地へ着、山形へ上越候条、改案内者不計罷上候、定而於其許可御心元候間、可申届候處、俄事候間、無其儀候、彼方送届申、則罷歸候間、
此程逮御音問候ツ、然者彼使節之御意趣、天下一統ニ御安全ニ可被執成之段、被思食候處、出羽之内へ、自越後口弓矢を被執鎮由、達高聞、不謂之旨幷義光出羽之探題職被渡進候ニ、國中之諸士被随山形之下知候哉如何、如斯之儀を以被指下候、
依之山形之威機を宗洗公被聞之、一昨日此方へ入來候而、即昨日越國被指遣使者候、様躰如何可有之候哉、返答候者、可申入候、將又仙北干戈之儀、從山被執刷之處、未落着之由候而、重而寺民被指下之由候、其許各より横手へ被及御内意之由候、返事到来候者可有注進候、
恐々謹言、
尚々、山形よりの使、赤宇會ニ在堪之由候、自其元も入魂可然候、次ニ向後之儀、分而可有懇意之由候、尤不可有疎意候、用所之儀可承候、
中山播磨守 光直(花押)
潤五月十一日
潟保治部大輔殿
御返報(引用:山形県編『山形県史 資料編 15上 古代中世史料1 505頁』1977年 山形県)
大意は、”
ご書状にありましたように、しばらく便りが絶えておりましたが、ご連絡頂き有難く存じます。この間、関白様のご使者金山宗洗(かなやま そうせん)公が当地へ着かれ、山形殿のところへお出でなるとの事で、案内いたし、計らずも罷り越しました。恐らく、そちらにおいても御心配されているので、ご連絡致すべきでしたが、急なことでしたので、ご連絡もせず送り届けて帰って参りました。
それでこのほど連絡させてもらいました。そこで、御使者の主旨ですが、関白殿下が天下一統を安全に達成しようと思われているところ、出羽の国への越後口からの上杉の攻撃を鎮圧したことが御耳に届き、関白殿下が何も言わずに最上義光を探題職にした事に、出羽の国衆が義光の命令に服しているのかなど、このような調査を命令されて派遣されました。
これによって、最上義光の威勢を宗洗公も聞かせられ、一昨日こちらへ入って来られました。また、昨日越後国へ派遣された使者の様子はどうでしょうか。返答があれば申し入れます。はたまた仙北の衝突の様子は、最上義光から手が打たれたのですが、未だに終息していないので、重ねて寺部民部を派遣するとのことです。あなたから横手方面へ関白の御内意を伝え、返事が来たら報告してください。
追伸、山形からの使者は赤尾津に滞在しており、あなたからも昵懇にしてほしい。今後の事については、特に懇意にして手を抜かず、何か用事があれば承ります。
中山光直(花押)
(天正16年ー1588年)閏5月11日
潟保治部大輔 返報
”位の意味です。
この書状により豊臣秀吉は、越後上杉の庄内侵攻を禁止し、既に最上義光を『羽州探題職』に任じていたらしいことが分かります。
つまり最上義光は、東北地区で真っ先に秀吉に臣従(しんじゅう)し、秀吉の『惣無事令(そうぶじれい)』政策での東北仕置きの先兵として、越後上杉の動きを抑えて自分の目的を達成していたようです。
ところが、こうして豊臣政権下で着々と戦国大名の道を進んでいた義光も、文禄4年(1595年)の天下を揺るがした大事件、所謂『秀次事件』に巻き込まれて、大きく変転して行くこととなります。
この『秀次事件』とは、、、
・・・(前略)・・・。
文禄四年七月、秀次は謀反を企てたという理由で関白・左大臣の職を解かれ、わずかの従者とともに高野山に追いやられ、十五日切腹させられた。ニ十八歳。八月二日子女・妻妾ら三十余人も京都三条河原で処刑され、多数の近臣も殺された。
・・・(後略)・・・。
(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十巻 豊臣秀次の項 458頁』1989年 吉川弘文館)
この京都三条河原での処刑者の中に、最上義光の愛娘「駒姫(こまひめ)」が含まれていました。天正18年の秀吉による奥羽仕置により大量失職した不満武士の一揆(九戸の乱)の鎮圧に、天正19年(1591年)9月に德川家康とともに出陣した秀次が、10月山形に立ち寄った際に秀次が見初めたとも、最上義光が献上したとも言われている「駒姫の側室入り」でした。
自分の目標を達成(本懐実現)させてくれた豊臣政権との、更なる関係強化を意図して愛娘を側室に差出した最上義光の判断が裏目に出てしまいました。
愛娘の斬殺死だけに終わらず、それにショックを受けた妻の死(自死と言われています)に加えて、最上義光自身にもありもしない「秀次の謀叛」に加担した嫌疑を掛けられ、秀吉の意を忖度(そんたく)した石田三成ら奉行衆の大名潰しの攻撃を受けました。
天正19年(1591年)の「九戸(くのへ)の乱」の時、秀次に同行していた徳川家康に、最上義光は三男の太郎四郎左馬助(後に、家康の偏諱を受けた「家親」)を小姓として人質に差し出していました。つまり、最上義光は、豊臣政権と政権内最有力者の徳川家康に二股をかけていたようです。
これが功を奏し、徳川家康の執り成しを受けて、豊臣政権方からの「謀反の嫌疑」の追及を逃れた最上義光は、秀吉の虎の威を借りて権力を振り回す石田三成ら奉行衆に憎悪を募らせるとともに、家康のシンパとなって行ったものと考えられます。
奥羽の覇者最上義光は、なぜ『関ケ原の戦い』徳川家康勝利の立役者と言われるの?
