天下人豊臣秀吉の『茶』は、『侘茶』ではなく『バサラ茶』なの?

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織田信長が、千利休を後押しをして『侘茶』を発展させた訳?

豊臣秀吉は、千利休の『侘茶』から『バサラ茶』に宗旨替え?

豊臣秀吉自慢の『黄金の茶室』は、千利休が作ったの?

織田信長千利休は、同じ理由で抹殺されたの?

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豊臣秀吉の主君織田信長の『茶』は、”侘茶”なの?

天文3年(1534年)生れの織田信長は、幼少期より教育熱心な父織田信秀(おだ のぶひで)からそれぞれ師匠を付けられ、文武両道の英才教育を施されており、織田弾正忠家(おだ だんじょうのじょうけ)の跡取りとしてしっかり育てられていました。

父信秀と同様に尾張地区では、文化人として知られていた家老の平手政秀(ひらて まさひで)が信長の傅役(もりやく)となり、茶人としても有名な彼は、信長に茶道の一通りのことは教えていたようです。

後年、父信秀の三男である信長の弟十一男長益(ながますー後の織田有楽斎)は、同様に平手邸に入り浸り、平手の娘を貰って茶道の基礎を平手政秀に叩き込まれ、そのお陰で”有楽斎(うらくさい)”と称し茶人としても名を成しました

そんな訳で、信長は幼少の頃より、茶道には親しんでいたようで、”戦国の覇王・魔王”などと言う一般的イメージと大きく違う面を持ち合わせていた教養人でした。

そこで、歴史小説家の八切止夫氏の説によりますと、、、日本列島では、もともと居住していた”原住民系の神徒”と侵略して来た”大陸外来系の仏徒”に分れており、仏教伝来以来、色々と形を変えつつ対立を続けていると言います。

もう既に考古学界ではよく知られていますが、縄文時代には日本の人口の90%以上が東日本に住んでいたことが判明していて、信じられない話ですが、西日本にはほとんど人がいなかったらしいのです(住んでいた痕跡が見つからないようです)。

これが大きく変わり始めたのが、大陸からの大量侵攻(これは弥生期ということになりましょうか)と仏教の伝来です今まで私などが学校で教えてもらった日本の歴史と云うものは、この仏教伝来以降の大陸外来系民族が作った歴史だったようです。

ですから、当然ながら私は、東日本の方が圧倒的に人口が多かった話は知りませんでしたので、文化文明は西日本から広まったとばかり思っていましたものね。

異論が噴出するでしょうから、こんな話は学校で教えられることは今しばらくはないと思いますが、、、(笑)

テーマである『茶の湯』に関して、、、

『茶の湯』はそもそも仏教が大陸から外来系民族がもって来たものなので、日本の支配層(大陸外来系民族)である仏教寺院・公家・朝廷を対象として、初期の奈良時代に、大陸から入って来たもののようです。

その後一時廃れていたものを、禅宗の僧が”禅”を広める手段として鎌倉期に復活させたもののようで、添付した関連記事には出て来ますが、建保2年(1215年)2月に、将軍源実朝(みなもと さねとも)が二日酔いで苦しんでいたところを、栄西禅師(ようさい ぜんじ)が茶を処方したとあります。

この時より、武士の間に広まり始めて行ったのが、その後の『茶の湯』の隆盛のキッカケだったようです。

つまり、『茶』とは、そもそも大陸外来系民族(支配階層)が嗜んで(たしなんで)いたもので、武士のような原住民系の民族(被支配階層)は親しんでいたものではありませんでした。

最初は、教えてもらったものですから、武士階級の”茶”も仏徒が持ち込んだ茶で、いわゆる『バサラ茶』と言うことになりますが、当時の”茶道”ではそれが広まっていました。

織田弾正忠家は、もともと近江八田別所織田庄の出身のバリバリの”原住民系”家系で、当然ながら仏徒(寺院)ではなく、神信仰(神社系)でした。

そんな訳で、織田信長とお茶の先生であった傅役の平手政秀がなんとなく仲が悪かったのは、平手政秀が仏教徒(本願寺)だったからだと見られます。(これが、大須万松寺で催された信秀の葬儀の時に、信長が焼香の刻み香を鷲づかみにして投げつけた本当の理由なのですね)

