豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉が天下の茶頭千利休に切腹を与えた理由が分かります。

石田三成豊臣秀吉に讒言をしていた!ホント?

豊臣政権内で千利休の専横が目立ったとは?

豊臣秀吉が切腹を与えたのは、千利休がキリシタンかどうか調べる為だった?

豊臣秀吉が茶頭である千利休に切腹を命じた理由の定説とは?

これに関して、同時代史料(奈良興福寺多門院英俊の日記)が語る、『千利休賜死(せんのりきゅう しし)』の罪状は、、、

廿八日、・・・

一、スキ者ノ宗益今暁腹切了ト、近年新儀ノ道具共用意シテ高値ニウル、マイスノ頂上也トテ歟、以外關白殿御立腹、則ハタ物ニト被仰出テ、色々トワヒコトニテ、壽像ヲ作テ、紫野ニ置テハタ物ニ取上了、

『多門院日記 第四巻(巻32-巻40)天正19年2月28日の条 287頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大意は、”天正19年2月28日明け方に、数寄者(すきしゃ)の千利休が切腹した。それは近年、新たな茶道具に法外な値を付けて売り払っていて、不当な利益を上げる”売僧(まいす)”の極みであると言うこととか、もっての外の事と関白秀吉殿が腹をたてて、磔刑(たっけいーはりつけの刑)だと仰せなのは、利休自身の木像を京都紫野の大徳寺(だいとくじ)の山門に置いていたことで、これが”秀吉もくぐる事がある山門の上から見下ろすと言う不敬”にあたる事だとして罪に問われているからだ。”と言う意です。

上記の多門院英俊(たもんいん えいしゅん)の挙げた事をまとめると、、、

  1. 売僧(まいす)行為
  2. 木像不敬(もくぞう ふけい)行為

の2点が千利休が切腹させられた(千利休賜死事件の)理由と言われている定説です。

また、豊臣秀吉の軍師だった竹中半兵衛の嫡男竹中重門(たけなか しげかど)の著書と言われる『豐鑑(とよかがみ)』によりますと、、、

その比茶湯の聖成し宗易をころし給ふ。かのさかひの町人なりしが秀吉公茶(の)湯の道にすき給へるによりて、彼を師としてまぐめり。上中下までもてはやす事愚ならず。茶の器物よしあし、「彼がいふ類に随ひ」、あたひをましければ、とめる事たうしゆに(も)をとらざら(な)んといふ計なり。かたがたおごりを極めぬれば、我心ひかるゝかたのうつは物を、悪敷をも能とし、新しきをも古きとし、あたひを增けり。

秀吉公、是を聞國の賊なりとてさかひの津に下し、かうべを切給ひ、をごれる者今も古も然也。これを誰かかんがみざらん、今の人いましめとなさざらんや、後の人もまたいましめとせざらましと淺ましかりし。

(引用:竹中重門『豐鑑』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”その頃、秀吉公は茶の湯聖となっていた千利休を処刑された。彼は堺の町人であるが、秀吉公の茶の湯の名人であることから、茶の湯の師匠となった。世間で有名となって、茶道具の良し悪しは「利休の言うがまま」となり、道具の値を上げ、富めることは秀吉公にも劣らないと言われるばかりとなっている。どんどん傲慢となり、自分が良いと思うものは、出来の悪い物も良いとし、新物も古い物だと言って値を上げる始末だ。

秀吉公は、これを聞いて国賊だと言って、利休を京都から堺の町へ帰らせて、そこで斬首刑に処した。驕れる者は今も昔もこのような末路だ。これを見て、今の世の中の人もこれからの人も戒めとするべきだ。”と言う意です。

前掲の史料とほぼ同じ内容となっており、同時代の一般的な受け取り方はこんな感じだったと考えられますが、多門院英俊は仏教界・朝廷公家の世界をベースにした情報で、”利休が切腹させられた”としていますが、竹中重門は豊臣政権に近いところの情報として、”利休は、堺へ戻されて斬首刑に処せられた(注:切腹でもその後首を切られることもあります)”としている点に違いがあるようです。


(画像:京都大徳寺塔頭興臨院ACphoto)

 

千利休は秀吉の政務に口を出していたの?

