執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『桶狭間の戦い』で、織田信長は今川義元になぜ勝てたの?
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・織田信長の『桶狭間の戦いの勝利』は、偶然だったの?
・実は、実際の場面で両軍の兵力差があまりなかった!
・ラッキー!信じられない事に今川軍は、『乱取り(略奪行為)』に夢中になっていたかも。
・これもラッキー!今川家の大軍師『雪斎』が死没していた!
・信長は作戦を重臣には洩らさなかった!
目次
実際には今川軍と織田軍の兵力差はほとんどなかった!ホント?
この件に関しては、何度も引用しますが、あの大久保彦左衛門の『三河物語』の記述が有名です。。。
評定には、鵜殿長勿を早長々の番をさせて有り。誰を替にか置とて、誰か是か云内、良久敷誰とてもなく、さらば元康を置申せとて、次郎三郎様を置奉りて、引除処に信長者思ひの儘付給ふ。
駿河衆是を見て、石河六左衛門と申者を喚出しける。・・・(中略)・・・、喚て云けるは、此敵は武者を持たるか、又不持かと云。
各の不及仰に、あれ程わかやぎて見えたる敵の、武者を持ぬ事哉候はん歟。敵は武者を一倍持たりと申、然者敵の人数は何程可有ぞ。敵の人数は、内ばを取て五千も可有と云。
其時各笑て云。何とて五千者可有ぞと云。其時六左衛門打笑て云。かたかた達は人数の積は無存知と見えたり。
かさに有敵を、下より見上て見る時は、少勢をも大勢に見る物成。下に有敵をかさより見をろして見れば、大勢をも少勢に見る物にて候。旁々達の積には何として五千より内と被仰候哉。
(引用:小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』1965年 人物往来社)
大意は、”永禄3年(1560年)5月19日朝の軍議において、「鵜殿長照(うどの ながてる)にはもう長々と大高城の城番をさせており、誰かと交代をさせねばならない。誰が良いのか」とあり、ややあってから誰からともなく、「松平元康(まつだいら もとやすー徳川家康)と交代ならよかろうと。」
家康様は大高城へ入られたが、松平軍が落とした丸根砦を引き払った後に、清須より織田信長が出陣して来た。
それを見ていた今川軍は、大高城へ移動して来た松平衆の強者石河六左衛門(いしかわ ろくざえもん)を呼びつけた。・・(中略)・・・、そして問い糺すには、「あのやって来た織田軍には武装兵はいたのかいないのか?」と。六左衛門答えて曰く「言うまでもなく、あれほど元気のいい軍団に武装兵がいない訳はありません。敵は我々の2倍の兵力を持っているでしょう。」と答えた。
「ならば、具体的にどのくらいの兵力とみるか?」と聞かれ、「敵の人数は、控えめに見ても5000はくだらない」と申し述べた。
今川方武将たちは、それを聞いて大笑いし、「どうして5000もの兵力がいるのだ?」と、対して六左衛門も笑い、「皆さま方は敵兵力の見積もり方をご存じないとみえる。かたまっている敵と言うものは、下から見上げる時は寡兵が大兵に見えるが、上から見下ろす時は、大兵が寡兵に見えるものなのです。皆さま方はどうして5000より少ないと考えられるのですか!」 ”位の意味です。
当時家康率いた松平軍は2500名位と考えられていますので、石河六左衛門の見立て通り2倍なら、5000名以上の軍団と言う意味になり、付城にいる守備城兵以外に5000以上の新たな織田の軍勢が桶狭間の戦場に現れたことになります。
今川の侍大将たちは、領主今川義元との軍議で、織田信長の動員兵力が3000名に満たないほどの弱小軍団に過ぎない事を聞かされていますので、松平家の石河六左衛門が自分の目で実際に見て来た報告も容易に信じなかったことでしょう。
仕組みがどうなっていたのかは別稿に譲りますが、ここでは、丸根砦に程近い善照寺砦に駆け付けて来た織田信長が、通説の2000名ではなくて、5000以上の兵力を持っていた可能性があることを記憶しておく必要がありそうです。
