明智光秀の本当の生誕地はどこなの?京都?美濃?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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あの『本能寺の変』の下手人明智光秀の生まれたところが分かります。

明智光秀が学識豊かな理由が分かります。

織田信長が出会って間もなく明智光秀を取立てた訳が理解出来ます。

織田信長と出会うまで、明智光秀がどこで何をしていたのか分かります。

 

なぜ明智光秀は、織田信長の気を引くほど有職故実に詳しいの?

明智光秀研究のバイブル”とされる、日本の戦国史研究の権威として名高い高柳光寿氏の著書『明智光秀』の冒頭で、、、

それにしても本能寺の変・山崎の戦以前の光秀を書くということは決して容易なことではない。この困難が光秀の伝記を今日まで作らせなかったのではないかと思う。

本書は光秀の出身からその死に至るまで、ひと通り彼の伝記を記述したつもりである。・・・・・

光秀の出自はどうもはっきりしない。・・・

(引用:高柳光寿『明智光秀』2000年 吉川弘文館)

とあり、”わしは光秀の伝記を書いた”と云いつつ、”光秀の出自はどうもはっきりしない”と正直に言われており、どうやらこの本が出版された昭和33年当時までの時点では、日本歴史学会のボスである高柳先生の説明によれば、江戸時代から今まで”光秀の前半生”に付いて書かれた幾多のものは、すべて根拠のない作り話ばかりで本当のところは全く不明だと言うことらしいです。

要するに”明智光秀の出自問題”は、戦国史の権威が”さじをなげる”ほど、やっかいな話と言う事です。

テーマにある『なぜ明智光秀は、織田信長の気を引くほど有職故実に詳しいのか?』に関して、一般的に『有職故実(ゆうそくこじつ)』に詳しいと言うのは、現代で考えるような少し勉強して良く知っていると言う程度の話ではなくて(そんなことであれば英才教育を受けた織田信長なら知っているわけですから)、もう”技術”のレベルと判断出来ます。

この時代であれば専門学校があるわけではないので、技術を習得するには、師匠に弟子入りするか、”一子相伝”のケース以外には存在しないわけです。

この激動の戦国期にあってのんびり弟子入りして勉強出来るとすれば、公家衆くらいしか考えられませんので、武家であるはずの明智光秀の場合は、『一子相伝』である可能性が非常に高いと考えられます。

明智家がいくら室町の奉公衆である名門土岐家の支流の家柄とは言え、美濃の草深い地にばかりいたとすると、”典礼専門の家柄”でもない明智家において、京都の室町御所に通用するような『有職故実』を、人を指導するほどのレベルで光秀に仕込めるとはとても考えられません

つまり、ホンモノを見分ける眼力のあるあの織田信長が、わざわざ抜擢して京都の幕府衆・公家衆の担当をやらせた”明智光秀”は、やはり可能性として京都のそれ相応の家柄で幼いころより”有職故実”の知識の『一子相伝』を受ける環境にいたのではないかと考えてしまうのですが、事実はどうだったんでしょうか?

美濃の土岐明智家の名前に惑わされて、明智光秀の出自探しの迷路にハマってしまっているのかもしれません、どうやらもっと冷静に詳しい光秀自身の経歴調べが必要のようです。

 


(2018.4.4撮影 『明智城跡』岐阜県可児市)

 

明智光秀の前半生がよくわからないのはどうして?

その時々の明智光秀の存在場所が明確にわからない事もありますが、契機となる『将軍義輝弑逆事件』が起こった永禄8年(1565年)以降の足利義昭と織田信長の動きについて、まるで明智光秀がプロデュースしたかのような話になっていることからして違うのではないでしょうか。

場面の転換が劇的過ぎて前と後ろの整合性に疑問が出て来るような気がします。そうなった理由が”ラッキーと偶然”だけでは説得力が乏しくなる(つまり”蓋然性”が欠如している)のではないでしょうか。

例えば、、、

通説では、美濃を脱出した明智光秀は、越前朝倉家に身を寄せ500貫で召し抱えられ、鉄炮隊を指導していたと言い、名家土岐氏の流れとして朝倉家に厚遇されていたような話がありますが、一方、、、

 

正月廿三日御遊行事成就し七条へ御帰寺。同廿四日坂本惟任日向守へ六寮被遣、南部御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越。惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景賴被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠て、六寮旧情甚に付て坂本暫留被申。