おそらく信長は、事情はどうであれ、敬愛していた父信秀の葬儀を異教徒の仏教寺院でやることなど、許せなかったに違いありません。

それくらい、織田信長と言う人は仏教関係嫌いなので、最初”茶の湯”にも本心は力が入らなかった(仏徒が始めた行事だから)ようです。

そこに、天下を取りに動き始めた頃、軍事物資の取引関係から原住民系(基本的に商人は皆原住民系ですね)の堺の商人で茶人の千宗易(せん そうえきー利休)に巡り合った訳です。

利休は、仏徒系の高麗青磁の茶碗・花器やら、象牙の茶杓(ちゃしゃく)をつかうような派手派手しい”バサラ茶”を嫌い、原住民として地元(日本)の土を使った楽茶碗、ササラ衆の作った竹の茶杓や花入れなどを使う、地味な”侘茶(わびちゃ)”を考案して広めていたのです。

公家嫌い・坊主嫌いの原住民系である織田信長は、これに飛びつき、以後堺商人の千宗易を重用し、織田家の茶頭として活躍させます。こうして”侘茶”は織田信長と強く結びつくことになり、信長が天下人へと昇って行く歩調と合わせて武家の間に”侘茶”が広まって行くことになりました。

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(画像引用:茶道ACphoto)

政権を取った豊臣秀吉は、『侘茶』から『バサラ茶』へ正体を現わした?

織田信長に拾われて家臣になった豊臣秀吉は、出世して天正6年(1576年)に主君織田信長より『茶会』を催す事を許され、大喜びでした。

そのことに付き後年豊臣秀吉は、、、

上様重々預御褒美御感状、其上但州金山、御茶湯道具以下迄取揃被下、御茶湯難御政道、我等ハ被免置、茶湯を可仕と被 仰出候事、今生後世難忘存候、たれやの御人かゆるしものにさせらるへきと存出候ヘハ、夜昼泪をうかめ、御一類之御事迄あたにも不存候事、

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一> 512斎藤玄蕃允他宛書状写 第七条部分』2015年 吉川弘文館)

大意は、”上様(織田信長)より、重ね重ね御褒美・御感状に預かり、その上但馬の金山と、茶道具など取り揃えて下された。『茶の湯』は御政道で難しいのですが、私は許可を頂き、やってよいと言われた時のことは、今生後生忘れがたいことです。信長様をおいて、どこのお方がこのような栄誉を私に与えて下さるだろうかと考えると、夜昼涙が出て、信長様がお亡くなりになるなど思いも寄りません。”位の意です。

このように、豊臣秀吉は、織田信長から『茶の湯』の開催許可をもらった当時の感激を斎藤玄蕃允(織田信長正室濃姫の弟と言われています)宛の書状で述べています。尤もこの書状は、織田信孝宛ての交渉事の書状ですが。

そして、天正6年(1578年)10月15日に、中国攻めの最中、播州三木で初回の茶会を実施しています。

そのまま、豊臣秀吉は中国攻めを継続して、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変ー織田信長親子の横死』を迎えます。

その後、10月15日に京都大徳寺で主君織田信長の葬儀を後継者候補織田信雄(おだ のぶかつ)・信孝(のぶたか)と打ち合わせることなく無断で決行し、その後清洲会議で決まった後継者長男信忠の遺児三法師を引き渡さない岐阜城の織田信孝を攻めて降伏させ、三法師を安土城へ迎えました。

12月に一連の秀吉の専横に激怒する柴田勝家との交戦状態に入った豊臣秀吉は、残った後継者候補の次男織田信雄の織田家家督相続を決め、翌天正11年(1583年)4月22日に北近江賤ヶ岳で柴田軍を破り5月2日に柴田勝家を滅ぼすと、織田信雄の後継は確定しました。

翌天正11年(1583年)9月に秀吉は大坂遷都構想を打ち出し、事実上織田家からの離脱を図り、翌天正12年(1584年)2月2日に織田信雄領の伊賀城を攻撃して攻め取り、3月6日、織田信雄は秀吉派遣の3家老を手打ちにしてその豊臣秀吉の挑発に乗り秀吉と交戦状態となります。その後徳川家康に助けを求めて秀吉との全面戦争である『小牧長久手の戦い』が始まります

