戦国の覇王織田信長は、なぜ猿・豊臣秀吉を消さなかったの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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戦国の覇王織田信長と、後の太閤豊臣秀吉の最初の出会いをお伝えします。

 

激怒した信長の勘気をどうやって、秀吉が切り抜けたかを解明します。

 

実力主義で家来を登用した”革新の人織田信長”も最後は身びいきで無能な息子を重要な地位に付けようとしたって、ホント?

 

豊臣秀吉は『本能寺の変』に関与したの?

豊臣秀吉最大の危機!

信長公記』に、、、

八月八日、柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされし候。滝川左近、羽柴筑前守、惟任五郎左衛門、・・・・、前田又左衛門、佐々内蔵介、・・・賀州へ乱入、添川、手取川打ち越え、・・・所々焼き払ひ、在陣なり。羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り候段、曲事の由、御逆鱗なされ、迷惑申され候。
(引用:太田牛一『信長公記 第十 柴田北国相働くの事』インターネット公開版

 

とあり、豊臣秀吉は、天正5年(1577年)8月に柴田勝家の”加賀出陣”の与力を命じられながら、陣中で柴田勝家と衝突し、信長に許しを得ることなく、本城の小谷城(長浜城)へ帰城してしまうと言う事件を引き起こした有名な出来事です

 

当然、軍紀違反であり、信長は怒り狂ったとあり、さすがの豊臣秀吉も進退窮まったと言えそうです。

 

この時の様子ですが、徳富蘇峰(とくとみ そほう)『近世日本国民史』で、、、

 

彼が逸事として伝うべきは、北陸陣より柴田と衝突して、小谷城に閉居の際、無遠慮に置酒高会(ちしゅこうかい)した。されば彼の幕友・臣下は、いずれもその不謹慎を憂い、苦諫(くかん)した。・・・・。ここにおいて秀吉の智嚢(ちのう)である、竹中半兵衛に、その事を訴え、彼よりして、秀吉の反省を促さんことを求めた、しかもさすがは半兵衛じゃ、これは秀吉の深き考えあってのことだ。
筑前殿は二十余万石の大名だ、小谷は名高き要害だ。もしこの際鳴りをひそめ、城門を閉じて、謹慎し給わんか。たちまち謀反の沙汰は、信長公の耳に入らむ。酒宴遊興も、畢竟(ひっきょう)は讒(ざん)を避け、疑いを去るの遠慮だと諭した。・・・。しかし秀吉は、実に信長学の大博士だ。彼はつねに信長の顔を犯して、勝手の発言をなしつつも、その逆鱗に触るるなきの道を解していた。
さればひとたび信長の勘気を被れば、更にこれを恢復するの道を知っていた。
(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 豊臣秀吉(一) 第二章四 将校としての秀吉』

 

とあり、豊臣秀吉は、柴田勝家と喧嘩したことの謹慎行動よりも、信長に対する反逆と言う疑いが出る可能性を打ち消しておく知恵を働かせて、信長の怒りが収まるのをじっと待つことにしていたようです。

 

事実程なく、、、

 

霜月廿七日、熊見川打ち越え、御敵城上月へ、羽柴筑前守秀吉相働き、近辺放火候て、福岡野の城取り詰め、小寺官兵衛、竹中半兵衛。乍処、宇喜多和泉守後巻として、人数を出だし候。羽柴筑前守秀吉懸け合ひ、足軽を追い崩し、数十人打ち払ひ、引き返し、上月の城取巻き、攻められ候。・・・上月城主の頸、則ち安土へ進上致し、信長に御目に懸けらる。
(引用:太田牛一『信長公記 第十 但馬・播磨、羽柴に申し付けらるゝの事』インターネット公開版

 

と言うように、秀吉は何事もなかったように、同年天正5年(1577年)11月27日には信長に播磨(はりま)へ出陣を命じられ、上月(こうづき)城を攻めて自ら奮闘して戦い、上月城主の首を安土に送って信長に検分させて、信長の信頼に応えています

