『麒麟がくる』の明智光秀は、足利義昭の御家人だった!ホント?
明智光秀が、まだ僧侶だった足利義昭を奈良から脱出させるのを手伝ったと言う話の真相が分かります。
明智光秀が細川藤孝に織田信長を紹介したと言う話の真偽が分かります。
明智光秀が朝倉義景の家臣であったどうか分かります。
明智光秀はいつ幕臣になり、そしてなぜ将軍を見限り、織田信長に付いたか分かります。
目次
細川藤孝が覚慶(足利義昭)を興福寺一乘院から助け出す時、明智光秀も手伝った!ホント?
細川家記(『綿考輯録』)によれば、、、
永禄八年乙丑五月十九日、将軍義輝公御生害、・・・(中略)、讎敵三好を可被討亡と御思慮被成候へ共、鹿園院周暠をは出京させ参らせ、たはかって殺し、南都一条院門主の覚慶 御両所共に義輝公御弟 をも厳しく番を付て出入をとゝむ、藤孝君何とそ覚慶を偸ミ出したまハんと色々謀を廻らし、・・・(中略)、米田救政を被召候へ、・・・(中略)・・・救政は藤孝君の御指図にまかせ、時をはかり、・・・(中略)・・・其夜半の比、覚慶を負奉り、塀を越、忍ひ出る、・・・
(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 16~17頁)』1988年 出水神社)
大意は、”永禄8年(1565年)5月19日、将軍足利義輝(あしかが よしてる)公は亡くなられた、・・・(中略)、仇の三好氏を討ち果たそうにも、足利義輝の末弟である鹿苑院相国寺周暠(しゅうこう)は騙されて京都郊外へ連れ出し殺害され、次弟の興福寺一乗院門跡覚慶(かくけい)は、厳重に見張りが付けられ軟禁され、細川藤孝公は何とか覚慶を脱出させようと策を巡らせ、・・・(中略)・・・医師でもある家臣の米田救政(こめだ もとまさ)に命じ、・・・(中略)・・・米田救政は細川藤孝の命令通り、番兵を油断させ、・・・(中略)・・・その夜半に覚慶を背負って塀を越えて寺から忍び出た、・・・”位の意味です。
とあり、『細川家記(綿考輯録)』では、覚慶(足利義昭)の救出劇は、まるで細川藤孝ひとりで実行したかのような記述となっています。もちろん明智光秀の「あ」の字もありません。
後に足利義昭が頼ることとなる越前朝倉家の『朝倉家録』では、、、
去程に永禄八年五月十九日於京都、三好左京大夫義継家臣松永弾正久秀か進めに依て、謀叛を起し俄に大勢を引卒して、将軍の御所へ押寄、公方光源院殿義輝公に御腹召せ、御舎弟鹿苑院周暠をも清水坂辺に於て奉害ける、奈良一乗院覚慶をも可奉失とて討手を遣りけれハ、覚慶早ク御心得有て虎口を逃れ出さセ給イつつ、伊賀路を経て江州甲賀へ御出有、佐々木義秀か家の子和田和泉守秀盛か舘へ入セ給ふ、夫より矢嶋の鄕へ移り給ひ、爰にて御還俗有て義昭公とそ申ける、此佐々木修理大夫義秀の母儀ハ、万松院殿義晴公の御息女にて義昭公の御姉なれハ、少も疎略有間敷事なれ共、・・・
(引用:古澤甚三解読『朝倉家録 義昭公越前江御下向之事の条 60~61頁』1982年 富山県郷土史会)
大意は、”そうこうしているうちに、永禄8年(1565年)5月19日京都において、三好義継(みよし よしつぐ)の家老松永弾正(まつなが だんじょう)が謀反を起し、大兵を率いて将軍御所へ攻寄せ、将軍足利義輝(あしかが よしてる)公を自刃させ、弟君の鹿苑寺周暠(しゅうこう)をも清水坂付近にて殺害し、更に弟君の南都奈良興福寺一乗院門跡覚慶(かくけい)へ殺害せんと討手が掛かれども、覚慶は事態を察知して虎口を逃れ、伊賀路を甲賀の佐々木義秀(ささき よしひで)の家臣和田惟政(わだ これまさ)の和田屋敷へ入り、それから近江矢嶋の鄕へ落ち着き、そこで還俗(げんぞく)し「義昭公」となった。この佐々木義秀の母親は義輝公・義昭公の父足利義晴(あしかが よしはる)公の御息女つまり義昭公の御姉君なので、少しも疎略に扱うことはなかった。”位の意味です。