この後、同日午の刻(昼12時頃)過ぎのゲリラ豪雨が収まった頃より、織田軍と今川軍の衝突が始まり、遠江の有力国衆松井宗信(まつい むねのぶ)・井伊直盛(いい なおもり)軍ら5000が陣取る今川軍本隊が、織田軍により打ち破られて、そのまま今川本陣迄大崩れすることになります。
今川軍は、にわか仕立ての陣立てではなくて、桶狭間山の本陣の設営は事前に計画されていたことが、近年知られています。そして、本軍の陣立ての方角は、織田信長軍が来るであろう方角、北東向きに作られていたことも分かっています。
この『桶狭間の戦い』は、以前の通説では『迂回奇襲説』が主流でしたが、近年は『正面攻撃説』が有力になりつつあります。
しかし、臨時設営ではない桶狭間山の「今川義元本陣」を守る今川本隊の陣立てがきちんとなされていた以上、もし信長が「正面攻撃を敢行した」とすると、いくら精鋭を揃えた信長の軍団とは言え、前面の今川軍を上回る兵力が必要であったことは自明の理となります。
この『桶狭間の戦い』の両軍の兵力差は、、、
御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。・・(中略)・・・、
・・・家老の衆馬の轡の引手に取付き候て、声々に申され候へども、ふり切って中嶋へ御移り候。此時二千に足らざる御人数の由申候。・・・(中略)・・・、
(引用:太田和泉守/奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記 首巻』1970年 角川文庫)
大意は、”敵将今川義元は、45000を引率して桶狭間山に人馬を休めていた・・・・家老たちは馬の轡に取り付き、声を枯らして止めたが、織田信長は中嶋砦へ移っていった。追従兵力は2000にも満たなかった。・・・”位の意味です。
と一級史料とされる『信長公記 首巻』にあり、これが後世に「両軍の兵力差の印象」を決めました。
しかし近年の説のとおり、信長が『正面攻撃』で今川本隊を押し切ったのであれば、正面の今川方の松井軍・井伊軍が5000とすると、最低これを超える兵力が必要であったことは論を待ちません。
これをまとめてみると、、、
- 今川軍の動員兵力が広域に分散され、押し寄せる織田軍より今川本陣の正面がたまたま寡兵になっていた
- 織田軍の攻撃隊が、歴史家の先生方が指摘されるように、ごく狭い範囲に集中的に攻撃を厚くして今川本隊を打ち破った
- 本当に織田軍の実働兵力は今川軍本隊を上回っていた
くらいが信長に有利に働いた話になるのでしょうが、いずれも一級史料に確証なく説得力に乏しいところです。
(画像引用:桶狭間古戦場ACphoto)
今川軍は兵士たちが『乱取り(らんどり)』に夢中になって、守備がおろそかになっていた!そんな事あるの?
この事は戦国大名甲斐武田家に伝わる『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に記載されています。。。
其四年にあたって庚申しかも七庚申ある歳の五月、信長(公)廿七の御年、人数七百許、義元公人数二万余を卒して出給ふ。于時駿河勢所々へ乱妨に散たる隙をうかゞひ、味方の真似をして駿河勢に入交る。義元(公)は三河国の僧と路次の側の松原にて酒盛しておはします所へ、信長(公)伐てかゝり、終に義元の(御)頸を取給ふ。
(引用:磯貝正義/服部治則校注『戦国史料叢書3 甲陽軍鑑(上)品第六 122頁 』1965年 人物往来社)
大意は、”永禄3年(1560年)5月、織田信長27歳の年、700ばかりの兵力で、今川義元は2万の兵力を率いてやって来た。その時駿河勢があちらこちらへ「乱取り(商家・百姓家への略奪行為)」に回っている隙を見て、織田軍はその味方のふりをして駿河兵のなかに交じって行った。義元は街道端の松原で酒盛りをしている所へ、信長が切りかかり、とうとう義元の首を取った。”位の意味です。
この『甲陽軍鑑』の作者は、以前は戦国大名甲斐武田氏の重臣高坂弾正(こうさか だんじょう)だと言われていますが、江戸初期の明暦2年(1656年)には、既に板本が出ていたようで、かなり早い時期に多数の人に読まれていたもので、成立は太田牛一の『信長公記』と近い時代のものと考えられます。
天文23年(1554年)に結ばれた『甲相駿三国同盟』により、わずかながら今川軍に出兵していた武田氏は、『桶狭間の戦い』の場面に立ち会ったものと考えられ、描写は人づてに聞いたものではない情報が入っていると思われます。
