豊臣秀吉は次の天下を、前田利家と徳川家康に託した!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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太閤豊臣秀吉が、遺言であとの事を徳川家康前田利家に任せたのはホント?

豊臣秀吉が、本気で前田利家を滅ぼそうとしたことはあったの?

前田利家が、大恩人の柴田勝家を裏切った理由が分かります。

秀吉夫人の『おね』と、利家夫人『まつ』の関係が分かります。

豊臣秀吉は、遺言で自分の死後は、前田利家と徳川家康に任せるつもりだった?

慶長3年(1598年)7月15日に、伏見城で諸大名立ち合いの中で、病床から豊臣秀吉口頭で話した遺言を秘書が書き留めたと言われる覚書があり、その中に、、、

 

一、何たる儀も、内府・大納言殿へ御意を得、其の次第相きめ候へと、御意なされ候事。

一、伏見には内府御座候て、諸職御肝煎なされ候へと御意候。城々留守は徳善院・長束大蔵仕り、何時も内府天守まで御上り候はんと仰せられ候へば、気づかひなく上り申すべきよし、御意なされ候事。

一、大坂は秀頼様御座なされ候間、大納言御座候て、惣廻り御肝煎り候へと、御意なされ候。御城番の儀は、皆々としえ相勤め候へと仰せ出だされ候。大納言殿てんしゆまでも御上り候はんと仰せられ候はヾ、気づかひなく上り申すべきよし、御意なされ候事。

(引用:桑田忠親『太閤の手紙 245頁』1985年 文春文庫)

 

大意は、”一、どんなことも、徳川家康殿と前田利家殿の意見を聞き、その次第で決めるように。

一、伏見城には、徳川家康殿がおられて、政務の世話をお願いしたい。城番は奉行の前田玄以(まえだ げんい)と長束正家(なつか まさいえ)が担当し、家康殿が天守閣に登りたいと仰せなら気遣いなくお願いしたい。

一、大坂城には、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)様がおられるので、前田利家殿が御守役として、すべてにわたってお世話願いたい。城番のことは、皆で協力して務めてほしい。もし利家殿が天守閣まで登りたいと仰せなら、気遣いなく上って貰うように。”位の意味です。

これは、全部で11箇条になるもので、上記の第9条では、後の事はすべて徳川家康と前田利家に相談してほしいとして、ふたりに後事を託した形になっていて、第10条で徳川家康は伏見城で政務を執り、目付け役として奉行の前田玄以と長束正家が就くようにと。最後の第11条で、前田利家は大坂城で、豊臣秀頼の守役を務めるように指示しています。

このように、慶長3年(1598年)7月15日に、西国大名を伏見に、東国大名を大坂へ集め、居並ぶ諸大名たちに、豊臣秀吉は間違いなく”自分の死後の豊臣政権の事は、前田利家と徳川家康に任せる”と、”遺言”として語った訳です。

もっとも、この秀吉が”任せた”と云ったのは、あくまで『豊臣政権』の運営であって、『天下』を渡すつもりは豊臣秀吉にはなかったかもしれませんが。

 


(画像引用:前田利家の兜 ACphoto)

 

豊臣秀吉は、前田利家を抹殺しようとしたことがあるの?

豊臣秀吉とおねが祝言を挙げたのは、永禄4年(1561年)8月3日のこととされ、通説では、媒酌人は前田利家・まつ夫妻だったと云います。

前田利家は織田家に仕える土豪の荒子城主前田利昌(まえだ としまさ)の四男で、織田信長の近習となっていたものの、信長の勘気を蒙り浪人をしていました。当時手柄を立ててやっと織田家への帰参が認められた時期でした。

一方豊臣秀吉は郡(こおり)村の生駒(いこま)屋敷でなんとか信長に取り入り小者になっていましたが、身分に箔を付けるために織田家の士分の娘であったおねとの婚儀に持ち込んだところでした。