先ず、慶長5年(1600年)9月15日の『関ケ原の戦い』に至る迄の簡単な流れとしては、、、
慶長4年(1599年)閏3月3日に大老前田利家が死去した後、德川家康は実質奉行筆頭の石田三成を失脚させて伏見城への入城を果し、9月には北政所(高台院)を退去させて、大坂城西の丸へ乗り込んで(豊臣)政権の実権掌握に取り掛かりました。そして政権有力者である大老の潰しに取り掛かり、先ず奉行増田長盛より密告のあった『徳川家康暗殺計画』を理由に、大老前田利長を服従に持って行きます。
そして家康は、9月に領国会津へ帰国させた大老上杉景勝に対しても警戒を強め、、、
急度申遣候、去廿七日大坂相移、無殘所申付條、可御心易候、然者其表之儀、堅固之手置等肝要候、委細阿彦將監可申候、恐々謹言、
十月十七日 家康(御判)
出羽侍従殿
(引用:中村孝也『徳川家康文書の研究(中巻) 450頁 最上義光に遣れる書状 』1960年 日本學術振興會)
大意は、”
急ぎ連絡します。(慶長4年)9月27日に大坂城へ移り、残っていた指示命令を出し終えましたのでご安心ください。そこで、(上杉と国境を接する)貴殿の事ですが、(会津)国境の守りを固めて下さい。詳しい事は、阿彦将監が申します。
(慶長4年)10月17日 徳川家康(判)
最上義光殿 ”位の意味です。
家康自ら帰国の許可を与えて、慶長4年9月に会津へ戻した上杉景勝に対して、上記のようにその段階から、既に家康の配下大名となっていた会津の隣国山形の最上義光に、上杉軍に備え会津との国境を固めて警戒するように指示を出していました。
つまり、上杉ら諸大名の帰国を認めた段階で、既に家康の頭には大老上杉景勝討伐の考えがあったとも言えそうです。前述のように大老前田利家(まえだ としいえ)の後継前田利長(まえだ としなが)を屈服させて、前田ー上杉の連携を断ち切り、慶長5年に入ると改めて上杉景勝に上洛を命じ仕上げに掛ります。
想定通り、家康の意図を察して頑なに上洛を拒む大老上杉景勝に対し、この景勝の「上洛命令拒否」を大義名分として家康は上杉討伐の動きを始めます。
これは「豊臣公儀」による討伐戦として諸将が動員され、総大将として徳川家康が指揮するものでした。
德川家康は、慶長5年(1600年)6月6日に大坂城西の丸に諸将を集め会津攻めの命を下し、14日には最上義光らは大坂を先発して領国へ向い、家康自らは遠征軍を率いて16日には大坂を出発しました。7月2日に武蔵国江戸に到着した家康一行が、石田三成・大谷吉継の挙兵の報を受けたのは、7月19日頃と推定されます。しかし、21日には予定通りに会津に向けて出発し、7月24日に下野国小山に到着したところで、上方の叛乱が大将に毛利輝元を頂く大反乱であることが判明し、25日には所謂「小山評定(おやまひょうじょう)」が開かれ、家康は会津征討を取りやめ、急遽上方へ帰還する事と決定されます。
急度申入候、仍上方奉行衆一同之者、鉾楯之由申來付而、閣會津、先令上洛候、併中納言差置候條、彼表働之儀ヲ相談尤候、猶期後音之時候、恐々謹言、
七月廿九日 家康(御判)
出羽侍従殿
(引用:中村孝也『徳川家康文書の研究(中巻) 540頁 最上義光に遣れる書状 』1960年 日本學術振興會)
大意は、”
急いで申し入れます。上方の奉行衆一同が武装蜂起したと言って来ました。(そこで、)会津討伐を止めて、先ず上方へ引き返します。あとに徳川秀忠を置いて行きますので、会津方面の事は相談してください。なお、(詳しい事は)あとで連絡致します。
