独立した徳川家康、『一向一揆』に攻められる!原因はなに?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

スポンサーリンク

徳川家康の歴史で、有名な『三河一向一揆』の発生した理由が分かります。

徳川家康の家臣団に「本願寺門徒武士」が多い決定的な理由が分かります。

家康と信長の同盟『三河一向一揆』の発生とは関係ありませんでした。

徳川家康の大規模な『三河一向一揆』の終息の仕方が分かります。

 

『桶狭間の戦い』後、今川家から独立した徳川家康が遭遇した『一向一揆』とはどんなものだったの?

これに関して『国史大辞典』の説明では、、、

 

 

三河一向一揆

永禄六年(1563)から翌七年にかけて、三河国西部で徳川家康と戦った一向一揆。・・・(中略)・・・。十五世紀中葉、諸国におのおの百以上の末寺・道場を擁した針崎勝鬘寺(愛知県岡崎市)・野寺本証寺(同安城市)・佐々木上宮寺(岡崎市)の大坊主三ヵ寺が蓮如によって本願寺派に転じ、一家衆土呂本宗寺(岡崎市)を頂点とする強大な三河教団が形成された。・・・(中略)・・・。

三河教団と家康との対立の発端は、家康家臣の上宮寺からの食料強制借用事件(『松平記』)とも、本証寺内での喧嘩を処理する際の「不入」侵害(『三河物語』)ともあるが、いずれにしても家康家臣の「不入」侵害行為に抗議する蜂起であった。なお、事件のはじまりは永禄五年秋のことで、調停工作が不調に終って翌六年秋の一揆になったとみられる。

一揆の中核は各寺内に籠った本願寺派の坊主と門徒であるが、吉良義昭・荒川義広・酒井忠尚・夏目吉信・松平(桜井)家次・同(大草)七郎ら、非門徒の国人衆が一揆に味方した。・・・(中略)・・・。

寺内四ヵ所は無傷であったが、一揆方の門徒武士が坊主衆を除外して和議を進め、一揆参加者の赦免、一揆張本人の助命、寺内は従来どおりの三条件で、(永禄七年)二月ニ十八日に和議が成立し、一揆が瓦解したのも統率者の不在故であろう。本多正信・鳥居忠広らの張本人や、松平家次以外の非門徒国人は国外に去った。・・・(中略)・・・。

家康にとっては最初の軍事的危機であったが、一揆鎮圧で反抗的国人領主を一掃し、一国制圧の基礎を固めることができた。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第13巻 279頁』1992年 吉川弘文館)

 

 

とあり、更にここで言う「不入(ふにゅう)」に関して、、、

 

 

アジール

中世罪人の逃れ場所として治外法権的に認められた社寺の聖域。・・・(中略)・・・。

わが国では、戦国時代にそのことがみられ、遁科屋(たんかや)といわれた。中世社寺領としての荘園は、不輸祖・不入部の特権を持つとともに、背後に宗教的権威を擁し、社法・寺法による自治を認められて治外法権を有する面が強く、公家・武家と並んで社会の三大勢力となると、ようやくそのことが著しくみられるようになり、国家権力の衰退した戦国乱離の時代にはアジールの役割を果たすものが多かった。

たとえば徳川家康がその鎮圧に苦しんだ三河の一向一揆の発端は、彼の家臣が、真宗寺院に逃げ込んだ嫌疑者の引渡しを強要し特権を排除しようとしたことにあった。・・・(以下省略)。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第1巻 155~156頁』1979年 吉川弘文館)

 

 

と説明されていて、この『三河一向一揆』の発端は、徳川家康家臣による寺社の持つ「不入権」の侵害にあるようです。

 

 

このほかに、徳川家康が本願寺教団の持つ水運・商業などへの介入を狙った『流通市場介入説』なども言われています。

 

 

真相はどうなのかわかりませんが、この背景となった徳川家康の当時の状況を見てみますと、、、

 

 

 