その戦いは勝敗不明のまま天正12年(1584年)11月12日に和議となりますが、織田信雄は政権の座から滑り落ち、事実上豊臣秀吉が政権を握る事となり、結果的には目的を達した豊臣秀吉の勝利となります。

その間、公家・朝廷との約束もあるのか、天正11年頃より織田信長が破壊した比叡山延暦寺・高野山の再興、本願寺の京都復帰など矢継ぎ早に、仏教の復興・振興に取り掛かって行きます

この間の茶会の記録(千利休)を見ると、、、

  • 天正10年(1582年)11月7日  豊臣秀吉会 於山崎宝積寺杉の庵
  • 天正11年(1583年)1月5日   豊臣秀吉会 於山崎
  • 天正11年(1583年)5月24日 豊臣秀吉会 於近江坂本
  • 天正11年(1583年)7月2日   豊臣秀吉会 於大坂城
  • 天正11年(1583年)7月7日   豊臣秀吉会 於大坂城
  • 天正11年(1583年)8月13日 豊臣秀吉会
  • 天正11年(1583年)10月19日  松井有閑会 豊臣秀吉御成
  • 天正11年(1583年)12月10日  豊臣秀吉会
  • 天正11年(1583年)12月18日  津田宗及会 豊臣秀吉御成
  • 天正12年(1584年)1月3日   豊臣秀吉会 於大阪城山里丸 茶屋開き
  • 天正12年(1584年)10月15日  豊臣秀吉会 於大坂城座敷 客29名
  • 天正12年(1584年)12月3日 津田宗凡会 豊臣秀吉御成 利休相伴
  • 天正13年(1585年)1月19日 豊臣秀吉会 於有馬
  • 天正13年(1585年)2月24日 豊臣秀吉会 於大坂城山里丸
  • 天正13年(1585年)3月5日   豊臣秀吉    大徳寺大茶会
  • 天正13年(1585年)5月2日   津田宗及会 豊臣秀吉御成
  • 天正13年(1585年)10月7日 禁中茶会
  • 天正14年(1586年)12月16日  宗易会       上様御成
  • 天正15年(1587年)1月3日   豊臣秀吉会 於大坂城
  • 天正15年(1587年)6月13日 宗易会        於サメカイ屋敷 上様御成
  • 天正15年(1587年)10月1日 北野大茶会
  • 天正18年(1590年)9月23日 豊臣秀吉会 於聚楽第

(参照:千宗左・千宗室・千宗守監修 『利休大事典』1989年 淡交社)

となっており、秀吉は戦の合間を見てマメに茶会を開催したり、参加したりしていたようです。

これだけではどんな茶会なのか分かりませんが、最初の頃は利休風の『侘茶』の茶会だったことと考えられますが、天正12年は前年に比べて秀吉の関係する茶会が減っています。これは前述のように豊臣秀吉が織田家から政権を簒奪(さんだつ)する仕上げの戦い(小牧長久手の戦い)の為、開けなかったのかもしれません。

しかし、天正13年7月11日の関白宣下以降は、10月7日の『禁中茶会』を境にして、明らかに利休の関係する茶会は少なくなっています

豊臣秀吉は非常に熱心に茶会を開いていたと言われていますので、恐らく秀吉の茶会は開かれていた事と思います。となると、秀吉の茶頭であるはずの利休が参加しない会が増えたと言うことになるのではないでしょうか。

此の事は、”茶道の方向性を巡って豊臣秀吉と千利休の間の溝が徐々に深まって行った”と芸術性の問題のように従来は説明されていますが、豊臣秀吉が織田家からの政権簒奪・関白への就任により、天下人になって以降、利休が嫌悪するほど秀吉の要求する”茶のスタイル”が変わったのが理由ではないでしょうか。

つまり、

  1. 仏教保護へと政策転換を図る
  2. ”侘茶”から”バサラ茶”への衣替え

と言うのは、豊臣秀吉が原住民系(神信徒)の出自で、それで織田信長に拾われて忠勤していたにもかかわらず、織田信長の死後は、あっさり異教徒の大陸外来系(仏教徒)へ寝返って公家・寺院の権力側にへ付いたことを示しているようです。

