『桶狭間の戦い』で、織田信長はどんな『戦い方』をしたの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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織田信長『戦い方』の諸説が分かります。

信長に攻められた義元がなぜ逃げれなかったのか分かります。

今川義元永禄3年の進軍経路が分かります。

織田軍論功行賞がどうなったか分かります。

 

『桶狭間の戦い』の織田信長の戦い方の諸説にはどんなものがあるの?

永禄3年(1560年)5月19日、尾張と三河の国境にある『桶狭間』での戦いで、織田信長に敗北した今川義元の尾張乱入の目的に関してはも、通説であった『上洛説』から始まって、『織田方封鎖解除説』『領土拡張説』『尾張奪取説』などありますが、寡兵の織田信長の勝利に関しても以下の諸説があります。

 

迂回奇襲説

この代表的な説の基になった小瀬甫庵『信長記』によれば、、、

 

信長卿 すは首途はよきぞ、敵勢の後の山に至て推廻すべし。去る程ならば、山際までは旗を巻き忍び寄り、義元が本陣へかゝれと下知し給ひけり。

(引用:小瀬甫庵撰/石井恭二校注『信長記 上 63頁』1981年 現代思潮新社)

 

大意は、”信長公は、「さあ!門出はよいぞ。敵勢の後ろの山の方へ進み廻り込むべし。そうするに、その山際までは旗を巻いて見つからぬ様に近づいて行き、義元の本陣へ攻めかかれ!」と命令された。”位の意味です。

江戸初期から”人口に膾炙した(じんこうにかいしゃした)”この小瀬甫庵の『信長記』により、以来近年まで、織田信長の『迂回奇襲説』が通説として伝わっています。

 

正面攻撃説

従来の通説『迂回奇襲説』に代って、1993年に『信長の戦国軍事学』で広く知れ渡った軍事史学者藤本正行氏の『正面攻撃説』は、今や『桶狭間の戦い』の本命説として評価されるに至っています。

この説は、藤本正行氏が軍事の専門家として、太田牛一の『信長公記(しんちょうこうき)』を精読して導き出した信長軍の軍事行動を、、、

 

ところで、桶狭間山の北西、わずか二キロメートル余に織田方の中嶋砦がある。桶狭間山と中嶋砦の間は浅い谷筋で直線的に結ばれているから、義元がこの危険な地形を無視したとは考えられない。彼自身は旗本とともに後方にいたとしても、その前方に一部隊(仮に「前軍」と呼ぶ)を進出させ、中嶋・善照寺の両砦を牽制したはずである。現に『信長公記』に「戌亥(北西)に向て人数を備へ」とあるではないか。今川軍は両砦に対して戦闘態勢をとったのである。こうして、善照寺砦の信長と桶狭間山の義元とは真正面から対決することになった。

(引用:藤本正行『信長の戦争 第一章桶狭間合戦 88頁』2004年 講談社学術文庫)

 

と言うことで、現在ではこの『正面攻撃説』が主流になりつつあります。

しかし、ここに『信長公記』の次の一文があります。。。

 

空晴るるを御覧じ、信長鑓をおつ取て大音声を上げて、すはかゝれかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸るを見て、水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。弓・鎗・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。

今川義元の塗輿も捨てくづれ迯れけり。

(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻 55頁』1970年 角川文庫)

 

大意は、”雨が上がるのをご覧になって、信長公は槍を取り、大声で「さあ!攻めかかれ!」と命じられました。兵は雨水でぬかるんだ土砂を巻き上げ、黒煙を立てるように攻めかかり、今川軍の陣は水をまかれたようにクワっと崩れた。弓・鎗・鉄炮・のぼり・さし物を投げだし、算を乱して逃げまどった。

今川義元の自慢の塗輿(ぬりごし)をも打ち捨てて逃亡した。  ”位の意味です。

これはどう見ても、待ち構えていた軍と攻めかかる軍との正面攻撃のシーンでないことが明らかです。崩れたとされている今川軍前軍は、松井宗信(まつい むねのぶ)・井伊直盛(いい なおもり)らの遠江勢で強兵でした。尾張の兵は、信長がやっきになって訓練を繰り返していたほど、そもそも自他ともに認める弱兵なのです。