周知の永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』の敗戦で、今川義元が敗死してもなお今川方として大高城で頑張っていた家康は、織田信長が清須へ引き揚げて行った後、伯父で織田方に付ていた水野信元からの助言もあり岡崎城まで引き上げます。

 

今川方の武将として、西三河を守備するとして岡崎城に帰還した家康は、実は今川家から離れて独立への道を模索し始めます

 

家康の祖父清康(きよやす)の時にほぼ三河統一を成し遂げていた家康の属する松平宗家である安城松平家ですが、清康死後一族の勢力は衰え、三河は織田・今川の草刈り場となった時代を経て、その後今川家に支配される時代が続いていました。

 

家康は、今川と姻戚関係を結んで今川一門衆の一員として三河での地位を固めていたものの、松平一族の中には松平宗家(安城松平家)の配下とならずに、直接今川の武将として活躍している桜井松平・大給松平(おぎゅうまつだいら)などの一族もありました。

 

そんな経緯もあり、家康を当主とする宗家安城松平家(居城:岡崎城)は、この時点では松平一族での惣領家の地位を確立出来てはいませんでした

 

永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦い』以後、今川義元の庇護を失った家康は、替りに三河統一の後ろ盾として、伯父水野信元の仲介もあり、戦国の覇者織田信長と永禄4年(1561年)2月頃に同盟を結びます

 

そうした動きの中、前掲『国史大辞典』の説明にもあるように、一向宗の三河三ケ寺の佐々木上宮寺(ささきじょうぐうじ)野寺本証寺(のでらほんしょうじ)と松平宗家との間で、寺内の『不入権(ふにゅうけん)』を巡ってトラブルが永禄5年(1562年)秋に発生し、それを発端として永禄6年(1563年)秋頃には、一揆の形を取って大きく拡大を始めます。

 

争議の原因は、寺院の持つ「不入権」を生かして強大な経済力を保有する一向宗寺院から、独立後の増大する戦費を調達しようとする徳川家康に警戒感を強めていた一向宗の三河教団が、ささいな出来事を発端に暴発した形でした。

 

そもそも安城松平家には、家臣に一向宗の門徒武士が多く、それが松平一門の中で安城松平家が大きく躍進する力になっていた背景があったので、家康家臣団の動揺は安城松平家を分裂させるほどの激しいもので、それに乗じて反家康勢力の松平諸家を含む国人領主層が、教団の抗争と合体して「三河一向一揆」を形成して行ったものと考えられます。

 

 

ここで家康は、独立(戦国大名化)行動での最大のピンチを迎えた訳です。

 

 

大まかに言って、家康家臣団内の本願寺門徒武士では、上級武士が家康に味方し、下級武士が一揆軍に加わり、また譜代家臣は家康に味方し、新参者は一揆軍に加わると言う傾向もあったようです。

 

 

今川家との戦いを制して行った家康は、永禄4年中には西三河を制圧し、永禄5年中には東三河から今川勢力の追い出しに成功しつつあり、その為、時期的に地元三河での戦費調達で小領主・百姓の負担はピークに達して、小領主層を中心に不満が大きくなっているところでした。

 

 

『一向一揆』を起した本願寺三河教団は、もともと三河で越前のように本願寺を頂点とする門徒領主連合による領国支配までを目的としていた訳ではないので、そのろくに組織的抗争準備もなされていない小領主・門徒武士団主導による一揆に、多数の百姓農民と、松平宗家家臣団の混乱に乗じて旧領の回復を図ろうとする吉良義昭らの便乗組が参加した形になっていました。

 

 

そこで、『三河一向一揆』を指導をする一向宗大坊主たちの組織化が出来ていないと見て取った家康は、一揆に参加している小領主を個別に本領安堵を条件に帰参を認めて切り崩して行き、一揆を解体の方向へ持って行きました

 

 

結果、永禄7年(1564年)2月頃には、一向宗の大坊主たちを抜きにして、一揆側(門徒武士ら)から和議の話が持ち出され、大久保党の働きかけで家康も同意して同年2月末には和議が成立し、家康は三河統一に向って大きな壁を越えました

 


(画像引用:三河岡崎大樹寺ACphoto)

 

なぜ三河には一向宗徒が多いの?