 

明治時代の大ジャーナリスト徳富蘇峰の指摘どおり、豊臣秀吉は、実に巧みに信長の勘気をスルーして信頼を見事に回復して、最大の危機を乗り切っています。信長の性格を知り尽くした驚くべきパフォーマンスでした。

 

信長が秀吉を消さなかったのは、こうした邪気のない懸命な秀吉の対応が、信長に気に入られていた、つまり秀吉が信長操縦法を完璧にマスターしていたからなのでしょうね。


(画像引用:豊臣秀吉Wikipedia画像

豊臣秀吉は織田信長の寵臣なの?

豊臣秀吉は、日本史上”一番の出世男”として知られています。

 

戦国の覇王と言われた織田信長と言うトップに気に入られ、可愛がられて、尾張の国の一介の百姓の子倅から、なんと天下の政権トップである関白の身分にまで上り詰めると言う、その落差の大きさの最長不倒距離を保つレコードホルダーと言う事でしょうか。

 

太閤素生記(たいこうすじょうき)』によると、豊臣秀吉は尾張中村の出身で、父木下彌右衛門(きのした やえもん)は織田信長の父織田信秀(おだ のぶひで)の足軽で、天文12年(1543年)秀吉8歳の時に死去したとあります。

 

その後母は、竹阿彌(ちくあみ)と言う男と再婚し、16歳の時、秀吉は家を出て浜松へ行き今川家配下の飯尾氏の家来松下嘉兵衛に仕えますが、18歳の時に尾張に戻り清須の織田信長の草履取りになります。

 

太閤素生記』によりますと、、、

 

・・・奉公ニ出テ中一年有テ十八歳ノ時ニ久能ヲ出テ清洲ニ至ル・・・其比信長小人ニガンマク一若ト云テ小人頭二人アリ 彼一若中々村ノ者也 猿父猿共ニ能知之一若所猿來ル 一若是ヲ見テ驚此三年何國ニ有ツルヤ母嘆悲シム急行テ逢ヘ云テ遣ス 母是ヲ見テ悦事無限夫ヨリ一若ヲ頼ミ 信長御草履取ニ出ル・・・
(引用:『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、この記録によると同じ中中村の出身者に信長の小人頭(こびとがしら)がおり、母が依頼して”信長の草履取り”にして貰ったようです。

 

しかし、いくら18歳だとは言え、これでは信長との関係を作るのにずい分手間がかかるような気がします。

 

それで、ひと昔前、日経新聞の連載で一世風靡(いっせいふうび)した 歴史作家津本陽(つもと よう)氏の『下天(げてん)は夢か』に、、、

 

門前には、信長の乗馬の口取り、佐脇藤八と、お小人の猿こと木下藤吉郎がいた。・・・・。彼が信長の草履取りになったのは、弘治二年(1556年)の夏であった。はじめ針売りをして生駒屋敷をおとずれ、出入りするうちに小才がきくので、八右衛門が下男として傭った。・・・。『藤吉郎はなかなかの才覚者だで。・・・親爺殿、あやつを儂が家来にくれぬかや。』
小六が藤吉郎を気にいり、家来にもらいうけた。
藤吉郎は生駒屋敷で、小六の家来としてはたらくうち、吉野に眼をかけられるようになり、やがて信長の眼にとまって、お小人にとりたてられたのである。
(引用:津本陽『下天は夢か』桶狭間の章)

 

とあります。

 

秀吉が、同じ信長に仕えるルートを考えた時に、生駒将監の屋敷にいる愛妾”吉野(吉乃ーきつの)”の所に足しげく通っていた信長の耳に入る確立の方が下っ端の中村出身の名も無き小人頭の推薦よりは格段に確立が高いと思われます。

 

信長の性格から、人から雇ったよと報告を受けるケースよりも、自分でスカウトする方が後の秀吉と信長の会話の頻度は格段に多くなる気がします。

 