これには、『細川家記』にある兵部大輔細川藤孝の自慢話はなく、足利将軍家筋の佐々木義秀と家来の和田惟政のことが記載されるだけで、ここにも明智光秀の事はありません。
次に、足利義昭の母方の叔父である僧 大覚寺義俊(だいかくじ ぎしゅん)から、越後の上杉謙信(うえすぎ けんしん)宛てに情報連絡で出された書状では、、、
急度注進申候、一乘院殿 南都御座所儀、居御番候而、松永堅雖申付候、朝倉左衛門督令直談、種々廻調略、去月廿八日、至甲賀和田城被引退候、公儀御家督相定候間、先以珍重存候、・・・
(引用:『新潟県史 資料編3 中世一 』757 へー10 大覚寺門跡義俊副状 1982年 新潟県)
大意は、”急ぎご報告申し上げます。(足利義輝公御舎弟の)一乘院覚慶殿は、奈良に居られますが、(謀反を起した)松永弾正より厳重に命令された見張りの者がついております(軟禁か)。越前の朝倉義景(あさくら よしかげ)殿から直接談判して貰い、また色々調略を仕掛けて脱出に成功し、先月28日には甲賀の和田館迄落ちる事が出来ました。将軍家の家督が守れて、まずはめでたしです。”位の意味です。
先ずは、有力大名上杉謙信に、覚慶の無事生存を知らせ、全体では足利家再興への上洛督促のような内容の書状(義昭書状の副状)です。
ここで覚慶の脱出劇演出のために、有力大名の越前朝倉氏への交渉と、他の史料にあるような現場奈良一乘院での行動などは、前将軍側近衆の一色藤長(いっしき ふじなが)と細川藤孝、奉公衆和田惟政らの活躍によるものだと思われますが、もちろん明智の名はありません。
この辺りに関して、戦国史大家の奥野高広氏は、、、
大覚寺義俊の書状では、覚慶脱出の立役者は、自分と朝倉義景とであるという。しかし前将軍の近臣細川藤孝と一色藤長とが一役も二役も買っている。『細川家記』や『米田家記』によると、細川藤孝の画策で、米田救政が医術で覚慶に近づいたらしい。
しかし、朝倉義景が使をだし、三人衆に連絡し、実際は藤孝と救政とが動いたのだという。九年四月二十四日、義秋は一色藤長にたいし、脱出できたのは、そなたらが細川藤孝と相談して努力した結果だと感状を与えた。
覚慶が奈良から伊賀の上柘植村をへて落ち着いた先は、近江甲賀郡の豪士和田伊賀守惟政の城である。『細川家記』では、藤孝が案内したという。
(引用:奥野高広『足利義昭』101~102頁 1960年 吉川弘文館)
以上のような見解で、やはり史料ベースの話には光秀活躍の事は話題に上がっていません。
では、なぜ覚慶(足利義昭)の脱出劇にも、明智光秀は細川藤孝らに協力して、15代将軍足利義昭実現に功績があったなどと言うストーリーが出て来るのでしょうか?
古くは幕府奉公衆であった土岐明智家の流れである明智光秀なので、幕府御供衆の将軍側近となる細川藤孝などとは以前より関係が深く、このような藤孝の覚慶担ぎ出しのような政治的な動きに、明智光秀は関与しているはずだとの見方があります。
つまり、プロの歴史家の先生方が、よく使われるフレーズの『~であっても不思議ではない。』と言う事で、そうなっているのかもしれません。
それを探る意味でも先ず、実際この時期に、明智光秀は一体どこにいたのでしょうか?
