天下人豊臣秀吉は、『御茶湯御政道』で天下を統一した!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉が命名した『御茶湯御政道』の”100字まとめ200字まとめ”作りました。

豊臣秀吉織田信長の『御茶湯御政道』を継承したのかどうかわかります。

豊臣秀吉の”天下統一”と『御茶湯御政道』の関係が分かります。

豊臣秀吉織田信長と同じように『名物狩り』をしたのかどうか分かります。

 

『御茶湯御政道』の簡単まとめ

『御茶湯御政道(おんちゃのゆ ごせいどう)』100字まとめ

茶の湯を利用した織田信長の政治手法で、後に豊臣秀吉が命名した。当時織田信長は功績のあった家臣に茶会を開く資格を与えたが、認められていた者は、柴田勝家丹羽長秀明智光秀羽柴秀吉の武将四人衆であった。(100字)

 

『御茶湯御政道』200字まとめ

茶の湯を利用した織田信長の政治手法である。信長は臣下に対して、自由に茶会を開くことを認めず、特段に功労のあった者だけに許可を与えた。そして数寄者や茶会を通じて、天下の名物を召しあげて蒐集し、それを功労のあった臣下に褒美として下賜した。つまり、織田信長は数寄者の茶道具を、書画と同等の美術品として財貨の対象にした初めての人物となった。あとを引き継いだ豊臣秀吉も、この手法を利用して天下統一戦をすすめた。(200字)


(画像引用:高台寺風景ACphoto)

織田信長の茶の湯を豊臣秀吉が『御茶湯御政道』と呼んだ?

織田信長に拾われて家臣になった豊臣秀吉は、出世して天正6年(1576年)に主君織田信長より『茶会』を催す事を許され、大喜びでした。

そのことに付き、後年豊臣秀吉は、、、

上様重々預御褒美御感状、其上但州金山、御茶湯道具以下迄取揃被下、御茶湯難御政道、我等ハ被免置、茶湯を可仕と被 仰出候事、今生後世難忘存候、たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候ヘハ、夜昼泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事、

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一> 512斎藤玄蕃允他宛書状写 第七条部分』2015年 吉川弘文館)

大意は、”上様(織田信長)より、重ね重ね御褒美・御感状に預かり、その上但馬(たじま)の金山と、茶道具など取り揃えて下された。『茶の湯』は御政道で難しいのですが、私は許可を頂き、やってよいと言われた時のことは、今生後生忘れがたいことです。信長様を差しおいて、どこのお方が私にこのような栄誉を私に与えて下さるだろうかと考えると、夜昼涙が出て、信長様がお亡くなりになるなど思いも寄りません。”位の意です。

このように、豊臣秀吉は、織田信長から『茶の湯』の開催許可をもらった当時の感激を、天正10年(1582年)10月18日付の斎藤玄蕃允(さいとう げんばのじょうー織田信長正室濃姫の弟と言われています)宛の書状で述べています。尤もこの書状は、織田信孝(おだ のぶたか)宛ての書状ですが。

そして、天正6年(1578年)10月15日に、中国攻めの最中、播州三木で念願の初回茶会を実施しています。

このように、豊臣秀吉は、織田信長が自身の”茶狂い”を組織規範にして、臣下のモチベーションアップに生かしているやり方を、『御茶湯御政道(おんちゃのゆ ごせいどう)』と名付けています。

因みに、前述のように織田家の中で当時、主君織田信長からこの”茶会開催許可”の栄誉に預かった家臣は、柴田勝家丹羽長秀明智光秀豊臣秀吉の4武将だけでした。

また、同書中にて、、、

右之御褒美之事ハ不及申、安土へ致伺公、上様之懸御目候ヘハ、御座所へ被召上候て、筑前か額をなてさせられ、侍程之者ハ、筑前にあやかり度可存と被仰出ニ付而、猶々はけミをいたし、去年にて御座候哉、・・・

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一> 512斎藤玄蕃允他宛書状写 第七条部分』2015年 吉川弘文館)

大意は、”前述のご褒美のことは言うに及ばず、安土城へ伺候して上様にお目にかかった時、御座所まで呼ばれて、私の頭をなでられ、『皆の者、侍ならば、この豊臣秀吉にあやかれ』おっしゃって頂いた。さらに職務に励んで、去年のように・・”位の意味です。

このように豊臣秀吉は、”侍程之者ハ、筑前にあやかり度可存”と最大級の褒め言葉を主君織田信長から掛けてもらい、家中で大いに面目を施したのですが、主君織田信長は、活躍した臣下への対応もハンパ無い感じで、こんなところ(臣下の褒め方)も豊臣秀吉が信長に仕込まれたところなのかもしれません。

 

豊臣秀吉は、織田信長の『御茶湯御政道』を継承したの?