(慶長5年)7月29日 徳川家康(御判)
最上義光殿
”位の意味です。
この石田三成と大谷吉継の叛乱に、三奉行と大老毛利元就が加わり、大坂城の豊臣政庁を占拠したことにより、德川家康と反乱軍の立場が入れ替わり、家康の方が公儀から追放される図式に政局が変化しました。
これにより、上杉会津領への征討軍は会津攻めの大義名分を失い、最上義光の下に参陣していた奥羽の諸将は皆、陣を離れて帰国を始めました。
この動きを察知した上杉景勝は、離れた諸将の取り込みを図ることと、もはや最上義光一人となった征討軍(東軍)を撃破すべく、山形への侵攻を始めます。
つまり上杉景勝としては、先ず与力大名を失って弱体化した最上軍を一蹴し、後顧の憂いを取り除いてから南下して、德川家康の関八州へ攻め入り西から攻め込んで来る石田三成ら西軍と呼応し、徳川家康ら東軍を挟み撃ちにして打ち破る方策を考えていました。
そして、終に9月8日になって、いよいよ上杉軍の最上攻めは始まりました。しかし、2万を超える上杉軍の先陣を預かった直江兼続でしたが、予想外に最上方の長谷堂城の攻略に手間取り、城を落とせずに長期戦となりました。
攻め手の直江兼続は、上方での西軍の圧倒的有利である状況を聞いていたので、長谷堂城で頑張る最上勢もその応援にやって来た伊達勢も、ひょっとすると、上方の本当の戦況を聞けばあきらめて降伏するに違いないと踏んで、無理攻めをしなかったのかもしれません。
そして、上杉軍が最上軍の激しい抵抗に長谷堂城を攻めあぐんでいる内に、9月30日になって、石田三成ら西軍が9月15日に関ケ原で大敗したとの信じられない知らせが届き、上杉景勝・直江兼続の目論見はもろくも崩れ、10月1日には会津に向って兵を引いて行きました。
つまり最上義光は、德川家康が石田三成等西軍と美濃関ケ原で大会戦を行っている間、徳川東軍の背後に侵入しようとした上杉西軍を、伊達軍の応援は得たものの、ほぼ単独で2万を超える上杉軍の関東侵攻を食い止めたと言う大戦功をあげたことになりました。
よって、「家康の関ケ原勝利の立役者」のひとりと言われる訳です。
最上義光は、嫡男義康をなぜ殺害したの?
義光の嫡男義康は順調にキャリアを積み、後継者と目されていましたが、『関ケ原の戦い』の結果、最上家が57万石に加増されて政局が徳川家康の天下構築へ向かい始めると、家督を譲らない父義光と嫡男義康の仲は次第に緊張して行くこととなりました。
その頃の様子は、『最上記』によれば、、、
・・・(前略)・・・。
終に御中直り無之。義光公在江戸之刻。家康公へ右之有增卒度被仰上之處。
上意には縦其方老にほれ。いか樣のあてかいにて。癖事を申懸らるゝ共。子の身として。豈親の命に背んや。其上。修理大夫は惣領なれは。家親とは違ひ。部屋住居のあてかいも宜く。萬自由なる旨。内々聞及しに。
家督を遅く被譲とて。一命に懸。親を恨る段。言語に絶したる事共也。去は一日も親の達者にて公用を勤こそ。子の身として可悦事成に。左はなくて隠居の遅を憤る事。不孝の子に非すや。今こそ無別儀とても。自然國中の騒動の事も有ならは。折を得。必國の讎と可成之間。歸國次第生害被致候へ。
不便成子さへ。國には不被替。況左様に不孝成子をや。乍去。此上は父子の事なれは。義光はからいたるへきと被仰下ける間。御諚之趣畏入候。