『織豊期主要人物居所集成』を見てみますと、、、
初期の動静を探る上で参照すべき史料は、これまであまり活用されてこなかった次の記事である。すなわち信長暗殺後に書かれた『多聞院』天正10年6月17日条に、「細川ノ兵部太夫カ中間ニテアリシヲ引立之、中国ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事天明如此」とあり、光秀が細川藤孝の中間であったことが当時の人々に知られていたのである。
近年、「永禄六年諸役人附」として知られていた「光源院殿御代当参衆幷足軽以下覚書」の後半部分が永禄10年(1567年)頃の作成であることが明らかにされたが、その後半部分に足軽衆として「明智」の名が記されている。この史料では細川藤孝は御供衆としてあげられているから、家格上、両者には大きなひらきがあり、光秀は藤孝の下で働くことも多かったのだろう。このような実態が上記の藤孝中間と言う評言を呼んだのかもしれない。
(引用:早島大祐『明智光秀の居所と行動』 藤井譲治編「織豊期主要人物居所集成」2017年第二版 思文閣出版 に所収)
と言うことで、明智光秀は、永禄10年(1567年)頃には細川藤孝の配下にいた可能性が高いのですが、問題の永禄8年後半から永禄9年にはどうであったのかですが、、、
弘治2年(1556年)4月20日のいわゆる「道三崩れ」(道三が息子の斎藤義龍に攻め殺された事件)の後、明智光秀は一族郎党引き連れて美濃から越前へ逃れ、朝倉義景の配下黒坂備中守の客将扱いで、黒坂氏居城の舟寄城(ふなよりじょう)近隣の長崎称念寺(しょうねんじ)門前に居住したものとみられます。
そして、およそ10年後の永禄8年(1565年)5月19日に将軍足利義輝(あしかが よしてる)が暗殺される『永禄の変』が京都で勃発し、実弟の覚慶こと足利義昭(あしかが よしあき)が奈良一乘院から近江・越前へ逃れて来る事態となりました。。。
近江へ逃れた覚慶は将軍職の継承を目指して各地の大名に支援要請を行った。朝倉義景は覚慶を越前に迎える意思を早速返書で表明した。しかし、一方で幕府奉公衆は義輝と共に多くが命を落とし、幕府機能を発揮するにははなはだ人材不足の状態であった。そのような状況で支援要請を受けた朝倉義景は、とりあえずの支援策として幕府と縁のあった光秀を近江へ派遣した。
光秀は幕府奉公衆の血筋で、祖父が細川淡路守家に仕え、祖父の代に将軍・義澄の意向で美濃へ下った経緯があり、義澄の孫の義昭とその側近には受け入れやすい人物であった。さらに、斎藤道三との戦いで軍事能力を鍛えられた光秀は、手薄な義昭軍にとって格好の人材であり、覚慶一行を越前まで案内する役としてもうってつけだった。光秀の祖父が仕えて縁のあった細川淡路守家の藤孝が光秀の身柄を預かることになった。
(引用:明智憲三郎『光秀からの遺言』161頁 2018年 河出書房新社)
この話の流れが最もスムーズな感じですが、それに従うと明智光秀が細川藤孝の支配下(中間)にはいるのは、近江で覚慶らと合流した永禄8年8月以降のことになるので、『永禄の変』直後の6月段階で、明智光秀が細川藤孝と協力して、或は藤孝のお手伝いをして奈良一乘院から覚慶(足利義昭)を脱出させるのは無理のようです。
という訳で、『明智光秀が永禄8年の”覚慶脱出”を細川藤孝らと一緒に実行した』と言う話は僅かな時間差のようですが、やはり難しそうです。
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(画像引用:足利義昭像[東京大学史料編纂所所蔵])
明智光秀の口利きで、足利義昭らは織田信長と面談、上洛への助力を得た!と言う話はホント?
前出の『細川家記(綿考輯録)』によれば、、、
永禄十一年戊辰六月廿三日、義昭公より藤孝君・上野清信両使として濃州岐阜に赴かれ、明智十兵衛光秀に付て信長に謁し、当家一度京都ニ安座せしめ候様、賴思召候、・・・(中略)・・・、
明智十兵衛光秀は、・・・、朝倉義景ニ仕へて、五百貫の地を領せらる、・・・、藤孝君越前御逗留之中光秀より交を厚くせらる、・・・(中略)・・・、織田信長は当時之勇将今既ニ美濃・尾張を領して江州を呑んとするの気あり、我等彼室家に縁ありて、頻に被招、大禄を授けんとの故、却而猶予せり、貴殿忍んで岐阜に赴き、信長を御頼候へしと有けれハ、藤孝君仰ニ我も又是を思へとも、信長の内に知れる人無之、便りよからん時は足下を頼へしと御約諾被成候、・・・(中略)・・・、
其後藤孝君の御すゝめにて、義昭公御直に光秀に御頼被成、謹而御請被申候、・・・・
(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻』27頁 1988年 出水神社)
大意は、”永禄11年(1568年)6月23日、足利義昭公より細川藤孝公と上野清信が使者として美濃の岐阜城へ派遣され、明智光秀が同行して織田信長に拝謁し、将軍家を上洛させるために力を尽くしてくれるように依頼をした。・・・(中略)・・・、
(こうなった経緯は・・・)
明智光秀は、・・・、朝倉義景に仕官し、五百貫文の知行を与えられていた、・・・、細川藤孝公は(足利義昭公に供奉して)越前に逗留中に居合わせた明智光秀と親しくなられ、・・・(中略)・・・、(明智光秀が言うには)織田信長は有能な武将であり、既に美濃・尾張の二ヵ国を領有し、今や近江国も併呑しようとしている。私は織田信長の正室と縁があり、盛んに高禄で召し抱えたいと誘われているが、未だ猶予願っている。あなたが密かに岐阜へ行き、信長に依頼んだらどうでしょうか・・・と。(対して、)細川藤孝公がおっしゃるには、私もそう思っていますが、織田家に伝手がなくて困っていました、こうなったら貴殿に頼み申しますと約束が出来ました。・・・(中略)・・・、
