執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
覇王織田信長と梟雄武田信玄の同盟は、信玄の裏切りで破たん!
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織田信長と武田信玄は、同盟を結んでいた事実を明らかにします。
織田信長と武田信玄はあれだけ沢山の合戦をやっていた戦国武将なのに、ふたりが生涯一度もガチで合戦をやっていないのはなぜかを調べてみました。
武田信玄の元亀3年(1568年)の三河侵攻に始まる『西進』は、信長を追い落とす『上洛戦』と言われていますが、真相は?
目次
織田信長と武田信玄の接触はいつ頃からなの?
ふたりの最初の接触は永禄元年(1557年)頃との話もありますが、通説では、永禄8年(1565年)9月に武田家との交渉役となっている織田忠寛(おだ ただひろ)を甲府へ派遣し、信玄の四男高遠城主諏方勝頼(すわ かつよりー後の武田勝頼)に信長養女(岩村城主遠山直廉ーなお かどの娘)を輿入れさせる話をまとめた辺りからです。
武田側の史料『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』では、、、
・・・大方今明年の間に美濃國も信長支配に仕べく候、さ候はば信玄公御持の木曾郡とうちつとき候間、在々の往來もたがひに申事なきために伊奈四郎勝頼公へ信長養子のむすめを進じ度候、・・・乙丑霜月十三日、ない木殿むすめ信長姪女養親に成て、伊那の高遠へ御こし入、四郎勝頼公は尾州織田信長の聟に成給ふなり、・・・
(引用:『甲陽軍鑑 品第丗三 二七七頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、、、
武田信玄は、織田信長が今川義元を『桶狭間の戦い』で討取り、美濃も平らげる勢いで、俄然武田領と国境を接する危険が生じたので、いままで付き合いもなかったが、お互いに衝突を避ける意味で姻戚関係を結んだと上記『甲陽軍鑑』に記されており、信長サイドのすり寄りだけでなく、信玄側にも勢いのある信長と衝突を避ける手立てを組む必要性に迫られていたことが分かります。
織田側の史料『織田軍記(おだぐんき)』(総見記)には、、、
・・・信長公は知略深き大將にて、内々御思慮を廻さるゝに、信玄と云ふ老功の名將を敵にするならば、美濃信濃の境目にて毎度合戰、勝利を得るとも年を重ね月日を送って、上方の發向遅かるべし、・・・何様にも謙りて信玄を謀り、和睦せしめ、我が分國へ働かぬ様に成さるべしと御思案あって、近年ひたすら甲州に御入魂あって、・・・信長公より甲州へは織田掃部助と云ふ辯口無類にて二心無き勇士を遣わし、切々の御音信あり、・・・扨も永禄八年の冬、件の御謀計の爲又甲州へ御使者遣わされ、諏方四郎殿を某の聟に仕り度候へども、・・・某が妹聟濃州苗木の城主遠山勘太郎が儲けたる女子の候・・・
(引用:『織田軍記 巻第五 武田信玄来歴の事附結婚姻和睦の事の条』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、難敵と無駄な戦いをして時間を無駄にしたくないので、信長が武田家に伝手のある織田掃部助を使ってしゃにむにすり寄った様子が素直に記述されています。
これで、織田信長と武田信玄はお互いに安堵し合う意味合いで、婚姻によって『甲尾(こうび)同盟』を結びますが、彼女は永禄10年(1567年)に勝頼の嫡男信勝(のぶかつ)を出産後死去してしまいます。
それで今度は、信長が嫡男信忠(のぶただ)に信玄の娘(菊姫)をもらいたいと申し入れ婚約します。
『甲陽軍鑑』に、、、
霜月廿一日に織田信長より織田掃部助を使に被成、信玄公御料人御とし七歳に成給ふを承及ひ、信長嫡子城介内方に申請度と被仰越なり、・・・
(引用:『甲陽軍鑑 品第丗三 二八一頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、、、
このように、織田信長と武田信玄は、双方とも姻戚関係を結ぶことにより、敵対関係になることを避け続けると言うスタンスで一致していたようです。
信長には、信玄を家康のように畏怖しながらも憧れるような考えはなく、あくまでも”東の脅威のひとつ”と言うとらえ方であったように思われます。
前述の『織田軍記(総見記)』にあるように、信長の目的は飽くまでも西の京都にあったようで、そのために、有力な戦国大名である武田信玄とまともにやり合っていては、時間を浪費するだけだと言う割り切った発想で”何様(なによう)にも謙(へりくだ)りて信玄を謀(たばか)り、和睦せしめ、我が分國へ働かぬ様に成さるべし”と考えた上で、信玄と誼(よしみ)を通じて同盟していたようです。
(画像引用:武田信玄像ac画像)
織田信長の上洛を武田信玄はどう思ったの?