太田牛一が『信長公記』に書いたこの光景は一体なんだったのでしょうか。いくら暴風が吹いたとしても、やって来る寡兵の織田軍を待ち受けていれば(つまり、正面攻撃であれば)、これほどもろく崩れる遠江衆ではないはずです。

軍事史研究者藤本正行氏の『正面攻撃説』は、この『信長公記』の記述をこの場面にそのまま「あり」としたわけですが、最初から逃げ腰の先陣兵士などはどの軍隊にもいません。この光景は明らかに先陣の兵ではなくて、戦闘意欲のない後方の兵たちの姿です。どう考えても納得のいかない話です。

これに関して、、、

 

この情景を見れば、信長軍は今川軍を捉えて戦機を窺っていたのに対し、今川軍は敵の接近に気づいていなかったことがわかる。つまり信長軍は、今川軍に対して奇襲をかけたのである。

・・・(中略)・・・。

信長の別動隊による奇襲を受けたのは、義元本陣ではなかった。信長からみて、本陣の後方手前にいる今川の部隊に奇襲攻撃をしかけたのである。その部隊が不意を突かれて潰走し、義元の本陣に逃げ込んだことでそこにも混乱が波及したのである。

・・・(中略)・・・。

この部隊は義元本陣よりさらに後方にいたことになる。本陣よりさらに後方にいたとすると、この部隊は後方警戒に当っていたとも考えられるが、それよりも輜重部隊であったとするほうが『信長公記』が描いた情況にうまく適合する。・・・(中略)・・・。

そして何の抵抗もすることなく敗走したのは、戦闘力がない陣夫中心の手勢であったからと考えられよう。

(引用:江畑英郷『桶狭間ー神軍・信長の戦略と実像  92~103頁』2009年 カナリア書房)

 

とあり、この部分に関して、『正面攻撃説』か『迂回奇襲説』かと言う問題を別にすれば、今川軍のもろい崩れ方の説明としては、非常に筋の通ったストーリーになっていることが分かります。

こんな事で、近年”ウケ”に行っている『正面攻撃説』も色々解明不足の問題があるようです。

 

乱取状態奇襲説

これは、別記事でもご紹介しましたが、2006年に歴史学者の黒田日出男氏が発表した説で、、、

 

其四年にあたって庚申しかも七庚申ある歳の五月、信長(公)廿七の御年、人数七百許、義元公人数二万余を卒して出給ふ。于時駿河勢所々へ乱妨に散たる隙をうかゞひ、味方の真似をして駿河勢に入交る。義元(公)は三河国の僧と路次の側の松原にて酒盛しておはします所へ、信長(公)伐てかゝり、終に義元の(御)頸を取給ふ。

(引用:磯貝正義/服部治則校注『戦国史料叢書3 甲陽軍鑑(上)品第六 122頁 』1965年 人物往来社)

 

大意は、”永禄3年(1560年)5月、織田信長27歳の年、700ばかりの兵力で、今川義元は2万の兵力を率いてやって来た。その時駿河勢があちらこちらへ「乱取り(商家・百姓家への略奪行為)」に回っている隙を見て、織田軍はその味方のふりをして駿河兵のなかに交じって行った。義元は街道端の松原で酒盛りをしている所へ、信長が切りかかり、とうとう義元の首を取った。”位の意味です。

この『甲陽軍鑑』の作者は、以前は戦国大名甲斐武田氏の重臣高坂弾正(こうさか だんじょう)だと言われていますが、江戸初期の明暦2年(1656年)には、既に板本が出ていたようで、かなり早い時期に多数の人に読まれていたもので、成立は太田牛一の『信長公記』と近い時代のものと考えられます。