その後、(この事を)藤孝公が義昭公に薦めて、義昭公が明智光秀に直接にご依頼なされ、光秀が謹んでそれをお請けしていた。・・・”位の意味です。
細川家はこのような記録を残していますが、中世史大家の高柳光寿氏も著書の中で、、、
ところで、この義昭が越前から美濃へ移って信長に頼ったという一件に、光秀が関係していたのである。・・・(中略)・・・、
上来述べて来た『細川家記』の記事によって、義昭が京都帰還を信長に依頼し、信長がそれを承諾し、上洛が実行されることになったのは、藤孝が義昭方にあり、光秀が信長方にあり、両者の策動によってそれがなされたと普通にいわれているのである。・・・
(引用:高柳光寿『明智光秀 6~7頁』2000年第7刷 吉川弘文館)
とあり、専門家も通説を肯定されています。
ところが、近年脚光を浴びている村井祐樹氏による『幻の信長上洛作戦』の論文では、2014年の熊本県立美術館の『細川コレクション展』で公開された新出の「米田家文書」を紹介しながら、永禄9年(1566年)における”織田信長の上洛作戦”の検証を行っています。
その「米田文書」によると、、、
御退座刻、其国儀、各以馳走無別儀候、然者、為 御入洛御供織田尾張守参陣儀、弥被賴 思食候条、此度別被抽忠節様、被相調者、可為御祝着由候、仍国中江可被下御樽候、此通被相触、参会儀、可被調候、定日次第ニ可被差越御使候、尚巨細高新・高勘・富治豊可被申候、恐々謹言、
八月廿八日 藤英(花押)
藤長(花押)田屋殿
(引用:『米田文書 一色藤長・三渕藤英連署書状』 「古文書研究 第78号」所収 2015年 吉川弘文館)
大意は、”義昭公が奈良を脱出する折、その国(伊賀の国衆)が皆協力してくれたおかげで無事だった。それで(今度)義昭公の御供には「織田尾張守(織田信長)」が参陣することになった。これからいよいよ頼みに思うので、(伊賀の国衆が)この度特に忠節を尽くしてくれるように段取りしてもらえれば、大変に祝着である。そこで、国中へ酒樽を贈る。この旨通達して貰い、味方するように尽力してほしい。上洛の日程が決まり次第使いを出す。尚詳細は・・・・。
(永禄9年)8月28日 一色藤長(花押)
三渕藤英(花押)
田屋殿 ”位の意味です。
ここで重要なのは、織田信長の官途の「尾張守」ですが、これまでの研究によりこれは永禄7年(1564年)から永禄11年(1568年)6月まで使用されていることが分かっています。織田信長の上洛直前にあたる永禄11年8月からは、信長の官途は「弾正忠(だんじょうのじょう)」と変わります。ここで、この「米田文書」には「尾張守」とありますから、この文書の日付は前後関係から永禄9年の事であると判断されます。また、この文書の翌日の8月29日には、義昭が頼りにしていた六角氏がなんと敵対する三好方へ寝返っていますので、この文書はその前日の発信となります。つまりこの時の足利義昭の目論見が崩壊した訳で、慌てて近江矢嶋から若狭へ逃亡するハメになりました。
と言う訳で、永禄11年(1568年)9月の織田信長上洛の前に、”永禄9年にも足利義昭の上洛計画”があり、既に足利義昭は永禄11年と同様に、織田信長の軍事力を頼りにして事を進めていたことがわかります。
次に織田信長から細川藤孝への書状があります。。。
就御入洛之儀、重而被成下御内書候、謹而致拝閲候、度々如御請申上候、上意次第不日成共御供奉之儀、無二其覚悟候、然者越前・若州早速被仰出尤奉存候、猶大草大和守・和田伊賀守可被申上之旨、御取成所仰候、恐々敬白、
十二月五日 信長(花押)
細川兵部太輔殿
(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上巻 60細川藤孝宛書状』1994年 吉川弘文館)
大意は、”御上洛の事につき、重ねて御内書(ごないしょ)をお出し下され、つつしんで拝閲させて頂きました。度々のようにお請け申し上げる通り、お上の御下命あり次第、すぐにも御供いたします事、必達の覚悟にございます。ですから、越前の朝倉義景(あさくら よしかげ)、若狭の武田義統(たけだ よしむね)にも出兵をお命じになるのがよいでしょう。なお、使者の大草公広(大和守)、和田惟政(伊賀守)から申し上げる旨をよろしく御執り成しください。
12月5日 織田信長(花押)
細川藤孝殿 ”位の意味です。
これは、この六角氏の裏切りのあと、足利義昭が若狭武田氏・越前朝倉氏に身を寄せた後の文書と思われますので、永禄9年か10年となると思われますが、義昭からの出陣催促の書状が、度々、義昭側近の細川藤孝から織田信長へ出されていたことを物語ります。
という訳で、永禄9年の上洛計画を巡って、すでの織田信長が供奉することが決まっていたことがはっきりしていますので、冒頭の「細川家記(綿考輯録)」にあるような、”明智光秀が織田信長との間を取り持って”などと言う必要性は全くなかったことが分かります。
つまり、「細川家記(綿考輯録)」にある話は、どうやら事実と異なるようで、光秀による織田信長への紹介などなかったのではないかと考えられます。
加えて余談ながら、そもそも、いくら戦国の話とは言え、主君に忠実だった明智光秀の義を重んじる態度から見て、光秀の主君土岐頼澄を毒殺した斎藤道三親子(道三と帰蝶)を許すはずもなく、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』のように光秀が個人的に濃姫(帰蝶・奇蝶)を慕うとか、道三を師と仰ぐなどもあり得ない話と考えられますので、光秀は「織田信長の室に伝手がある」などとは言うはずがないような気がします。
明智光秀は、足利義昭と出会った頃、越前朝倉義景の家来だった!ホント?
