牢人していた明智光秀に、なぜ譜代の家臣や家来たちがいたの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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明智光秀に譜代の家臣団がいた理由が分かります。

越前から岐阜へ移動する足利義昭を迎えた明智光秀家臣団500名の正体が分かります。

明智家家老斎藤利三がいつから明智光秀の家臣であったのかの見当がつきます。

山崎の戦い』に参戦した明智軍の構成がわかります。

 

一族が滅亡し諸国放浪の旅に出たとされる明智光秀に、なぜ家臣がいるの?

ここに『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』によりますと、、、

時に弘治二年九月に至り、一門を催して、明智の城に籠りける。大將宗宿五十三歳・・・、相随ふ一族には、溝尾庄左衛門・三宅式部之助・・・等を始め、其勢僅に八百七十餘人なりしが、義心金石と固まり、心を一致して籠城しけり。

・・・・

康永元年、明智開基してより、年數二百十五年にして、今日既に、斷絶しける、然るに嫡子光秀、是迄も城中に有りけるが、宗宿是に申しけるには、我々生害せんと存ずる。御身定めて殉死の志なるべけれども、某等は不慮の儀にして斯くなり、家を斷絶す。御身は祖父の遺言もあり、又志も小ならねば、何卒爰を落ちて存命なし、明智の家名を立てられ候らへ。幷我等が子供等をも召連れて、末々取り立て給はり候やう、頼み申すなりと申置きて死し畢。

(引用:『美濃國諸舊記 巻之六 175~176頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”弘治2年(1556年)4月に美濃国の斎藤道三(さいとう どうさん)が、息子の義龍(よしたつ)に攻め殺された所謂「道三崩れ」から4ヶ月以上経った9月になって、親殺しの美濃国主斎藤義龍のところへ出仕しようとしなかった明智光安(あけち みつやす)は、一門を挙げて明智城へ籠城を始めた。従う一族には、溝尾庄左衛門三宅式部之助など総勢870名ほどで、数は少ないが、一致団結して籠城をしていた。

康永元年(1342年)以来、明智家が始まって215年にして、ここに家門断絶の日を迎えたが、城内にいた跡取りの光秀へ光安が言うには、「我等は自刃しようと思っている。おぬしも殉死しようと考えていると思うが、我等はやむなく自刃してお家も断絶するが、おぬしはじい様の遺言もあり、ここを脱出して明智の家を再興してもらいたい。そして、我等の子供たちを引き連れて行き、お家の再興成った暁には、彼らをとり立ててやってほしい。頼むよ。」と言って自刃した。”位の意味です。

とあり、ここに明智家の最後に当主一族と運命を共にした重臣らの中に、溝尾氏と三宅氏がいることが分かりますここで、明智光秀が叔父の光安から明智一族再興を託されて、明智城を一緒に脱出した子供らの中に、明智光秀の側近となった叔父光安の子息明智秀満や、後の明智家家老溝尾庄兵衛・三宅藤兵衛がいたらしいことが分かります。

当時の実際の状況がこの『美濃國諸舊記』にある記述通りであるかどうかは別として、光秀の家臣団を構成する中核は、明智の一族であったことが分かり、浪人する明智光秀を支え続けていて、足利義昭の上洛を契機として、この美濃衆を中心に再度明智家が構成されて行ったと思われます。


(画像引用:天王山より山崎合戦場をのぞむ ACphoto)

越前から信長の待つ岐阜城下「立政寺(りゅうしょうじ)」へ向かう足利義昭を、途中まで出迎えに行った明智光秀が、引き連れた500名の武士は光秀の家臣なの?

これは、『細川家記』の中に、、、

七月十日藤孝君、光秀と密ニ計て、光秀家人溝尾庄兵衛・三宅藤兵衛ニ廿余人を添て、阿波ケ口にまたしむ、信長の迎使不破河内守・村井民部・嶋田所之助千余人にて江州犬上郡多摩ニ待たてまつる、又浅井備前守長政を警衛の為ニ被差向、長政ハ自ら浅井福寿庵・赤尾美濃守五百余人江越の境にむかふ、・・・

義昭公七月十六日一乗谷を御出駕被成候ヘハ、義景も同名中務大輔景恒・前波藤右衛門景定をして近江界迄御見送被申、夫れよりハ浅井・不破等供奉仕候、藤孝君ハ江州大野郡より阿波谷に望ミ、穴間の谷を経て、若子橋より仏ヶ原に御出、明智光秀五百余人にて爰に迎らる、・・・、七月廿五日義昭公岐阜の立正寺に御入、廿七日に信長此所にて謁せられ、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 藤孝公』28頁 1988年 出水神社)

