徳川家康は、じつは『大坂夏の陣』で討死していた!本当なの?

江戸時代250年間に亘って、徳川家のタブーとされていた『徳川家康の討ち死に説』にメスを入れ、慶長20年(1615年)5月7日の午後に茶臼山南の家康本陣で一体何が起こっていたかを明らかにします。

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徳川家康は、大阪・堺『南宗寺(なんしゅうじ)』開山堂に埋葬されていた?

この話は、2012年9月29日付の日経新聞関西版夕刊に掲載された記事に出て、話題になったようです。家康の墓と云えば、一般によく知られている”久能山東照宮”と”日光東照宮”が有名です。
当時は土葬だったので、分骨と云う事が出来ませんので、どちらに本当のご遺体があるのか昔から取り沙汰されています。
そんなところに、この第3の墓が出現と云うこの日経新聞の記事により一部の人たちに注目を浴びたわけです。

弘治3年(1557年)創建のこの臨済宗大徳寺派の古刹『南宗寺』の寺史によれば、慶長20年(1615年)5月7日の午後に豊臣方真田軍に攻め込まれて、家康の天王寺口の茶臼山南の本陣が壊滅して、家康は自刃すると言うのを重臣に諫められ、大混乱の中、旗本に守られ駕籠に乗って避難する途中で、豊臣方後藤基次(又兵衛)と遭遇し駕籠を槍で突かれた。しかし、何とか振り切って堺・南宗寺まで逃れて駕籠の戸を開けたところ、家康は既にこと切れていた

やむなく、幕府軍は家康の死を秘す意味もありこの南宗寺開山堂の床下に隠すように埋葬した”と伝えられています。

その後、元和9年(1623年)の3代将軍宣下の折、7月10日に2代将軍秀忠、8月18日に3代将軍家光が参詣したと寺の記録に残り、この話の真実性の補強がなされています。

しかし、3代将軍家光の参詣以来今日まで400年近く徳川宗家の参詣の記録はなく、歴史の闇の中に埋没していました。

ところが、昭和42年になって、水戸徳川家家老の子孫と言われる三木啓次郎氏が中心となり、パナソニックの松下幸之助氏らの援助で南宗寺に徳川家康の墓が建てられました。戦災で焼けるまで、ここには東照宮が建っていたと言われています。つまり、徳川家によって久能山の東照宮から勧進されていたという事になります。

大阪・堺『南宗寺』徳川家康の墓
(画像は南宗寺にある徳川家康の墓です
堺観光コンベンション協会サイトより画像引用)

また、このお寺は戦国大名三好長慶が父の菩提を弔うために建立したと伝えられ、当時の堺の会合衆(えいごうしゅう)今井宗久などの茶人の集まりなどに使われていた大伽藍だったと言われ、寺内には、茶道の千家一門の供養塔・茶室などもあります。

家康が討ち死にして埋葬されたと言われる当時の南宗寺の住職は京都大徳寺住持も務めていた有名な沢庵(たくあん)和尚で、このあと沢庵和尚は変転後に第3代将軍徳川家光の帰依により家光の近侍となっています(つまり徳川家が保護しています)。

この説・噂の真実味を持たせている背景に、この臨済宗大徳寺派の大僧正沢庵和尚こと沢庵宗彭(たくあん そうほう)と徳川家とのこの事件後に出来たと思われる深い関係が裏付けているような気がします。

しかし、当然と云えば当然ですが、現代の徳川宗家はこの墓の存在を認めていないようで、2015年4月17日に行われた神君家康公の墓参は、徳川宗家第18代当主徳川恒孝氏および一族の方が、打ち揃って古式豊かに衣冠装束を整えられて久能山東照宮神廟で行われ、徳川宗家は久能山以外は家康公のお墓ではないと示されたようです。

オフィシャルには当然こうなるのでしょうけど、この沢庵和尚のエピソードは十分この話の可能性を疑わせますね。

※因みに大阪・堺 『南宗寺(なんしゅうじ)』 (堺市堺区南旅篭町東3-1-2)

 

久能山東照宮 徳川家康神廟
(画像は久能山東照宮徳川家康神廟)

徳川家康を討ちとったのは一体だれなの?