『太閤素生記』にあるようなルートで信長の下で働くことになる、通説にあるような、信長の為に自分のフトコロで草履を温めていて認められたと言うのは、少々信長の記憶に残る可能性は低いのではないかと思います。

 

明らかに、信長は愛妾吉乃から耳元でささやかれた方が確実でしょう。津本説の方が現実的なのではと考えます。

 

とにかく、豊臣秀吉の出世のスピードは尋常ではないのです。

 

織田家には、もうひとり尋常でないスピードで出世した外様の人材がいます。例の明智光秀(あけち みつひで)です。

 

譜代・重臣に嫉妬されるほどに外様(中途入社)のふたりの出世は超早いのです。

 

織田信長の強さの秘密に、『情報力』があります。ふたりの初期のエピソードでよく出て来るのは、『諸国の状況にきわめて詳しい』と言う話です。

 

頭がいいとか、気が利くとか、忠誠心が強いとか言いますけど、織田家の譜代・重臣たちと比べて、この二人が違っているところは、情報収集力と状況分析力の質が違う、つまり”問題解決力”が桁違いなのです。

 

おそらく、配下の諜報組織が強力で優秀なのでしょうね。信長自身も、皆重臣となっていますが、蘭丸の父の森三左衛門可成(もり さんざえもんよしなり)、滝川左近将監一益(たきがわ さこんしょうげんかずます)などが諜報機関のボスとして有名ですね。

 

だから信長は自分以外の情報源を持つふたり(豊臣秀吉、明智光秀)を頼っていたのだと思います。

 

 

これらだけでも、十分豊臣秀吉は信長の寵臣だった理由があると考えられますが、もうひとつは、信長の家族重視の裏返しでしょうか。

 

偶然かもしれませんが、信長の重臣の中で、信長の信頼が特に厚かったとされる大身の重臣は、子供がいない人物なのです。

 

柴田勝家(北陸方面軍司令官)、滝川一益(関東方面軍司令官)、豊臣秀吉(中国方面軍司令官)です。。。

 

大身となっていた明智光秀が恐怖していた理由のひとつがここにもあるのかもしれませんね。大身の佐久間信盛は既に追放されましたし。

織田信長は身内以外の政権関与を認めてるの?

織田信長の家臣団構成は、信長をトップに『一門衆』(親族)、部将(与力)、旗本(馬廻衆・小姓衆)、吏僚(奉行衆・祐筆)が横並びになっていました。

 

織田信長は、親政を行う天皇・皇帝のような政権運営形態に持って行っており、秀吉・家康らの時代のような参謀・政治顧問・国務長官のような人物は見当たりません。

 

案件ごとには、祐筆・小姓などの官僚、方面軍司令官、京都・堺の代官など奉行衆が信長の政策指示のもとに立案・献策・実行を行なっていましたが、会社で言う代表権を持つ取締役に近い人物はいなかったようです。

 

つまり、実権を持つ株主と代表権を持つ取締役には、外様はもちろん家来衆はなれなかったようです。

 

戦国領主と云うものは、大体このような形態を持つことになるのでしょうが、信長も岐阜城から安土城へ移るあたりから、”奏者(そうじゃ)衆”所謂”取り次ぎ衆”の力が強くなり始めています。

 

信長も領地が拡大し、組織が巨大化し始めると、いわゆる武辺の武将以外に実際の政務をこなす武士官僚を求め始めます。

 

その走りは明智光秀なのかもしれません。

 

信長軍の始まりは、尾張の織田一族の中で人気がなく変わりものと見なされていた信長が、政権が拡大して行くに従って信頼にたる必要な人材が払底して行った事から、外に人材を求めた為ですが、それは結局最後まで続きました。

 

これが『出自によらない実力主義』を生み、それが織田軍の大きな強みとなっていたのですが、天下統一が近づき政権が固まり始めると信長は政策変更して、功労者たちを排除して自分の息子たちの優遇を始めます

 

現在は織田政権の吏僚の元祖である”明智光秀”が信長暗殺の犯人とされていますが、実はこの問題が、『本能寺の変』の”肝”だったような気がします。

 

ですから、織田信長は身内以外の政権関与なんぞ、絶対に認めていた訳がありませんね。

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なぜ秀吉は世話になった織田家から政権を奪ったの?