これに関して有名な史料は、九州豊後の大友宗麟が島津に攻められている窮状を、関白秀吉に訴える為に上京した折の様子を国元に伝える書状で、、、

羽柴美濃守殿は、はるばる宗滴の手をとられて候て、何事も何事も、美濃守如此候間、可心安候。内々之儀者宗易、公儀之事者宰相存候。御為ニ悪敷事ハ不可有之候。弥可申談候と、諸万人ノ中ヲ手ヲ取組、御入魂、中々忝存候。いつそ、この宰相殿を頼申候ハでハにて候間、能々御心得可入候。
今度、利休居士被忝心馳走之様子、難申尽候。永々不可有忘却候。此元之儀、見申候て、宗易ならでハ、関白様へ一言も申上人無之と見及申候。大形ニ被存候而者、以外候。
とにかくに、当未共、秀長公・宗易へハ深重無隔心御入魂専一に候。

(引用:桑田忠親『千利休』1981年 中公新書)

大意は、”秀長公は、遠くから近づいて来られ宗麟の手をとられて、何事につけても、このような気持ちでいるから安心してほしい。内々の事は千利休、表向きの事はこの秀長が分かっているから、大友殿にとって悪いことはないはずだ。ゆっくりと談じましょうぞと諸侯の居並ぶなで手を取り昵懇にしてもらい、大変有難いことだった。一層この秀長公にお願いせねばならぬので、よくよく心得ておいてほしい。

このたび、千利休殿が気持ちを入れて奔走してくれた様子は、言い尽くす事が出来ない。ずっと忘れてはならない。こちらの状況を見るにつけ、千利休殿でなくては、関白殿下へひとこと言える人物がいないと見た。ふつうに考えていては全く駄目だ。

とにかく、いまもこれからも、秀長公と利休殿へ、慎重に分け隔てなく、親しくすることが肝要である。”と言う意です。

ここで、大友宗麟は、豊臣政権№2の豊臣秀長から、『内々の事は利休、表向きは秀長に』と言われ、政権内を見てみても身内の秀長以外に、関白秀吉に物が言えるのは、千利休くらいだと直観したと言っています。

このように、豊臣政権の中で秀吉の相談役として、千利休が大きな力を振るっていることを物語っているようです。

外部の大友宗麟をしてこんな見方をしていたようなので、この事は利休が、豊臣政権の政務全般を独占したい石田三成ら側近の奉行衆らの強い反感を買ってゆく火種となります。

この切っ掛けとなったのは、豊臣秀吉が天正10年(1582年)10月11日から大徳寺で行った『織田信長の葬儀』に関する件を、秀吉は側近の奉行達を通さずに、利休に葬儀の開催場所を含めて相談し、直接に葬儀取り仕切りの下命を出したことから始まったようです。

そもそも、織田信長の一軍団長に過ぎなかった豊臣秀吉は、この場合、織田信長の茶頭として既に活躍していた実力者の千利休に相談するのはある意味当然で、その軍団長だった秀吉の側近に過ぎなかった彼らが、その事に嫉妬して不満を持つ事自体が思い上がりだと考えられる訳ですが。

しかし、どんどん豊臣秀吉が天下人として政治の実権を握り始めるにつれ、彼らの過剰な自意識は、豊臣秀吉を天下人へ押し上げて行くのは自分達だというと言うプライドと、秀吉に対する忠誠心が合体して”関白秀吉の側近である自分達を差し置いて、秀吉様と差しで話をする利休はけしからん”と言う考え方へなって行くようです。

秀吉配下で吏僚(りりょう)として成長し、自分の地位・権益を守ろうとする役人根性に凝り固まった石田三成や前田玄以たちと、茶道の導師として邁進する芸術家タイプの利休とは、元来そりが合わないのも当然だったのかもしれません。

普通に”秀吉の政治に口を出す”と言うこととは、利休の場合は趣を異にするのではないかと思われますが、”茶の湯の人脈をフルに活用して実力を示す利休”を妬む三成達にとっては同じなんでしょうね。

 

千利休が秀吉に切腹を命じられたのは、石田三成の讒言が原因か?