三河国での一向宗は、応仁2年(1468年)頃に、浄土真宗中興の祖である蓮如上人(れんにょ しょうにん)が東国歴訪の帰途、三河佐々木上宮寺に逗留し、近隣の土呂(とろ)に坊舎を建立し、これを「本宗寺(ほんしゅうじ)」として創建し、前掲『国史大辞典』の説明にもあるように、これを機に三ヵ寺が一気に本願寺派へ転籍したのが、三河本願寺教団発展のはじまりとされています。

 

 

このあと、教団の発展期を迎えますが、丁度、家康の出自である安城松平家の発展期とも重なっています。

 

 

この本願寺三河教団と安城松平家発展の大きな力となったのは、松平家臣下の石川一族です。要するに石川一族から多くの門徒武士を輩出していると言うことなのですが。

 

 

江戸中期の幕府旗本・政治家・朱子学者である新井白石(あらい はくせき)の『藩翰譜(はんかんふ)』によれば、、、

 

 

〇長門守源康通は鎮守府将軍陸奥守義家朝臣の五男、左兵衛尉義時の三男、武蔵下総等の権守義基の嫡子河内守義兼の後胤なり。義兼、河内国石川の郡に住しければ石川の判官代と申す。其子孫、終に石川とぞ名のりける。義兼が七代の孫、小十郎朝成が時に、外祖小山下野守高朝に養はれ、改めて小山と名乗る。朝成が曽孫を下野権守政康といふ(文安年中の事なりと云)。参河国に来て小川の城に住して、又石川とは名乗りけり。

 

親鸞宗の祖蓮如といふが、下野国より政康を具して此の国に来れるなり。按ずるに、昔親鸞宗の門徒等、然るべき武士壱人を選みて仏法擁護の大将とし、我が法に従はぬ者をば、攻めふせ攻めふせ、帰服せしむ。是を其の時に一揆といひしなり。大坂、長島、加賀、越前等の一揆といふ是なり。北国の大将は下野の住人下妻が末葉にて、加賀の小山といふ所に在りて、北国を靡かせしともあり。本願寺の下妻、其の門葉なり。加賀の小山、また御山と書くなり。則ち今の金沢の城、其の跡といふ。石川も此の類にて、三河国一揆の大将のために蓮如が連れ来りしなり。

 

(引用:新井白石『新編藩翰譜 第二巻 石川家譜の条』1967年 人物往来社)

 

 

大意は、”源康通(みなもとのやすみち)は、源義家(みなもとのよしいえ)の五男である義時(よしとき)の、三男である源義基(みなもとのよしもと)の嫡子源義兼(みなもとのよしかね)の子孫である。義兼は河内国石川郡に住んでいたので石川の判官代(ほうがんだい)と言う。その子孫は、最後に石川と名乗った。義兼七代の孫小十郎朝成(こじゅうろう ともなり)の時、母方の祖父小山高朝(おやま たかとも)に養われ、小山と名乗る。朝成のひ孫を政康(まさやす)と言うが、三河国に来て小川城に住み、再び石川と名乗った

 

浄土真宗の蓮如(れんにょ)が下野国(しもつけのくに)から小山政康を連れて三河国へやって来た。よく考えてみると、昔浄土真宗の門徒たちは、適任の武将ひとりを選んで武闘門徒の大将として、真宗に敵対する勢力へ武力をもって制圧していた。これをその時に一揆(いっき)と言った。大坂・長島・加賀・越前の一揆と言っているのはこの事である。北陸の大将は下野国の住人下妻(しもづま)氏の一族で、加賀の小山(おやま)に居て、北陸を制圧したと言う。本願寺の下間(しもづま)はその一族である。加賀の小山は御山と書き、つまり今の金沢城がその跡だと言う。三河国の石川もこれと同じで、三河国一揆の大将として蓮如が下野国より連れて来た者である”位の意味です。