豊臣秀吉は、天正10年(1582年)6月2日に『本能寺の変』を引き起こして”主殺し”を敢行した敵(かたき)の明智光秀を、史上名高い『中国大返し』を演じ、そのわずか11日後の6月13日に『山崎の戦い』で討取りました。

 

見事”主人信長の仇討ち”を果たした豊臣秀吉は、柴田勝家(しばた かついえ)が招集した天正10年(1582年)6月27日の織田信長の跡目を決める『清須会議(きよすかいぎ)』で主導権を握り、信長嫡子信忠の嫡男”秀信(ひでのぶ)ー三法師(さんぼうし)”を跡目に立てて、柴田勝家が後継として推していた三男信孝(のぶたか)を”後見役”にして乗り切ります。

 

しかし、周知のように主人信長の仇討ちをした豊臣秀吉の発言力は強く、後継者の三法師を信忠のいる岐阜から安土へ移して、摂政のようにして政権の舵取りを始めるなど、徐々に事実上秀吉による”信長後継”がはっきりして行きます

 

秀吉は清須会議の最初から、後継者を主張する次男信雄、三男信孝など無視しており、そもそも織田家一族に政権を継がせる気など頭の中に全くなかったと言えそうです。

 

このような話は所詮、武力を自分で行使出来る実力のある、信長配下の有力武将同志の勝負である、と分かっていたのでしょう。

 

何故なら、彼らは皆、信長自身が出自を考慮せずに、実力を買って取り立てた武将たちだからです。

 

少なくともご先祖のお陰ではなくて、自分の実力で這い上がって来た者どものはずでした。

 

そもそも織田家でさえ、主筋の斯波管領家を排除してのし上がった一団な訳ですから、実力者の織田信長が滅亡したこの時は、織田の息子であってもこの時後継者として政権が欲しいのなら、実力で配下の武将を従わせねばならないのです。

 

これが、『戦国ルール』だとすると、秀吉だけ”主家からの政権簒奪者”と言って非難するのは筋違いと云うものでしょう、領主に世話になったもクソもないのですね。

 

江戸期になると徳川家康が”武家の家督継承ルール”を定着させることに成功していますので、事情は変わって来ますが、この時期は他の武将たちも本当は納得していて、納得していない信長の息子どもは、やはり甘いと言わざるを得ないでしょう。

秀吉は『本能寺の変』に関与したの?

実際の文書類が見つかっていないので、秀吉のパフォーマンスを見て類推するしかないのですが、、、

 

信長は、天正3年(1575年)の『長篠の戦い』で宿敵武田勝頼に勝利し、武田軍団の主力を壊滅させ、天正7年(1579年)柴田勝家の活躍で加賀の一向宗の制圧に成功して、12月に石山本願寺が降伏して、永年の主な敵対勢力の制圧にほぼ成功しました。

 

ここから、信長の行動が変わり、翌天正8年(1580年)には、本願寺との戦いを主に担当していた功臣佐久間信盛親子の追放事件が起きます

 

前述したように、信長軍の最大軍団を率いる重臣佐久間信盛が排除されて、信長の新しい人事方針が正体を現わして来ました

 

佐久間信盛へは、信長から19箇条からなる”折檻状”が突きつけられますが、佐久間の戦功から考えれば、誰が見ても明らかに信長の”言いがかり”なんですね。

 

これには、明智光秀は心臓が止まりそうになったのでしょうね。

 