徳川家康が討ち取られた(戦死した)と言う記録は、当時の武家の手紙類の資料にもなく全く伝わっていないようです。

従って、もし本当は討ち取られていたとしても、誰が討ち取ったかと言う事は当時話題にならなかったので、今も分からないと言う事です。

この理由は

家康が討ち取られたことを見ていた武将がいない

討ち取った武将もほどなく討ち死にしてしまい記録が残せなかった

このあと徳川政権が確立して、初代将軍徳川家康の神格化をおこなって、いわゆる”徳川の世”となったため、都合の悪い文書はすべて処分された

と云うくらいが考えられますが、俗に”人の口に戸は立てられない”とも言いますので、③は難しいですね。戦場で討ち死にしていれば、相手方が名のある大将であれば当然討ち取った相手が名乗り出るか記録に残ります。

そうなると可能性としては、”討ち取られたと言う事が事実ではない”か、もしくは”討ち取られたことを誰も気がついていなかった”と云うふたつにひとつと云う事になります。

ここは討ち取られていたとして話をすすめますと(つまり①、②のケース)、、、

前出の南宗寺の”南宗寺史”に、”家康は、大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れて駕籠で逃げる途中、駕籠の外から後藤又兵衛の槍に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみる事切れており、、、”とあり、駕籠を開けるまで家康の死は誰も知らなかったと伝えています。

これで、①の”討ち取られたことを誰も見ていない”が成立しそうです。

では、討ち死にしていたとすると、誰が討ち取ったかです。。。

南宗寺史では、”後藤又兵衛の槍に突かれた”とあります。では、下手人は後藤又兵衛の可能性が高い訳ですね。後藤又兵衛と云えば軍師黒田官兵衛の旗本で、槍の名手として知られた武将でした。

しかし他の資料から見ると、後藤又兵衛は5月6日の払暁から道明寺付近で、大和路から来た幕府軍と戦っており、激戦空しく午前10時頃から午前中に、伊達政宗軍の鉄砲隊に胸板を打ち抜かれて討死したことになっています。

この家康の討ち死にした天王寺口の”茶臼山の戦い”は5月7日の午後~夕刻と分かっています。すると、時間的な差が1日半近くある事になります。しかも5月7日に家康が落ち延びる際に大坂天王寺茶臼山南から、わざわざ遠回りをして道明寺付近へ行ってから堺へ回ったこと事になっていますが、地理的に少し無理があります。

従って、1)時間的な差、2)地理的な距離問題から、後藤又兵衛が家康の駕籠に槍を突くことはかなり難しいと判断せざるを得ません。

ここは、素直に家康の駕籠を槍で突き刺したのは、家康の茶臼山南の本陣を蹴散らした真田信繁(幸村)の部隊であった可能性が高いと言わねばなりません。真田部隊は大将真田信繁の討ち死にも含めて壊滅していますので、誰が家康の駕籠を槍で突いたかは闇の中です。と云う事で②のケースも成立しそうです。

しかし、真田信繁が討ち取られた時、互いに馬から降りて戦った様子が、討ち取った本人の報告で分かっており、信繁が家康本陣を蹴散らしていた時は馬上にいたと考えられますので、ひょっとすると家康の駕籠を槍で突いたのは真田信繁その人なのかもしれませんね・笑。

いずれにせよ、徳川重臣団は盟主徳川家康が討ち死にした事実、しかも名もなき雑兵に槍で刺されたなど何があっても公表出来ない訳です。

『もし、徳川家康が討ち死にしていたら、、、』と云う仮説は”南宗寺史”に残されている内容と少し違いますが、『誰がやったのか』の面から見ても状況的には成立の可能性はありそうです

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慶長20年(1615年)5月7日夕刻大坂天王寺茶臼山南の徳川本陣で、実際には何が起こっていたのか?