・・・と言う前提で、この『甲陽軍鑑』にある記事を見てみますと、「于時駿河勢所々へ乱妨に散たる」とあり、今川軍が「乱取り」に散会して行った様子の記述があります。
今川軍が緒戦から圧倒的兵力差で楽勝ムードになっている時、今川正規軍2万5千に略奪目的で同行して来た2万近い農民兵・野武士らが「乱取り」行動に動き始めているその中に、織田軍が紛れて今川本陣へ攻め入ったと言うことのようです。
この説は、今川軍に同行する武田軍の軍監が現場で直接見たようすを、武田信玄に報告した内容が「甲陽軍鑑」に記載されていた史実と考えて、2006年9月に東京大学名誉教授黒田日出男氏が「乱取り状態急襲説」として発表したものです。
発表当時は大反響があったと言いますが、この令和の時代になるとこの説を採る学者・研究者は少ないように感じます。
この今川正規軍に同行する2万近い「農民兵・野武士がいた」と言う見方に抵抗があるかと思いますが、当時の状況を見てみますと、、、
永禄三年(一五六〇)秋には、遠江国長下郡の浅羽・柴(以上、浅羽町)・江河(浜松市)などが「近年、水損ゆえ不作」のため、水路を改修して新田を開く大工事が進められていた。この年は、夏の終わりまでひどい日照り、秋は一転して長雨となり、三年病といわれた疫病が流行し、・・・
(引用:静岡県『静岡県史 通史編2 中世 第3編 戦国時代の静岡 第8章戦国の社会と城館の発達 1111頁』1997年 静岡県)
とあり、永禄年間のこの頃は、豊かな米作地帯であった東海地方も天候不順が続いて、飢饉の状況であったことが分かります。
また、戦国時代当時の農村民と戦国大名らとのやり取り状況は、、、
右申上候通 信玄公度々遠州江御出被成候付。・・・(中略)・・・、御年貢を半分ツゝも信玄公之方へ上ケ申候得ハ 其所へハ夜打亂取杯入不申候。然共見付之者共之儀ハ権現様江御奉公仕。其上信玄公之方へ年貢出シ可申とも不申居留り罷有候付。信玄方ゟ度々夜打・亂取を入申候。
或時信玄衆遠州二俣ゟ見付町へ夜打ニ參候ニ付。見付町六郎右衛門・孫左衛門・九郎右衛門と申者三人申合見付省光寺山之上ニ相待。夜打之者罷歸候を聲を合申候へハ 亂取仕候物を捨遁申候。夜打之者壹人鍋を戴キ子をくれ申候所を六郎右衛門 追掛ケ切ころし申候。・・・
(引用:靜岡縣『靜岡縣史料 第五輯 遠州古文書 44成瀬文書 23見付町田畑定納由緒書上控 177頁 』1966年 角川書店)
大意は、”右に申し上げました通り、武田信玄公はたびたび遠江へ出陣なされています。・・・、年貢を半分でも信玄公に払いますと、その場所には夜打・乱取りには入って来ません。しかし見付の衆は徳川家康様には御奉公致しますが、信玄公には年貢を出すと言いながら、居なくなってしまうものですから、武田方はたびたび「夜打・乱取り」に入って来ます。
ある時、遠州二俣(ふたまた)城より見付の町に夜打に参りましたところ、見付の六郎右衛門・孫左衛門・九郎右衛門と言う3人が申し合わせて見付の省光寺山へ(武田軍の乱取り中)避難して省光寺の山の上で終わるのを待っていました。夜打の兵が乱取りを終わって帰り間際に、3人で合わせて大声を出すと、武田兵たちは慌てて、乱取りしたものを捨てて逃げ出しました。その内の一人が鍋を抱えていて逃げ遅れたので、六郎右衛門は追い掛けて切り殺しました。”位の意味です。
このように、戦国時代は合戦があると、戦国大名に率いられた農民兵たちは「乱取り」と言う略奪行為を常習的に行っていたことがよく分かります。
ここで、見付の百姓六郎右衛門が一人で追っかけて行き、逃げ遅れた武田兵を切り殺してしまいますが、相手も乱取り目的で信玄軍に入っている農民兵らしいことが分かります。
こんな具合ですから、今川軍が大軍で尾張に乱入してきた永禄3年(1560年)5月19日に、今川軍に楽勝ムードがまん延していたとすれば、黒田日出男先生の『乱取り状態急襲説』もありえないことではなかったと言えそうです。
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信長ラッキー!今川軍にはもう軍師太源雪斎がいなかった!