そんな苦労を重ねていた若い頃からの同僚関係で、媒酌人までやってもらった前田夫妻と、秀吉夫妻は特別な関係にありました。

例えば、『川角太閤記(かわすみ たいこうき)』に依りますと、、、

・・・勝家組下の前田又左衛門ハ筑前守とあひあけの如し 其子細ハ又左衛門むすめ二ツのとし 筑前守もらひ養子に仕置也 前田又左衛門ハ内外共別而のかれさる間也・・・

(引用:『川角太閤記 49頁』国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”柴田勝家の配下の前田利家は、豊臣秀吉とは姻戚関係のようなもので、それは前田利家の娘を2歳の時に豊臣秀吉が養子に貰っていて、秀吉と前田利家は公私に渡って特別な関係にある。”位の意味です。

と云うことで、この時養女にもらった『豪姫(ごうひめ)』を豊臣秀吉とねね夫妻は格別にかわいがっており、多少の政治的な行き違いが、豊臣秀吉と前田利家の間で生じたとしても、秀吉が利家を暗殺するなど”おね”が承知するはずもなく、ほとんどあり得ない事のようです。

 

前田利家は、なぜ柴田勝家を裏切って、豊臣秀吉へ寝返ったの?

天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』が勃発した時、前田利家は、能登一国を領有していましたが、織田家北陸方面軍の柴田勝家(しばた かついえ)の越中攻めに協力して、越中魚津(うおず)城を包囲している最中でした。

事変後、柴田勝家らが上杉勢と一向一揆勢への対応に追われている間に、豊臣秀吉が6月13日に『山崎の戦い』で謀叛人明智光秀を討ち果たしてしまい、その後の豊臣秀吉ー柴田勝家の織田政権の跡目争いに、前田利家は巻き込まれて行きます。

6月27日の”清須(きよす)会議”以降、対立を深めた両者が冬場を迎えて、停戦したい柴田勝家側の使者に立ったのが、両者と縁が深い前田利家でした。11月3日に当時の豊臣秀吉の居城である山城国山崎の摂津宝寺城(山崎城)に秀吉を訪ねた利家は、和平交渉を纏めて柴田勝家の下へ戻ります。

和平成立に気を良くした柴田勝家でしたが、恐らくこの山城国山崎で久しぶりに旧交を温めた豊臣秀吉と前田利家の間で何らかの合意が成立していたのではないでしょうか。

その後、和平合意などどこ吹く風の豊臣秀吉は、柴田勝家が越前北ノ庄から身動きが取れなくなる冬場になると、柴田陣営への攻撃を開始します。

12月9日に長浜の柴田勝豊、12月20日に岐阜の織田信孝を攻めて降伏させてしまい、たまりかねた柴田勝家は雪解けも待てずに、秀吉から釣り出されるように、翌天正11年(1583年)3月9日に本拠地北ノ庄を出陣します。

そして、有名な『賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い』が4月21日に始まりますが、、、

四月廿一日、於江北兩陣営相向、柴田志津嶽を攻落し、所籠の人數討果、于時可企合戦之處、丹場五郎左衛門前田又左衛門屬秀吉へ、柴田備江出手之間、則敗北、

(引用:『当代記 巻二 47頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”天正11年(1583年)4月21日に豊臣・柴田両陣営が対戦し、柴田軍佐久間盛政(さくま もりまさ)が賤ヶ岳の大岩山砦を攻略し、籠城していた守将中川清秀(なかがわ きよひで)らの兵を討ち果たした。続いて合戦に入るタイミングとなって、俄かに丹羽長秀と前田利家が豊臣秀吉へと寝返り、柴田軍はその対応に追われて、敗北してしまった。”位の意味です。

柳ケ瀬の辺ニ而秀吉公、佐久間玄蕃允と一戦、四月廿一日志津嶽ニ而七本鑓の功名あり、佐久間敗れて越前へ引入候を秀吉公追討ニ攻入らる、勝家も取しつめ籠城に及ひ、廿四日北庄城にて切腹、前田又左衛門等秀吉公に被属、