秀吉の時代になると、やはり信長同様に”道具漁り”をやっており、天正11年(1583年)9月16日には、『道具揃え』を大坂城で開催し、数寄者たちに自前の物も含めて名物を集め展示させています。

主君織田信長の政治路線を継承しようとする豊臣秀吉としては、織田信長と千利休が発展させて来た”侘茶”の路線も引き継いだ形で豊臣政権の茶会も運営されて行きます。

しかし、信長の時と較べて面前に立ちはだかる軍事的な障害が少なくなった分、政権の行う政事(まつりごと)レベルの仕掛けが必要となり、『茶の湯』の政治ショーイベント化へ傾いて行ったようです。

天正12年(1584年)、織田家からの政権簒奪と天敵徳川家康との折り合いをつけ、天正13年(1585年)に初の『武家関白』への道が開け、”天下統一”の目処がついた辺りから、、、

  1. 天正13年(1585年)3月5日  大徳寺大茶湯
  2. 天正13年(1585年)10月7日  禁中茶会
  3. 天正15年(1587年)10月1日  北野大茶湯

とあり、規模の大きな茶会を開くようになって行き、もはや、形は兎も角、精神は『侘茶』を大きく超えて行くものとなって来ます。

これを、明治の大ジャーナリスト徳冨蘇峰は、、、

信長時代において、茶の湯が重大事件として取り扱われたかは、これにて知るべしだ。而して秀吉時代には、更にその風尚が、幾層倍の盛大を加えてきた。そは秀吉がこれをもって、天下の太平気分を促進せんとしたがためであった。
秀吉の茶の湯は、決してひと通りの遊戯三昧でもなく、単純の娯楽でもなかった。もとよりそれらの要素もあったが、それ以上それ以外の意義が存した。北野大茶湯のごときは、その格段なる一例であった。
彼は茶の湯をもって、天下を平治するの道具とした。宗教家は、一切事物を宗教化し、美術家は、一切事物を美術化し、政治家は、一切事物を政治化す。秀吉が茶の湯をもって、殺伐たる人心を和らげ、乱を好むを覇気を銷して、平和を楽しむ耽溺気分を誘うたのは、彼としては決して珍しきことではなかった。而してこの気分は、彼自ら率先してこれを導いたのであった。

(引用:徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣時代庚篇 297~298頁』1981年 講談社学術文庫)

と、豊臣秀吉は、茶の湯を盛大化し政治化して行ったと述べています。

こうなると豊臣秀吉は、織田信長と千利休が発展させた武家の『侘茶』の範疇を大きく超えて行くもので、織田信長の『御茶湯御政道』をそのままの形で引き継いだ訳ではいないと言えそうです。

 

豊臣秀吉の天下統一は、『御茶湯御政道』を巧く使った?

織田信長の”天下統一が未完に終わった”最大の理由は、周知の『本能寺の変(明智光秀の乱、天正10年6月の政変)』によるものですが、公家・寺院の仏教徒勢力の懐柔に失敗していたことも挙げられます。

どういうことかと言えば、上洛以前に織田信長は、仏教徒勢力とは朝廷・公家へ援助の手を差し伸べるのと合わせて、大寺院の荘園権益の回復も手伝うなどして、巧くつき合っているように見えていました。

しかし、信長が勢力拡大の為に侵攻する地方で、反織田の一揆を主導する本願寺(一向宗)勢力との対立激化の上、比叡山・高野山などの大寺院仏教勢力も、信長と激しく対立する15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)のあおりに乗って行き、織田信長は仏教の大寺院勢力との全面対決に追い込まれて行きました

結果、実は神信徒勢力の代表格である織田信長は、各地一向宗徒の皆殺し作戦、延暦寺の焼き討ちに代表される仏教勢力との全面宗教戦争(神信徒と仏教徒の争い)を繰り広げることとなりました。(仏教勢力には朝廷・公家・足利幕府も包含しています。)

歴史の教科書では、多額の献金をする朝廷の援助者・勤皇派などと持ち上げられている織田信長ですが、実際には朝廷との微妙な距離感があるのは否めないと思われます。(互いに仲間ではなかったのです。)

朝廷は、何度も天下人織田信長を自陣営に取り込もうと官位で誘って行きますが、決して信長は彼らの言いなりになることはなく、自分の考えを押し通して行き、結果的に仲間になる事を拒否し続けます。

そんな中で、織田信長が仏教勢力である禅宗から出て来た『茶の湯』に関しては、堺の町民階層出身の今井宗久・千宗易などと発展させた『侘茶』を、独自の政治手法として使っていました