秀吉は、血のつながった後継者を持たない(つまり、自分の子がいない)重臣ですが、それでも勘のいい秀吉は信長の意図を察したことでしょう。

 

それが、中国戦線の『備中高松城水攻め』への毛利からの援軍に対する、秀吉の”信長への後詰要請”なのですね。

 

もう既に計算通り高松城の攻城戦は進んでおり、毛利との話し合いも恐らく、顔見知りの毛利外交僧安国寺恵瓊と話がつく目処が立っていたことでしょう。

 

ここで、自分ですべてやり切ってしまえば、信長からは賞賛されるのではなくて、逆にその力を警戒される危険性が高いと判断した秀吉は最後の詰めを信長にやらせることによって、”信長へ手柄を譲る”訳ですね。

 

そこまでの手配りはしておいて、、、突発的に『本能寺の変』が発生します。。。

 

もう毛利との停戦の準備が進んでいたのですから、迅速な撤退行動である”中国大返し”は不思議でもなんでもなかった訳です。

 

しかし、情報入手の速さはどうでしょうか?

 

やはり信長の行動の監視を秀吉の諜報グループが常時やっていたとしか考えられませんね。

 

秀吉は信長も警戒していたのですよ。これは、非常に怪しいです。

 

よく『中国大返し』を挙げて、秀吉は事前に明智光秀の行動を知っていた証拠として提示するケースもありますが、前述したような精神状態に重臣たちが置かれていたとすると、確かに共同で企むこともありそうです。

 

秀吉と光秀の共同謀議だったかどうかは、全く証拠が見つかっていないのでわかりませんが、仮に秀吉が信長を中国戦線に誘い出したとすると、前述とは違う意味で意図的だった可能性は否定できないかもしれません。

 

 

下記は全くの異説で、当然歴史学者には相手にされていませんが、歴史作家の故八切止夫氏によると、、、

 

さて秀吉は故信長の葬い合戦として山崎街道で光秀を討ったとし、「山崎合戦」なるものが華々しくあったように、陸軍参謀本部編の《日本戦史》の一冊にもなっている。この戦史の原本というか土台となっているものは、「豊臣秀吉より織田信孝の家老斎藤玄番允らへ、宛たる戦況報告の手紙」とされている。
・・・しかし、この《日本戦史》では、秀吉は織田信孝を名主に頂いて信長の葬い合戦をした事になっている。だったら後になって秀吉が、その戦に加わった信孝へ、自慢たらしく戦況の報告書を出すのは、それが家老宛であっても
可笑しすぎる。恐らく真相は口のうまい秀吉が、「信長さまの急死をきき取るものも取りあえず、かくは駆け戻ってきた・・・これから新しい世作りをするため談合しよう」と、黒田官兵衛あたりを使いに飛ばせたので、律儀な光秀は己が持城の山崎西ケ岡の勝竜寺城へ秀吉を迎えにきたものらしい。
が、この城は光秀を裏切って秀吉に加担していた細川幽斎の親代々の居城だったのである。
それゆえ私の推理では、まんまと光秀は偽られて、細川の策に落ち秀吉に殺されたではあるまいか。
(引用:八切止夫『憎しみをこめて振り返れ 序』(1973年 日本シェル出版)

 

と、なんと”『本能寺の変』は秀吉・光秀共同謀議でしかも秀吉の裏切りがあったと言う説”と言う面白いお話をされています。

 

先ずはこんな異説もあると言う事で見ておいてください。

 

当時、豊臣秀吉自身も祐筆の大村祐己に命じて、『惟任退治記(これとうたいじき)』なるひどいものを歴史に残しており、そんな秀吉を考えると八切説の”山崎イカサマ合戦の秀吉裏切り”も有り得そうな気もしますね。

 

秀吉と家康との共謀説はちょっとないかなと思いますが、覇王織田信長に追い詰められた重臣たちの心理状態は計り知れないものがありますので、今後の決定的な史料が待たれるところです。

 