天文23年(1554年)に結ばれた『甲相駿三国同盟』により、わずかながら今川軍に出兵していた武田氏は、『桶狭間の戦い』の場面に立ち会ったものと考えられ、描写は人づてに聞いたものではない情報が入っていると思われます。

・・・と言う前提で、この『甲陽軍鑑』にある記事を見てみますと、「于時駿河勢所々へ乱妨に散たる」とあり、今川軍が「乱取り」に散会して行った様子の記述があります。

今川軍が緒戦から圧倒的兵力差で楽勝ムードになっている時、今川正規軍2万5千に略奪目的で同行して来た2万近い農民兵・野武士らが「乱取り」行動に動き始めているその中に、織田軍が紛れて今川本陣へ攻め入ったと言うことのようです。

この説は、今川軍に同行する武田軍の軍監が現場で直接見たようすを、武田信玄に報告した内容が「甲陽軍鑑」に記載されていた史実と考えて、2006年9月に歴史学者黒田日出男氏が「乱取り状態急襲説」として発表したものです。

この戦国時代の『乱取り』の話は、なぜか歴史の出来事の説明の中では割愛されていますが、現実には戦国時代は当然のこととなっていたようで、今川軍とて他国へ攻め入った時には例外なく実行していたと考えられるわけです。

とは言うものの、これが『甲陽軍鑑』が示唆するように、本当に今川義元の決定的な敗因ー織田信長の勝因になったのかどうかは、まだまだ検討の余地が多いのではないかと思われます。

 

正面奇襲説

これに関しては、、、

 

重臣どもはすぐには身を動かさなかった。天候のあまりもの急変に気を呑まれていた者も多かったであろう。また、荒天下の進軍など、かれらの常識の枠外にある。にわかに出撃を命じられても当惑するしかない。だがそれを見て信長の忍耐もついに限界に達した。非常手段に訴えた、と思われる。

「この天意が、うぬらの眼に耳にとどかぬのか。」

刀剣の柄に手をかけながら、あらん限りの大声で哮り狂った。・・・(中略)・・・。

この主君の狂態をみて重臣どものほうにも変化があらわれた。ここまで劇的な舞台が揃い、そして右のような激越な言葉を吐かれてはかれらも奮い立たずにはいられなかったのである。・・・(中略)・・・。彼らはただちに直属の部下どもに出撃の命を伝えた。

ここに、真正面の敵めがけての雨中の奇襲が開始されたわけである。

(引用:太田満明『桶狭間の真実 135~136頁』2007年 KKベストセラーズ)

 

とあり、歴史小説家の太田満明氏が、この『正面奇襲説』と言えそうな説を物語調に主張されました。

つまり太田氏は、基本『正面攻撃説』の立場なのですが、『信長公記』に描かれている織田信長攻撃時の今川陣営の状況が、どう見ても”奇襲された様子”に見てとれるところから、こんな見方を思いつかれたのではないかと思われます。

とは言うものの、やはり藤本正行氏の『正面攻撃説』の亜流と言うことになりそうです。

確かに”『信長公記』に描かれている織田信長との交戦時の今川陣営の様子”は、単純な『正面攻撃説』では納得できないような気がするので、こうなるのでしょうね。

 

まとめ

織田信長の永禄3年(1560年)5月19日における『桶狭間の戦い』の戦い方に関しては、長い間通説としては、明治期の陸軍参謀本部の見解で、『迂回奇襲説』と言うことになっていました。

しかし、近年『正面攻撃説』を採る歴史家が増えています。

 

ところが、その基本史料となった太田牛一の『信長公記』の記事に関して、今川軍が奇襲を受けたと思える表現があり、今のところ、どちらもきちんと解明が出来ていないと言うのが本当のところです。

他の説としては、武田家に伝わった『甲陽軍鑑』に記載のある今川軍の「乱取り」記事を基にして、歴史学者黒田日出男氏が提唱した『乱取り急襲説』も、戦国時代の乱取りの状況から、『甲陽軍鑑』の記載事項が創作とは考えにくく、一部ではそんな場面もありえたのではないかと思われます。