[引用:大谷学報 52(1), 54-74, 1972-06に「遊行三十一祖 京畿御修行記」〔天正6〜8年記録〕橘 俊道(校註)]

 

大意は、”時宗の遊行三十一祖同念上人は、天正8年1月23日に「遊行(ゆぎょう)」が成就したので、京都七条金光寺へ戻られた。24日には坂本城の惟任日向守へ使いを出され、大和へ修行へ行った折に領主の筒井順慶に惟任から書状が出されていたことへのお礼が述べられた。惟任日向守は、もと明智十兵衛尉と云って、美濃土岐一族の牢人であったが、越前長崎の称念寺前に十年も居住し、寺から越前領主朝倉義景への仕官も世話するなど、ねんごろに扱われていて、使僧も旧交を温めて坂本に逗留した。”位の意味です。

これによると、明智城を落ち延びた弘治2年(1556年)以来、妻の実家の伝手で、越前の称名寺に世話になり、10年もの間寺子屋などやりながら、ほそぼそと暮らしていて、称名寺に口をきいてもらって朝倉氏へやっと仕官したと考えられます。

つまり、明智城を落ち延びた後、越前の朝倉氏には名門明智氏の一族として手厚く扱われず、10年経ってやっと仕官したような話が、実際に光秀の家族の面倒をみていた称念寺からの情報に基づいて、”時宗遊行派の同念上人”の日記が語っていることになります。

こうなった理由は、当時の明智光秀が決して名族土岐明智家の嫡男などではなく、家柄もないただの失業した牢人者として扱われたことを示しており、前出の説にある明智光秀の名族伝説はどうやら作り話だった可能性があることが分かります。

このように、いわゆる”道三崩れ(弘治2年)”から10年間と言うと永禄9年(1566年)となり、足利義昭が越前敦賀金ヶ崎へ移ったのも、永禄9年(1566年)9月となります。

時期が一致していることから、名もなき明智光秀は、ここでも称名寺の住職の口添えで足利義昭一行へ接近を図り、朝倉から禄をもらいながら足利義昭・細川藤孝ら一行に取入るなどしたのでしょうか?

ここに、現代の公務員在籍記録にあたる公式記録である『永禄六年 諸役人附』がありますが、、、

足利義昭の記載部分に、「足軽 明智」と加えられていることから、”織田信長との上洛交渉”に謀殺されていた細川藤孝の”中間”と言う形で幕臣に加えられたとすれば、辛うじて辻褄は合う感じです。

また、、、

 

惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ迯テ、山階ニテ一揆ニタヽキ殺レ了、首モムクロモ京ヘ引了云々、淺猿〃〃、細川ノ兵部大輔カ中間ニテアリシヲ引立之、中國之名譽ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此、・・・、

(引用:多門院英俊『多門院日記 第三巻 天正十年六月十七日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大意、”天正10年(1582年)6月12日に明智光秀は勝竜寺城より脱出し、山科で一揆衆に殺され、首は遺体もろとも京へ運ばれた、嘆かわしいことだ。光秀は細川藤孝の中間であったところを織田信長に引き立てられ、丹波攻めの名誉に預かった、信長に大恩があるのに謀反を起した。恩知らずの大犯罪で、この有様は当然だ。”位の意味です。

ここでも、奈良興福寺多門院主英俊から”明智光秀は細川藤孝の中間をやっていた”と言う証言が出ています。これで、明智光秀と織田信長の関係のきっかけは、細川藤孝の配下だったことから始まった可能性があることが分かりました。

ところが、、、

永禄13年1月23日に織田信長から足利義昭に出された有名な『五カ条の条書』と言われる、織田信長が将軍足利義昭より実質将軍権限を取り上げた、『五カ条の条書』と言う文書(「織田信長文書の研究 209足利義昭・織田信長条書」)がありますが、この表向きの宛名に『日乗上人』とともに『明智十兵衛尉 殿』とあり、織田信長が光秀に対して『殿』を付けて身分が信長と対等である扱いをしていることが分かります。