前述のように、豊臣政権はスタート当初から、内部対立の萌芽を抱えていたと言えそうです。

茶の湯を通じて、秀吉の茶頭となっている利休との関係から、政権内では、”豊臣秀長、大政所(秀吉母)、北政所(秀吉正室・高台院)、大徳寺和尚古渓宗陳(こけい そうちん)”らが利休擁護派で、”石田三成、増田長盛(ました ながもり)、前田玄以(まえだ げんい)、淀殿(秀吉側室)”らが反利休派と、政権内部は利休擁護派と反利休派に分裂して行くことになりました。

天正19年(1591年)2月13日、利休が聚楽第内の自邸から堺へ追放される折、、、

利休めはとかく果報のものぞかし

菅丞相になるとおもヘバ

(引用:千宗左・千宗室・千宗守監修 『利休大辞典』1989年 淡交社 )

とその思いを謳っていることから、利休自身は”菅原道真(すがわら みちざね)公と同じように濡れ衣を着せられて都を追われる”と考えていたことは間違いないようです。

話としては、利休最大の擁護者であった豊臣政権№2の豊臣秀長が、天正19年(1591年)1月22日に死没したところから、即座に反利休派の石田三成が動き、(秀吉に讒言し)利休に冤罪を仕掛けて一気に失脚へ追い込んだ(2月13日の追放)と言うのが通説になっているようです。

しかし、幾ら寵臣の言とは言え、簡単に人の言いなりになる秀吉ではないと考えられることから、豊臣秀吉と千利休自身との関係性も問題になりそうです。

明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰によれば、、、

秀吉は寛大漢だ。しかし彼は己の大権に立ち入り、もしくはそれに衝触するか、あるいはその尊厳を冒瀆するかについては、神経質であるほど、精細に注意した。而してこれに向かって、厳重に制裁を加え、寸毫も仮借せなかった。
(中略)しかるにかの利休は、何人ぞ。彼はあまりに秀吉の寵遇を恃んで、その優待に馴れて、増長した。(後略)

(引用:徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣時代丙篇 第16章第4項 利休の死因』1981年 講談社学術文庫)

とあり、利休には、信長の配下にあった時の秀吉から天下人になった秀吉の権勢を、そのまま認めることの出来ない気持ちがあり、秀吉からすれば、見下されているような気持ちを常に持っていたのかもしれません。そんな状況を徳冨蘇峰は指摘しているのでしょう。

秀吉に対して、利休を陥れるような話を讒言したのが一体誰なのかはどこにも記録がなく、通説にあるように、それが本当に石田三成なのかどうかは不明のままです。

 

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豊臣秀吉の切腹命令で、千利休は本当に切腹をしたの?

通説にもある『利休賜死事件』の経過は、、、

  1. 天正19年(1591年)2月13日  利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる
  2. 同年2月25日  京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる
  3. 同年2月28日  木像の下に利休の首がさらされる

となっていて、正確には千利休の死去した日付は確定出来ていないようです。一般的には天正19年(1591年)2月28日となっています。

そして、どうせ豊臣秀吉の命令で処刑されたのだから、自分で切腹しようが、斬首されようが今の私たちはどちらでも同じように思いますが、それでも表現が分かれていることは事実です。

前述したように、奈良興福寺多門院英俊は、”スキ者ノ宗益今暁腹切了”とその日記に”利休が切腹した”と記載し、豊臣秀吉の軍師だった竹中半兵衛の子息竹中重門は著書『豐鏡(とよかがみ)』で、”秀吉公、是を聞國の賊なりとてさかひの津に下し、かうべを切給ひ、”とはっきり”秀吉により斬首された”と述べています。

やはり、事件当時も情報は錯綜していたようです。

利休が死を賜った原因説は、、、

前述した

  1. 売僧行為(茶道具不当売買)説
  2. 大徳寺木像不敬説

がほぼ確定した定説ですが、、、

それ以外に諸説として、

  1. 利休の娘説
  2. 秀吉毒殺説
  3. 利休専横の疑い説
  4. 利休キリシタン説
  5. 利休芸術至上主義の抵抗説
  6. 利休所持茶道具の献上拒否説

などがあるようです。

上記の中で、当時、本当の意味で死罪に値しそうなものは、”2.秀吉毒殺説”と”利休キリシタン説”ではないかと思われます。

その他は、意図的に抹殺する気があれば別ですが、あとは政権の方針に逆らう軽微な罪とか、関白秀吉の我ままに逆らった為に、秀吉の機嫌を損ねる程度のものではないかと思います。