但し、この記事のような事で、織田軍が今川軍を破ったのかどうかはまだまだ検証が必要と考えられます。

最期の『正面奇襲説』に関しては、『信長公記』の記事の表現に『奇襲』を受けたと思われる今川軍の様子が見て取れ、『正面攻撃説』を補完した形になっています。

一方、『正面攻撃説』の藤本正行氏が「スルー」したこの『信長公記』の奇襲表現の記事を問題にした歴史研究者の江畑英郷氏は、再び『奇襲説』を唱えており、まだまだ決着がつかない状態です。

 

 


(画像引用:善照寺砦跡ACphoto)

 

織田信長の『正面攻撃』に、不利となった今川義元は、なぜ逃げなかったの?

どんな人間でも、危険が迫って来れば身を守る「防禦行動」に出るのは当たり前です。

戦国時代の合戦時の総大将の本陣は、大将のボディガード役の近習・旗本たちが周りを固めているのが普通で、大将の眼となり耳となって、大将に危険が迫れば我が身を挺して敵を防ぎ、大将を安全に逃がすわけです。

この時、敵方の織田勢がもし『正面攻撃』だったとすると、自軍の形勢は義元も含めて本陣の人間は当然見て取れるわけで、周りに近習する旗本たちは危険とみれば、大将を逃がす行動に出ることになります。

この永禄3年『桶狭間の戦い』の今川本陣の最後の様子に関しては、、、

 

旗本は是なり。是へ懸れと御下知あり。未剋東へ向てかゝり給ふ。初めは三百騎ばかり真丸になつて、義元を囲み退きけるが、二・三度、四・五度帰し合せ帰し合せ、次第々々に無人になりて、後には五十騎ばかりになりたるなり。

(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻 55頁』1970年 角川文庫)

 

大意は、”信長から「今川本陣はここだ!ここに攻めかかれ!」と信長より命令があり、午後2時頃、全軍東の方向へ攻めかかった。初めは300騎くらいが真丸(まんまる)になって、大将今川義元を囲んで守るように引き下がって行ったが、2度3度、4度5度と攻めかかって行くと、次第に数が減って行き、とうとう50騎くらいになってしまった。”位の意味です。

これによると、どうやら今川本陣が突然襲われたことを示しています。この記述される様子は、目の前から攻めかかってくるはずの織田軍に対する本陣旗本の対応ではありません。しかし、北西中嶋砦方面に向って桶狭間山に布陣していた義元本隊へ、記述によると信長軍は「東へ向てかゝり給ふ」なので、信長軍は義元本陣の正面と言って良い角度から攻めかかっています。

しかし、義元本陣は「三百騎ばかり真丸になって、義元を囲み退きける」とあり、これは義元本陣300騎が退路を断たれて瞬時に包囲されたことを示していて、このためには信長軍は2000騎くらいが最低必要となります。

つまり、通説で言われている信長軍全軍2000騎が無傷に近い状態で、一気に一番奥にある義元本陣を包囲したことを示しています。一体どうなっているのでしょうか?

前述しましたように、旗本は戦況が悪くなれば、大将を安全に逃がすのが主要な役割です。普通「戦国の城攻め」でも、攻め手は自軍の人的損害を最小限にするために、城の完全包囲はめったにせず、一方向だけは空けて置き、籠城勢を押し出す様に追い出し落城させるのが常道でした。

本来ならこのケースも、義元本陣の退路を空けて置き、前面から今川陣営を押し込む形が普通だと考えられますが、義元本陣が「最初から真丸になった」と言う記述を見ると、信長は義元本陣の後ろ、つまり退路にも部隊を配置し、完全に包囲殲滅を計った事が明白になります。

義元本陣が逃げ回って討取られたと言うイメージが言われていますが、それは明らかに間違った見方で、もしそうなら、討死した義元は旗本連と敗走途中で追い付かれて討たれたことになるはずですが、太田牛一の記述は明らかに最初から包囲されていることを示しています。

と言うことで、本稿のテーマである「なぜ逃げなかったのか?」に関しては、「最初から包囲されて、逃げようがなかった」と言うのが回答になります。

 

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今川義元の進軍経路はどこを通ったの?