 

 

と新井白石は言っておりまして、前項からまとめてみますと、蓮如が三河国に布教拡大させるに当たって、土呂に本宗寺を創建し、武力闘争も想定した攻撃的布教拡大の為に、安城松平氏の後援を受け、下野国より武将として石川政康を連れて来て教団の武闘勢とし、安城松平氏と組んで勢力拡大に努めたようです。

 

安城松平家の石川一族がほぼ門徒武士なのは、もし新井白石の言う通りだとすると、一向宗三河教団と安城松平家の躍進の原動力が、ともに門徒武士団であったと言う話になるようです。

 

永禄の『桶狭間の戦い』後のこの時期、今川家からの離脱をはかり戦国大名として独立を意図する松平宗家の家康にとって、家臣団の中枢にいる一向宗門徒軍団の存在が、大きな問題であったのは当然のことかと思われます。

 

スポンサーリンク

 

徳川家康が、永禄4年(1561年)2月に織田信長と同盟を結んだことは、『一向一揆』勃発と関係はないの?

この永禄6年(1563年)秋の『三河一向一揆』勃発の主体は、、、

 

  1. 寺院の持つ「不入権侵害」に対する門徒の抗議行動
  2. 反家康派の蜂起

 

と言うふたつの大きな勢力の存在があったものと考えられています。

 

 

ここで、永禄4年(1561年)2月以降に、家康が三河平定に向けて今川家を見捨てて、戦略的に織田信長と同盟を結んだ事に関して、あくまでも旧来からの今川家との関係を重視する、つまり織田家との同盟に反対する勢力と、松平宗家内の一揆による混乱に乗じて、三河平定戦の中で家康に制圧されて失った旧領の回復を狙う吉良一族・日和見の国衆などが、一向一揆に加勢して行く事態となって行きます。

 

 

テーマにある切り口から考えますと、、、

 

後に織田信長が、およそ11年間にも及ぶ「本願寺顕如とし烈な戦い」を行った事から、そもそも相互に「憎悪」を抱いているのではないかとようなイメージから、この時にも「本願寺に敵対する織田信長と徳川家康が同盟を結んだ事」が、いっそう三河の一向宗門徒武士たちを刺激して大規模な一揆になったのではないかとの疑いです。

 

となると、織田信長と本願寺との確執はいつから始まったのかと言うことが問題になります。

 

 

史料から見てみますと、、、

 

十七日    尾州平手中務丞 織田弾正被官 爲禧來 就禁裏修理、爲名代上洛之次ニ來 仍致音信也。△以肴一献与湯漬令對面也。如此相伴之儀雖不可有之事候、惡黨と云、於尾州走回對門徒一段惡勢者之間、此分調請候也。一段大酒云々、△盃次第、初献愚 盃取上テ令會尺 平手 雖不可呑之事候、祝着ニ爲可令存如此 經厚、兼澄、平手又經厚、賴堯又平手又愚、此節太刀出之。又兼澄又々愚又々平手、此時返之太刀遣之。又賴堯納之也。

 

(引用:上松寅三編纂校訂『石山本願寺日記 上巻 天文12年5月17日の条』1966年 清文堂出版)

 

大意は、”天文12年(1543年)5月17日 尾張の織田信秀臣下である家老の平手政秀が、京都御所修理の挨拶に織田信秀の名代として上洛し、そのついでに贈答品を持って(石山本願寺へ)やって来た。酒と湯漬けで接待し、私と対面した。このように私が接待するなどあり得ない事だが、平手はなかなかのやり手と言うし、尾張では門徒衆の間でも名の知れた者なので、会ってみることにしたが、にぎやかな宴会になった。初盃は私で、盃を取って軽く会釈して平手に、平手は飲んではいけない事ですが、このように上手くいったので、このようになります。と言って、経厚、兼澄、平手と回り、又経厚、頼堯又平手、又私。この時太刀を出し。又兼澄、又々私又々平手、この時返しの太刀を出し、又頼堯がこれを納めた。”位の意味です。