(引用:細川護貞監修『綿考輯録 第二巻』1988年 出水神社)

大意は、”近江国江北の柳ケ瀬(木之本付近)に豊臣秀吉が着陣し、柴田軍の佐久間盛政と一戦に及び、「賤ヶ岳七本槍」の活躍で、佐久間盛政が敗れて柴田軍総崩れとなり、秀吉はこれを追討して越前まで攻め入った。柴田勝家も北ノ庄城に籠城したが、4月24日に自刃。前田利家等は豊臣秀吉に服属した。”位の意味です。

この時、前田利家は突如戦線離脱を行ない、この事と、佐久間盛政の敗戦が柴田勝家の全軍総崩れの引き金になったような感じです。

前田利家は、前章にあるように、愛娘を豊臣秀吉の養女にしており、前田家と豊臣家(羽柴家)は特別な関係にあったと言うことがあり、一方の柴田勝家はこの織田信長の北陸攻めの言わば上司であったことと、利家が信長の勘気を蒙って浪人している時に、利家の織田家復帰に向けて助力してくれた恩のある先輩だったと云うことがあり、前田利家は両者の狭間で板挟みになっていました。

前述したように、柴田勝家の使者として、前年の天正10年11月3日に豊臣秀吉と山崎城で会見した際に、旧交を温めた二人でしたが、豊臣秀吉から恩のある柴田勝家のことだから、この秀吉に味方せずともよいがせめて中立であってほしいと頼まれたと言われています。

歴史家の岩沢愿彦氏によれば、前田利家は柴田勝家の配下ではなく、信長の下に同格であったことから、利家の中立を保とうとして行為はいわゆる謀叛・裏切りではなく、織田家の武将として静観視・中立の立場はありうる選択肢と考えられるとのことです。

しかし、その後の厚遇をもってすると、やはり豊臣秀吉は、この時の前田利家には褒賞をもって報いたと云えそうで、その功労を高く評価したものと考えられます。

やはり前田利家のこの時の戦線離脱は”柴田軍総崩れ”の引き金になったと見られていたのでしょう。

この理由は、前田利家が柴田勝家への義理より、利家夫妻が養女に出した我が子(豪姫)を愛おしむ秀吉との親戚付き合いを大事にしたと云うことだったようです。

その点を前年に出会った時に、秀吉に巧妙に突かれたのではないでしょうか。

秀吉への停戦交渉の使者に、前田利家を選んでしまった事が、柴田勝家の大失敗だったと云えそうです。

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高台院(おね)は芳春院(まつ)をどう思っていたの?

通説では、秀吉・おね夫婦と利家・まつ夫婦は、家族付き合いの関係で特におねとまつは極めて仲がよかったと言われています。

その理由として、、、

  1. おね(高台院)は、天文17年(1548年)生れで、まつ(芳春院)は、天文16年(1547年)生れと、ほぼ同年代であり、しかもどちらも父親が尾張勝幡(しょばた)城の織田弾正忠(おだだんじょうのじょう)家に仕える下級武士の娘であった。
  2. 豊臣秀吉が織田家に仕官してから、前田利家と長屋が隣同志であった。
  3. 子供の出来ない豊臣秀吉・おね夫婦に、対照的に子沢山の前田利家・まつ夫婦が養女を出した
  4. 豊臣秀吉が出世してから、前田夫婦は養女豪(ごうー後の宇喜多秀家正室)と側室摩阿(まあー加賀殿)を出している関係もあり、豊臣一族並みの扱いを受けていた。

と言われていますが、通説では、秀吉夫妻の媒酌人を前田夫婦が務めたとも伝わっています。これに関して、中世史研究大家の桑田忠親氏は、、、

結婚の媒酌人について、『絵本太閤記』は、前田犬千代(利家)としているが、『森家先代実録』によれば、織田信長の従兄弟の名古屋因幡守(なごや いなばのかみ)であったという。このほうが確かであろう。