大意は、”永禄11年(1568年)7月10日に細川藤孝(ほそかわ ふじたか)公と明智光秀が密かに打ち合わせをして、義昭一行には明智家家老の溝尾庄兵衛(みぞお しょうべえ)と三宅藤兵衛(みやけ とうべえ)に10余人ほど供奉させて、阿波ケ口で待たせる。織田信長からの迎えの使者は、美濃衆の不破(ふわ)河内守と、織田家吏僚の村井貞勝(むらい さだかつ)・嶋田秀順(しまだ ひでより)に1000人ほどの兵を付けて彦根辺りで行列をお持ちする。浅井長政(あざい ながまさ)を護衛の爲に差し向ける。長政は自ら500ほどの兵を率いて越前との国境付近木之本辺りへ向かう・・・

義昭公は、7月16日に越前一乗谷を出発され、朝倉義景(あさくら よしかげ)も朝倉景恒(あさくら かげつね)・前波景定(まえば かげさだ)を近江との国境まで見送らせた。そこからは浅井長政と不破河内守が供奉し、穴間の谷を経て、若子橋より仏ヶ原へ差し掛かると明智光秀が500ほどの兵とともに迎えに出ていた、・・・7月25日に義昭公は岐阜の立政寺へ到着され、27日に信長と会われた。”位の意味です。

このように、足利義昭の美濃への動座は、越前朝倉家⇒北近江浅井家⇒美濃織田家と連携した警護体制で実行されたようすが分かります。ここに”明智光秀が500名で出迎え”とあり、ここが問題の部分となります。

これに関した言及した文献は、歴史作家の八切止夫氏が、、、

 

信長と光秀が初めて正式に逢っているのは、永禄十一年七月二十七日であるが、<細川家記>によって、すこし詳しく引用すれば、

「明智光秀は、その重臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって七月十六日に、朝倉一乗谷から出て来た足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋をこえ仏ヶ原のところでは、明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺へ二十五日に赴き、二十七日に信長と対面」とある。

・・・・

江戸期に於ては十万石。(一万石で百人出兵の定法だった豊臣時代でもこれは五万石以上の実力であり、格式である)しかも当時、牢人の光秀には所領というべきものはない。

つまり土地からの「作毛」である収穫物の米麦で、これを賄っていたのではない。

そこで、この記述によると、光秀は貨幣で給与を払っていた事になる。だから牢人とはいえ、えらい金満家だったということになる。

(引用:八切止夫『信長殺し、光秀ではない』33~34頁  2002年 作品社)

 

とありますが、、、

当時明智光秀は朝倉家の客将として動いたらしい形跡はあるのですが、土岐明智家滅亡以来この頃までは、光秀が多数の自軍を率いて動いたらしい記録はなく、いくら金満家でも、突然この場面で500名の兵の動員はムリのような感じです。

ここは村井貞勝ら織田家の使者が引き連れて来た美濃勢1000名の内の500名で、やはり織田信長の軍勢が加勢したものだろうと思われます。藤孝と光秀が密かに打ち合わせたのは、こんな仕掛けだったのかもしれません。

事実、その後9月からの”織田信長上洛軍”の攻撃軍の中にも、この時点ではまとまった明智光秀の軍はいなかったように思います。

 

斎藤利三はいつから明智光秀の家臣なの?

斎藤利三(さいとう としみつ)の記録での初見は、、、

五月六日、はりはた越えにて罷り上り、右の様子言上候。然る間、江州路次通りの御警固として、稲葉伊予父子三人、斎藤内蔵之佐、江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙あがり、守山の町南口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支え、追ひ崩し、数多切り捨て、手前の働き比類なし。

(引用:太田牛一『信長公記 巻三 越前手筒山攻め落せらるゝの事』インターネット公開版)

大意は、”永禄十三年(元亀元年ー1570年)5月6日、織田信長が京都より岐阜へ向かう途次、近江路の先行警護として、稲葉一鉄父子と斎藤利三は、近江の守山の町に配置されていた時、すでに蜂起した一揆衆が待ち構えていたが、稲葉一鉄と斎藤利三は彼らを切り崩して多数切捨てて血路を開き、その働きは比類ないものであった。”位の意味です。