 

 

これは天文12年(1543年)に、織田信長の父信秀が京都の御所周囲の塗塀修理のために、四千貫文(米換算で2万石相当ー約15億円)もの寄進を行ったことに関連する出来事ですが、本願寺に寄進した訳ではないので、本願寺のこの織田家家老平手政秀への厚遇は、極めて珍しい出来事だと言えそうです。

 

 

この本願寺門主証如(しょうにょ)本人自らの厚遇は、平手政秀が本願寺の尾張布教に関して非常に貢献していることを示していると考えられ、織田信長の傅役(もりやく)である平手政秀が本願寺門徒武士であった可能性を強く示唆しているものと思われます。

 

 

平手自身は後に織田信長に反駁して天文22年(1553年)に自刃していますが、本願寺の首脳たちの尾張織田家に対する評価は、平手政秀の活躍もあり、それほどの敵対関係にあったとは考えられません。

 

 

 

本願寺教団が織田信長を脅威として見始めるのは、永禄11年(1568年)9月の上洛によって中央政界に信長がデビューして以降の事と思われ、決定的なものは本願寺門主の顕如から、、、

 

 

就信長上洛此方令迷惑候、去々年以來懸難題申付而、随分成扱雖應彼方候、無其專可破却由、慥告來候、此上不及力、然者、此時開山之一流無退轉様、各不顧身命、可被抽忠節候事有候、併馳走賴入候、若無沙汰輩者、長不可爲門徒候也、穴賢々々、

 

九月六日               顕如(花押)

江州中郡
門徒中へ

 

(引用:辻善之助『日本佛教史 第六巻 中世篇之五 96頁 <滋賀県犬上郡福満村字平田 明照寺文書>』1970年 岩波書店)

 

 

大意は、”織田信長の上洛によって我々は迷惑を受けている。一昨年以来難題を出して来て、ずい分従って来て、信長の要求に応じたはずなのに、言うことを聞かなければ、寺を破却すると確かに言って来ている。もうこれ以上要求には応じられない。

 

であるなら、この時、開山の勢いの時に引き下がることがないように、各々命を顧みず、本願寺に忠節を抜きん出る事が有難い。そして奮闘をお願いしたい。もし行動なき者は、長く門徒でいるべからずだ。

 

元亀元年9月6日          顕如(花押)

近江の門徒衆へ       ”位の意味です。

 

 

 

これは、本願寺門主顕如が信長との全面戦争に踏み出した時、門徒に檄(げき)を飛ばした有名な文書です。

 

 

これで、この時以来11年にも及ぶ、本願寺顕如と織田信長のいわゆる『石山戦争』が始まり、これ以降、各地で反信長の本願寺門徒の叛乱が勃発しました。

 

これ以前には、、、

 

 

今度信長衆攝州一國平均ノ時 家々居所亂妨國中所々舊跡ヲ打破リ 寺内財寶ヲ押取リ 寺社方ノ繁昌ノ所エハ夫錢ヲカケテ切トラルヽ 前代未聞ノ事共也 石山 今ノ大坂 本願寺エハ 五千貫カケテ責トラルヽ

 

(引用:近藤瓶城『改訂 史籍集覧 第十三冊』所収「足利季世記 巻七 247頁」1968年 すみや書房)

 

 

大意は、”この度織田軍が摂津国を平定した時、あちらこちらの建物を略奪して回り、古刹なども打ち壊して寺内の財宝を奪い取った。寺社方の寺内町で繁昌しているところからは、錢を供出させ、前代未聞のことであった。石山本願寺へは五千貫の供出が命じられた。”位の意味です。

 

 

この時には信長から、自治都市堺にも矢銭2万貫が掛けられて大騒ぎとなりましたが、檄文(げきぶん)で門主顕如が言うように、石山本願寺は渋々ながらも、恭順の姿勢を取って大人しく5千貫を支払っていたのです。