これは、通説の本命 明治期の参謀本部の「東軍行軍表」によれば、、、

本軍

5/12 藤枝(志太郡)

5/13 掛川

5/14 引馬(遠江敷地郡 今ノ濱松)

5/15 吉田(參河渥美郡 今ノ豐橋)

5/16 岡崎(額田郡)

(『日本戦史 桶狭間役』の記載の予定は、ここまでです。)

後は、、、

5/17 池鯉鮒

5/19 桶狭間山

 

となって行きます。

ここからは、地元桶狭間の郷土史家尾畑太三氏の説に従って行きますと、、、

 

5/18には沓掛城へ入城などと言う文献もありますが、地元の郷土史家の研究では、永禄当時の街道状況(鎌倉道が池鯉鮒で大高道と分岐する事)から今川本隊が池鯉鮒から沓掛まで行軍した形跡はなく、19日に池鯉鮒から桶狭間山まで大高道に沿って直接行軍したと言うのが正しいようです。

また、池鯉鮒から今川軍は、大高へ向かう本隊と善照寺砦・鳴海城方面へ向かう別動隊と別れたことが分かっていますが、5月12日に駿府を出た今川義元の本隊は、前日に出発した先発隊と一列になってそのまま岡崎に到着した訳ではなく、引馬(浜松)を出た後に、浜名湖の南側と北側(気賀経由)に分かれて両道分進行軍しています。

こうすることで、目的地への行軍時間を節約できることを、永年の三河侵略の経験から今川義元は知っていて、進出軍団を二分する動きもスムーズであった、つまり慣れていたのではないでしょうか。

尾張侵略のこの時も池鯉鮒で別れ、陸路鎌倉街道を鳴海方面から熱田へ向かう予定の別動隊と、大高から渡海する予定の義元本隊が、最終的に尾張中央部で合体しての「清須攻め」がプランに入っていたのかもしれません。

史実として、大高城下の黒末川(天白川)河口には、すでに熱田への渡海用に、尾張海西郡河内村二の江鯏浦(うぐいら)の一向宗徒服部左京助政光(はっとり さきょうのすけ まさみつ)の軍船1000隻が、今川軍を載せる為に待機していた事が分かっていますので、義元は、本気で反信長の尾張守護斯波義銀・吉良義安らが準備した陰謀プラン(織田信長誅伐計画)に乗っかるつもりだったようです。

 

首を獲るなと言った織田軍の論功行賞はどうなったの?

永禄3年の『桶狭間の戦い』の折、織田信長は、今川攻撃命令を出す直前に訓令し、、、

 

是非に稠倒し、追崩すべき事案の内なり。分捕をなすべからず、打捨たるべし。軍に勝ちぬれば此場へ乗つたる者は家の面目、末代の高名たるべし。只励むべしと御諚の処に、・・・。

(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻 54頁』1970年 角川文庫)

 

大意は、”「是非とも多くの敵を倒し、敵勢を追い崩すことをすべし。敵の首を獲る事はしてはならない、捨てておけ。戦に勝てばこの場に参戦していた者はその家の手柄・末代までの高名である。ただただ励め!」とご命令なされたところへ、”位の意味です。

『首獲り禁止』の命令を出しています。大兵力の軍団を相手にするため、いちいち手柄のために首狩りをしていては、戦いにならないと判断したための命令と考えられます。

しかし、信長の言うように、この場に参陣しただけで『家の名誉』などと言われたとしても、実際に手柄の褒賞に預かるには具体的なものがないと主張出来ないので、皆武士たちは果たして信長の言葉を本当に信用したのでしょうか?