近年の研究で今川義元は、今川氏親(いまがわ うじちか)の正室寿桂尼(じゅけいにー中御門胤宣の娘)の実子ではなく庶子ではないかとされ、父氏親の順番から言うと三男で、天文5年(1536年)3月17日に直系(正室寿桂尼の子)の嫡男氏輝(うじてる)と四男彦五郎の不可思議な同日急死を受け、後継争いの筆頭に躍り出ました。
側室福島(くしま)氏の子(同じく庶子)で出家していた二男玄広恵探(げんこう えたん)も、譜代の有力重臣福島氏の勢力が氏親正室である寿桂尼を仲間に引き入れ、天文5年(1536年)4月27日に叛乱「花蔵の乱ーはなくらのらん」を起し、跡目争いに両派が対立し、今川家を二分するお家騒動になりました。
そもそも四男彦五郎誕生まで、氏輝の次の地位にあった栴岳承芳(せんがく じょうほうー義元)の師匠格の太源崇孚雪斎(たいげんそうふ せっさい)は、如才なく今川家と京都の太いパイプ役(取次)を務めており、5月3日には機敏に「栴岳承芳」には将軍足利義晴より偏諱(へんき)を貰い「義元」となって家督を認められ、今川家内の義元派を糾合し、又期を逃さず瑞渓院(嫡男氏輝妹で北条氏康の妻)の伝手より相模の北条氏康(ほうじょう うじやす)の援軍も得て、北条軍の武力をもって福島一族を殲滅して玄広恵探を自刃させて福島一族を含む反対派を一掃し、義元の家督を確定させました。
後年の豊臣秀吉ばりの手際の良さから、この雪斎がお家騒動の陰謀を企画したのではないかと勘繰るほどです。
しかし不手際もあり、政権掌握に力を借りて恩義ある相模の北条氏康の反対を押し切って、甲斐の武田と姻戚関係を結んだところ、それを理由に北条軍に駿河東部を制圧される「河東一乱」が勃発します。
これも天文14年までには北条との間で収まりがつき、天文15年(1546年)から重臣となった太源雪斎・常に突撃隊長を務める朝比奈泰能らが中心となって、義元の三河侵攻が開始されます。
一方、尾張の織田信長の父信秀は、尾張守護斯波氏の失地回復の意向を受け、混乱する今川家をよそに西三河への影響力を強めていました。この天文15年(1546年)には東から今川、西から織田と連携する形で三河攻略が進みますが、天文16年(1547年)秋、三河松平広忠は劣勢となって安城・岡崎と失い始めると援助要請を今川に出し、それを受けた今川氏は織田氏との対決姿勢へと変わって行きます。
太源雪斎主導で天文17年(1548年)3月19日、岡崎郊外の小豆坂において今川軍と織田軍の衝突『小豆坂の戦い』が起こりました。今川義元の三河侵攻作戦は、雪斎が中心となって進めていました。
このように外交・政治両面において、太源雪斎は、出家させられて以来幼少の頃より義元の軍師であり、指導者であり続けました。
そして、もうひとつの義元の大きな柱は、朝比奈泰能(あさひな やすよし)でした。朝比奈氏は、元々駿河・遠江にまたがる国衆で、丹波守・駿河守系と懸川城主であった備中守系の2系統がありましたが、泰能は備中守系の懸川城主でした。
朝比奈泰能は、永正12年(1518年)に寿桂尼の実家である京都中御門家から嫁をもらい、今川家と濃厚な姻戚関係を結び、今川家を最後まで守る有力武将として信頼を得て、今川一族の中で重きを増してゆくことになりました。そして常に義元の侵攻計画の先陣を務めて行きます。
こうした有能な人材に後押しされ、また手強い相手の尾張織田信秀が病気で倒れると言う幸運にも恵まれて、今川義元の勢力は次第に三河から尾張国境地帯へと順調に膨らみ始めました。
ところが、今川義元の頭脳だった太源雪斎が弘治元年(1555年)閏10月10日に死去し、その2年後の弘治3年(1557年)8月晦日には、義元・今川軍団の後ろ盾的存在の朝比奈泰能が死亡してしまいます。
それから3年後の永禄3年(1560年)5月19日、42歳になった今川義元は、頼りにしていた重臣の太源雪斎と朝比奈泰能を失ったままで、難敵織田信秀の嫡男で新進の武将織田信長と尾三国境の『桶狭間』で対戦することとなりました。
単なる結果論に過ぎませんが、もし最盛期の太源雪斎と朝比奈泰能が率いる今川軍団とぶつかっていたら、織田信長は鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で吹き飛ばされていたかもしれません。
しかし、運命は今川義元から「必要な頭能」と「頼りになる武力」をもぎ取ってしまっていたようです。
信長は最後まで作戦を軍議で明かさず、事前に今川方に織田軍の動静が全く漏れなかった!