 

 

つまり、本願寺側が信長を脅威と感じ始めたのは、永禄11年(1568年)の信長上洛から後の事で、それ以前に教団側が名前を聞いただけで恐怖を覚えるような対象に織田信長はなっていなかったと言えます。

 

 

 

よって本項の結論としては、永禄4年のいわゆる『清洲同盟』は、徳川家康の今川家見限り・独立と言う意味が大きく、織田信長とのこの『同盟』をもって三河国内の本願寺門徒が、家康に敵対し始めたと言うことではないと考えられます。

 

勿論、家康の今川から独立するための戦いが始まり、家康の戦費収奪が激しくなったと言う点では、門徒農民との対立がきびしくなって行ったのは間違いないところでしょう。

 

 

徳川家康は『一向一揆』をどのように終息させたの?

前述して来ましたように『三河一向一揆』は、徳川家康の三河統一戦の最中の永禄6年(1563年)秋頃に、兵糧調達を巡って起きた、家康家臣と財政豊かな本願寺の末寺との諍いから、偶発的に発生したものと考えられています。

 

 

偶発的とは言うものの、当時の三河の政治状況としては、すでに三河の農民は本願寺の大坊主を中心に門徒武士団も加えて組織化されており、しかも長らく「一揆行動」の抑え役を果たしていた本宗寺の実円(じつえん)が、すでに弘治元年(1557年)に死去しているところから、三河門徒衆の一揆行動を内部で抑えるべき人物もいませんでした。

 

 

三河での覇権確立を間近に控え、兵糧・軍費の収奪を続ける家康軍団と、「不入(ふにゅう)」の既得権をかざす三河本願寺教団は、折しも秋の米の収穫期を迎えて、衝突は時間の問題とも言えました。

 

 

一旦双方の軍事衝突が発生すると、家康の家臣団は門徒と非門徒に分れ、家康臣下の門徒武士は一揆に加わり、またこの混乱に乗じて家康に服従していたはずの国衆たちの中にも、また反家康のグループ(酒井忠尚率いる一族・桜井松平・大給松平など)も非門徒ながら一揆に加わり、大勢は家康方劣勢と考えられていました。

 

 

しかし、一揆の三河教団は、最上位本宗寺(ほんしゅうじ)の当時の住職証専(しょうせん)が不住で、言わば大将を欠いた状態となっていて、一揆全体が統一的な指揮のもとに門徒・非門徒が戦える状況にはなく、末寺の衝突がもとで一揆が始まったものの、国を倒す勢いで組織された一揆にはほど遠く、組織的軍団である家康軍の敵ではなかったとも言えそうです。

 

 

とは言うものの、、、

 

二上屋甚助 筒井甚六郎等一族十騎許 寶飯郡六名ノ郷ヨリ馳来り、神君扈従ノ兵ト共ニ競ヒ撃テ額田郡針崎ノ野迄敵ヲ追退ク時ニ 勝満寺ノ賊徒十六騎援ヒ來ル、神君唯一騎魁出シ玉フ 宇津興五郎御馬ノ側ヲ離レズ、神君御鎧ニ火炮中ルトイエ共御肌ヲ侵スニ至ラズ、彌御弱氣ヲ敵ニ見セジト駿馬ヲ進メ玉ヘバ・・・

 

(引用:木村高敦『武徳編年集成 上巻 巻之七 永禄7年の条 89頁』1976年 名著出版)

 

大意は、”二上屋甚助・筒井甚六郎ら一族10騎ばかりが宝飯郡六名郷から駆付けて来たので、家康公は旗本と共にこれに追撃を掛け、額田郡針崎まで追いかけると、勝鬘寺(しょうまんじ)に籠っている一揆軍が救援に来た。家康公は唯一騎飛び出され、宇津興五郎は御馬の側を離れずにいたところ、家康公に一揆軍の鉄炮が命中したが貫通はせず、いよいよ敵に弱気を見てはならじとばかりに御馬をさらに前へ進められた。”位の意味です。