幕府軍は、5月7日の早暁に前泊地から出発しお昼前には天王寺口、岡山口に総勢15万5千で布陣し、対する豊臣方5万5千で迎え討つ形になりました。

正午過ぎに、幕府軍天王寺口先鋒の本多忠朝隊から打ち掛かり戦いの火ぶたは切られ、一方豊臣軍の真田隊は3千5百の兵で、前日と同じく徳川本陣を突く作戦で前面の松平忠直隊に突っ込んで行きました。

真田隊は家康本陣に真一文字に切り込む作戦を取って家康本陣に攻めかかり、旗本らを蹴散らしてとうとう家康の馬印を引き倒し、旗本は我勝ちに逃げまどい討ち倒され、家康は駕籠に乗って落ち延びたとあります。

この時は、家康自慢の三河武士も命からがら平野・久宝寺まで3里ほど逃げ延びたと伝えられており、家康の本陣の大混乱の様が目に浮かぶようです。この戦いで、真田の『赤備え』をした兵はひとりも残さず討ち死にしたと言います。

真田信繁も3度目の攻撃で、茶臼山北方にあたる地点で越前松平忠直の家臣西尾仁左衛門の鑓に突き倒されて首を取られています

歴戦48回の徳川家康が、若き頃に武田信玄の軍に”三方が原の戦い”で大敗して蹴散らされた以来、本陣の馬印が倒されたのは、この時が家康の人生で2度目の出来事でした。

種々の資料が残しているように、家康本陣の混乱はひどく真田信繁(幸村)の狙いはずばり成功していて、普通はここで”桶狭間の今川義元のように”討ち取られていても不思議ではない状況でした。

この家康本陣が真田信繁の”最後の一兵になるまで奮闘する部隊”によって壊滅させられている状況から、大坂・堺の『南宗寺史』に書かれている伝承内容はあながち作り話と云えないわけです。

もしそうであるなら、この後の1年間の”徳川家康”は誰が務めたかということになります。

今言われている説は、この日の激戦で先鋒を務めて討死した本多忠朝の後で、同様に討ち死にしたことになっている小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)が家康の影武者を務めたとされています。

確かに大阪夏の陣で瀕死の重傷を受け戦線離脱してその後亡くなったとされていてちょっと臭いのですが、年齢が享年47歳とされており家康の当時73歳とではかなり無理があると云えそうで、あったとしても別人ではないかと思います。

まぁ、影武者と云うのは常日頃から取り巻きの中に隠れているはずですから、前線の一武将を急遽代役に立てるのは無理なのではないかと思います。

 

もし家康が打ちとられていたのが公になっていたら、徳川政権はどうなったのか?

 

家康は、この『大坂夏の陣』に至るまで幕府を開いて10余年かけて、徳川政権の骨格をじっくりと作って来ており、もう組織立てて徳川政権に対抗する勢力はいなくなっている状況でした。

ここで、家康討死のニュースが両軍に駆け巡ったとしても、すでに大坂城は城塞の体を成してない状態で、15万の徳川軍を束ねる徳川秀忠に抵抗できる段階ではないと判断します。

ここで、秀忠まで討ち死にとなると事態は変わってくると思いますが、いくら威勢が強いと言っても大御所一人の戦死では、徳川政権が揺らぐとは考えにくいですね。
ここで、上記のように当たり前に考えると身も蓋もないので、万が一で豊臣軍がこの戦いに勝つ状況を仮定してみます。

戦況からの判断で見ると、最後に豊臣方の組織だった抵抗が止んだきっかけは、先方の真田軍の決死の大活躍で徳川本陣が壊滅するのを見た豊臣本陣を仮装した大野治房(おおの はるふさ)が、豊臣方優勢と見て、ここ一番に二の丸まではなんとか出張って来ていた本物の豊臣秀頼を迎える為に、本陣ごと迎えに戻ったのが原因とされています。

つまり、先陣で奮闘する豊臣方の兵から見て、豊臣本陣が大坂城へ退却するように見えて、それで一気に兵士が戦意を喪失させたのが敗北の最大の原因(大野治房の大チョンボ)と伝わっています。