この天正11年の豊臣秀吉の比叡山延暦寺の復興等、一連の仏教優遇政策を、『宗教改革』とまで言うのはどうかと思いますが、明らかに織田信長時代とは大きく違っていることは確かのようです。

このように、歴史作家八切止夫(やぎり とめお)氏の視点に立って、この件を”宗教問題(仏教徒と神信徒の対立)”として考えてみると案外、一連の豊臣秀吉の奇妙な行動様式が理解出来るような気がします。

併せて、豊臣秀吉があれだけ入れ込んでいた”利休の『侘茶』”と距離を置き始めたことも、この点をベースにおいてみると、さもありなんと言う事になりそうです。

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豊臣秀吉の黄金の茶室は千利休との合作なの?

”茶の湯”と”金”の組み合わせは、室町時代には足利第三代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)の”金閣寺(鹿苑寺)”もあり、特段珍しい組み合わせではないかと思いますが、結局芸術の問題よりは、”権勢の誇示”で考えれば、豊臣秀吉のやりそうな事なのでしょう。

しかし、原住民系の織田信長と作り上げた”侘茶”の宗匠千利休が作るとなるとどうなのでしょうか。

利休にしてみても、織田信長時代より見知っている豊臣秀吉が利休を宗匠宗匠と立てて慕って来ていた関係で、その秀吉が天下人となったことから、利休は手伝えと命じられれば、協力する立場にあったかと考えられます。

しかし、天正13年(1585年)10月7日の『禁裏茶会』以降、利休も辟易して、秀吉の催そうとする派手派手しい”バラサ茶”には、距離を置き始めたのではないでしょうか。

それが、前章にあるような”利休の茶会の減少”となって現れたものと考えられます。

こう言うと従来言われている”利休の増長・専横”と一言で片づけられますが、豊臣秀吉が神信徒系民族から仏教徒系民族へ寝返ったと言う、はっきりとした裏切り行為に走り始めたと考えると利休が嫌がったことも、”大徳寺利休像事件”で僧侶は助かり、利休のみが処刑された理由もはっきりするようです。

 

利休が黒茶碗を秀吉に出した意味は?

この話が出る前に、千利休と豊臣秀吉の間では、”朝顔”の逸話が良く語られます。

これは、、、

利休の屋敷にみごとな朝顔が咲いていると噂を聞いた秀吉が、側近に下見をさせると噂に違わずたくさんの美しい朝顔が咲いていました。そこで、早速秀吉が出向くと、すべて切り取られており、なんと屋敷には一輪の朝顔の花もありませんでした。激怒した秀吉を利休が茶室へ案内すると、清楚な朝顔が花入れに一輪生けてありました。その美しさに息をのんだ秀吉は”見事じゃ利休!”と言ったとか言う話です。

良く知られる話ですが、この”黒楽茶碗”に関しては、秀吉が好きな赤い色の派手な”赤楽茶碗”ではなく、敢えて”黒”を出した利休に、秀吉が露骨に嫌な顔をしたと言う話で、秀吉の嫌がる”黒”を敢えて出すという利休の勇気をたたえる話と、自身の『侘茶』の美意識を押し付けようとする利休の傲慢さを指摘する向きもあります。

ふつう、この話はこの辺りでうやむやとなります。大体において、利休の増長してゆく逸話として使われているように思います。

前出の歴史作家八切止夫氏の異説によれば、、、

原住民系神信徒は”白衣”を身に付けます(例えば、神主、山伏など)が、大陸外来系仏教徒は”黒衣”を身に付けます(例えば、僧侶)。つまり、象徴的な色彩が、原住民は、”白”で、大陸外来系は”黒”なのです。

原住民系の武士である源氏は”白旗”を掲げますね。平家は”赤旗”です。

そう考えると、この”黒楽茶碗”を茶会に使った千利休の豊臣秀吉に対するメッセージは、原住民系を裏切り、公家・仏教の支配階層へ寝返った豊臣秀吉に対する詰問でもあったと考えられます。

”黒楽茶碗”を出すことによって”コラ、秀吉!お前は黒の大陸外来系民族へ寝返ったなぁ!わかっとるんやぞ!”と利休が言ったとなるわけです。ですから、秀吉は嫌な顔どころか顔色を変えたはずですね。