そこで、信長軍の武士たちは実際にどうしたのかと言うと、、、

 

おけはざまと云ふ所は、はざまくてみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事限りなし。深田へ迯入る者は所をさらずはいづりまはるを、若者ども追付き追付き二つ・三つ宛手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。頸は何れも清須にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜めならず、もと御出で候道を御帰陣候なり。

・・・(中略)・・・、

上総介信長は、御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるゝ程に、日の内に清洲へ御出でありて、翌日頸御実検候なり。頸数三千余あり。然る処、義元のさゝれたる鞭・ゆがけ持ちたる同朋、下方九郎左衛門と申す者、生捕に仕り進上候。近比名誉仕候由候て、御褒美、御機嫌斜めならず。

(引用:奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記 首巻 56~58頁』1970年 角川文庫)

 

大意は、”桶狭間と言う所は、谷が入り組んで、深田には足を取られ、灌木が生い茂り、難所と言うに十分なところだ。逃げて深田に嵌り這いずり回る敵兵を、若い武士たちが追い詰めて討取り、その首を二つ三つ手に手に持って、信長公の前へ持ち込んだ。首はどれも清須で首実検だと信長公は言われたが、今川義元の大将首をご覧になると御満足の様子で、来た道を清須へ向かって帰って行った。

・・・(中略)・・・、

信長公は、馬の先に今川義元の首を持たせて、急いでその日の内に清須へ帰城し、翌日首実検をおこなった。首の数は3000もあり、そんな時、義元の持っていた鞭・手袋をもった同朋衆を、下方九郎左衛門と言う者が生け捕り、信長の前に突き出した。(この者は今川義元をよく知る人間なので、義元の首実検が出来ることから)この合戦一番の手柄と褒められ、褒賞に預かった。信長の機嫌も極めて良かった。”位の意味です。

とあり、結局誰も信長の「首獲り禁止」の命令を守らなかったことが明らかですが、そんな命令を下した織田信長も大勝利に上機嫌だったことがわかります。この首実験も順調に進み、結局論功行賞もそれなりに、持ち込んだ首で証明された者には出たものと考えられますが、しかし通説では、沓掛城などの一番の褒賞に預かった者は、今川義元の所在を信長へ的確に知らせた簗田出羽守だと言う話が伝わっています。

ところが不思議な事に、信頼できる「一次史料」には、織田信長から簗田出羽守に通説にあるような、法外な褒賞(沓掛に3000貫の知行地と沓掛城)が出されたとの記事は見つけることは出来ませんし、これまで歴史家の調査でも見つかっていないようです。

『正面攻撃説』を提唱された軍事史家の藤本正行氏の指摘によれば、、、

 

今川義元と戦の時、簗田出羽守よき一言を申し、信長公大利を得給い、其の場にて沓懸村三千貫の地を賜う。また毛利新助は義元の首をとりしかども、出羽守殿よりは恩賞かろし、此のこと信長記にのせし所に、すこし異なる故にこゝに記しぬ。

(引用:奥野高広解説/神郡周校注『備前老人物語 78頁』1981年 現代思潮社)

 

大意は、”永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』の時、簗田出羽守が織田信長によい情報を伝え、結果信長公は今川との戦いに勝利を得、その場で沓懸村三千貫の知行を与えた。また毛利新助は今川義元の大将首を獲ったのに、簗田出羽守より恩賞が少なかった。この事は『信長記』にある記述とすこし異なるのでここに書いておく。”位の意味です。

とあります。この本『備前老人物語』(江戸初期の古老の聞書)に記載された内容が人口に膾炙したのではないかとの指摘でした。

小瀬甫庵『太閤記 巻第一』にもほぼ同じ文章の記事があり、どちらが先に書き写したのか分かりませんが、一方尾張の地元史料(江戸時代史料の『尾張志』・『張州府志』)では、永禄3年5月19日以降空城になった沓掛城には織田玄蕃が入っていて岡崎城の家康と小競り合いをしていたとの記録があり、簗田出羽守との関係も曖昧なことから、この「簗田出羽守への褒賞の件」に関しては、本当のところよく分からない感じです。

本題に戻りますと、織田信長の「首獲り禁止」にも拘わらず、織田軍兵士は総崩れとなった今川軍の兵士の首を獲って廻り、結局それに従って、翌日から清須城で論功行賞が行われた様子でした。

 

今川氏真はなぜ弔い合戦をしなかったの?