 

このように、なんと家康自身が戦場で被弾するなど、家康軍が一揆軍の鉄砲に難渋している様が見て取れます。

 

 

徳川家康が、永禄6年~7年と約半年の間、ある意味軍事の素人集団である本願寺三河教団の一揆鎮圧に手こずったのは、門徒武士団が家康の家臣団から一揆軍に加わった事以外に、この資金潤沢な本願寺三河教団が持つ大量の鉄砲の存在が、家康軍が一揆軍に苦戦した原因のひとつであることが分かります。

 

 

こんな事情で苦戦したものの、やはり軍としての統制に掛ける『三河一向一揆』は、主君家康に敵対する気迫に欠け、門徒家臣からぞくぞくと家康に降伏し、なし崩しに一揆は解体して行き、永禄7年2月には家康軍との和睦が成立して結局一揆は解体され、家康は一向宗坊主たちとともに反家康派の武将たちをも追放し、終に三河での覇権を握る事に成功しました。

 

 

徳川家康自身は『一向宗徒(浄土真宗本願寺派門徒)』ではなかったの?

徳川家康は死期の近づいた最後の時に、、、

 

 

二日 金地院崇傳。南光坊大僧正天海幷に本多上野介正純を。大御所御病床に召て。御大漸の後は久能山に納め奉り。御法會は江戸増上寺にて行はれ。霊牌は三州大樹寺に置れ。御周忌終て後下野の國日光山へ小堂を營造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ。所司代はじめ武家の輩進拝せしむべしと命ぜらる。

 

(引用:黒板勝美編『徳川實記 第二編 元和二年四月二日の条』1990年 吉川弘文館)

 

大意は、、、

 

”元和2年(1616年)4月2日、徳川家康は金地院崇伝(こんちいん すうでん)・天海僧正(てんかい そうじょう)・本多正純(ほんだ まさずみ)ら側近の者を寝所に呼び寄せ、自分の病が重くなり亡くなった後は、

 

  1. 自分の遺体は駿河久能山(くのうざん)へ埋葬し、
  2. 葬儀は江戸の芝増上寺(ぞうじょうじ)で行い、
  3. 位牌は三河岡崎大樹寺(だいじゅじ)へ納め、
  4. 一周忌が済んだら下野国日光山に小堂を建立して祀り、
  5. 京都南禅寺金地院(なんぜんじ こんちいん)にも小堂を建立し、京都所司代はじめ武家にも礼拝させるように

 

と命じられた。”     位の意味です。

 

 

とありまして、家康(安城松平家)の菩提寺とも言うべき先祖代々のお寺『三河岡崎大樹寺』は、浄土宗鎮西派の寺院です。また、駿河久能山で埋葬を行うのは京都の吉田神道で、葬儀を行う江戸芝増上寺は天台宗の寺院です。ご承知のように京都南禅寺は臨済宗の大本山です。

 

 

徳川家康自身は、一体どこの信者なのかよくわかりませんが、葬儀関係からみる限り、少なくとも浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒ではなかったようです。

 

スポンサーリンク

 

まとめ

永禄3年(1560年)5月19日に勃発した『桶狭間の戦い』で、今川一族となり今川家の三河支配の担当武将となりつつあった徳川家康の運命は大きく変わり、三河を実質支配する戦国大名への道が開け始めます。

 

翌永禄4年(1560年)2月になって、織田方で伯父である緒川の水野信元の仲介もあり尾張の織田信長と同盟を結んだ家康は、「反今川・今川からの独立」の意図をはっきりとさせて、同年4月初旬には今川方の武将への攻撃を始めます

 

今川義元後継の今川氏真「三州錯乱」とまで言わせ、家康の西三河の平定戦は家康有利に展開して行きますが、永禄5年(1562年)秋口より、戦費の増大に地元の寺社農民からの収奪を強める松平宗家と、一向宗門徒との間で衝突が起き始めます