もし、そこでタイミングよく秀頼が陣頭に現れて、鬼神の如く戦っている豊臣方の兵士は更に奮い立ったとしたら、どうだったのか?
こんな分析があります。。。

真田軍がいくら精強と言っても、あの大人数で守る徳川本陣が壊滅するのはどう考えてみてもおかしいのです。

この理由について、実は幕府軍は最初から”3日で終わる楽勝”と考えていてナメていたことと、相手がいくら財産があると言われているとは言え、たかが65万石の豊臣家です。

この15万の大軍で攻め勝った折の論功行賞で、一体どのくらい配当に預かれるでしょうか?戦国大名はみな個人事業主ですから、配当のない仕事には力が入らないのです。命令でやむなく来たものの、ここで一番はケガをしないことなのです。

あの精強を謳われた家康自慢の三河譜代武士団が、真田の突撃に我勝ちに逃げ回ったと言うのですから恐れ入ります。外様他藩の武士は、その様子を見てよほど驚いたのか、みな記録を残しているようです・笑。

『大坂夏の陣』は、豊臣方ー牢人・傭兵寄せ集め軍団、徳川方ー正規軍と云う風に考えがちですが、どうも実態は、豊臣方ー決死の精強軍、徳川方ー命令されて出て来た寄せ集め軍の傾向が強かったようです。

そんな事を前提に”家康が討死した”と再度考え、加えて、もし大野治房が前述の大チョンボをしなかった場合は、幕府軍は総帥を失った状況で、盟主豊臣秀頼が出馬して来た優勢な城方をそのまま攻め続けることは難しくなり、またも停戦に追い込まれた可能性が出て来ます。

秀忠の頑張り次第ですが、本人よりも実戦経験豊富な譜代の重臣達が相手の”死兵(しへい)化”した時の被害リスクを考えて全軍を一旦後ろに引くように進言する可能性が高いと思います。

結論からすると、条件さえ整えば、豊臣家存続の可能性の道はかなり出て来ると云えそうです。その時は、真田信繁(幸村)の死は無駄じゃなかったことになる訳です。

とは言え、徳川の世がなくなったかと云うとそんなことはおそらくなかったでしょう。それくらい家康の作り上げた幕府の骨格はしっかりしていたと考えています。

 

まとめ

 

2012年に日経新聞関西版夕刊の特集記事が『大坂夏の陣・徳川家康討ち死に説』を掘り起こし、その記事に基づいて”徳川家康の討ち死に説”を勉強してみました。

この『大坂夏の陣』は、いわゆる戦国時代を完全に終わらせる最後の戦いであったわけですが、やはり、徳川家康はそのよく見通せる目で徳川政権の安定化のために、最後の最後まで手を抜けないことを理解して高齢にもかかわらず最前線に立ち続けました。

それが故にこのような異説が出て来ることになる訳ですが、本件は実に興味深いものです。しかし残念なことに大阪・堺”南宗寺”以外には、どこにもその記録が残っていないのです。

ですから、傍証が発見されない限り事実認定は難しいでしょうし、それこそ墓の掘り起こしからDNA鑑定までやれば、ひょっとしてなにか明らかになる部分は出て来る可能性はありますが、出たとしても個人史以外の歴史は微動だにしないでしょう。

本記事は、日経新聞記事と参考文献をもとにした私の個人的見解なので、勝手な言い分に終始しましたが、徳川家康は日本の中世の内乱(戦国時代)を終わらせたひとりでもあり、私たちがもっと良く見つめねばならない近現代の日本に大きな道筋をつけた偉大な人物なので、個人的には目の離せないひとなのです。

 

参考文献

 

岡本良一 『大坂冬の陣夏の陣』(創元新書 1983年)

丸島和洋 『真田四代と信繁』(平凡社新書 2015年)

津田三郎 『北政所』(中公新書 1994年)

ウィキペディア 『大坂の陣』

NIKKEI STYLE 『大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説』

駿府ネット 2015年4月25日

ウィキペディア『徳川家康 影武者説』

ブログ『徳川家康公、御討死!』(紀行歴史遊学 2015/11/05)

 

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