結論から言いますと、明智光秀が朝倉義景の家臣だったと言うことを示す古記録は、日本史の学会レベルでも今のところ見つかっていないようなのです。
では、なぜ掲題のような通説がまかり通っているのでしょうか?
・・・、光秀理ニ服シ辞スルニ処ナフシテ、一族ヲ相伴ヒ、涙ト共ニ城ヲ出、郡上郡ヲ経テ、越前穴馬ト云所ヲ過キ、偖国々ヲ遍歴シ、其後越前ニ留リ、太守朝倉左衛門督義景ニ属シテ、五百貫ノ地ヲゾ受納シケル。
(引用:二木謙一校注『明智軍記 巻第一 25頁』2015年OD版 KADOKAWA)
大意は、”・・・明智光秀はその(叔父である明智光安の説得)理屈に従って明智城を落ち延びたが行くところもなく、一族を引き連れて、泣きながら城を出て、郡上郡を経て越前穴馬と言う所を過ぎて、光秀は諸国遍歴の旅へ出て、その後は越前に留まり、朝倉家に属して、五百貫の領地をもらった。”位の意味です。
この講談話のような有名な『明智軍記』の話がベースになって通説となったのでしょうか。
実は弘治2年(1556年)の『道三くずれ』の後、明智光秀一族が落ち延びたとされる地元の越前長崎の称念寺の縁起では、、、
明智家に縁のある家系の方の伝承では、信長に仕える前の光秀公が仕えたのは、朝倉ではなくその家来の黒坂備中守とあるそうです。それなら、称念寺のすぐ隣りに黒坂館跡があり、交流が一層自然なことであり、朝倉の家臣に光秀公の名が記録されていないことにも納得が出来ます。
(引用:高尾察誠『称念寺のあゆみ 十三、明智光秀公と称念寺 の条』2017年 称念寺)
とあり、意外なことに越前の地元では、明智光秀は朝倉義景ではなくて臣下の黒坂備中守に仕えたと正確に伝わっているようです。
これに関して、件の歴史家高柳光寿氏は、著書『明智光秀』の中で、、、
・・・、この『明智軍記』の記事は信用できない。・・・(中略)・・・、
しかし、光秀が朝倉義景に仕えたことがあると思われる良質の史料はある。五十嵐氏所蔵の『古案』という古文書集の中に、天正元年(一五七三)八月二十二日付で服部七兵衛尉(はっとり しちべい じょう)という男に宛てた光秀の書状がある。この書状には次のようなことが書いてある。今度竹の身上のことについて馳走をしてくれてありがたい。だから百石の知行を与える、というのである。この天正元年八月というのは朝倉義景が自殺した月で、光秀は信長に従って越前にいたときである。・・・(中略)・・・、
この推論を更に推し進めて行くと、光秀はかつては義景に臣事していたことがあり、のち信長のところに走ったのであるが、なお近親を越前に残して来たのであり、竹というのはその越前に残したものであったかも知れないということである。どうもそんな気がしてならない。
(引用:高柳光寿『明智光秀 14~16頁』2000年第7刷 吉川弘文館)
とありますが、高柳氏指摘の問題の光秀書状の原文は、、、
今度竹身上之儀付而、御馳走之段令祝著候、爲恩賞百石宛行候、全可有御知行候、恐々謹言、
八月廿二日 明知十兵衛尉光秀
服部七兵衛殿
(引用:『武家事記 中巻 第三十五目録 644頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
この原文の大意は前述の高柳氏のとおりですが、この天正元年(1573年)に比定されたこの原文は、朝倉義景が一乗谷で織田信長に攻め亡ぼされた2日後の8月22日付の書状で、明智光秀が義景に近侍していたと思われる『竹』と言う人物の生存に関し、助命したと思われる服部七兵衛尉に褒賞を与えてまで喜んでいるところから、光秀が朝倉家に奉公していた可能性が高いのではないかと言うのが高柳氏の推論のようです。
可能性はあるものの、やはり高柳氏ご自身の発言にも『どうもそんな気がしてならない』とある程度ですから、『明智光秀は朝倉家に仕官していた』と言う決定的な証拠にはならないようですが、歴史の大家の見解なので、これが通説の後押しをしたのではないかと考えられます。
二君に仕えたと言われる明智光秀が、足利義昭には『暇乞い(いとまごい)』した!ホント?