(引用:桑田忠親『豊臣秀吉研究 579~580頁』1975年 角川書店)

としていて、秀吉・おね夫妻の結婚媒酌人は通説の前田夫妻ではなく、織田信長の従兄弟に当る”名古屋因幡守(なごや いなばのかみ)”と言われています。因みに、この『森家先代実録』の森家と云うのは、『本能寺の変』で信長の小姓で討死した森乱丸ら森兄弟の美濃兼山(金山)城主の森家です。

確かに、豊臣秀吉・おね夫婦が結婚した永禄4年(1561年)8月3日の頃は、まさに前田利家が主君織田信長の勘気を蒙って2年近く浪人していたものが、永禄4年4月14日の織田信長と斎藤龍興との”森部(もりべ)の戦い”で殊勲を挙げて、やっと織田家への帰参が叶って間もない時期にあり、豊臣秀吉・おね夫婦の結婚媒酌人を務めるのは、まだきびしい状況にあったかもしれません。

新婚当時に近所に住んでいた同志として、おねとまつは親しく、亭主たちが一廉(ひとかど)の武将として名を成して行く中でも、養女豪姫の近況のやり取りを通して関係が密であったものと考えられます。

そして、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』以降に、織田家が大分裂を始めた折に、前田利家・まつ夫妻は、大恩のある先輩柴田勝家よりも、子供を介した関係である豊臣秀吉を選んだことから、互いに大きくなって行きました。

これ以降、おねとまつは、互いに亭主の政治にも適切に関与する賢夫人となり、豊臣政権の屋台骨をささえる大きな存在となって行ったようです。

関白まで昇り詰め、その後太閤となっていた豊臣秀吉の最後の大イベントとなった、慶長3年(1598年)3月15日に京都醍醐寺で行われた、所謂『醍醐(だいご)の花見』の中で発生した、側室淀殿と京極殿の世に名高い”盃争い”があります。

どちらが先に太閤秀吉の盃を受けるかと云うことらしいのですが、この仲裁におねとまつが連携して、すばやく適切に介入して解決させたようです。

この時、伏見城から醍醐寺への輿(こし)が、一番北政所(おね)、二番淀殿、三番京極殿、四番三の丸殿(織田信長娘)、五番加賀殿(前田利家娘摩阿)、六番芳春院(まつ)の順でした。

諸大名の正室でこの輿に乗ったのは、”まつ”だけでした。側室たちは、おねとまつに挟まれて入場したこととなり、側室たちへのにらみを効かせているなど、おねとまつは同等の影響力を持っていたようです。

このようなことからも、豊臣政権の女性たちの中にあって、表も奥のこともおね(高台院)は、まつ(芳春院)を頼りにしていたのではないでしょうか。

慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が、翌慶長4年3月に前田利家が死去すると、おねは住居にしていた大坂城西の丸を徳川家康に引き渡して京都へ隠居し、まつは徳川家康の人質になるために江戸へ行きます。

二人(おねとまつ)は息をあわせるかのように、淀殿(石田三成)の主導する豊臣政権から距離を置いて行き、豊臣恩顧の武将たちへそれとなく、淀殿ー石田三成ではなくて、徳川家康へ味方するように仕向けて政治の舞台から身を引いてゆきました。

 

豊臣秀吉子飼いの武将は、秀吉死後になぜ前田利家に付いたの?

豊臣秀吉没後の豊臣政権の政治は、秀吉の遺命により、『五大老・五奉行』によって行われていました。

そして、遺言により後継者豊臣秀頼の傅役となった前田利家と、実務を任された実力№1大名である徳川家康の2頭による政治体制でした。

そして、豊臣秀頼への”奏者(そうじゃ)”としての役割が前田利家に任せられており、豊臣家の朱印状は前田利家経由で発行されています。

そんな事と、生来の前田利家への人望から、各大名と前田利家の関係は緊密なり、自然利家の廻りに人が集まって来る事となりました。

その理由として、、、

一、大野修理殿蒔田権之介殿など利家へ御出候て御次之間にて御家老衆に御咄 内府と大納言とハ御位も國數も多候へ共 御城中にて人の用申も大納言殿強く候 是ハ第一御武篇故申候 扨又御前體も能故なり 御城中にても路次にてもあかまへ申ハ 内府よりハ勝り申候故 我々まても心いさみ申候と御物語に候 淺野弾正殿有馬法印も常々大納言様御威光つよき事御咄御座候