正月早々利休に茶会でそんなことされたもんですから、ちょうど利休をかばう弟の秀長も1月22日に亡くなった事もあり、秀吉はもう許さんとばかり2月28日には利休を処刑してしまいました

となります。

豊臣秀吉正室北政所などの助命運動を拒否し、”女人の命乞いで助かったあってはこの利休の面子が立たん”と言ったとか言わないとかと伝わっていますが、本当のところは、秀吉と同じように原住民系なんぞ裏切って、大陸外来系に寝返りをしろと言われたのを拒否したという事になります。

案外、従来の”腑に落ちない処刑理由”よりも、この宗教対立・民族対立の構図で見る”八切史学”の方が、この『千利休賜死事件』は分かりやすい気がしますね。

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豊臣秀吉は、寺小僧の石田三成を『茶』の出し方で側近に取り立てたの?

この章は余談となりますが、”お茶”繋がりと言うことで、、、

豊臣秀吉が石田三成を取り立てたこの逸話は有名です。

石田三成はある寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に到りて誰かある。茶を點じて來たれと所望あり。石田大いなる茶碗に、七八分にぬるく立て持ちまゐる。秀吉之を飲み舌を鳴らし、気味よし今一服とあれば、又立て之を捧ぐ。前より少し熱くして、茶碗半にたらず、秀吉之を飲み又試みに今一服とある時、石田此の度は小茶碗に少し許りなる程熱く立て出す。秀吉之を飲み其の氣の働を感じ、住持に乞ひ近侍に之を使ふに、才あり、次第に取り立て奉行職を授けられぬと云へり。

(引用:『武将感状記 巻之八 秀吉石田三成を召し出さるゝ事』国立国会図書館デジタルコレクション)

これは『三献の茶』の話として伝わっていますが、一般庶民に”茶”が広まったのは、江戸時代になって町人文化が花開いてからと言われています。

この戦国時代には、”茶”はまだまだ高級な貴重品で、寺院には”茶”があった可能性はあるとは思われますが、幾ら城持ち大名になり立ての頃とは言え、豊臣秀吉がふらっと外出先で寺に寄ったからと言って、白湯ならいざ知らず”茶を持て”と言って気軽にすぐ出せるものではなかったと思われます。

当時こんな飲茶の習慣を持つのは、都の公家に限られますので、下賤の出でそんな習慣をもたない秀吉が、本当にこう云ったとすれば、それはある意図をもって十分に準備がなされていたものと考えられます。もし事実であれば、三成の事はさておき、ある意味、策士の秀吉らしい逸話とも言えそうです。

城持ち武家出身である織田信長ですら、茶漬けではなくて、湯漬けを食べて合戦に出陣していた時代です。貴重な茶は特別な時以外は出せるものではないと思います。まだほんの寺小僧に過ぎない石田三成が、貴重な”茶”の入れ方や気の利いた出し方を、知っていたとは到底思われません。それに寺としても急に言われたのでしたら、出せるのは水か白湯でしょうね。

これは、ある種豊臣秀吉の自慢話にもなっていますが、出世した石田三成の”出世譚”のひとつと考えられ、この話はあとから出来た作り話の可能性が高いと思われます。

 

まとめ

戦国時代の”お茶”の話には、貴族・僧侶の教養と遊びの世界だった”お茶”を、”茶の湯”として武家政治の道具へと進化させた”戦国の風雲児織田信長”の存在は欠かせません。

織田信長は、教育パパであった父織田信秀の英才教育の一環として、当時尾張国で茶人として知られた家老の平手政秀(ひらて まさひで)を傅役(もりやく)につけられて、”茶の湯”を仕込まれました。

もともと原住民系神信徒の織田信長は、仏教徒に取り込まれたような平手政秀の教える”茶の湯”にウンザリしながらも、教養のひとつとして受け入れていました。

しかし、戦国武将として名を成してゆく過程で、信長が戦争資材を購入する出入り商人たちの間で広まっていた”茶の湯”に引き付けられます。

そんな中のひとりである千宗易たちのやっている”侘茶(わびちゃ)”に注目します。日本国産の材料である竹で作る花入れや茶杓(ちゃしゃく)、日本の土地の土で焼いた茶碗を使う”侘茶”が、特に織田信長を惹きつけて行きます