となっており、ほんの3年半前の永禄9年に細川藤孝の”中間(ちゅうげん)”で、幕府直臣とは言え”足軽の末席”に過ぎなかった明智光秀が、永禄12年には、織田家の奉行格で公式文書に登場し、永禄13年初には、織田家と足利将軍家を繋ぐ”取次役”で、むしろ将軍家側の重役として織田信長から扱われています。

この超スピードでの出世は、豊臣秀吉並みです。秀吉のように拡大する織田家内での軍功がはっきりしている場合は分かりやすいですが、十年間も越前称念寺門前でくすぶっていたはずの明智光秀が、織田家の秀吉並みのスピードで駆け上がるほどの”手柄・功績”がハッキリ見えて来ません。

”明智光秀の前半生がはっきりしない”のは、こうしたよくわからない逸話があり過ぎて、光秀の人物像を分からなくしているようです。

かの有名な宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、、、

 

信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなくて、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、・・・殿内にあっては彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、・・・彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、経略と策謀の達人であった。・・・

(引用:ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史ー織田信長篇Ⅲ 143頁』2014年 中公文庫)

 

とあり、伴天連に人気のない光秀には、ある意味”ぼろくそ”ですが、前述している日本側の史料と内容(細川藤孝に仕えていた点)が一致していることから、正確なものと考えられ、又、フロイスの人物評は正しい一面を捉えているものもあると評価されているので、明智光秀の実像は、豊臣秀吉(黒田官兵衛)の上を行く謀略家であった可能性が高いようです。

こうなると、明智光秀の前半生がはっきりしない理由も、ひょっとしたら、その辺り(本人の作為)の事情もあるのかもしれませんね。

 

明智光秀は名門土岐氏の出身なのか、大体そもそも明智一族の人なの??

一般に史料としてよく使われますが、、、

 

美濃國住人ときの随分衆也 明智十兵衛尉

其後従上様被仰出 惟任日向守になる

(引用:『立入左京亮入道隆佐記 二百八十二頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

と、、、

 

明知十兵衛尉以折帋申來云、自濃州親類之方申上也、山王之敷地ニ令普請新城也、

(引用:吉田兼見『兼見卿記 第一 元龜三年十二月十一日の条』1971年 続群書類従完成会)

 

前者の大意は、”明智光秀は、土岐の随分衆(身分が高い階級の人たち)である。その後織田信長公より命じられて「惟任日向守」になった。”、後者は”明智光秀が書状にて云って来たことには、美濃の親戚から云って来たことだが、山王神社の敷地内に館を建てることとなり、・・・”位の意味です。

これらにより、明智光秀の出身地が美濃国でどうやら土岐氏の一族らしいと京都では受け取られていたと思われます。

しかし、、、

前章までで、弘治2年(1556年)4月のいわゆる『道三崩れ』の後、、、

  1. 越前朝倉氏が美濃から落ち延びて来た明智光秀を室町幕府奉公衆の名族として処遇していない。(10年間ほったらかし)
  2. 足利義昭が明智光秀を配下に加えるのに「足軽」にしかしなかった。(これは足利幕府奉公衆の名族への扱いではありえない。)

などから、明智光秀は、少なくとも土岐明智氏の直系一族ではないことが、証明されていると考えられます。

そして、件の越前長崎称念寺の縁起によれば、、、

 

明智家に縁のある家系の方の伝承では、信長に仕える前の光秀公が仕えたのは、朝倉ではなくてその家来の黒坂備中守とあるそうです。それなら、一乗谷ではなくて長崎の称念寺のすぐ隣りに黒坂館跡があり、交流が一層自然なことであり、朝倉の家臣の史料に光秀公の名が記録されていないことにも納得が出来ます。

(引用:高尾察誠『称念寺のあゆみ 17頁』2017年 称念寺)

 

とあり、現地でも明智光秀は、朝倉氏に直接仕官出来ていなかったような伝承もあり、やはり光秀の出自は、朝倉氏の処遇どおり”土岐明智一族の直系ではなかった”ことがはっきりしそうです。

ここに最近話題の家系図(『大日本史料 第十一編之一』に収納されている「明智氏一族宮城家相伝系図書」と言われるもの)があります。。。

その系図の中に、後で書き足されたような”光秀”に関する譜書があり、、、

光秀  享禄元年戊子八月十七日、生於石津郡多羅云云、多羅ハ進士家ノ居城也、或ハ生於明智城共云云、母ハ進士長江加賀右衛門尉信連ノ女也、名ヲ美佐保ト云、傳曰、光秀、實ハ妹聟進士山岸勘解由左右衛門尉信周之次男也、信周ハ信連ノ子也、光秀實母ハ光綱之妹也、進士家ハ於濃州、號長江家、・・・