 

これが組織化されていた一向宗三河教団全体の争議として広がり「一向一揆」が始まります。これに、そもそも安城松平家に臣従していない一部の松平一族や、今川派重臣の酒井忠尚らと、家康の三河平定で領国を失った吉良義昭ら、腰の定まらない国衆たちが加わり大乱となります。

 

 

時に東三河平定戦も有利に進めていた最中に、家康は「一向一揆」と正面から対峙することとなってしまいました。しかも一揆軍の主力門徒武士団は、大半が安城松平家臣下であり、松平一族は二分する騒乱となりました。

 

 

一揆の中心となるべき「本願寺三河教団」側の土呂本宗寺に常駐住職が不在だったこともあり、一揆軍は軍団としての統制力に欠け、門徒武士団の上級武士がほぼ家康側についていた事から、次第に一揆は崩壊して行き、半年後の永禄7年(1564年)2月には和議が成立し「三河一向一揆」は終了しました。

 

 

家康は、一揆終息後すばやく和議条件を反故(ほご)にして、結果として大坊主たちと、反家康派の武将を追放し、領内で「一向宗」を禁教としてしまいました。

 

 

徳川家康は、この大きな「一向一揆」と言う難局を、譜代家臣たちの忠義心と協力を得て乗り越え、その後、東三河の平定と仕掛けておいた遠江への攻略を開始することが出来ました。

 

 

三河に一向宗門徒武士が多かったのは、その100年近く前に三河にやって来た、浄土真宗中興の祖である「蓮如」の力であったことが分かりました。蓮如の布教手法は、真宗の布教に武士の力を使った強引なものだったようで、その為に下野国から連れて来た武士の子孫が石川一族だったようです。

 

つまり、浄土真宗の繁栄して勢いのある教団は、強力な門徒武士団を持っている傾向があり、このため後々に織田信長を悩ますこととなって行くのですね。

 

 

また、『三河一向一揆』の発生・拡大と、永禄4年の徳川家康と織田信長の同盟締結は、時期的に直接的には関係しないことが分かりました。本願寺が織田信長に敵対するのは、永禄11年(1568年)の足利義昭を奉戴しての上洛以後のことである事がはっきりしていて、信長は永禄6年の「三河一向一揆」発生の原因ではなかったようです。

 

 

最後に徳川家康の宗教ですが、本文に書きましたように、本人の遺言では各宗派に分けて手配を指示しており、どうも要領を得ませんが、実家である安城松平家の菩提寺である岡崎大樹寺が浄土宗であることから、まず浄土宗だと見るのが妥当だと思います。

 

 

参考文献

〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第13巻』(1992年 吉川弘文館)

〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第1巻』(1979年 吉川弘文館)

〇煎本増夫『戦国時代の徳川氏』(1998年 新人物往来社)

〇新行紀一『一向一揆の基礎構造』(1975年 吉川弘文館)

〇辻善之助『日本佛教史 第六巻 中世篇之五』(1970年 岩波書店)

〇新井白石『新編 藩翰譜 第二巻』(1967年 人物往来社)

〇滋賀県立安土城考古博物館『信長と宗教勢力ー保護・弾圧そして支配へ』(2003年 滋賀県立安土城考古博物館)

〇滋賀県立安土城考古博物館『元亀騒乱ー信長を迎え討った近江』(1996年 滋賀県立安土城考古博物館)

〇近藤瓶城『改訂 史籍集覧 第十三冊』所収「足利季世記 巻七 247頁」(1968年 すみや書房)

〇笠原一男『一向一揆の研究』(1982年 山川出版)

〇木村高敦『武徳編年集成 上巻』(1976年 名著出版)

〇黒板勝美編『徳川實記 第二編』(1990年 吉川弘文館)

〇本多隆成『定本 徳川家康』(2011年 吉川弘文館)

 

 

スポンサーリンク



コメントを残す

Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.