織田信長は、永禄11年(1568年)9月28日に足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて上洛を果たします。
それを遡る事7か月ほど前に、武田氏と織田・徳川氏との交渉があり、今川氏真(いまがわ うじざね)を共同で叩くことで合意していました。
織田信長は、足利義昭を奉じて岐阜から上洛した留守中に、駿河今川氏真に三河・尾張へ侵攻される可能性があることが懸念材料でした。
そこで信長は、前年の永禄10年(1567年)10月に今川寄りの嫡男義信(よしのぶ)を死に追いやり、今川家出身の義信夫人を駿府へ帰還させて長らく続いていた”甲駿同盟”を破たんさせた上で駿河国に触手を伸ばしかけている武田信玄を誘い、今川氏真(いまがわ うじざね)の動きを封じようとしました。
結果として、今川氏は壊滅し、信玄は今川と結ぶ北条家の反発から大変苦労したものの駿河国の大半を得、家康は遠江の西側を得て、信長は足利義昭を奉じての上洛に成功しました。
織田信長は、上洛後すぐに畿内平定に向かい、10月14には足利義昭とともに京都へ凱旋しました。
足利義昭は、永禄11年(1568年)10月18日、将軍に任ぜられ足利幕府を再興することが出来ました。
最近の研究でここでの、信長の上洛行動に関して信玄は容認しており、信玄の駿河侵攻と信長の上洛とは”共同軍事作戦”であったことが明らかになっています。
前述のように、信玄の駿河侵攻に北条氏康(ほうじょう うじやす)には相談がなく、氏康は、信玄の行動を侵略行為とみなして今川軍に援軍を送り、また上杉謙信と”越相同盟”を結んで武田領への出兵を求め、信玄は包囲網が完成して窮地に立たされます。
そこで、同盟関係にある織田信長に依頼して、将軍足利義昭から上杉謙信への和睦朝廷斡旋を求めます。
これにより、上杉の参戦はなくなり、信玄は信長のおかげで窮地を脱することに成功します。
この時点では、武田信玄と織田信長は、足利義昭の政権を支える有力な戦国大名同志だったことが分かります。
しかし、、、
信玄には、信長のように”自身が制する『天下』”と言うものは、全く見えておらず、本質はあくまでも割拠する群雄の大大名のひとりに過ぎなかったようです。
ここでも既に、今川攻めの同盟徳川軍との申し合せを守らず、徳川領となるはずの遠江へのはっきりした出兵を試みて、あろう事か徳川方へ攻撃を仕掛けるなどしており、徳川家康に抜きがたい不信感を植え付けました。
相手に隙があると見るとすぐに相手のフトコロに手を突っ込む”戦国大名(ならずもの)”根性丸出しの獰猛(どうもう)な武田信玄像が顔を出しているようです。
武田信玄の敵は、織田信長か徳川家康か?