(引用:『大日本史料 第十一編之一 [明智氏一族宮城家相傳系圖書] 518頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”明智光秀は、享禄元年戊子(1528年)に美濃国石津郡多羅で生まれたと言う。多羅は進士家の居城があるが、明智城で生まれたとも言う。母は、進士信連の娘で、名を美佐保と言う。一説には、明智光綱の妹聟の進士信周(しんじ のぶちか)の次男で、信周は信連(のぶつら)の子である。つまり光秀の実母は明智光綱(あけち みつつな)の妹であり、進士家は美濃国では長江家と称した。”位の意味です。

ややこしい関係ですが、要するに明智光秀は足利幕府の奉公衆で、前将軍足利義輝(あしかが よしてる)の申次衆”進士晴舎(しんじ はるいえ)”や、その娘で義輝の側室であった”小侍従(こじじゅう)”を出していた名門『進士家』の一族だと系図に記載されていると言うことになります。

この系図に関して、中世史の大家高柳光寿氏が”悪書である”と決めつけた為、長らく無視され続けて来ましたが、最近の研究で、元々ある進士家の系図に、遠戚関係にある”明智光秀”が『永禄の変』で全滅した名族の進士一族の『進士家』の家名を利用するために、手を入れて無理に縁付ける為に系図の付け足しを行なった結果ではないかと考えられて来ています。

この戦国期は、豊臣秀吉ほど見え見えバレバレのひどいでっち上げ出自は別としても、織田信長や徳川家康なども下層民からの出自を意図的に改ざんした可能性があると言われていますので、この明智光秀程度の系図の付けたしや改ざんは普通だったような気がします。

明智光秀の場合は、

  1. 明智家傍流であったのを嫡流としたこと
  2. 京都で典礼などで名高い進士家と明智家が姻戚関係が絡んでいて、一族であるかのようにしたこと

くらいが後世の明智光秀関係者による系図の改ざん意図だったようです。

もしそうであったとすると、この進士家一族と言うネームバリューは、明智光秀が織田信長に重用される切っ掛けを作ったことと、実際に京都政財界での顔の利き方に十分効果があり、その”あと押し”をホンモノの名族出”である細川藤孝が行ったことは間違いなく、それが後に織田信長からの細川家と明智家が姻戚関係を結ぶように命令された理由のひとつだろうとも推察されます。何事にも慎重で完璧主義の織田信長らしい政策だと思われます。

この系図からの類推はそんな明智光秀のサクセスストーリーをも作らせそうです・笑。

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生誕地は、美濃可児郡明智荘長山か、美濃石津郡多羅か、それとも京都なの?

近年、明智氏の系図研究から、明智氏は足利幕府の名門土岐家の一族で幕府奉公衆(有力御家人)として、以前は京都(将軍に供奉して)を中心に活躍していたことが分かっています。

最近の系図研究により、守護職土岐頼貞(とき よりさだ)の九男である土岐頼基(とき よりもと)を祖とする土岐明智氏の、その6代目頼秀(よりひで)の子に頼弘(よりひろ)頼高(よりたか)がおり、応仁の乱の折、将軍に謀反の疑いのある西軍「山名宗全(やまな そうぜん)」に与するのを、良しとしなかった”頼弘”が明智家の領地美濃国へ引き揚げ、そのまま京都の将軍のもとに残った”頼高”と明智家は活動拠点が分裂したようです。

そこで、明智家において明智光秀は、京都に残って引き続き将軍を支えた「頼高系」なのか、美濃領国の守備に帰国した「頼弘系」に生れたのかと言う話になりそうです。

先ず、生誕地が美濃(岐阜県南西部)だとする説ですが、、


(2018.4.4撮影 岐阜県可児市『明智城址』)

 

明智十兵衛光秀は、清和源氏土岐下野守頼兼後裔也、世々美濃国に住し、其父濃州明智城にて戦死の節、教訓して遁れ隠さしむ、其後朝倉義景ニ仕へて、五百貫の地を領せらる、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 巻一 27頁』1988年 出水神社)