これが史料に現れる初めての斎藤利三の動静で、『信長公記』元亀元年(1570年)五月六日の記事です。『金ケ崎退け口』として豊臣秀吉の手柄話となった例の”織田信長絶体絶命の危機”で、この時、辛うじて越前から逃れ帰った信長が京より岐阜に戻る時、斎藤利三はその途上の警備のため、稲葉父子とともに滋賀の守山に配置され、この時は、蜂起した一揆を稲葉一鉄と一緒に鎮圧したのですが、斎藤利三はまだ美濃衆稲葉一鉄の与力の立場だったことがわかります。

次には、『当代記』に、、、

齋藤内藏助をは虜、京都へ索上せ渡大路、於六條河原刎首、被掛獄門、此内藏介は信長勘當の者なりしを、近年明知隠して拘置、・・・

(引用:『當代記 巻二』45頁 「史籍雜簒 第二」に所収 国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”斎藤利三は、捕縛され京都へ連行され市中引き廻しの上、六条河原にて首を刎ねられ獄門に掛けられた。この斎藤利三は、織田信長の勘気を蒙っていた者であるが、明智光秀が匿っていた、・・・”位の意味です。

この『本能寺の変・山崎の戦い』の後始末を伝える記事により、斎藤利三は、美濃の有力豪族齋藤氏の家系ながら、何らかの理由で織田信長の勘気を蒙っていたのを、明智光秀が匿っていたと見られているようです。

歴史作家桐野作人氏によると、、、

 

この年(天正10年)那波和泉直治(なわ なおはる)が稲葉家を去って光秀に仕えた。一鉄がこれに怒って、光秀は先に齋藤利三を招いたばかりか、今度は直治まで招いたとして信長に訴えた。そこで、信長は光秀に命じて直治を一鉄に返還させた。そして信長は利三に自害を命じた。このとき、信長側近の猪子高就(いのこ たかなり)が光秀のために取りなしたので、利三は助命されて元のように光秀に仕えた。・・・

(引用:桐野作人『織田信長』550頁 2011年 新人物往来社)

 

とありますが、この記事は2次史料『稲葉家譜』にある記述に拠っているようです。一部の研究者の間では、この『稲葉家譜』の記述にばかり準拠するのは危険だとの指摘がやはりあるようですが、事実明智光秀サイドに立っていて尚且つ同様の指摘を受けている、2次史料『明智軍記』は全く違う事情を記載しています。

記事が長いので要約しますと、、、

 

”天正7年(1579年)9月の『第一次伊賀の乱』で、織田信雄(おだ のぶかつ)が父信長の指示を待たずに伊賀に攻め込んで大敗した件につき、指導役であった重臣林佐渡守と与力の安藤伊賀守が、天正8年の本願寺との和解が成立した後に、本願寺攻めの責任を取らされた重臣佐久間信盛(さくま のぶもり)とともに、責任を取らされた形で追放・改易になっており、その当時安藤伊賀守が、かつて盟友だった稲葉一鉄(いなば いってつ)に信長への執り成しを依頼して来た際に、一鉄がこの安藤守就の要請を無視したことに関し、驚いて家老の斎藤利三と那波直治が主君稲葉一鉄を諫めた。そのことで稲葉一鉄がブチ切れて両名を勘当とした。まさに老いの一徹となった稲葉一鉄に対して、絶望したふたりは、同郷の明智光秀を頼った。慌てた稲葉一鉄が安土に訴え出た為、織田信長側近猪子兵助と細川藤孝が仲裁に入り、説得に応じて那波直治は帰参することとしたが、斎藤利三は拒否し稲葉一鉄を捨ててそのまま明智光秀に仕えた。”

 

と言う話になっています。

前述の『稲葉家譜』に準拠した記事によると、那波直治の引抜事件は天正10年になってからの事となっているらしいのですが、斎藤利三がいつから明智の家臣になっていたのかに関してはよくわかりません。

この『明智軍記』によると、斎藤利三が明智光秀に仕えたのは、稲葉一鉄に勘当された時期である天正7年(1579年)9月から天正8年(1580年)8月の間ではなかったかと想定が付く事となります。

通説では斎藤利三が明智の家臣になった時期は、浅井長政(あざい ながまさ)謀叛の折である元亀元年(1570年)から、天正3年(1575年)、天正6年(1578年)と色々あるようですが、『明智軍記』に関しては、歴史学者から信用ならない”悪書”と決め付けられていることもあるので、ここで視点を変えて、斎藤利三が明智光秀と織田信長の茶堂である天王寺屋宗及の茶会に出席している記録を見てみると、、、

 