歸國次第切腹いたさせ可申之由。申上給へは。上意には左有て。子共の内にては誰にか家督を可被譲存念に候やと御尋有けれは。義光謹て。誰と申迄も無御座候。次男の義に候間。駿河守に家督を被仰付候はヽ。難有可存之旨申上られけるに。
家康公にも。駿河守十三歳の時より御側に被召置。飽まて御ひいき強かリける故。御悦被成。尤駿河守は穏便の者にて。其方家督被譲候ても。苦からさる器量也。寔に義光は武勇のみに非す。子共の目利さへ上手也とて。甚御機嫌よかりけり。・・・(後略)・・・。
(引用:塙保己一編『續群書類従・第二十二輯上合戦部 巻六百三十二下 最上義光物語下 修理大夫殿生害之事 五百二十九頁』1959年 續群書類従完成會)
大意は、”
・・・(前略)・・・。
ついに(義光と義康の父子)仲直りは無かった。最上義光が江戸へ参勤した時、家康公へ自分の親子関係の現状を申し上げた。
家康公が言うには、「たとえ貴殿が老いぼれで、誰かに仕掛けられた言いがかりだとしても、子供としては、どうして親の命令に逆らおうか。ましてや、義康(よしやす)は長男なのだから、次男の家親(いえちか)とは違い、部屋も十分に与えられ、何事も不自由なく振舞って来たと内々に聞いている。家督を譲られるのが遅れているからと言って、命を懸けて親を怨むなど言語道断の事だ。ここは、親の一日でも長生きしてもらう事を願って仕事に励むことが、子としてのなすべき事である。そうではなくて、隠居するのが遅いと腹を立てなど、不孝の子ではないか。今はなにも起こってないとしても、やがて国の乱れの原因ともなろうから、その内必ず国の災いの元となろう。よって、貴殿帰国次第義康を殺害していまいなさい。かわいそうな子さえ国には代えられぬのです。まして不孝な子供なのですから。とは言うものの、親子の事だから、義光殿からなさるべきです。」と仰せられました。
(最上義光は)徳川家康からの命令の趣旨に恐れ入りました。
「帰国次第義康を切腹に処す」ことを申し上げた。すると(家康から)「子供の中で誰に家督を相続させるお考えか」と問いかけがあり、義光は謹んで「申すまでもございませんが、次男の家親で、家督をご命じいただければありがたく存じます。」と申し上げた。
家康公も、家親は13歳の時より側小姓として近侍しており、あくまでも贔屓(ひいき)が強いのか、大変喜ばれて、「もっとも、家親は性格が温和で、義光殿が家督を譲られても、問題のない器量をお持ちだ。本当に、義光殿は武勇だけでなく、子の見極めもお上手だ。」とたいへん機嫌がよかった。
”位の意味です。
ここで『最上記』が、家康からの話を「御諚(ごじょう)」と表現・記載していることから、「嫡男義康殺害」は「徳川家康の命令」であったと最上家サイドは受け取っている事が分かります。
家康にすれば、武勇に優れと噂のある嫡男よりも、素直に上意に従う大人しい次男に家督を継がせた方が、今後最上家を警戒せずに済む訳ですから、危ない芽は早めに摘んでおく家康のやり口がここにも出たと言えそうです。
もし「義康殺害」が最上義光の本意でなかったとしたら、義光は徳川家康へ人質として息子を出す時に、嫡男義康でなく次男家親を出した事がここで裏目に出たと言えそうです。
最上義光の子家親は『関ケ原の戦い』の時徳川秀忠に供奉して真田攻めに従軍し、慶長19年~20年の『大坂の陣』で江戸から西進する家康に江戸城の留守居役を命じられた!ホント?