先ず、、、
”主君に仕えた”と言うことは、その主君から知行(所領)を宛行われていることになりますが、明智光秀の場合はどうでしょうか?
将軍足利義昭からは、、、
十日、丁未、東寺、明智光秀ノ、同寺八幡宮領山城下久世荘ヲ押妨スルヲ停メンコトヲ幕府ニ請フ、
[東寺百合文書]ひ十二之ニ十三○山城
「就下久世儀上意へ申状」
當寺八幡宮領下久世庄、年中爲御神供料所、等持院殿様御寄附已來、于今無相違之處、明知十兵衛尉方、彼庄一職爲上意被仰付由被申、年貢諸公事物等、至于今無寺納候條、御訴訟申上与存刻、・・・
(引用:東京大学史料編纂所編『大日本史料 第十編之四 元龜元年四月十日の条 260~261頁』1969年 東京大学出版会)
大意は、”元亀元年(1570年)4月10日、東寺の禅識が、明智光秀の東寺領山城国下久世(しもくぜ)荘園の横領の停止を幕府に訴え出た。
「当寺八幡宮下久世荘園は、足利尊氏公からご寄付以来、常時御料所となっており、今に至ってもそれに相違ない。(ところが)明智光秀なる者が、この荘園は足利義昭公よりいただいたものであると称して、年貢等を横領し、今に至るも当寺に収められていない。そこで訴え出たところである、、、」”位の意味です。
このように、事の正統性はともかく、明智光秀は足利義昭から山城国南部を所領として与えられていたものと考えられます。
一方、織田信長からは、、、
九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一社を初め奉り、霊物・霊社・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰嬬の地となすこと哀れたれ。・・・(中略)・・・、
さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり。
(引用:太田牛一『信長公記 巻四 元亀二年 叡山御退治の事の条』国立国会図書館デジタルコレクション)
大意は、”元亀2年(1571年)9月12日、比叡山を包囲し、根本中堂・三王廿一社などと、僧坊・経文などすべて焼き払い、大本山比叡山延暦寺は灰燼に帰した。・・・(中略)・・・、
そして、(織田信長より、この「比叡山焼き討ち」にて活躍した論功行賞として)明智光秀に対して、叡山を含む志賀郡が与えられ、坂本に駐在することになった。”位の意味です。
このように、明智光秀は、知行地を与えられている事から、元亀元年以前に足利義昭の御家人に、元亀2年以降からは織田信長の家臣となっていると判断して良いかと考えられます。
そこで、掲題にありますこうした明智光秀が、将軍足利義昭に対して「暇乞い(いとまごい)」をしたと言うところですが、、、
見くるしく候て憚入存候、御心計候、
昨今ハ懸御目、快然此事候、就其我等進退之候、御暇申上候處、種々御懇志之儀共、過分忝候、とニかくニゆくすへ難成身上之事候間、直ニ御暇を被下、かしらをもこそけ候様ニ、御取成賴入存候、次此くら作にて候由候て、可然かたより給置候間、進入候、御乘習ニたてられ候ハゝ、畏入存候、かしく、
明十兵 光秀
曾兵公 人々御中
(引用:東京帝國大學編『大日本史料 第十編之七 元龜二年十二月二十日の条 196頁』1944年 東京帝國大學文学部史料編纂所)
大意は、”みっともない樣で隠れたい気分ですが、、、
先日は、御目にかかり気持ちが晴れました。私の去就のことですが、上様にお暇を頂きたいと申し上げましたところ、色々引き留めて頂きありがたくぞんじますが、とにかくこの先このままでは私の将来は成り立たないと考えるので、直ちにお暇を頂きたいのです。頭を強くこすりつけて、上様のお暇ご承諾への御執り成しをお願いする次第です。次に、この鞍ですが、身分のある方から下賜されたもので、御進呈いたします。使われてお乗りになれば幸いです。
明智光秀
曾我兵庫頭助乗殿 ”位の意味です。
このあと、この高級馬具だけでなく、知行の上りも渡すからと、礼金まで渡してひたすら足利義昭側近の曾我助乗(そが すけのり)に、義昭との縁切りの執り成しを懇願しています。
義昭から宛行われた知行地に関して、寺社側から訴訟を持ち込まれるなどの不手際が続いて義昭から勘気を蒙っているため、お暇を頂きたいと申し入れているようです。
しかし、実質的に将軍領地を所有していない為、知行をもらうたびに寺社とトラブルが起こる足利義昭に対して、明智光秀はきちんと獲得した領地を宛行う織田信長への鞍替えを行ったと見ることも出来そうです。
要するに、実力の差を見て取ったと言う、実利的な発想ではなかったかと思われます。
こうしたことから、明智光秀が将軍足利義昭との”縁切り”に動いたのは事実のようです。
明智光秀が幕府御家人を辞めて織田家家臣になったのはなぜ?