天王寺屋他会記

  1. 天正8年(1580年)9月21日 於:坂本城

天王寺屋自会記

  1. 天正8年(1580年)3月24日 夜 於:堺
  2. 天正8年(1580年)12月末日 夜 於:堺

以上のように、斎藤利三がこの時の織田信長の茶堂天王寺屋津田宗及(つだ そうぎゅう)の茶会に出席した記録は天正8年に集中しています。当時津田宗及は織田信長の政策顧問のような人物ですから、明智光秀の重臣はこの茶会に名前がもっと出ていてしかるべきなのです。

つまり、利三は明智家の家老・老臣と言う立場だったはずですから、坂本城築城が成って、明智光秀が名実ともに織田家重臣となった天正年間全体に茶会出席記録がなければおかしい訳です。

と言うことから、どうやら『明智軍記』の記事の内容の方に分があるようで、これを信じるならば、斎藤利三が明智光秀の重臣として迎えられた(家臣となった)のは、織田信雄が『第一次伊賀の乱』で大敗した天正7年(1579年)9月以降、安藤伊賀守が追放された天正8年(1580年)8月までの間だったのではないかと考えられます。

勿論この話は、明智光秀の長曾我部元親を巡る『四国政策』との問題で、明智光秀と長曾我部を結ぶ線がすべて斎藤利三からだと見ると、天正8年では遅すぎると言うことになる訳ですが、違う筋もあるかもしれませんので、まだ検討の余地はあるような気がします。

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なぜ家臣は明智光秀のクーデターに反対しなかったの?

これについて、太田牛一『信長公記』によれば、、、

 

六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、・・・

(引用:太田牛一『信長公記 巻十五 明智日向守逆心の事』インターネット公開版)

大意は、”天正10年(1582年)6月1日の夜、丹波亀山城にて、明智光秀は、明智秀満、明智光忠、藤田行政、斎藤利三らと、謀反の段取りを話し合い、織田信長を討ち果たして天下の主となる計画を綿密に立てた。”位の意味です。

そして、小瀬甫庵『信長記』では、、、

 

六月朔日に惟任日向守光秀、亀山城に於て明智左馬助、同次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助、溝尾勝兵衛尉等を呼び寄せ、潜に云ひけるは、各の命を申請け度き事候が、同心有るべきに於ては評議すべし。然らざれば光秀が首を刎ねられ候へと、何のあやもなく申しければ、五人の者共、こはいかにと興をさまし息はづんで覚えつゝ、互に目を合わせたる計りなるに、左馬助進み出て申しけるは、今日まで主と頼み奉る者どもが、一大事に当って誰か見続き申さヾるべき。何事にても左馬助に於ては、御請け申候と、頼母しげに云ひければ、残る四人も皆其の儀に同じけり。

(引用:小瀬甫庵撰/神郡周校注 『信長記 下 惟任日向守謀叛の事』 古典文庫59 1981年 現代思想新社)

 

大意は、”天正10年(1582年)6月1日、丹波亀山城にて、明智光秀は、明智秀満、明智光忠、藤田行政、斎藤利三、溝尾庄兵衛ら重臣を集めて、「皆の命を私に預けてほしいことがあるのだが、了解してくれるなら打合せをしたいが、もし了解出来ないと言うことであれば、私の首を刎ねてもらいたい」と、素直に言うと、5人の重臣はどうしたものかとためらっている内に、明智秀満が前に出て、「今日まで主君と頼りにして来た殿の一大事に当って、誰かは付いてゆくべきでしょう。私秀満はいかなることもお受けいたします。」と頼もしげに言うと、残る4人も皆同意した。”位の意味です。

次に、『明智軍記』では、、、

 

去程ニ惟任日向守ハ、居城坂本ニ帰著アツテ、則明智長閑斎・三宅式部・奥田宮内・山本山入・伊勢与三郎・諏訪飛騨守・斉藤内蔵助・村越三十郎ヲ召寄ツヽ、光秀密ニ申ケルハ、・・・頃安土ニテ難儀ニ逢シ事、其外面目ヲ失ヒシ儀ナド、委ク語聞サレケレバ、各承リ、兎角ノ諾モ不申シテ、落涙ノミ見ヘケル・・・、今ハ何ノ御思慮ニモ不及、一筋ニ御謀叛ヲく企ラレ、臣等ガ憤ヲ散ジ、且ハ御積鬱ヲモ晴シ玉フベキ也ト、言ヲ放テゾ申ケル。

(引用:二木謙一校注『明智軍記 巻第九 299~300頁』2015年OD版 角川学芸出版)