東海随一の弓取りと称される駿遠三の太守今川義元が、4万5千もの大軍で押し寄せて来る前日永禄3年(1560年)5月18日の清須城内での織田家の軍議は、、、
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞え候の由、十八日夕日に及んで佐久間大學・織田玄蕃かたより御注進申上候処、其夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色色世間の御雑談迄にて、既に深更に及ぶの間帰宅候へと御暇下さる。家老の衆の申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは此節なりと、各嘲弄候て罷帰へられ候。
(引用:太田和泉守/奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記 首巻』1970年 角川文庫)
大意は、”今川義元が沓掛に到着し、「18日の夜になって大高城へ兵粮を入れ、織田の援軍が通れないように19日朝の満潮時間に、鷲津・丸根の砦に攻撃を掛けて来るのは確実」と、18日の夕方になってから、丸根砦の佐久間大學、鷲津砦の織田玄蕃より情報連絡があった。しかし、その夜の軍議はその対策はまったくなく、世話話に終始して、夜が更けて解散せよと命じられた。家老たちは、「運も尽きると、智慧の鏡も曇るものだ!」と罵りながら、帰宅して行った。”位の意味です。
つまり、簗田出羽守・蜂須賀小六などを駆使して情報収集を行って、今川軍の動静を正確に把握し、既に直属部隊・腹心の部下たちへの合戦の手配りを終えていた織田信長は、信用のおけない宿老たちには、翌日の作戦を一言も洩らすことなく、「大うつけ」ぶりを発揮して、今川の間者に作戦情報が軍議の席から漏れることを防いでいたものと考えられます。
織田軍全軍でも5000~6000までの兵力と事前の情報で見積もっていた今川義元は、前日より清須からの信長の目立った動きの情報もないため、善照寺砦に入った信長軍を孤立させるため、予定通り池鯉鮒で分岐して鎌倉街道をすすむ今川別動隊1万と対峙させ、大高道を行く義元本隊は大高城下、黒末川(現天白川)河口に待機させている服部党軍船1000艘に分乗して、海途、熱田へ渡り清州を攻め落として尾張を奪取する計画であったと考えられます。
しかし、前日より今川軍には鈍重な動きにみせていた信長本隊の行動は、じつに迅速で、義元の大軍が予定地点に達する前に、中嶋砦より鎌倉道と大高道の間を駆け抜けて、義元本隊の前面に到着したものと考えられます。
この『桶狭間の戦い』の今川義元側の敗因は、事前には三尾国境地帯の鳴海・大高を調略していた義元が、いざ合戦が近づいた段階で、新たな織田側武将の調略に失敗していることだろうと考えられます。
尾張の国衆たちも自分が可愛いはずですから、『信長公記』等が騒ぎ立てているように、今川義元のような巨大勢力が目前に迫っているこの時、尾張の信長が頼りにしていない重臣たちの中で、名君だと思われてもいない織田信長を見限って、鳴海の山口教継のように今川方へ寝返る武将が必ずいるはずなのです。これが戦国武将の常識です。
しかし、鳴海の山口教継と笠寺の戸部新兵衛が寝返って以来、優勢な今川勢に寝返った話は皆無なのです。ここで信長がいくら信用ならん奴らだと言っても、もし柴田勝家や林秀貞、佐久間信盛クラスの家臣で寝返る者がその時いたら、尾張は今川家のものになっていたに違いありません。
美濃の道三殺しの斎藤義龍と織田信長は犬猿の仲なのですから、義元のやりようはいくらでもあった気がします。判然としませんが、今川方の調略がうまくゆかなかった何か根本的な原因があるようです。そこに『桶狭間の戦い』における織田信長勝利の大きな理由があるようです。
織田信長の勝利は単なる幸運、偶然のたまものだ!そうなの?