 

大意は、”明智光秀は、清和源氏土岐頼兼(とき よりかね)の子孫である。代々美濃国に居住し、その父が居城の明智(長山)城を斎藤義龍に攻められて戦死した時、明智家の存続を図るように諭され、城を脱出してその後越前の朝倉義景に仕え、500貫の領地を与えられた。”位の意味です。

これは、細川藤孝の”細川家記”たる『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』に記述されている事ですが、江戸中期の元禄始め(1688年~1702年)頃に書かれた、軍記物『明智軍記(あけちぐんき)』の内容を参考にしたものであり、ほぼ事実とは言えないと考えられています。

つまり、明智家が代々美濃に領国を持っていたことは史実ですが、”明智光秀出自関係”の記事に関してこの『綿考輯録』が参考とした『明智軍記』自体の信頼性が歴史研究者には疑われていることから、明智光秀が美濃生れと言う説はよくわからないと言う事になります。

もし、光秀の出自が美濃にあるとしても、細川家記の言うような”代々美濃国に居住し”ではないと言う事になるわけで、参考にはならないと言う話です。

 

次に、前章までに出ていた系図『明智氏一族宮城家相伝系図書』にある説ですが、、、


(2019.6.18撮影 『多羅城址』 岐阜県大垣市上石津町宮)

前述しましたように、光秀が美濃生れとした場合に、ずっと草深い美濃で育ったはずの明智光秀が、永禄11年(1568年)秋に上洛してからすぐに、京都での朝廷外交を担当する奇妙さを軽減するために、都で代々典礼・儀式に係わる事を主たる業務とする進士一族の出身なのだと納得させる爲の、後世の人物の系図工作であったと考えられます。

長らく歴史家に軽視されていたところですが、近年注目され始めて来ました。

しかし、研究が進むにつれ、”傳曰、光秀、實ハ妹聟進士山岸勘解由左右衛門尉信周之次男也”の、肝心な「進士山岸勘解由宗左右衛門尉信周」なる人物の実在証明が全く出来ず、やはりこの説は後世の作り話の可能性が強い事が判明し始めています。

これにより、明智光秀の出生地の、”美濃国可児郡明智荘長山”説・”美濃国石津郡多羅”説ともに、光秀に関する学術的な証明が出来ずにいます。又、その他可児郡近隣の”恵那市明智”説は、遠山氏の居城であったことが分かっており、明智氏とは違うようです。

では、光秀はどこで生まれたかですが、歴史研究家の明智憲三郎によると、ひとつのヒントが、、、

 

土岐明智兵部少輔頼定与同名兵庫頭入道玄宣相論事、令和睦。於知行分者、可折中旨、被成御下知訖、宣被存知之由、所被仰下也、仍執達如件、

明応四年三月二十八日  下総守(飯尾為頼)
前丹後守(松田長秀)

土岐左京太夫(成頼)殿

(引用:明智憲三郎『光秀からの遺言』 52頁 掲載の「沼田藩土岐文書」より)

 

大意、”明智頼定と玄宣との争いごとは和睦させ、知行地の分配に関しては折半として下知せよ。そう命じよと仰せられましたので、通達します。”位の意味です。

これは、美濃在住の「頼弘系」の息子頼定(よりさだ)と、京都在住の「頼高系」の息子玄宣(げんせんー光高)が、美濃の領地争いをして、明応4年(1495年)3月28日に、足利将軍から半分づつにして争いを収めよと裁定されたことを示しています。

経緯は分かりませんが、正式に京都組が美濃に領地を得たのか、本来京都組が所有している美濃の領地の半分を現地組に横領されたことを示しており、とにかくこの裁定が出てから、急いで京都在住の一族が美濃に下向したものと思われます。

これで、系図のどちら側にいても、明智光秀は美濃で生まれた可能性が出て来たようです。

この明智光秀の京都組の曾祖父に当たる明智玄宣(あけち げんせん)という人物は、京都の連歌界では超有名人で、光秀が細川藤孝の家臣をやっていながら、京都の政財界で厚遇されたのは、細川藤孝の身分もありますが、この曾祖父”玄宣(げんせん)”の知名度に依るものと考えるのが妥当のようです。