武田信玄は、元亀3年(1572年)10月3日、石山本願寺、越前朝倉義景と同盟を成立させて、徳川領遠江・三河へ向けて攻略に進発しました。
通説では、この行動は”武田信玄の上洛又は西上”などと言われているのですが、、、
当時織田信長は、信玄からの依頼を受けて、上杉謙信と”武田信玄と上杉謙信”との和睦交渉をすすめており、謙信側との折り合いがついて10月5日付書状で信長が喜びを述べているところでした。
この信玄から持ちかけた、この時の”上杉との和睦交渉”は、上杉謙信や織田信長を欺く信玄の謀略だったのです。
当然、この軍事行動は事前に信玄から信長に通告されることはなく、信長は完全に騙し討ちに遭いました。
武田信玄の三河侵略の報を受けた信長は、、、
これを知った信長は激怒し、謙信への書状(十一月二十日付)で甲越和与のために義昭とともに努力していたのに、信玄の所行は前代未聞の無道さであり、侍の義理を知らぬことだと吐きすて、今後は未来永劫、信玄とは二度と手を結ぶことはないと述べ、信玄への憎悪を「幾重も遺恨更不可休候」と強い文言でぶちまけた(上越1131号)。
(引用:平山優『武田氏滅亡』角川選書)
と怒り狂っています。
この武田信玄の行動は、信長包囲網が出来上がっている中、信長が救援に回ることが難しい事情を見越しての軍事行動だったと思われます。
永禄11年(1568年)の”武田・徳川の駿河への共同出兵”の折に生じた両者のトラブルの結果、信玄の不実を感じた家康が武田信玄牽制の為に上杉謙信との同盟を結んで、さらに織田信長・上杉謙信の同盟を斡旋したことに対する武田信玄の憎悪が根底にあります。
このことは、そもそも武田信玄が自分の方から”徳川家康との申し合せ”を一方的に破って遠江へ侵攻したことを棚に上げて、家康が取った対抗措置(謙信と信長を結び付けることと、織田・武田が行おうとしていた婚姻を阻止しようとしたこと)を『侫者の讒言(ねいじゃのざんげん)』などと激しく攻撃し、家康へのへの恨みを募らせていたのです。
上杉謙信と組まれることが相手が何者であれ、いかに武田信玄にとって脅威であったかが分かります。
この時の信玄の三河・遠江への出陣は、「三ケ年のうっ憤」を散じることが目的と自身が述べていることからも、この出陣の目的が『徳川家康叩き』であったことは明白です。
これが、その時元亀3年(1572年)12月22日の『三方ケ原の戦い』で、”徳川家康”を浜松城からわざわざ”三方ケ原”に誘い込み、待ち構えて徹底的に壊滅させるような執念深い戦い方をした理由だったのです。
目的を達成した信玄は、満足するように病に伏し、甲斐への帰途南信の駒場で死去してしまいます。
武田信玄が病死しなかったら信長はどうなったの?
織田信長は、元亀3年(1572年)10月の武田信玄の”三河・遠江侵攻”に、その信玄の”嘘つき”さ加減に怒りは爆発させたものの、冷静に信玄の意図を計っていました。
如何に情報通の織田信長であっても、武田信玄が死ぬほど体調が悪いということまでは把握できていなかったと思いますが、侵攻ルートから『上洛行動』ではないと見抜いていたように思います。
元来信玄は、自国領から遠く遠征する出陣は行っておらず、信長は(武田軍の上洛準備がないことは情報分析していて)遠征支援体制がしっかりしていない事は分かっていました。
又、遠征ルートが上洛への最短である”南信ー美濃ルート”を採らず、”遠江・三河ルート”であることから、三河攻略が終われば武田信玄は帰国すると信長は考えていたのではないでしょうか。
それで、足利義昭の包囲網戦で前線の主力から兵力が割けないこともあり、最小限の尾張・三河在住の留守番兵力3000を援軍に出したようです。
家康にすれば、本国を蹂躙されるわけですから大変なことですが、信長にとってみれば畿内に緊急に危機が迫る事態ではないと判断したと考えられます。
つまりこの時の信玄の侵攻作戦は、家康が信玄側に寝返られない限り問題ないので、家康が信玄とまともに戦わず”浜松城の籠城戦”にするように、救援に向かう佐久間信盛(さくま のぶもり)にも策を授けていたのではないでしょうか。
援将佐久間信盛の役割は、本気で信玄と戦うことではなくて、家康の寝返りを防ぐ目付・監視役だったと考えられます。
もし、信玄が病死しなくとも、信長は信玄をスルーすることで、この場はしのげる(どうせ、”上洛”する気はないはずだから)と考えていたと思います。
現実には、信長が想像した事態と大きく変わり、①家康がまともに信玄との合戦を行なってしまったこと②思いがけず信玄が死去したと言うことになりましたが、当時の武田軍の兵力では信長との上洛戦は、よほど”信長包囲網”が機能しない限り、無理だったと思われますので、信玄がそんな冒険をするつもりだとは考えにくいところです。
つまり、もし信玄死去のアクシデントがなかったとしても、信長にはすぐにどうこうはなかったと考えられます。
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織田信長と武田信玄は盟友になれたの?