まとめ

戦国の革命児となった織田信長に、滅私奉公しながら自らも信長が生み出した果実(天下統一)をもぎ取った男、豊臣秀吉

 

話が後で都合よく脚色されたものが後世まで残っていますので、彼らが編み出した様々な歴史事件の真相が闇に包まれています。

 

ここでは、まず信長の草履取りから異例の出世をして行き、譜代の家臣たちに妬まれて、北陸で譜代の武辺の長である柴田修理亮勝家の与力についたおり、ここぞと柴田から嫌がらせを受けて、それに反発して職場放棄をし勝手に陣払いをしてしまったと云う前代未聞の不祥事を起こした秀吉が、如何にしてあの苛烈な信長の怒りをくぐりぬけて行ったかをみてみました。

 

確かに外様の与力衆の謀叛・離反が続く中、信長は家臣の謀叛を一番恐れていることを、秀吉は機敏に信長の性格を見抜き、自分は謀反の気配など微塵もないのだと言うことを内外に見せるために、帰城してから家臣とどんちゃん騒ぎをやらかすところなど、まさに”一休さんばりの知恵者”であると感じます。

 

信長の苦笑する顔が見えるようです。

 

同じ知恵者でありながら、それを常に引けらかしていると信長に誤解される光秀との好対照がそこにはあります。

 

信長は、出自の身分を問わずに、実力主義で人材を採用して来て、まさに秀吉はそんな信長に人生を賭けて付いてゆくことを決めて、時には細作(諜報員)を使ってまでも、つねに信長の意図を探り先手を打つことを忘れません。

 

そうして出世の階段を登りつめますが、まさに柴田勝家と諍いを起こしたあとに、考えていた読み通り信長の勘気が解けて、中国方面への出陣を命じられます。

 

そして、毛利攻めのクライマックス天正10年(1582年)を迎えます。

 

実は、天正3年(1575年)の『長篠の戦い』で、武田勝頼(たけだ かつより)を破ったおりに、信長は配下に任官をさせています。

 

その時、明智光秀が”惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)、豊臣秀吉が筑前守(ちくぜんのかみ)です。

 

つまり、この時点で信長は九州まで攻め込むことを念頭に入れており、我等家臣はそのまま遠国の防人となって遺棄される運命かと感じた人物もいた訳ですね。

 

そして中央は、実力主義で賢い家臣たちから見れば、”ぼんくら”な息子たちに地位を追われると皆、思った訳ですね。

 

そう考えると、『本能寺の変』はある種のクーデターだったと考えられますね、しかし、あの緻密な明智光秀が信長を討取った後のパフォーマンスがおかしいですね。

 

明智光秀は、あんなに杜撰(ずさん)な人間であるはずがないのに、ああなってしまったのは、想定外の事態が進行したとしか思えません。

 

あの困惑の仕方では、きっと明智光秀は誰かに裏切られて嵌められたのでしょうね。

 

そこが、この事件の隠れている部分なのではないかと思います。

 

革命児織田信長も、天下統一の終点が見え始めたところで油断があったのか、家来を一瞬甘く見て、そこを突いた子飼いの家来の逆襲を受けて滅びたと言えそうですね。

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参考文献

〇『太閤素生記』史籍集覧第十三冊 三百六頁 国立国会図書館デジタルコレクション

『惟任退治記』史籍集覧第十三冊 国立国会図書館デジタルコレクション

太田牛一『信長公記 第十 但馬・播磨、羽柴に申し付けらるゝの事』インターネット公開版

太田牛一『信長公記 第十 柴田北国相働くの事』インターネット公開版

〇津本陽『下天は夢か(一)』(1992年 講談社文庫)

〇小瀬甫庵 『太閤記』(1984年 岩波文庫)

〇坂口筑母 『茶人織田有楽斎の生涯』(1982年 文献出版)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉(一)』(1981年 講談社学術文庫)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 織田信長(二)』(1980年 講談社学術文庫)

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