『最上家系図(宝幢寺本)』によれば、、、
母は天童四位少将頼定女、幼名左馬介、後駿河守、寒河江殿、十三歳之時、神君奥州九戸へ御進発之砌、義光公同道にて御目見、即神君御国守之息被官仕始也迚、家之字を賜、駿河城勤仕し侍従、・・・(以下略)。
(引用:山形市史編さん委員会『山形市史 資料編1 最上氏関係史料 最上家系図宝幢寺本 59~60頁』1973年 山形市)
大意は、”家親(いえちか)の生母は、兄義康(よしやす)と同じ天童頼貞(てんどう よりさだ)の娘で、幼名は左馬介(さまのすけ)と言われ、後に駿河守(するがのかみ)に任じられた。領地の関係から寒河江(さがえ)殿とも呼ばれる。13歳(史実は10歳と考えられる)の時、徳川家康が「奥州九戸の乱」平定へ向かった折、父最上義光公と同道して、家康に面会しすぐに、国主の息子が初めて仕官するのだからと言って偏諱で「家」の字を与えられ、駿河で家康の侍従をする事となった。”位の意味です。
また、『寛政重修諸家譜』によれば、、、
天正十年山形に生る。十九年父義光にしたがひ大森の御陣にいたり、はじめて東照宮にまみえたてまつる。このとき父が請申にまかせられ、やがて召仕はるべきむね仰をかうぶる。時に十歳文禄三年八月五日御前にをいて元服し、御諱字をたまありて家親と名乗、従五位下駿河守に叙任す。
慶長元年江戸に來りて台徳院(秀忠)殿に近侍す。五年上杉景勝を御征伐にしたがひたてまつり、下野國宇都宮にいたり、のち信濃國上田城をせめたまふにも従軍す。・・・(中略)・・・。
その後大坂の役に供奉せむことを請たてまつるのところ、幼年より召仕はれ、御心安くおぼしめされしとて、江戸城の御留守を命ぜられ、・・・(後略)・・・。
(引用:高柳光寿外2名編『新訂 寛政重修諸家譜 第二 巻八十 最上 足利支流 133頁』1983年 続群書類従完成会)
とあり、
①10歳の時、父最上義光の同道して徳川家康と面会して小姓となったこと
②慶長5年(1600年)の『関ケ原の戦い』の時、徳川秀忠に供奉して上田城で真田昌幸と戦ったこと
③慶長19年(1614年)・20年(1615年)の『大坂の陣』の時、江戸城の留守居役を命じられたこと
以上が、文化九年(1812年)に完成した徳川幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』に記録されているので、これは事実であることが分かります。
まとめ
『家康に天下を獲らせた男』とも言われる最上義光(もがみ よしあき)は、奥州管領斯波家兼の次男斯波兼頼(しば かねより)から11代目の軍事貴族にして、有名な仙台の伊達政宗(だて まさむね)の伯父でした。
德川家康の運命を決めた『関ケ原の戦い』において、石田三成・毛利輝元の挙兵を知って『上杉討伐』を途中で打ち切り戻って西進した家康の後を受け、最上軍はほぼ単独で攻め込んで来る上杉軍と対峙し、山形の長谷堂城攻防戦を凌ぎ切って2万の上杉軍を山形に釘付けにしました。
これによって、上杉軍が西軍と呼応して家康東軍の背後を衝いて挟み撃ちにする軍略は崩れ、家康東軍は背後を気にすることなく関ケ原で西軍を打ち破る事が出来ました。
そもそも、上杉家とは同家が越後にあった頃より山形庄内平野を巡って対立があり、更に上杉の会津移封によって、過去の羽州探題としての領地回復を目標とする最上義光が危機感を強めていたところで、遅かれ早かれ決着を付けねばならない相手先でしたが、上杉は120万石にも膨れ上がっており、如何にも20万石の義光には手強わ過ぎる相手でした。
そんな事は、德川家康にも分かり切ったことでしたが、風雲急を告げる上方の情勢には対応せざるを得なく、ある意味家康は最上義光を見殺しにしていたところ、義光は良い意味で想定を裏切って単独で敢闘し、上杉軍の関東侵入を防ぎ切った最上の軍功は、徳川家康にとっても大きなものとなりました。
自領を守るためだったとは言え、ここまで頑張る徳川びいきはどこから来たのでしょうか?
本文中にあるように、最上義光は東北ではいち早く秀吉に臣従し、豊臣政権のおかげで本懐の羽州管領当時の旧領を回復もしていたのですが、『秀次事件』で愛娘と正室を失い、自らも謀反の疑いをかけられるなど、豊臣奉行衆には散々な目に遭わせられ、次男家親が近侍していた徳川家康に何とか救われた事が、豊臣家から徳川家へシフトする大きな転換点になったのではないかと思われます。
その後義光は、家康の考えを忖度(そんたく)したか、家康に近侍して従順な性格の家親に家督を譲るために、部将としての実力を示しつつある嫡男の義康を殺害してしまい、家康は大喜びでしたが家臣団に問題を残し、後に最上家改易の遠因を作ってしまったようです。
とは言うものの、最上義光は徳川家康が天下を獲る契機となった『関ケ原の戦い』に際して、その勝利に大きな貢献をしたことは間違いないようです。