織田信長に供奉して永禄11年(1568年)上洛以降即座に、京都政財界の連歌の会・茶会に御座敷が掛かっているのは、織田信長ら美濃からポッとでの田舎侍には及びもつかないことです。

これで、光秀が京都に屋敷を所有していた事とか、上洛後すぐに京都の外交が任されていったことなどの謎の一端は解けそうです。これは出生地の話より、出自が物を言った事を示しているようです。

どうやら、光秀出自は”京都組頼高系”であることが有力のようですね。


(2019.6.18撮影 『革手(川手)城址』 岐阜県岐阜市内)

可能性としては、出生地が美濃だとすると、大垣とか可児の田舎ではなく、守護職土岐氏の住まう、当時西の山口、東の革手(かわて)と言われ繁栄した城下町を持つ”革手城(川手ー現在の岐阜市正法寺町付近)”周辺ではないかと考えられます。

 

織田信長上洛後すぐに、京都の責任者になれたのはなぜ?

この話は、従来の明智光秀の経歴に関する通説から来る疑問だったんだと感じるところです。

通説では、、、

 

光秀は土岐頼淸の次男・明智下野守頼兼の七代後裔・光継を祖父、早世した光綱を父とし、東美濃明智城に在城していたが、弘治二年(一五五六)斎藤道三が息子・義龍に攻められて滅びた際に道三に加担して落城。叔父の光安・光久はこの戦いで討死したが、光秀は従兄弟の光春・光忠や一族を伴って越前へ落ち延び、単身で諸国を遍歴した後に越前に戻って朝倉義景に仕えた。加賀の一向一揆攻めで手柄や鉄炮の腕を義景に見込まれるなどしたが、その後、義景に疎んじられるようになった。織田信長の正室が光秀の従妹だった縁で信長から誘いを受けて、永禄九年十月、岐阜へ赴いて信長に仕えた。永禄十一年、越前に逗留していた足利義昭の側近・細川藤孝に光秀が話をもちかけて、義昭と信長の間を取り持って上洛を実現した。上洛後は義昭にも仕えて信長・義昭に両屬した。享年は五十五。

(引用:明智憲三郎『光秀からの遺言 23~24頁』2018年 河出書房新社)

 

と概ねこの様になっていまして、明智光秀と足利将軍の関係が織田信長の家臣になってからの事のようなことで、明智光秀は、織田信長の上洛のキッカケ作りと、事前に信長に濃姫経由で売り込んで、その能力を信長に買われていたんだろうなという感じに受け取って来たようです。

この通説のおかげで私たちは、あまり深く理由を考えないで、漠然と話が流れるままに織田信長による、”明智光秀の幕府との交渉役・京都外交の責任者への起用”を捉えていたようです。

しかし、最近の研究の成果で、永禄11年(1568年)の足利義昭上洛以前の”明智光秀”の行動事蹟が判明し始めて来ました(ここからは歴史研究家明智憲三郎氏の説に拠ります)、、、

明智光秀が生まれたと考えられる永正13年(1516年)頃は、守護職土岐政房(とき まさふさ)の後継を、嫡男頼武(よりたけ)と次男頼芸(よりのり)が争う時代でした。

土岐頼武は一旦は守護職に就くものの、斎藤道三率いる長井一族に擁立された”土岐頼芸”との戦いに敗れ、その後没します。”土岐頼武遺児の頼澄(よりずみ)”に仕える光秀は、行動を共にして越前へ逃れ、朝倉氏・織田氏の支援を受けつつ、美濃へ侵入して斎藤道三の率いる頼芸軍と何度も戦いますが敗れ、都度朝倉氏のいる越前へ引きあげることを繰り返します。


(2019.6.18撮影 『大桑(おおが)城址』登山口案内板 岐阜県山県市大桑)

天文6年(1537年)に道三との和議が成立して、光秀は頼澄とともに美濃大桑(おおが)城へ入ります。しかし、天文12年(1543年)末に斎藤道三に突然大桑城は襲われ、頼澄と光秀は織田信長の父信秀(のぶひで)を頼って尾張へ逃れます。

そして、翌天文13年(1544年)に頼澄を支援する織田軍・朝倉軍とともに、美濃奪還のために戦いを挑みますが、道三の前に織田信秀率いる織田軍は「信長公記」にも載る歴史的大敗を来し、土岐頼澄と明智光秀は再び越前へ逃れます。