このふたりは、戦国の自他ともに認める強豪同志です。
しかし年齢は織田信長が天文3年(1534年)生で、武田信玄が大永元年(1521年)生ですから、一回り以上の13歳の年齢差があります。
信玄からすれば、信長の活躍に対して『この小童(こわっぱ)が!』と、上から目線の態度でしょう。
まして、信長より更に8歳年下の徳川家康など、信玄にとってただの『小僧』に過ぎなかった訳で問題にしていなかった事でしょう。
とは云うものの、武田信玄と織田信長はとも軍事に関しては天才の部類に属します。
このふたりが盟友になるためには、どちらかが相手に対して徹底的に臣従しないことにはむずかしく、”同格の盟友”と言うのは性格的にも無理だと思われます。
当時は親子・肉親でさえも殺し合う時代です。
事実、武田信玄は父親信虎(のぶとら)をクーデターを起こして追放し、実の息子義信(よしのぶ)を廃嫡して自刃に追い込んでいますし、一方の信長は実弟信勝(のぶかつ)を謀略で殺害しています。
信長と20年もの同盟関係を続けた徳川家康は、その点勘が良くて、信長と盟友として始まりましたが、途中から臣従する形をすんなり(ではないかもしれませんが)受け入れて、信長の盟友などではなくて臣下のひとりと言う立場で信長の信用を得ています。
この時代の戦国大名はそんな形以外には共存出来ないと考えるのが普通だったようです。
とは云うものの、永禄11年(1568年)の”信長と信玄の共同作戦”では、お互いに将軍足利義昭を支える有力大名として立ちました。この作戦で信玄は、信長とともに盟友として、足利義昭の上洛を助ける仕事をしているはずでした。
ところが、この時信玄が生来持っている性格を出してしまったのか、配下の秋山虎繁(あきやま とらしげ)に命じて別動隊を派遣して、家康との約束した線より西側の遠江の徳川領になるはずの地域を侵略させます。
徳川家康を若造・小僧と見て、なめてかかった行動で、これが徳川家康の怒りを買い、結果的に信玄は織田・徳川を敵に回す事態を自ら招きます。
武田信玄とはこのようにせこい油断のならない人物で、しかも”信長の風下に立つこと”を良しとしない戦国の梟雄でした。
信長と信玄はお互い相手の出方が分かるだけに、表面上は折角衝突しないように努力をしていましたので、前述のように信玄の生前に信長との正面衝突はありませんでした。
それを信玄の方からまさにこの時に壊してしまったところだったのですが、戦陣で病を得て信玄は死去し、後継者の武田勝頼にその思いは引き継がれていきました。
もし、本人との間にその後があったとしても、おそらくライバル関係になりこそすれ、決して信長とは真の盟友になることはなかったでしょう。
その後の武田家
武田信玄が没した2年後の天正3年(1575年)5月21日に、信玄の後継者武田勝頼(たけだ かつより)と織田・徳川の連合軍が激突する『長篠の戦い』が勃発します。これに大敗した武田家の家運は、大きく傾いて行く事になりますが、それに関しては、別記事にて紹介しましたのでご参照ください。
長篠の戦い
まとめ
永禄3年(1560年)5月の『桶狭間の戦い』で、大方の予想を覆して尾張の織田信長は、駿遠三の太守”今川義元(いまがわ よしもと)を討取り、一躍戦国の世に名を知らしめます。
その今川家と盟約を結んでいた武田信玄は、甲斐一国と信濃国南部と西上野の一部、東美濃と奥三河などを領有する戦国大名でした。