前章の記事で明智光秀が足利義昭と織田信長の両方から知行地を宛行われて、両者に仕えると言う、形としては両属状態になったことは確認出来たと思います。そして、元亀2年(1571年)の年末には足利義昭への”暇乞い(いとまごい)”を行って、義昭から離脱の動きを仕掛けている様子が分かります。
ではなぜ明智光秀は、土岐明智家の基本方針である幕府秩序の護持(将軍家への忠誠)を捨ててまで、新興大名の織田信長に臣従して行ったのでしょうか?
さてこの時期、明応2年(1493年)を境に「戦国時代」に入って行ったと言われる室町末期、幕府の統制力がどんどん衰えて行き、もう直接的な命令が効力を発するのは京都を中心とした畿内くらいに限られて来ていました。
ですから、当時の「天下」と言うのは日本全国を意味する言葉ではなく、京都・・・せいぜい畿内くらいの地域を現わすに過ぎなくなっていたようです。
そんな中、天下人として権勢をふるっていた(つまり、実質的に京都を支配していた)三好長慶(みよし ながよし)が永禄7年(1564年)7月に死去し、その虚をついて将軍家権力復活を目指す動きに出た13代将軍足利義輝を、永禄8年(1565年)5月19日に三好義継ら三好三人衆が暗殺してしましました。
この将軍義輝(よしてる)の後釜に、三好家が阿波で保護していた足利義栄(あしかが よしひで)を、傀儡将軍として14代に擁立して、再び政権の安定化を図ろうとしていた三好三人衆を、永禄11年(1568年)9月に上洛して都より排除し、足利義昭を15代将軍に据えた織田信長がいると言う政治情勢下となっていました。
当初は、13代将軍義輝の目指していた政権奪還を引き継ぐ勢いの義昭を、奉公衆の三渕藤英(みつぶち ふじひで)、その実弟である細川藤孝(ほそかわ ふじたか)などは織田信長の軍事力に頼りつつも、「将軍権力の復活」を目指していたものと考えられます。
細川藤孝に協力する明智光秀もそもそも幕府奉公衆の一族に列するところから、藤孝らの考えに共鳴して行動していたと思われます。
しかし、明智光秀は時間の経過とともに、公家化した足利将軍の御家人たちに加わっていては、滅亡した明智家再興の望みは薄い事、それに対して、強大な軍事力とリーダーシップを有する織田信長では、外様衆でも能力によって重用され報われること(例えば非人階級出身の豊臣秀吉、甲賀の地侍の滝川一益などの重用)など、結果で評価されることに可能性を見出したのではないでしょうか。
明智光秀には、前述のような政治情勢が読めていて、もうかつて足利幕府の体制・土岐明智一族が幕府奉公衆をしていた時代に復することは難しいとの時代感覚があったと思われます。
それは、折角担ぎ上げた足利義昭その人が、期待するような人間ではなかったことも要因のひとつだったのかもしれません、
幕府内において、細川藤孝も含めた奉公衆たちにもそんな思いがあったのではないかと思われ、果たしてこの後、、、
今度被対信長被抽忠節候、誠神妙至候、仍城刕之内限桂川西地之事、一識ニ申談候、全領知不可有相違之状如件、
元亀四
七月十日 信長(朱印)細川兵部太輔殿
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻 375 細川藤孝宛朱印状』1994年 吉川弘文館)
大意は、”この度、信長に対せられ、忠節を抜きん出られていたこと、まことに神妙の至りです。よって山城国の内、桂川西岸地区の領主権を与えます。この事に相違ありません。
元亀4年(1573年ー天正元年)7月10日 信長(朱印)
細川藤孝殿 ”位の意味です。
このように、細川藤孝は、織田信長に細川家先祖伝来の旧領地を与えられ、この時に正式に足利義昭を見限って織田信長の家臣になったと判断されます。
この後7月19日に、織田信長は足利義昭を京都から追放しましたが、勿論細川藤孝は足利義昭に供奉しませんでした。