『桶狭間の戦い』で織田信長の採った作戦に関して、通説の『迂回・奇襲作戦』に対して、最初に『正面攻撃説』だと唱え、一躍著名となった日本軍事史家の藤本正行氏によると、、、
さて結果からみると、信長が戦闘開始まで、主力とともに清洲城にいたことが、勝因の一つであることは間違いないが、これを作戦として、常に最良とするわけにはいかない。狙った敵を都合のよい時に都合のよい場所で補足して、後方に温存していた主力を一挙に投入できる機会など、自力で作れるものではないし、逆に、主力とともに後方にいる間に、戦線全体が敵の圧迫で崩壊する可能性のほうが、はるかに高いからである。
・・・(中略)・・・。いずれにしても、現実に信長の作戦が都合よく展開し、勝利を得ることができたのは、彼の積極的な陣頭指揮と部下の優戦奮闘があったにしても、はなはだ幸運であったと思う。まして義元本人を倒せるなどとは、信長自身、想像もしていなかったであろう。
前述の通り、信長は鷲津・丸根両砦が攻撃されたことを確認してから出動した。その時点では、彼は義元がどこで何をしているのかわかっていない。そして進撃の最中に「敵は両砦の戦闘で披露している」と訓辞しただけで、「義元本人を狙え」などとは一言も言っていない。
これらをみれば、彼が最初から義元を狙わずに、両砦を攻撃して慰労した敵のうち、適当な部隊を選んで叩こうとしたことは明らかである。これは義元本人に比べれば、価値の低い目標であるが、補足して撃破できる確率は飛躍的に高いし、当面の危機を切り抜けるための戦果としては、それで十分である。
そして、このように不必要な高望みをしなかったことが、結局は大勝利につながったのである。
(引用:藤本正行『信長の戦争 第一章 桶狭間合戦 106~107頁』2004年 講談社学術文庫)
と述べられており、今川軍に対して信長はあくまでも正面攻撃であったが、前面の一部隊を叩こうとしただけで、その背後に義元本陣があったのは幸運だったとのことでした。
ただ、義元本陣の場所が分からなかったと言うのには疑問があり、義元本陣はどこからでも見えるように旗指物で飾ってあり、見通しの利く「桶狭間山」の上にあったのですから、信長も正面から見たなら当然見えたはずです。
しかし、信長自身も行き着けるとは思っていなかったのかもしれませんので、幸運であったのは間違いないところでしょう。
また、歴史研究家の鈴木眞哉氏は著書で、、、
義元が西進して来た目的は上洛などではなくて、藤本さん流にいえば、戦国大名どうしのありふれた国境紛争にすぎなかった。そうであれば信長としても玉砕覚悟でかかってゆく必要など何もなく、なんとか今川勢を追い返してしまえば足りた。また、この時代に総大将が戦場で討死した事例などめったになかったことは当時の常識であるから、最初からそんな確率の低いことを狙って一発勝負の大バクチを打つことなどありえない。
『信長公記』を読めばよくわかるが、信長は攻撃を仕掛けたとき、今川義元がどこにいるのかさえ、つかんでいなかった。ただ、かれなりの計算があって、前夜からの戦いで疲れている今川軍の一部を自分の新鋭の兵力で叩けば、どうにかなるとと考えていたようである。
(引用:鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』2007年 PHP研究所)
とやはり信長の勝利は幸運だった事を述べています。
一方、愛知県の郷土史関係者以外には、なぜか妙に専門家の評判が悪い『武功夜話(ぶこうやわ)』によれば、、、
信長公存意申されけるに。駿・遠・三の惣勢三万有余、我の手の者五千ばかり。この人数をもって相分け、国境に布陣、野陣に駆け廻し百に一つも勝算ある哉。案の外なり。汝等野にある者に似合わず、その言を聞く耳なし。
大軍を迎え五、三日相支え候とも加勢なお甲斐なき事。清須までは半日、山なく大河無く、無手の籠城は一層不甲斐なし。この期に望み、何の行の因、所詮は労あって益なしと呵々大笑なされ候。将右衛門、彦右衛門、信長公の意中をはかり兼、言葉に詰り平伏候由。
後日物語りあり、なお当夜の子細は喜左衛門申し語り候事。
駿・遠・三の軍勢凡そ十万余騎と称うるも、甲・相に備え実勢は五万ばかり。これも我に十倍、鉄椎の陣立てにて尾州に乱入は必定。野において出て勝負決せんと欲すれども、蟷螂の斧の理あり。大象に懸け向う愚事これに過ぎたるは無し。