信濃の北部地域へは侵攻を進めていくものの越後から山越えして来る上杉謙信と争いながらも常に押し戻されてしまいます。
信玄も甲斐から京都方面の東美濃の攻略を進めつつも、常に北信濃でそもそも関東管領家である上杉軍の侵攻に遭い牽制されて、上洛への道の険しさを感じていました。
一方信長は、自身で成し遂げた東海道の雄今川義元の討伐をきっかけに、東側の三河に徳川家康と言う盟友を得て、尾張統一後は美濃攻略に集中することが出来、着々と西へ伸ばしています。
周囲敵だらけで中央進出もままならぬ武田信玄は、今川義元が信長に討たれたことから弱体化していく盟友の今川家を横目で見つつも、やはり信州に拘り続けて時間を浪費して(川中島の戦い)行きます。
美濃の攻略に成功した信長は、阿波三好衆が牛耳っている京都へ永禄11年(1568年)足利将軍を奉じて上洛することにより、足利幕府を再興する行動へ着手し、一方武田信玄は義元亡き後弱体化した今川領駿河の略奪を狙って、調略に乗る形で信長と同盟(甲尾同盟)を結びます。
武田信玄は、織田信長の誘いに乗って信長上洛の援護射撃を演じながら元盟友今川氏の駿河国を奪取しますが、一方足利義昭を将軍に任官させると言う、実態は信長の政権確立へも手を貸します。
その後すぐに織田信長と足利義昭の不仲が明らかになると、武田信玄は将軍義昭が呼びかける反織田勢力である本願寺の宗教勢力を利用して、陰で今度はその織田信長打倒へ向かいます。
元亀3年(1572年)に、織田信長に上杉謙信との和睦交渉の斡旋を依頼すると言うまやかしを作為し、信長を油断させて徳川家康を殲滅することで徳川領の奪取を計りますが、これが『その裏切りの代償』でもあるのか、時代は武田信玄に味方せず、信玄は元亀3年(1572年)4月12日に南信駒場で病没してしまいます。
織田信長にとって、謀略まで仕掛ける武田信玄は最後まで盟友となれる人物ではありませんでしたが、その強さ故、信長の強敵たちを押さえつける圧力としては存在していたように感じます。
後から考えるのは、、、
足利義昭を操り、京都で政治をほしいままにする織田信長を見るにつけ、いくら田舎の政治家(大名)とは言え、やはり武田信玄にも激しいパッションが生まれていたのではないでしょうか。
武田信玄も怪物になり掛けている織田信長に危機感を感じて仕掛けて行ったものの、すでに信玄の持つ運気は尽きていたと言う事でしょうか。
戦国の覇王としての織田信長の発するオーラの凄まじさは、この武田信玄と言う一代の怪物をも病没させてしまうところにも現れていたのではないでしょうか。
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参考文献
〇津本陽 『信長と信玄』(1999年 東洋経済新報社)
〇小和田哲男 『武田信玄』(1977年 講談社)
〇日本史料研究会編 『信長研究の最前線』(2014年 泉洋社)
〇瀧澤中 『戦国武将の「政治力」』(2008年 祥伝社新書)
〇平山優 『武田氏滅亡』(2017年 角川選書)
〇平山優 『長篠合戦と武田勝頼』(2014年 吉川弘文館)
〇『甲陽軍鑑 品第丗三 二七七頁』国立国会図書館デジタルコレクション
〇『織田軍記 巻第五 武田信玄来歴の事附結婚姻和睦の事の条』国立国会図書館デジタルコレクション
〇『甲陽軍鑑 品第丗三 二八一頁』国立国会図書館デジタルコレクション