この足利義昭の将軍擁立の功労者のひとりである細川藤孝でさえ、足利義昭を見限っており、将軍家の奉公衆も引き続き将軍の側に仕えた者と、覇者織田信長に鞍替えした者とに別れて行ったようです。
明智光秀は細川藤孝より2年前、前述のように元亀2年(1571年)9月12日の『比叡山焼き討ち』の功績により、近江国志賀郡を与えられて正式に織田信長の家臣となっています。
まとめ
タイトルにある『明智光秀は足利義昭の御家人だったのか?』に関してですが、、、
明智光秀は確かに室町幕府奉公衆の家系(土岐明智一族)に属すると考えられますが、光秀本人がいつから将軍の側にいた(御家人であった)のか明確な史料(証拠)はないようです。
少なくとも細川藤孝のように前将軍足利義輝時代からの側近ではありませんし、藤孝ら御供衆のように、義輝の弟君(覚慶ー足利義昭)擁立に向け活動していた仲間に加わっていたのだとの噂話はありましたが、実際は覚慶が大和脱出後に近江を放浪している時期から仲間に加わったようです。
前述した熊本での新出『米田文書(こめだ もんじょ)』にあるように、”近江高島田中城”で光秀が籠城したと言う記録が見つかり、それが永禄9年11月以前の事であると判明しました。
そこで、江北地区の記録である『東浅井郡志(ひがしあざいぐんし)』を見てみますと、同時期に北近江の浅井長政が高島郡で叡山系の山坊のために、件の田中氏と朽木氏から領地を取り上げる戦闘を行ったことが分かります。
永禄九年四月十八日、長政山徒千手坊をして、西林坊・定林坊・寶林坊を招降せしむ。來迎寺文書第四號に曰く、
今度三坊申談儀付而、種々御馳走本望候。仍河上六代官之内・田中殿分進之候。向後彌御忠節簡要候。恐々謹言。
永禄九 浅井備前守
卯月十八日 長政(花押)西林坊
定林坊
寶林坊
御宿所
(引用:『東浅井郡志 巻弐 第六編 浅井氏盛衰時代志 第五節 345~346頁』1975年 日本資料刊行会)
大意は、”永禄9年(1566年)4月18日、浅井長政は、千手坊を使って、山坊の西林坊・定林坊・寶林坊を帰順させた。来迎寺文書第四号によると、、、
この度三坊の希望していた件につき、色々奔走した結果上手く行きました。河上六代官の内、田中家の領地に属するものを進呈します。今後お味方していただくことをお願いいたします。
永禄9年4月18日 浅井長政(花押)
西林坊・定林坊・寶林坊殿 ” 位の意味です。
このように、江北地区で台頭してきた浅井家と高島郡の奉公衆田中家との戦いがあったことが判明し、(幕府方の援軍として)明智光秀が永禄9年の春先に近江高島田中城に籠城していたと言う『米田文書』の記述の傍証が得られます。
細川藤孝らが足利義昭を担ぎ上げ、近江矢島で織田信長の支援を受けて上洛戦をやろうとしていた永禄9年夏頃、明智光秀は恐らく前将軍からの幕命を受けた朝倉家の要請で出陣した、高島郡での”浅井長政との戦い”の後始末に追われていたのではないでしょうか。
こんなことから、明智光秀が足利義昭の上洛戦に深く関与するのは、時間的に極めて困難だと考えられ、また光秀の出自から美濃斎藤道三とは敵対関係だったと思われ、当然蜜月関係は考えられず、したがってその娘「帰蝶」の筋からの「織田信長と室町幕府衆との仲介話」も、江戸期の作り話とほぼ断定して良いのではないかと思われます。
明智光秀が、いつから足利義昭の御家人だったかに関しては、もともと有力奉公衆の一族だったからと言うのだけでは確証とならず、やはりはっきり知行を得た時期、つまり足利義昭が将軍になった永禄11年(1568年)10月以降だったと考えるのが普通ではないでしょうか。
とは言うものの、明智光秀が永禄11年の織田信長上洛以後、永禄12年正月の「本圀寺戦」で世間に名前が出て以降の驚異的な出世ぶりの秘密は、やはりはっきりしないところです。