2.の”秀吉毒殺”は、君主の暗殺ですから、完全に”謀叛”と考えられ、これは一族皆処刑されることになります。しかし、この事件の場合、千家一族の皆殺しはありませんでしたので、どうやらこれは単なる噂だったと考えられます。

3.の”利休キリシタン説”に関しては、天正15年に”切支丹追放令”を出して以来、豊臣秀吉は反キリスト教の正親町天皇の意を体してキリスト教容認から弾圧に方向性を変え始めていたことがあげられます。かと言って、当時まだキリスト教徒は”判明次第処刑”の時期に至ってませんので、強い動機になるかどうかちょっと微妙です。

そうすると、豊臣秀吉が千利休を処刑せねばならぬほどの罪を犯した、とは言い難い状況のように思えますが、現実には処刑されています

流れをみると、どうやらこれは利休自身も納得をしていない罪による”賜死(しし)”だと考えられます。普通、納得してなければ、利休ほど精神力の強い人物は”切腹(自殺)”などしないのではないでしょうか。つまり、無理やりやられた可能性が高いですから、”切腹”ではなくて、本当に罪人のように”斬首”される形の処刑になったのではないかと思えます。

ここは、”かつて秀吉の軍師だった竹中半兵衛”の子息である竹中重門(たけなか しげかど)の云う、”秀吉公、是を聞國の賊なりとてさかひの津に下し、かうべを切給ひ”(斬首)、と見るのが相当なのではないかと考えられます。

 

豊臣秀吉が武士ではない茶頭の千利休に、切腹を命じた真意はなんだったの?

ここで、歴史研究家の山田無庵氏によると、千利休に対して”切腹をした者への儀礼”を、豊臣秀吉がきちんと尽くしていないと言います。

これは、どういうことなのでしょうか。

利休首は聚楽御城へ、蒔田尼子持参候へ共、実検ニ不及、一条戻橋ニ獄門ニ梟、大徳寺の山門の上ニ置たる利休か木像ヲ、柱ヲ立テ結付、利休か首ヲ鈕がけニのせて木像ニ踏せて、被曝、毎日ノ見物群集ヲなす

(引用:千宗左・千宗室・千宗守監修 『利休大事典 附録「千利休由緒書」656頁』1981年 淡交社)

大意は、”千利休の首は、聚楽第へ検使の蒔田淡路守(まきた あわじのかみ)・尼子三郎左衛門(あまご さぶろうざえもん)によって、聚楽第の豊臣秀吉の下へ首実検のために持参されたが、秀吉は首実検さえ行なわずに、聚楽の一条戻橋に獄門に掛け、柱を立て、利休の首を鉋(かんな)がけの上に置き、磔にしてある彼の木像の足で踏ませて、晒しものにしたので、毎日見物の衆が群れをなした。”と言う意です。

秀吉は利休の首実検さえ行わず、晒し首も、鉋がけの台上に置くなど最下級の人物の首の扱いで、しかも木像に首を踏ませるなど、最大の侮辱を与えており尋常なものとは思えません。これは、秀吉が利休に武士なみの名誉を与えて切腹をさせた後の処置とは、とても考えられない扱いな訳です。

つまり結果を見ると、千利休は名誉を重んじる武士並みに扱われて”切腹を賜った”のではなく、罪人の如く徹底的に侮辱されて”斬首刑に処せられた”形となっています。

しかし、最初から”斬首刑に処す”ならば、なにも検使や介錯人など送り込む必要もなく、切腹などとカッコつけることもない訳です。

実は、この事件は千利休ひとりに掛けられた嫌疑ではなくて、利休の像を山門の上に安置した大徳寺全体にかけられたもので、古渓宗陳ら大徳寺長老3名も聚楽第へ召喚され尋問を受けています。