本件は別の記事でも書いたことですが、、、

中世期の日本の合戦は、戦闘の規模の割に死傷者の数が少なく、戦力がそれほど落ちていないので、戦費の調達に目処がつけば、案外早期に再戦を行っているケースが多いのが特徴だと思います。

しかし、全部がそうではなくて、壊滅的な被害を受けている場合は、再起に時間がかかったり、一族滅亡の道を辿ることになります。

永禄3年の今川家の場合は、当主が討死すると言う事態を迎え、結果的に8年後には戦国大名としては歴史の舞台から消えて行くことになりました。

では当時、今川家に何が起こっていたのでしょうか?

『改正三河後風土記』の記述によって、戦場の現場では、、、

 

  1. 戦場で義元を守っていた重臣・駆け付けた重臣は、義元討死後も親族を中心にその場に居残って斬り死した。
    「随一の勇士五百八十三人、義元の討死と聞て、其場を去らず枕をならべ討死す。」
  2. 義元討死の報に接した後詰の重臣たちは、戦いに参加することなく城を捨てて戦場から離脱した。
    「今川方大軍なれども、大将を討れ茫然としてあきれ迷ひ、吊軍せん心も付ず、瀬名駿河次郎親範・朝比奈備中守泰能・同小三郎泰秀・三浦右衛門佐義鎮等は、地鯉鮒・沓懸等の城々を守り居たるが、一戦にも及ばず、城を捨て駿州へ逃げ帰る。」

織田信長にはこの戦闘後、その場での「今川領への侵攻計画」はなかったので、信長は清須城へ引き揚げ、敗れた今川軍は駿河へ撤退して、家督の今川氏真の下で『今川家中』で、善後策の協議と言うことであったと考えられます。

松平元康(徳川家康)の三河松平軍は、合戦後も城番として大高城に居残っていたものの、元康の叔父織田方武将緒川城主水野信元(みずの のぶもと)からの勧めもあって、大高城を引き払い三河岡崎へと戻ります。

そして、退却する今川勢と入れ替わりに今川家の岡崎城城番として入城した徳川家康は、今川家の一員として今川氏真から、今川領西三河の維持管理を任され、義元後継の今川氏真が西三河の安定のため出陣して来るのを待つ形になりました。

ところが前述(小林正信説)のような政治構図により、織田軍によって今川軍の上洛の動き?が止ったのを見た上杉謙信は、関東管領上杉憲政(実は予ての将軍義輝の意向)の求めに応じて、8月になって越山し相模の北条氏康を叩くために関東へ出陣します。

これに対する古河公方方の北条氏康の求めに応じて、北条氏救援の為に今川氏真は関東への出兵(永禄4年3月武蔵国河越城への出陣)を余儀なくされ、事実上、三河への出兵は困難となりました。

この動きを見て徳川家康は、今川氏真による三河統治は困難と判断し、叔父水野信元の仲介で、翌永禄4年(1561年)2月に織田信長と以後20年も続くこととなる「同盟関係」に入り、4月11日に今川方の牛久保城(愛知県豊川市)を攻撃し、はっきり今川家から離反します。

これをきっかけに東三河の国衆たちの今川家からの離反が始まり(三州錯乱ーさんしゅうさくらんーと言う)が始まり、永禄6年には遠江引間(浜松)の飯尾(いのお)氏ら遠江の国衆たちの離反が始まり(遠州忩劇ーえんしゅうそうげきーと言う)、永禄11年末には、姻戚関係を破棄して武田信玄が駿河へ攻め込み氏真は駿府城を追い出され、逃げ込んだ掛川城へ永禄12年に、西から徳川家康が攻めかかり、今川氏は降伏して戦国大名の座から滑り落ちます

永禄年間当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった太守今川義元を西上させた「駿甲相三国同盟」が、今度は息子の今川氏真の首を絞めると言う皮肉な結末となりました。

 

まとめ

やはり、太守今川義元の油断なのでしょうか?