一方、豊臣秀吉はその織田信長の臣下となっていて、信長の手法を継承する同一勢力(原住民系神信徒)と考えられて来ましたが、信長のように手こずることなく、極端な短時間(信長没後わずか3年)で政権トップの『武家関白』に昇りつめました。

つまり、原住民系神信徒の武家のはずにも拘わらず、織田信長横死の直後から仏教徒勢力をも手なずけて、織田信長の後継者となった次男信雄(のぶかつ)を”小牧長久手の戦い”であっと言う間に追い落とし、翌天正13年には公家の頂点である”関白”になっているのです。

これは、誰が考えても、信長が拒否続けていた”公家・仏教徒勢力”へ、豊臣秀吉が事前に内通していたことを臭わせます。

こうした事から考えると、残念ながら織田信長の『御茶湯御政道』と、豊臣秀吉の『天下統一(公家一統)』とは、直接関係なかったと言えそうです。秀吉は茶の湯を”武家の支配ツール”に止めていたという事でしょうか。

そのくらい、豊臣秀吉が仏教徒勢力へ寝返りまでして得た『関白権威』の威力は、凄まじいものであったと言えそうです。

さぞかし、禁裏周辺は、豊臣政権の誕生を”天皇・公家が政権を牛耳れる時代が復活する”と期待して喜んでいた事でしょうが、関白になって以降の豊臣秀吉は、”禁裏・公家の下僕”のベールを脱ぎ捨て、圧倒的な武家の軍事力を背景に、彼らに何もさせない独裁者となりました。

織田信長と対立を続けていた正親町(おおぎまち)天皇は、折角目障りな織田信長を更迭して、扱いやすそうな豊臣秀吉を関白職をエサに”公家一統勢力”へ引っ張り込んだものの、手に負えない独裁者に豹変してしまった豊臣秀吉を見て、さぞかしがっかりされたことでしょう。

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秀吉の『御茶湯御政道』は名物集め?

織田信長の茶道具の”名物狩り”は、つとに有名ですが、豊臣秀吉の”名物漁り”も師匠譲りと言うことになりましょうか。

天正11年(1583年)6月20日の、千利休から博多の豪商島井宗(しまい そうしつ)宛ての手紙に、、、

(前略)

一、子細候いて、宗久茶入、秀吉へ上げ申され候。定めて、各々、申さるべく候。

一、去年は楢柴の事、度々候つる。唯今は初花も近日、徳川殿より来り候。珍しき唐物到来に候。・・・

(後略)

(引用:小松茂美『利休の手紙 21 六月二十日宗叱あて』1985年 小学館)

大意は、”一、秀吉が懇望していた、今井宗久所蔵の茶入を、秀吉に進上した。多くの人が所望していた物で、さぞかし宗久は無念でしょう。

一、去年はあなたの所蔵する楢柴肩衝を秀吉は所望していたようですが、今は、初花肩衝が近日、徳川殿から進上されます。珍しい唐物が到来します。”と言う意味です。

豊臣秀吉に、、、

  1. 茶入(今井宗久)
  2. 初花肩衝(徳川家康)
  3. 楢柴肩衝(島井宗叱 ⇒ 秋月種実 ⇒ 豊臣秀吉)

となります。

千利休は、”橋立の壺(はしだてのつぼ)”と言う名物を所蔵しており、秀吉はこれを度々所望していたようです。

それは、、、

・・・、明けて二月何の科やある太閤殿下の御勘気を蒙り死を賜り自刃して相果てられ候。利休様如何なる子細なるや雑説取沙汰洛中の巷説触れ伝わり候詳細計り難く候。利休様御所持の御名物を太閤様所望を聞かれ間敷く候為御勘当とかや、利休様御茶道の御異見御意に叶わざる揚句の沙汰とかや、・・・

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 補巻千代女留書 276頁』1988年 新人物往来社)

大意は、”翌年2月に、千利休様が何の罪なのか太閤殿下の勘気を蒙って切腹を申付けられて亡くなりました。利休様の詳細は色々洛中で伝わっていますが、詳細は不明です。なんでも、利休様所有の名物茶器(橋立の壺)を太閤殿下が所望され、それを断ったこととか、利休様の茶の湯の理念が関白殿下の意に沿わないことが理由だとか言われているらしいです。”位の意味です。