それに飛びついた信長は、千宗易を織田家の茶頭(さどう)として重用し、この”茶の湯”を大きく発展させて、自分の政治の中に取り入れて行くことになります。

原住民系神信徒として突出して”天下人”となり、仏教系の権威をなで斬りにする織田信長の存在は、大陸外来系の公家・僧侶たちの勢力から遠からず排除される運命だったと言えそうです。

それらの勢力によって”更迭”された信長は、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』で元室町幕府奉公衆でもあった織田政権重臣の明智光秀(あけち みつひで)に暗殺されたと言われます。

その後、それら勢力の意を受けた武士でも公家でもない階層の出身者である織田政権重臣の豊臣秀吉が、政権を取るべく2年間の残存対抗勢力との抗争を勝ち抜いて、約束通りのように天正13年(1585年)7月11日に公家のトップである”関白”の宣下を受けます。

公家でも僧侶でもない秀吉の出自はもちろん原住民系民族ですので、これは大陸外来系への明かな”寝返り”と考えられます。(戦国的に言えば、大陸外来系からの”調略に応じた”ということになります。)

そこで、”茶の湯”ですが、織田信長ー千利休で作り上げて来た”侘茶”を、豊臣秀吉は公家・僧侶の”外来系バサラ茶”へ乗換えをしようとすると言うことになるのでしょうけど。

併せて、原民族系神信徒の織田信長が破壊して来た大寺院を、仏教徒に寝返った豊臣秀吉は約束通り、天正11年から復興を始めます

それに気が付いた千利休は、引き留める秀吉の手から逃れるように徐々に秀吉から離れるような行動をし始めます。

しかし、豊臣秀吉も自身を祀る『豊国神社』なんか作っているのですから、やっぱり原住民系神信徒を脱却するのは無理なんだなと思えておかしいですね。

古来平安貴族たちは、菩提寺は一生懸命作りましたが、自分を祀る神社は作っていません。彼らは根っから大陸外来系仏教徒なんですね。秀吉との対比が面白いです。

結局、千利休も天正19年(1591年)2月28日に、織田信長と同じような理由で抹殺されたと言えそうです。徳川家康は原住民系の武士として、そうした転向者(裏切り者)の豊臣秀吉とうまく付き合いながら、織田信長が達成しようとした原住民系の政権の樹立を、秀吉が死ぬのを待って実行することになった訳です。

面白いのは、そうした徳川政権も怪僧天海僧正(てんかい そうじょう)のせいかもしれませんが、第三代徳川家光(とくがわ いえみつ)辺りからまた仏教徒系に取り込まれて行く(要するに裏切り者)事になり、またぞろ幕末になって徳川政権は原住民系の薩長連合に滅ぼされるという構図です。

明治維新の直後に明治政府が『廃仏毀釈』なんてやったのも、その現れ(原住民系神信徒だった証拠)のひとつかもしれません。

これらは、歴史作家八切止夫(やぎり とめお)氏のいわゆる『八切史観』的なものの見方です。八切史学は知られている史実と相違するところも多く、これが正解とも言えないところですが、案外、歴史の謎だった部分が解けそうな気がするので、無視は出来ないのではと考える次第です。

また、八切氏は”日本の被差別民研究”の専門家で、日本の表の歴史と裏社会の構造が複雑に絡み合うところにヒントを与えてくれるようです。歴史の謎・闇は裏から見るしかないようですね。

”お茶”の方の結論は、『豊臣秀吉の”茶”は”侘茶”じゃなくて”バサラ茶”なの?』に関して、結局そうしようとしたけれども実は成ってはいなかったと言うところでしょうか。

『千利休賜死事件』に関しての別の見方として関連記事を添付します。

関連記事

 

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参考文献

〇八切止夫 『利休殺しの雨がふる』(2002年 作品社)

〇桑田忠親 『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一>』(2015年 吉川弘文館)

〇藤田達生 『秀吉神話をくつがえす』(2007年 講談社現代新書)

〇藤田達生 『天下統一』(2014年 中公新書)

〇千宗左・千宗室・千宗守監修 『利休大事典』(1989年 淡交社)

『武将感状記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

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