(引用:『利家夜話 巻之中 578頁』国立国家図書館デジタルコレクション)

大意は、”大野治長(おおの はるなが)殿や蒔田広定(まきた ひろさだ)殿などが大納言(だいなごんー前田利家)邸へ訪問した折、次の間(控え室)で御家老衆にお話になるには、内府(徳川家康)殿と大納言(前田利家)殿と比べれば、官位も高く支配領国の数も内府殿が多いのだけれども、城中で皆が申すのは、大納言殿の事です。これは、大納言殿の武名の高い事と太閤殿下のお覚えめでたい為で、城中でも外でも御尊敬申し上げると皆が申すのは大納言殿の事で、内府より勝っていると皆話しており、私たちも心が躍りますとおっしゃられています。浅野長政(あさの ながまさ)殿や有馬則頼(ありま のりより)殿なども常々大納言殿のお力は非常に強いものだと話しております。”位の意味です。

とあり、前田利家は徳川家康と比べて、武名の高い武人として豊臣系の武将たちには人気があり、尊敬を集めていたと伝えられています。

つまり、前田利家はその武名により、豊臣秀吉にも”一目置かれていた存在”として、武将たちにも隠然たる影響力があったことが分かります。

秀吉の最晩年に実力大名・大老として大物政治家だった徳川家康と、秀吉側近ナンバーワンの奉行筆頭として権力を持っていた石田三成が、秀吉の死後に政治の主導権を巡って激突してゆく訳ですが、武将・大名たちに人気があり、秀吉からも後継者豊臣秀頼の傅役も命じられていた前田利家が、両者の緩衝材として機能する状態となっていたようです。

秀吉死去の翌慶長4年(1599年)閏3月3日に前田利家が病死すると、利家の存在で微妙に保たれていた両陣営のバランスは急激に崩れ、周知のように、その後徳川家康による幕府開闢へ向かって大動乱が起こることになります。

 

まとめ

太閤豊臣秀吉は、死に臨んで後事を徳川家康と豊臣家代表として前田利家に託しました

秀吉は、自分が織田家から政権を簒奪したことは十分自覚しており、しっかりした後継者作りに失敗してしまったことから、自ら創設した豊臣家の存続に晩年は心を痛めます。

そこで次善の策として、やむなく豊臣家の後事を親友で実直な前田利家と、一応は身内に取り込んで懐柔したはずの危険な徳川家康に託しました。

前田利家には、後継者の豊臣秀頼の育成・補佐と、危険な政権簒奪者徳川家康の牽制を期待したものと考えられますが、その前田利家も翌年に病死してしまい、その当然の帰結として徳川家康が天下を獲る事となりましたことは周知の事実です。

ワンマン経営者の後継者作りの典型的な失敗例となってしまいましたが、その大事な後事を託した前田利家と豊臣秀吉とのいきさつについて、見て来ました。

腹心である弟の豊臣秀長の天正19年(1591年)の死を境に、前田利家の豊臣政権での存在感は重きをなして行ったと考えられます。

それ以前の状況は、、、

羽柴美濃守殿は、はるばる宗滴の手をとられ候て、何事も何事も、美濃守如此候間、可心安候。内々之儀者宗易、公儀之事者宰相存候。御為ニ悪敷事ハ不可有之候。弥可申談候と、諸万人ノ中ヲ手ヲ取組、御入魂、中々忝存候。・・・

(引用:桑田忠親『千利休 54頁 「大友宗麟書状」よりの引用部分』1981年 中公新書)