大徳寺の説に云、諸長老を聚楽の城へ被召寄、家康公、幽斎公を以て被仰出候者、大徳寺山門の下は、上様も御通被成候に、利休が木像を山門の上に作置るゝ事、曲事に被思召候。
申分有之候はヾ可申上と有、古渓承て山門の普請外、木像置候事、我等相談仕候。一山の長老の被存儀ニ無御座候。いか様にも私壱人曲事可被仰付候と被申上候。太閤重而、利休が木像を置る、いわれを可申上由、被仰出、
古渓何共御返答無御座候と被申候。家康公、常々古渓に御懇故、夫ニ而者、埒不明候。何とぞ御機嫌直り候様ニ申上度と被仰候。其時、古渓懐中より、長谷部の小釼を抜出し、御返事ハ是ニ而、自害可仕覚悟ニ候と被申候。
家康公一段埒明候と被仰、則、其段被仰上候へハ、太閤早速御機嫌直り、古渓ハ左様ニて有と思召候。諸事御赦免被成候間、一山の諸長老も可罷歸由、被仰出候。
扨、利休か木像ハ堀川戻り橋の下にくゝりさせ、往来の人に御踏せ候。此木像二条獄所の二階に、今に有之とかやと云々。

(引用:小松茂美 『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年 小学館)

大意、”大徳寺の話では、長老らが聚楽第に召喚され、徳川家康、細川幽斎から尋問を受けた。それは、『大徳寺の山門は関白殿下も通られるのに、利休の像を山門の上に作り置くとは何事か。申し開きの弁があるなら申してみよ。』とあった。

それに対して古渓和尚が受けて言うには、『山門の普請ほか木像安置の件なども相談してみましたが、一山の長老たちは知らぬことです。これはわたしひとりの罪として仰せ付け下さい。』と。

対して、『関白殿下も重く見ておられるので、利休の木像が山門に安置してある理由を答えてください』と重ねて尋問すると。

古渓和尚言うには、『どうとも答えようがありません。』と。

家康公は常日頃古渓和尚と親しくしているので、『それでは埒があきませんね、どうか関白殿下の機嫌が直るように申し上げたいとお話ください。』

その時、古渓和尚は懐中より小刀の名刀長谷部を抜き出されて、『返事はこれです。自害する覚悟です。』と申し上げます。

すると、家康公は『これで埒が明きましたよ。』と言われ、すぐに関白殿下にその事を報告になり、「古渓はそうであったか」と関白殿下の機嫌は忽ち直り、すべて御赦免になりました。大徳寺の他の長老らも帰山することが出来ました。

さて一方、利休と木像はと言うと、一条戻橋に括り付けられ、往来に人々に踏みつけられまして、今木像は二条の獄舎の二階にあると言います。”の意です。

長くなりましたが、要するに利休と同罪に問われた古渓和尚始め大徳寺の長老たちは、腹を切る覚悟だと秀吉に申告したところ、赦免されたと伝わっています。

言わば同罪に問われた”利休”と”大徳寺古渓ら長老たち“ですが、切腹せよと命じられた利休は処刑され、長老たちは切腹すると言ったら赦免されました。

ここで、歴史研究家の山田無庵氏は、キーワードは”切腹(自害)”なのではないか、つまり、豊臣秀吉が試したのは、かれらが”切支丹の信徒かどうか”だったのではないかと云います。

熱心なキリシタン信者に「自殺」は出来ません。関ケ原の合戦の折、大坂で石田三成が東軍武将の家族を人質に取ろうとした時、細川忠興の妻ガラシャは自殺出来ず侍従の侍に胸を剣で突いてもらったと言います。

要するに、切腹命令が出ていたにもかかわらず、利休は切腹(自殺)を拒み、その為に「キリスト教徒」であることがバレて、秀吉によって処刑されたのではないかという見方です。

荒唐無稽に見えますが、かの大徳寺はキリシタン大名たちの菩提寺にもなっていて、キリスト教を研究する禅僧が多数在籍していたとも言われています。この事件後大徳寺内の切支丹関係の証拠はすべて隠ぺいされたようです。

そう考えると、豊臣秀吉の『千利休賜死事件』の真意は、利休が(誰かの讒言にある通り)キリシタンなのかどうか確認をしたかったという事になりますが、どうでしょうか、まだ色々と究明しなければならない問題もあるようです。