備えず構えず機をはかって応変。すなわち間合いこそ肝要なり。人間生涯五十年、乾坤の機を窺い、梁田鬼九郎前に鳴海表に遣わし候。汝等鬼九郎と示し合せ、鎌倉道に差し出で逐一注進あるべく候と申されけるとぞ。
右は郡村生駒屋敷おどり張行の砌、蜂須賀彦右衛門尉、前野将右衛門尉一党の者ども、信長公より仰せ付けられ、国の境目鎌倉道へ罷り立ち候の子細に候。
(引用:吉田蒼生雄全訳『武功夜話 第一巻 126~127頁』1995年 新人物往来社)
大意は、”織田信長公がお考えを申されるに、「今川勢は、駿・遠・三の総勢三万以上、自分の軍勢は五千がやっと。この陣容で、国境地帯に分散して布陣し、野戦の臨んでも、百に一つも勝ち目はない。お前たちは野戦の専門家であるのに、そんな話は聞く耳を持たんぞ。
大軍を迎えて4~5日支えたところで、応援の軍勢もなく、清須まで半日で押し寄せて来よう。山も大河もなく、方策もない籠城策はさらに意味がない。この期に及んで、どんな策を弄してもしょせん時間の無駄だ。」と大笑いされていた。前野将右衛門(まえの しょうえもん)、蜂須賀小六(はちすか ころく)は信長公の心中を計りかねて言葉に詰まり平伏するばかりであった。
後日、この時信長が話した細かい内容を前野義康が語るには、、、
信長公曰く「今川勢は、駿・遠・三の軍勢およそ十万騎と称するが、武田・北条に備えて実勢は五万くらい。これでも我々の十倍になり、盤石の陣立てで尾張に乱入してくるのは確実である。平地で野戦に出て勝負をしようとしても、蟷螂の斧(とうろうのおの)で、巨象に立ち向うような愚行であり、これは無い。
事前に想定して準備をせず、状況をみて臨機応変に対応することが重要、つまり間合いを計ることが大事なのだ。人間の生涯五十年の内、ここぞと言うタイミングをみつける為、簗田丹波守を鳴海方面に派遣した。お前たちは簗田と連絡を取り合い、鎌倉道へ入り逐一今川軍の動静を知らせよ!」と命じられた。
これは、郡村の前野将右衛門(長康)の生駒屋敷で信長が屋敷おどりを興行した時、蜂須賀小六・前野将右衛門ら川並衆一党が、信長公より命じられて尾三国境の鎌倉道へ細作に出陣した時の様子である。”位の意味です。
とあり、ここでは前説のように、織田信長は「行き当たりばったりだ」とか「今川義元の所在がわからない」などと言うたわけた合戦を仕掛けた訳ではない事がはっきりします。情報収集に大量(蜂須賀党だけで2千の動員力ありと豪語していました)の野武士軍団を投入したことがわかります。
この頃の「尾張のたわけ殿」は、460年後の歴史家面々の想定外の人物だったようです。(笑)
まとめ
以前の通説では、永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』における織田信長の勝利は、信長による『迂回奇襲説』と言うことになっていましたが、近年軍事史家の藤本正行氏が『信長公記』の詳読による『正面攻撃説』を発表されて以来、これが主流になりつつあります。
この説『正面攻撃説』が正しいとすると、「野戦で正面からぶつかり合えば兵力の多い方が必ず有利になる」と言う戦国合戦の常識からみると、従来言われて来た今川軍2万5千対織田軍2千(『信長公記』は4万5千対2千)と言う兵力差があったと言う話は、かなり無理がある・ほぼ成り立たなくなると考えられます。
そこで、江戸初期に成立した戦国期の徳川関係史料『三河物語』を見てみると、やはり『桶狭間の戦い』での織田軍の兵力は5000人を超えていたとの証言が記載されており、また郷土史家の近年の研究により、尾三国境地域に進出して来た今川軍は、通説にある沓掛城に入城した事実は無く、その手前の池鯉鮒に着陣してそこから分岐する大高道と鎌倉道とに、本隊と別動隊が分かれて進軍を始めたことが分かって来ました。
これで桶狭間山に到着した頃の今川軍本陣は、かなり手薄になっていた可能性が出て来ました。そう考えると今川VS織田の兵力差はほとんどないか、『信長公記』に記載されている場面の状況のように、実際は信長軍が圧倒することもあり得たのではないかと考えられます。
次に、こんな大事な戦いの最中に、今川軍の足軽たちは尾三国境付近の「乱取り」と言う略奪行為に熱中していて守備がおろそかになっていたと言う当時の証言が武田家の古文書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に記述が残されていたのです。