 

大意は、”そうこうするうちに、明智光秀は居城の坂本に帰り着くとすぐに、明智光忠三宅式部奥田宮内山本山入伊勢与三郎諏訪飛騨守斉藤利三村越三十郎らを呼び寄せ、光秀が内密に告げるのは、・・・安土城で難儀にあった事、武家の面目を失った事など詳しく語り聞かせると、各人何も言わずに涙を流すだけだった。・・・家臣から「今は何もお考えにならず、一筋に謀反を起すことを考えられ、我々家臣の怒りを散じるとともに、ご自身のうっぷんを晴らすことをなさるべきだ。」と声があがった。”位の意味です。

これらの史料は、明智光秀から謀反の考えを打ち明けた場所や重臣のメンバーが少しづつ違うものの、どの話も明智光秀の謀叛に対して重臣たちの中に、異を唱える者はいなかったと伝えています。

織田家内部での明智光秀の立場が、天正8~9年をピークとして大きく転落し始めていた事を、明智家の重臣たちも肌身で感じ、織田信長の四国政策の大転換の中で、明智家の行く末に強い危機感を持っていたことの現れなのでしょうか。

 

『山崎の戦い』で明智軍に参戦した兵は、光秀の配下なの?

豊臣軍に対抗する明智軍がほぼ壊滅していることもあり、明智軍の状況を伝える信頼できる史料は存在しないようですが、他の軍記ものの元本となっている小瀬甫庵の『太閤記』によりますと、、、

 

明智軍の構成は:

  1. 中央先鋒・・・近江衆(斎藤利三・柴田源左衛門ら)5000名
  2. 右翼先鋒・・・丹波衆(松田太郎左衛門・並河掃部ら)2000名
  3. 本隊右翼・・・室町幕府衆(伊勢與三郎・諏訪飛騨守・御牧三左衛門ら)2000名
  4. 本隊左翼・・・津田與三郎 2000名
  5. 予備隊・・・明智光秀本隊 5000名

合計16,000名の兵力であったと言います。

光秀本隊は坂本城の兵力の内、山崎の戦いに参戦できなかった明智秀満指揮下の安土城・近江地区警備の3000名を差し引いたものと考えられます。

光秀の最初の目算では、これに摂津衆(高山・中川・池田)10000名と丹後の細川軍・大和の筒井軍5000名くらいが加わる腹積もりだったと思われます。

もしそうなっていたら、豊臣秀吉軍は、中国大返し組1万5千と織田信孝・丹羽長秀軍5000で、実質2万名そこそこだったと思われますので、明智光秀軍は、30000名以上の方が圧倒的な兵力で戦いに臨めたと考えられます。

ここは、全く豊臣秀吉の調略か誰かの策略にしてやられたと言うことになります。

本来の明智光秀の配下軍である細川藤孝と筒井順慶・摂津衆(高山右近・中川清秀・池田恒興ら)の裏切りと、山城の國の国衆たちから兵力が集まらず、明智光秀の腹積もりの半分以下となったため、光秀の配下の近江衆と丹波衆と旧室町幕府軍を合わせた兵力で戦うハメに陥ったことになります。

と言うことで、明智光秀の軍勢は本来の配下部隊(領地の近江・丹波の衆・美濃衆・旧幕府軍)しか集まらず、織田信長から畿内方面軍として光秀配下に付けられていた畿内の与力大名たちは、全員が光秀を裏切って秀吉側に付いたと言えそうです。

 

まとめ

一般に明智光秀の家臣団と言うと、近い親族の明智秀満・豪の者で有名な斎藤利三で、ちょっと詳しい向きには、譜代の溝尾庄兵衛三宅藤兵衛と言うことになりそうです。

しかし今回は、家臣の個人別のファミリーヒストリーは置いておいて、あくまでも明智光秀の家臣絡みの疑問解明に焦点を当ててみました。

先ずは、「牢人している明智光秀になぜ家臣がついているのか?」ですが、明智家滅亡当時からの家臣と思われる人たちは、どうやらほぼ全員が土岐明智家の一族郎党のようです。

弘治2年(1556年)の所謂「道三崩れ(どうさんくずれ)」の時に、叔父の明智光安(あけち みつやす)に一族の後事を託され、明智光秀は一統を引き連れて美濃を脱出して、母親の関係から幼い頃より面識のある越前長崎の古刹「称念寺(しょうねんじ)」の門前で10年間を過ごすことになります。