次に諸説ですが、『利休賜死事件』は、秀吉の朝鮮出兵に利休が反対していたためだという説がかなりあります。

その根拠とは、天正19年(1591年)2月28日の”利休の切腹”以降に、秀吉の朝鮮出兵の動きが加速した事が言われており、邪魔者を消したという事になりそうです。

その他には、天正19年2月4日の伊達政宗上京以来、その斡旋をした徳川家康と利休とが近づき、目の上のたんこぶ同志(徳川家康・千利休・伊達政宗)の結びつきに危機感を抱いた秀吉が、接着剤になりそうな千利休を抹殺したというなどと言う見方もあるようです。

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まとめ

世界に冠たる『現代日本の茶道』の祖とも言われる、安土桃山時代の”千利休”が、時の権力者である豊臣秀吉に切腹を賜った『千利休賜死事件』は、未だに確たる原因が不明の出来事です。

前掲の関連記事にある説では、政権を握り権力者としてどんどん力を付けて来た豊臣秀吉は、それまで頼りにして政治顧問の役割を担ってもらっている千利休のことが、徐々に意に添わなくなり、その存在が疎ましく思われるようになって行きました。

そうは言っても、千利休を手放したくない豊臣秀吉は、一計を案じて、利休を茶の師匠格から他の政治勢力と同様に、秀吉の配下として臣従する立場へと変えさせようと決意し、命乞いをさせるつもりで、嫌疑を掛けて切腹を言い渡します。

要するに、謝罪をさせて利休の鼻っ柱を折ろうとしたのです。

ところが、利休はその姿勢を変えずそのまま粛々として切腹を賜ります。引っ込みがつかなくなった秀吉は、この思惑違いの事態に腹を立て、梟首までしてとことん利休を辱めます。

こんなストーリーでしたが、今回は以前からある『千利休キリシタン説』に、歴史研究家の山田無庵氏が興味深い解答を提示されていますので、それに沿う形でその根拠を示しながら、同一の罪に問われた大徳寺長老の古渓和尚の対応と助命された経緯、千利休に対するその後の秀吉の仕打ちなどを較べて、豊臣秀吉の真意を探るものでした。

豊臣秀吉は、天正15年(1587年)に九州博多から『切支丹追放令』は出したものの、まだまだ緩い禁令であったようで、来るべき『朝鮮への出兵』への準備としての色彩が強かったと思われます。

とは言え、徐々に締め付けを強めている中、天下人関白秀吉としては、政治顧問役の人間がキリシタンであることは排除せねばならず、利休がキリシタンであるかどうか試したところ、利休は切腹を拒否したため、斬首刑となった可能性が高いと考えられそうです。

俄かには信じられない話ではありますが、利休の死後慶長年間に描かれた狩野派の絵師狩野内膳によるの『南蛮屏風』(神戸市立南蛮美術館所蔵)にキリシタンの修道会士達に囲まれた信徒の老人として千利休が描かれていますので、本当に利休はキリシタンだったのかもしれません

当時キリシタンであることが、即死罪にまではつながらない時期だと思われますが、秀吉が利休に町人であるにも関わらず”武士並みに切腹を申付けた”と言われています。しかし、処刑後の扱いが”武士並みに切腹”ではないようなことから、”利休キリシタン原因説”が疑われます。

仮に”千利休は本当に切腹であった”と考えると、、、

切腹後の”斬首”⇒”梟首”までは”状況によって有り”にしても、”首を足で踏みつけさせる”と言うのは、明らかに”武士並みの扱い”と言えないと考えられます。

そこに、”切腹”と命じた以上、これは全くおかしな扱いであるため、やはり利休によって”キリシタン故の切腹拒否”があったのではないかと言う見方でした。

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参考文献

〇山田無庵 『キリシタン千利休』(1995年 河出書房新社)

〇桑田忠親 『千利休』(1981年 中公新書)

〇野上弥生子 『秀吉と利休』(1996年 新廟文庫)

〇徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代 丙篇』(1981年 講談社学術文庫)

〇日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』(2015年 洋泉社)

興福寺多門院英俊『多門院日記 第四巻(巻32-巻40)』(国立国会図書館デジタルコレクション)

竹中重門『豐鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇桑田忠親『千利休の研究』(1976年 東京堂出版)

〇千宗左・千宗室・千宗守監修 『利休大辞典』(1988年 淡交社)

〇小松茂美 『利休の手紙』(1985年 小学館)

〇小松茂美 『利休の死』(1991年 中公文庫)

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