これが原因で今川軍は織田軍に敗れたと言う訳です。本文で確認した通りこの史料が残されていることは事実でした。
しかし、これは今川軍勝利が決定後であれば、戦国の足軽の行動として十分あり得るのですが、今川軍が尾張国に乱入した直後で、しかも当時今川領であった可能性の高い同地域での『今川軍の乱取り』はあり得ない気もします。
この東大名誉教授黒田日出男先生の『乱取り状態急襲説』は、当時注目を浴びましたが現在はあまり真剣に論議されることはなくなったようです。しかし、『甲陽軍鑑』に記載されていることは事実ですから、戦いの帰趨とは関係なしに、当時一部の地域では遠江・駿河からの百姓兵の中には乱取りを実行していたのかもしれません。
また、戦国の名プロデューサー太源雪斎の存在抜きには、戦国大名今川義元を語れません。
義元に常に付き添っていたこの稀代の軍師戦略家の死去は大きな痛手でした。雪斎は弘治元年(1555年)閏10月10日に59歳?で死没しており、今川家は外交・内政面でのこの大黒柱を失って、その途端に制圧していた三河が一気に不安定化を始め『三州惑乱』に見舞われます。
義元にとって、不安定化したこの三河を一気に安定化させる意味もあったと思われる『永禄3年の尾張乱入(桶狭間の戦い)』でしたが、雪斎不在の不安は的中し、今川家は当主義元を失い滅亡へ向かう事となってしまいました。
もしあと10年太源雪斎が生きながらえていたら、ひょっとすると、日本の中世を終わらせた織田信長⇒豊臣秀吉⇒徳川家康の各政権は存在しなかったかもしれません。
それだけの強敵がいなくなっていた事は、織田信長にとって大変な幸運だったと言えそうです。なにせ、信長が尊敬して止まない父信秀を、美濃の斎藤道三とともに、あれだけ苦しめた人物だったからです。
隣国の情報収集に熱心な織田信長の今川軍迎撃戰の作戦は、天文23年(1554年)7月に『駿甲相の三国同盟』が成立して、今川義元の三河攻略が再度本格化して以来始まっていたと言えそうです。
天文24年(1555年)2月には、尾張の有力国衆である鳴海の山口教継が今川方に寝返り、織田家の重臣といえども信長の味方とは言えず、深刻な家内抗争を繰り広げてのし上がって来た信長にとって信用できるのは、元からの織田家重臣ではなくて自ら鍛え上げた直属の馬廻り衆だけだったことでしょう。
『桶狭間の戦い』前夜の清須城軍議の席でも、すでに準備万端手配りを行っている信長は、集まった重臣たちには攻撃計画は明かさずに守備の手配りだけ漫然と話していたのでしょう。
乾坤一擲(けんこんいってき)の攻撃計画でも相談しようものなら、即今川方の本陣へ情報が漏れることを警戒してと考えられます。信長は郡村の生駒屋敷に集まる、気心の知れた蜂須賀小六ら野武士には細かい指示を出して、これら蜂須賀党・簗田鬼九郎一派などからの細作情報と、信長派の重臣で前線守備隊丸根砦の佐久間大學などからの情報を元に、作戦を練っていたものと思われます。
これら(清須城の軍議でのダンマリ)の作戦が功を奏し、信長の作戦は今川の情報網に関知されず伏せられたまま、予定通り当日を迎える事が出来ました。
こんな顛末が事前に繰り広げられていたので、結果的に『桶狭間の戦い』に勝利出来た織田信長は、『運が良かった』と言うのは間違いで、十分に検討・シュミレーションを重ねており、『たまたま』・『偶然』・『出たとこ勝負』だけだったのではなく、努力した結果、運よくそうなかったと言うことが分かります。
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参考文献
〇小野信二校注『戦国史料叢書6 家康史料集』(1965年 人物往来社)
〇太田和泉守/奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記 首巻』(1970年 角川文庫)
〇磯貝正義/服部治則校注『戦国史料叢書3 甲陽軍鑑(上)』(1965年 人物往来社)
〇静岡県『静岡県史 通史編2 中世』(1997年 静岡県)
〇靜岡縣『靜岡縣史料 第五輯 遠州古文書』(1966年 角川書店)
〇藤本正行『信長の戦争』(2004年 講談社学術文庫)
〇鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』(2007年 PHP研究所)
〇吉田蒼生雄全訳『武功夜話 第一巻』(1995年 新人物往来社)
〇大石泰史『今川氏年表』(2017年 高志書院)