これは、利休所有の『橋立の壺』と言われる茶入を、秀吉の所望を断ったことが理由だとか、秀吉の茶の湯に異議を唱えたことが理由だとか言われていたようです。

このように名物茶器を所有している者は、秀吉に一旦目を付けられたら、断れば死を意味すると言う有り様だったようです。

余談ですが、このような自分(秀吉)に対して、甥の豊臣秀次へ関白を譲る時に、、、

おほえ

・・・

一、ちやのゆ・たものゝたか・めくるひにすき候事、秀吉まねこれあるましき事、たゝしちやのゆハなくさみにて候条、さいさいちやのゆをいたし、人をよひ候事ハくるしからす候、・・・

已上

天正拾九年十二月廿日   秀吉朱印

内大臣(秀次)殿

(引用:藤田恒春 『豊臣秀次の研究 第二章第五節 秀次の関白就任 111頁』2003年 文献出版)

大意は、”茶の湯・鷹野・女狂い・数寄者など秀吉のまねをしてはいけない。ただし、茶の湯は人を呼んでやるのは構わない。”位の意味です。

豊臣秀吉は、天正19年(1590年)11月に甥の秀次を養子とし、11月28日には権大納言へ昇格、12月4日には内大臣に叙任され、12月28日には関白に任官させます。

それは秀吉自身が、『唐入り(朝鮮出兵)』に専念するための準備でした。その関白に任官させる直前の12月20日に、上記の手紙(関白職の心得)を秀次宛てに出しています。

この中で、『茶の湯』に関しては、”茶会は開いて良いが、自分(秀吉)のように、茶道具漁りをしてはならない”と釘を刺しています。

やはり秀吉には自身のやり過ぎに自覚があったのか、少し興味深い逸話です。

このように、豊臣秀吉は茶道具の名物狩りに関して、亡き主君織田信長と同じように、欲しいと思った名物に執心し、手段を選ばず遮二無二獲得していたようです。

 

まとめ

天下人織田信長が作った御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)』は、自分以外の武家に”公式に茶会が開催出来る資格”を、厳しく制限してそれを特権化し、肥大化した臣下団の統制を図ろうとする信長独自の政策でした。”禅寺の書院から発生したものである茶道”に関する新しい動きでした。

豊臣秀吉は、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』での天下人織田信長の横死以降の政権簒奪戦を、天正12年(1584年)には勝ち抜いて、織田信長後継者としての地位を固め、天正13年(1585年)7月には、初の”武家関白”に任官して完全に政権を掌握しました。

天正10年(1582年)の10月11日から、京都紫野の大徳寺で行われた7日間に及ぶ”天下人織田信長の葬儀”が終了した段階で、朝廷を含む仏教徒系と提携していたとみられる豊臣秀吉には、すでに天下が見えていたのかもしれません。

織田信長と千利休が発展させて来た『侘茶(わびちゃ)』をベースとする、信長の『御茶湯御政道』も信長政権の継承を標榜する豊臣政権の当初はそれ風でしたが、やがて更に発展させた『大茶会』や『黄金の茶室』などを催し、どんどん政治ショー化して行くようになりました。

豊臣秀吉の”茶”は、神信徒系の織田信長が進化させた『侘茶』から、公家・僧侶の仏教徒系の『バサラ茶』へ戻って行き、派手な仕掛けをして政治ショー化し、明治の大ジャーナリスト徳冨蘇峰(とくとみ そほう)の指摘するように、『天下泰平』を演出してゆく”茶”として利用して行ったようです。

豊臣秀吉の『御茶湯御政道』は、織田信長の作り出したものとは異質なもののようですが、秀吉が短期間で天下取りに成功するように協力した人々には、心地よい『茶の湯』に戻るという『御茶湯御政道』だったのではないでしょうか。

豊臣秀吉の『全国制覇』の基盤は、結局『武家一統』ではなくて、『公家一統』と呼ばれる異質なものでした。しかしそれが故に、本来の武家の支持は得られておらず、秀吉の死後わずか2年で、対極にある『武家一統』を目指す織田信長の盟友徳川家康によって、崩壊させられる脆弱なものだったようです。

と言うことで、豊臣秀吉が行なった『天下統一』は、残念ながら織田信長の作った『御茶湯御政道』によっての『全国制覇』ではなかったようです。

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参考文献

〇坂口筑母 『茶人織田有楽斎の生涯』(1982年 文献出版)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一>』(2015年 吉川弘文館)

〇八切止夫 『利休殺しの雨がふる』(2002年 作品社)

〇小松茂美 『利休の死』(1991年 中公文庫)

〇小松茂美『利休の手紙』(1985年 小学館)

〇吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <補巻> 千代女留書』(1988年 新人物往来社)

〇藤田恒春 『豊臣秀次の研究』(2003年 文献出版)

〇小林正信 『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

〇小林正信 『正親町帝時代史論』(1012年 岩田書院)

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