信長は善照寺砦などの後詰に入って今川軍に抵抗するものの、最終的には抵抗戦に手を焼いて、砦を放棄して徐々に清須へ引き揚げて行くと踏んで、義元は大高から渡海した部隊と鎌倉街道を進軍した部隊で、信長を挟み撃ちにでもするつもりだったのかもしれません。

ところが信長は、義元の想定外の速さで、まだ軍を進めている途上の義元に襲い掛かって来たと言った処でしょうか。今川義元の戦機に至る気持ちの準備が整わない内に、織田信長に不意を突かれたとでも言う合戦だったようです。

歴史界を騒がせている『桶狭間の戦い』における織田信長の攻撃方法は、『迂回奇襲説』か『正面攻撃説』かと言う話で盛り上がっているようですが、今のところどちらとも言えない感じです。

『正面攻撃説』に関して、見えている織田軍の攻撃に対して、不利とみれば退却するのが普通ですから、『なぜ今川義元は逃げ遅れたのか?』ですが、やはり逃げる時間がなかった、そんな状況になってしまったとしか言えないようです。

この状況で、『信長公記』にあるように包囲されて様子をみると、信長は正面から攻めて来たとしても、信長軍の一部は義元本陣の後ろへ廻っていたことを否定は出来ないような感じです。

義元の進軍状況から、大軍を時に二分させて行動する傾向を見せており、尾張に侵入してからも、池鯉鮒(ちりゅう)を出てところで、鎌倉本道と大高道へ軍を分岐させる作戦をとった可能性があり、義元本隊の兵力が見かけより大きく落ちていたのではないかと疑われます。

偶然かもしれませんが、そんな今川軍の軍事行動を簗田・蜂須賀・前野の細作たちを多数放って、今川軍の行動を監視していた信長に今川軍の池鯉鮒での分岐行動が伝わり、そこを突くタイミングを計って清須を出陣したものと思われますので、信長の作戦が広い場所での野戦や、攻城戦を企画していなかったことは明白です。

小瀬甫庵『信長記』にある簗田出羽守の報告は、おそらく今川が確実に二分したことの情報確認と、今川本陣の位置確認だったと思われます。『信長記』にあるような簗田出羽守の進言があったかどうかは不明ですね。

もし今川氏真が、「弔い合戦」で三河・尾張への再遠征を実行していたら、織田信長の天下取りはなかったと思われますので、その後の豊臣政権も徳川政権もどうなっていたか分からないところでした。

本文で記述しましたように、今川氏真が弔い合戦をしなかったのは、父今川義元に尾張侵攻を可能にさせた「駿甲相三国同盟」が、今度は息子の今川氏真の首を絞めると言う皮肉な結末となったと言うことだと考えられます。

 

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参考文献

〇小瀬甫庵撰/石井恭二校注『信長記 上』(1981年 現代思潮新社)
〇藤本正行『信長の戦争』(2004年 講談社学術文庫)
〇奥野高広/岩沢愿彦校注『信長公記』(1970年 角川文庫)
〇江畑英郷『桶狭間ー神軍・信長の戦略と実像』(2009年 カナリア書房)
〇太田満明『桶狭間の真実』(2007年 KKベストセラーズ)
〇尾畑太三『証義・桶狭間の戦い』(2010年 ブックショップマイタウン)
〇尾畑太三『桶狭間古戦論考(新装版)』(2012年 中日出版社)
〇『愛知県郷土資料叢書 第十九集 張州府志(全)』(1974年 愛知県郷土資料刊行会)
〇『尾張志 愛知郡』(1979年 東海地方史料頒布会)
〇桑田忠親監修/宇田川武久校注『改正三河後風土記(上)』(1976年 秋田書店)
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