そんな様子から、明智光秀が足利義昭に仕え始めた永禄9年(1566年)頃からの光秀家臣団は、この時の一族子弟達だったのではないかと思われます。

次に、「足利義昭が越前一乗谷から岐阜の立政寺へ動座する際、途中で明智光秀が500名の家臣を引き連れて出迎えに出た」という件ですが、当時はっきりとした所領も持っていない明智光秀に、500名(この家来数は少なく見積もっても5万石相当の大名クラス)の家来を持つことは不可能であることから、同行した織田勢1000名の内500名を引き連れて行ったのではないかと考えられます。

三番目の、「斉藤利三はいつから明智光秀の家臣なのか?」ですが、元亀元年(1570年)織田信長の越前遠征が義弟の浅井長政の裏切りにより大敗した後、京都より岐阜へ帰還する途次の帰路確保で、近江守山辺りで蜂起した一揆軍の掃討戦を任された美濃衆稲葉一鉄の配下に斎藤利三がいたことが分かっています。

そこで、通説は元亀元年(1570年)の一揆掃討戦の後に、斎藤利三は稲葉一鉄と処遇に関して揉めて、一鉄から離れて明智光秀に仕官したのではないかと言われていますが、『明智軍記』では、織田信長と石山本願寺の和議成立を見た天正8年(1580年)に、斎藤利三が稲葉一鉄と仲違いした記事があり、『天王寺屋会記』によると、利三の織田信長茶堂の天王寺屋宗及(てんのうじや そうぎゅう)の茶会への出席が天正8年頃からはじまっていることから、『明智軍記』の記述の方が筋が通る感じです。

もしそれを根拠とすると、斎藤利三が明智光秀の家臣になったのは、以外にも遅く、天正8年(1580年)以降の可能性もあると考えられます。

4番目の、「主君織田信長弑逆のクーデターを起すに当たって、なぜ家臣は反対しなかったのか?」については、記録は大半が積極的に明智光秀の決心を支持したとなっています。これに関しての理由は、”織田信長から主君明智光秀が恥辱を受け、武門の誇りを傷つけられた”とするものが大半で、事前にクーデターが明智光秀によって計画されていた可能性が高いことには触れていません。

これは後世の作り話ではなくて、数人の重臣との話で決めていたクーデター計画に関し離反者を出さないようにするため、信長の悪行を語り「武門の恥をそそぐ」とばかりに他の重臣を説得したと言うこともあり得るので、光秀自身が積極的にそうしたストーリーを使った可能性もあります。

そうやって、反対者を出さないように持って行ったとも考えられます。

最後の、「山崎の戦いに参戦した部隊は、光秀の配下兵だったのか?」ですが、光秀の一族・領地の国衆・幕府軍の参戦であった事が確認出来ますが、盟友細川藤孝始め織田家の与力軍は皆光秀から離反していたことが分かります。ただ離反するだけでなく、摂津衆のように豊臣軍に加勢する(寝返った)軍まであり、明智光秀の滅亡の大きな原因となりました。

前述しましたが、もしこの明智光秀が織田信長から預けられていた”近畿方面軍”の全軍が明智光秀の味方をしていたら、『山崎の戦い』は兵力的に見て明智軍の圧勝に終わり、豊臣秀吉の天下はやって来なかったものと考えられます。

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参考文献

『美濃國諸舊記 巻之六』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇細川護貞監修『綿考輯録 第一巻 藤孝公』(1988年 出水神社)

〇八切止夫『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

〇谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年 吉川弘文館)

〇太田牛一『信長公記 巻三』(インターネット公開版)

〇桐野作人『織田信長』(2011年 新人物往来社)

〇二木謙一校注『明智軍記』(2015年OD版 角川学芸出版)

〇永島福太郎編『天王寺屋会記 六』(1989年 淡交社)

〇永島福太郎編『天王寺屋会記 七』(1989年 淡交社)

〇太田牛一『信長公記 巻十五』(インターネット公開版)

〇小瀬甫庵撰/神郡周校注 『信長記 下 惟任日向守謀叛の事』 古典文庫59 (1981年 現代思想新社)

〇二木謙一校注『明智軍記』(2015年OD版 角川学芸出版)

〇谷口克広『光秀家臣団の構成や出自はどこまでわかっているのか?』(洋泉社編集部編「本能寺の変と明智光秀」2016年 洋泉社 に所収)

〇高尾察誠『改訂 明智光秀公と時宗・称念寺』(2019年 称念寺)

〇高尾察誠『称念寺のあゆみ』(2017年 称念寺)

 

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