天文15年(1546年)になって再び道三との和解が成立し、頼澄と光秀は美濃大桑城に復帰します。ところが、翌天文16年(1547年)に和睦条件である”道三の娘(奇蝶か?)”を娶っていた土岐頼澄が急死します。そして3年後の天文19年(1550年)には、道三は奉戴していた美濃守護職土岐頼芸をも追放し、ここに美濃国守護職の土岐氏は完全に失脚することとなり、美濃の君主は斎藤道三となりました

ところが、6年後の弘治2年(1556年)に道三に家督を譲られた嫡男斎藤義龍(さいとう よしたつ)が突然父親の道三に対して叛乱を起します。土岐家再興を願う光秀ら土岐一族は義龍軍に加わり、道三討伐に協力しますが、義龍は”自分の父はまむしの斎藤道三ではなくて、守護職土岐頼芸である”ことを標榜してながら、道三討伐後にどうしたことか土岐家の復活は行わず一色氏を名乗ります。

土岐氏復活の望みを絶たれて失意の明智光秀は、同志たちとふたたび伝手を頼って越前朝倉氏へ身を寄せますが、今度は守護職土岐氏不在の光秀らに朝倉氏は冷たく、一乗谷から17㎞ほど離れた長崎称念寺門前での光秀の雌伏の10年が始まります

光秀は、長崎称念寺近隣の越前国衆の船寄城主”黒坂備中守”に仕えることとなり、加賀一向一揆軍との最前線で朝倉軍の客将を務めていたようで、永禄7年(1564年)の朝倉軍の加賀侵攻には黒坂備中守とともに参戦し、得意の鉄炮で活躍したと言います。

そして永禄8年(1565年)に勃発した『将軍足利義輝弑逆事件』によって、後継将軍候補として細川藤孝(ほそかわ ふじたか)・和田惟政(わだ これまさ)らに担ぎ出されて、近江に逃れた奈良興福寺一条院門跡覚慶(かくけいー足利義昭)からの支援要請に、応えることにした朝倉家から近江へ派遣された明智光秀は、元々奉公衆の家系と言うことでその後将軍となった足利義昭に仕えて行くこととなって行きます。

そこで明智光秀は、祖父頼高が細川家に仕えていた関係から細川家預りで、幕臣身分として覚慶一行の案内役となり越前まで同行することになりました。その後織田信長と上洛計画を進めている細川藤孝の手足となり、分散していた土岐衆を集めながら、幕府軍の一角となっていた(高島田中城の籠城戦参戦など)と考えられます。

政治状況の変化から、その時の”永禄9年の織田信長の上洛”は延期となり、一旦足利義昭らと共に越前へ戻り、永禄11年(1568年)には上洛を果たすこととなります。

つまり、これらの経緯などから、明智光秀は、明智城落城によって落ちぶれて、ただ寺子屋の先生をしていた浪人者ではなくて、斎藤義龍に裏切られてから雌伏10年、準備をしながらやっと幕府側の侍大将として活躍出来る場を勝ち取ったと見て良いようです。

しかも通説とは大きく違い、斎藤道三と再三に亘って直接に戦い、まるで道三の好敵手であった信長の父である織田信秀のような感じで、戦闘経験十分な武将であったことが、確認出来そうです。

そもそも信長は、明智光秀のこうした歴戦の経歴から、有職故実(ゆうそくこじつ)・典礼などに詳しい文官としてよりも、あの手強い”まむしの道三”と戦った歴戦の武将として評価していたのかもしれませんね。

ともあれ、織田信長は京都政界に進出するに当たって、尾張・美濃の地侍にはいない、文武両道を備えた幕府組織に強い人脈を持つ貴重な人材として、明智光秀をスカウトしたものと考えられます。

余談ですが、、、

明智光秀が美濃で仕え続けた土岐頼澄(とき よりずみ)が、斎藤道三の娘を娶る事を条件に和議を結び、なんとそのわずか一年後に病没(毒殺・暗殺だった)してしまいます。もしその時の道三の娘が「帰蝶(奇蝶)」だったとしたら、まむしの道三は織田信長にも同じことを考えていた可能性が考えられます。