大意は、”羽柴秀長殿は、はるか遠くから近づいて来られて、この宗麟の手をとられて、何事もこのような様子だから、気分を楽にされよ。豊臣家の奥向きのことは千利休に、政治向きの事はこの秀長がよく知っているから、あなたの為に悪いことはない。いよいよゆっくり談合いたそうと言って、諸侯居並ぶ中で、手を握って親しさを示された。”位の意味です。

これは、九州の大名大友宗麟(おおとも そうりん)の有名な逸話ですが、天正14年(1586年)4月5日の話で、つまり、この5年後にこのふたり(秀長と利休)が相次いでこの世を去る時までは、豊臣政権の権力はこの二人が秀吉との打合せで動かしていたことが分かります。

 

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つまり、この時期には、政権メンバーの中に前田利家は入っていなかったことが明白ですから、の天正19年(1591年)以降に豊臣秀吉の側近(政権中央)の座が、やっと前田利家に転がり込んで来たと言うことになりそうです。

前田利家正室の高畠氏まつの役割も、四女豪(ごう)姫を養女に出すだけでなく、天正14年には三女摩阿(まあ)姫を側室(加賀殿)に出しているなどあり、徐々に豊臣家の内々の事に係わりが深くなり、北政所おねとの関係も頻繁になって行ったものと思われます。

とすると、案外前田利家の政権入りは、正室まつの秀吉正室おねに対する奥向きの功績なのかもしれません。となると前述の文面通り、利家の”武辺の功名”だけで登りつめたとは考えにくいところです。

その後、前田利家も豊臣秀吉の後継者豊臣秀頼の傅役を任されるなど、最後は豊臣秀吉の片腕とも言うべき存在にまでなって行きましたが、その次世代への豊臣政権存続の役目を果たすことなく、秀吉の後を追うように半年ほど後に死去してしまいました。

結果、如何に切れ者とは言え、単なる吏僚に過ぎない石田三成が、制御することなど不可能な政治状況が出現し、あっと言う間に剛腕の大物政治家徳川家康に政権簒奪されてしまう訳です。

しかし、前田利家とともに前田家と豊臣政権を支えて来た利家正室の高畠氏まつは、持ち前の器量を発揮し、高台院おねとともに豊臣政権崩壊の騒乱をくぐりぬけ、巧みに徳川家康に取り入って前田家の存続に力を注ぎ成功します

一方、高台院おねは芳春院まつと違い、実子にめぐまれなかったことがあだになり、豊臣家を存続させることに失敗します。

一言印象に残るのは、豊臣秀吉が発した”自分の子供は鶴松ひとりだ”と云う言葉で、この事が高台院おねをして厳しく徳川家康と対峙させなかった理由ではなかったかと思われるところです。

これに関しては、歴史家の岩沢愿彦氏が、、、

淀殿に秀頼が妊ったのを知らされた時、秀吉は、「子供は鶴松一人」だと答えている(「米沢元健氏所蔵消息」)。

(引用:岩沢愿彦『前田利家』1988年 吉川弘文館)

とあり、もしこの書簡がホンモノであるなら、豊臣秀吉は、本当は”淀殿が生んだ秀頼は自分の子供ではない”と見ていて、高台院おねも、おねの育てた加藤清正ら豊臣系武辺大名たちも、同じようにそう考えていたと言うことなのかもしれません。

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参考文献

〇武田鏡村『前田利家の謎』(2001年 PHP研究所)

〇八切止夫『真説・信長十二人衆』(2002年 作品社)

〇桑田忠親『太閤の手紙』(1985年 文春文庫)

『川角太閤記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇花ケ前盛明編『前田利家のすべて』(2002年 新人物往来社)

〇岩沢愿彦『前田利家』(1988年 吉川弘文館)

『当代記 巻二 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇細川護貞監修『綿考輯録 第二巻』(1988年 出水神社)

〇桑田忠親『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)

『利家夜話 巻之中』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇桑田忠親『千利休』(1981年 中公新書)

 

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