そうすると、織田信長と正室帰蝶(お濃の方)の夫婦仲がうまく行ってなかった理由は、信長がその事(まむし父娘の意図)に気が付いていて、非常に警戒していた爲だとも考えられます。彼女が信長からしつこく”まむしの娘”と言われた続けた理由も腑に落ちるわけです。

そして、絶世の美女の誉れ高い正室お濃の方(奇蝶)を避けて、ひたすら尾張の郡(こおり)村の土豪生駒氏の出戻娘生駒類(いこま るいー吉乃)のところに通い詰めた理由も、お濃の方のところでは、身の危険があって緊張してリラックスできなかったからだと分かりますね・笑。

 

まとめ

明智光秀の出自問題は、中世史の大家高柳光寿氏がさじを投げるほど難解だと思われて来ましたが、近年研究が進み、少しづつヒントが出始めています。

通説を前提に考えると、筋の通らない話ばかりで、おまけに本人が400年以上に亘って『本能寺の変』と言う歴史的大事件の下手人とされているため、憶測が入り混じって光秀に関する話をすべてミステリーに変えているようです。

詳細は本文にありますが、結論として、、、

通説では、明智光秀は美濃在住を続けた”頼弘(よりひろ)系”に属し、祖父光継(みつつぐ)・父光綱(みつつな)の子とされていますが、近年存在が判明した応仁の乱後も京都で将軍を支え続けた”頼高(よりたか)系”に属し、曾祖父光高(玄宣ーげんせん)・祖父光重(みつしげ)・父光兼(みつかね)の子ではないかと思われます。

本文にある”明応四年三月二十八日”の幕府裁定以降、玄宣に指示されて急遽美濃へ帰国した光重・光兼親子の元で、美濃(おそらく守護職土岐氏の居城で現在の岐阜市内にあった革手城の城下)に居住し、守護職土岐氏を支えていたのではないでしょうか。

革手の城下町は、当時、”西の山口(大内氏城下)・東の革手(土岐氏城下)”と言われたほど、殷賑(いんしん)を極め、下向した公家衆も多数居住し、一時は足利将軍も避難して11年もの間居住したことのある小京都でした。

幼少時の明智光秀の教育環境としては、京都にいるが如くに十分に整っていたと考えられそうです。後年、宿敵道三(どうさん)を斃す為に折角助けた斎藤義龍(さいとう よしたつ)に裏切られて、落ちた越前長崎称念寺前での”時宗僧”との交流も光秀の教養を高める手助けをしたことでしょう。

通説にはない、”斎藤道三との交戦履歴”などは、歴史研究家の明智憲三郎氏の新境地で、織田信長との関係に新たな一面を切り開いて行くものと期待されるところです。

とにかく、筋の通らない謎に満ちた”明智光秀の経歴”ですが、『本能寺の変』・『山崎の戦い』で歴史から消えてしまった明智光秀の謎を解明するために、不可欠な「明智光秀の前半生」でした。

まだ糸口が見えて来たに過ぎませんが、『明智軍記』に先導された通説よりは、腑に落ちるところが多く、”戦国武将 明智光秀”が少し見えて来そうです。

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参考文献

〇高柳光寿『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)

〇大谷学報 52(1), 54-74, 1972-06に「遊行三十一祖 京畿御修行記」〔天正6〜8年記録〕橘 俊道(校註)]

〇多門院英俊『多門院日記 第三巻 天正十年六月十七日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

〇奥野高広『足利義昭』(1960年 吉川弘文館)

〇奥野高廣『織田信長文書の研究 上巻』(1994年 吉川弘文館)

〇ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史ー織田信長篇Ⅲ』(2014年 中公文庫)

明智光秀ーWikipedia

明智光秀ムックー新小児科医のつぶやき

〇柴裕之編『明智光秀』(2019年 戎光祥出版)

〇高尾察誠『称念寺のあゆみ』(2017年 称念寺)

〇高尾察誠『改訂 明智光秀公と時衆・称念寺』(2019年 称念寺)

『大日本史料 第十一編之一 [明智氏一族宮城家相傳系圖書] の条』(国立国会図書館デジタルコレクション)

宝賀寿男『明智光秀の出自と系譜-「宮城系図」等の検討を通じてみる』

〇明智憲三郎『光秀からの遺言』(2018年 河出書房新社)

〇咲村庵『明智光秀の正体』(2017年 ブイツーソリューション)

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