豊臣秀吉の五大老五奉行制とは何か?豊臣家の行く末は?

豊臣秀吉は後継者の秀頼が成人するまでの間、有力大名の謀反を
抑えるようにパワーバランスを取った政治制度を考えた
のですが、果たしてその効果はどうだったのか
徹底的に検証します。

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どうして秀吉は五大老五奉行の制度を作ったの?

これは秀吉が、豊臣政権末期自分の死を予感する
事態になった時に、豊臣家の後継の秀頼が成人
するまで、有力大名と信頼のおける家臣で
豊臣家を維持させようとしたものです。

そもそも豊臣政権は、圧倒的な武力・政治力で
成立したものではありません。

小牧長久手の戦いで家康に事実上敗北してしまい、
もともと織田家の家臣ではない徳川家康を
臣従させるために、自分の母親を人質
にまで出して得た妥協的和解で成立
したと云える政権でした。

この脆弱な政権を維持運営して行くために、表現は
悪いですが、エサで釣りながら諸将を束ねて行く
やり方を取らざるを得ませんでした。

そのために、、、

切り取る領地が日本国内にある内は、良かった
のですが、1590年に北条征伐(小田原の陣)
終了すると、ネタ切れになってしまいました。

問題の家康は辺鄙な関東へ250万石への加増
エサに移封し、しかも小田原ではなく湿地が
多く開発に手間の掛かる江戸を本拠地に
することを条件にしました。

辺地経営で苦心する家康を尻目に秀吉は
ネタ切れ対策として、信長の考えて
いた計画(唐入り)に着手します。

計画に気づいた、うるさい千利休に云いがかり
をつけて切腹へ追い込み、文禄元年(1592年)
4月から『唐入り(文禄の役)』を発令します。

この背景にあったのは、領地拡大をさせて
それを分け与えることによって、諸侯の
謀反の芽を摘み、豊臣家の永続安泰を
図っていくと言う考えです。

信長は織田家の繁栄を意図して『唐入り』を
計画しましたが、その消耗する未来に恐怖
した側近の謀反によって命を落とすこと
になったのです。

それを百も承知の秀吉でしたが、同じ目的で
『唐入り』を実行に移しました。

大問題の家康には既に前述の手が打ってあった
ので、現実に起きた叛乱は南九州の一部
止まり事なきを得ました。

この時の唐入りは小西行長の交渉で明と和議が
成立し、一年ほどで一部の砦を残して撤退
となりました。

そして、そして、、、

ほどなく国内では、その当時の豊臣家の
後継者の秀次に事件が起こります。

通説では、、、

「自分が後継者のはずが、秀吉が息子の
秀頼に継がせたいので、自分を外すのでは
ないかと疑い謀反を起こした」と言われて
います。

しかし一説には、、、

実は、2度目の『唐入り(慶長の役)』に反対
する秀次をまたもや千利休と同様、云いがかり
(謀反の疑い)をつけて切腹に追い込んだ
のではないかと言われています。

なんだか、この説の方が説得力があるような
気がしますね。

あの大事な後継者の、しかも身内の秀次を自分で
殺してしまうのですから、どう見ても狂気と
しか思えません。

秀次は通説と違ってずい分聡明な人物だったようで、
彼が後継者なら家康もかなり違った対応になった
ような気がしますね。

そして、、、

その後の豊臣家はどうなっていたでしょうか?
興味深いところですね。

話が拡がりましたので、元に戻します。

2度目の『唐入り(慶長の役)』を始めた頃には、
もう秀吉は自身の死期の予感があったのか今度は
後継者秀頼へ政権をつなぐ方策を考える
こととなります。

盟友前田利家に秀頼の後事を託すとともに、
徳川家康にも政権の補佐を願うことと
しました。

しかし家康を利家のように信頼していない秀吉は
家康をけん制する体制をおそらく三成の進言
を参考に考えたと思われます。

それが『五大老五奉行体制』と後世呼ばれるもの
ですが、当時はこのような呼称がなかった
ようです。

石田三成ら実務家の家臣から発せられる文書では、
自分たちを”年寄”と称して、家康ら有力大名
を”奉行衆”と呼んでいたようです。

もうこの辺りに、豊臣政権は豊臣家の自分たち
実務官僚が取り仕切るのだと言う、三成らの
考え方が明白に出ていて、真の政治力が
支配する実態を無視していたようです。

結果を知っている今の私たちにはすでに、ここに
関ケ原の結果が出ているような気がしますね。

この記事の理解を深めるために、別記事で
五大老五奉行の覚え方』と付録記事を
付けましたので、ご興味のある方は
ご覧ください。

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《画像は大坂城です》

五大老五奉行とは誰なの?

〇大老(この呼称は当時なかったようです)

前田利家(北陸・加賀83万石)

徳川家康(関東256万石)

宇喜多秀家(備前57万石)

上杉景勝(会津120万石)

毛利輝元(中国120万石)

小早川隆景(筑前52万石)
〇奉行

浅野長政(司法担当 甲府22万石)

石田三成(行政担当 佐和山19万石)

増田長盛(土木担当 大和郡山22万石)

長束正家(財政担当 近江水口5万石)

前田玄以(宗教担当 丹波亀山5万石)
の陣容になっています。

つまり、外様大名が大老で、直臣旗本が奉行となります。
因みに豊臣家は220万石ですから、徳川家の方が巨大
なことになります。

この時代の兵力は1万石で300人とされていましたので、
徳川家7万7千人豊臣家6万6千人、三成6千人くらい
になるでしょうか。

どれだけ軍事力の差があったのかわかりますが、これが
そのまま政治力の差となるなら、もう最初から勝負
あったような感じです。

しかし、この石高以上に豊臣家は多くの収入がありました。
それは、佐渡、石見、生野などの金山・銀山からの
上納される金銀です。

金で毎年約5トン、銀で70万両くらいあり、毎年100万両
を越える収入を独占していました。
米一石1両くらいの換算なので、豊臣家は銭金計算では、
プラス100万石(兵力3万人)となり、全部で320万石
9万6千人くらいの動員力は有った訳ですね。
(それは後に大坂の陣で証明されます)

これが、石田三成ら奉行達が大きな顔をしていた
理由でしょうね。

さらに大坂に商業を集中させる事による、税収入もあり、
豊臣家の財政は全て奉行達が管理していたので、田舎の
大大名など鼻にもひっかけない態度に出ていたのです。

・・・話を元に戻しますと、

秀吉の考えで、このような体制を取って行ったの
ですが、小早川隆景は慶長2年中(1597年)に病没
してしまい、頼りの綱、政権の重しになっていた
前田利家も秀吉の死の翌年慶長4年(1599年)に
亡くなってしまいます。

もうここに至って大老筆頭の大大名徳川家康に
物を云える人物はいなくなりました。

形の上では豊臣政権の筆頭実力者に家康が
なった訳で、秀頼・豊臣家の行く末は家康
の手にゆだねられたことになりました。

この状況に異を唱え豊臣家の政権運営を官僚
主導に戻そうと立ち向かったのが、
三成ら奉行たちでした。

ここから、”関ケ原への道”が始まります。

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その制度に寄せる秀吉の期待は?

信長時代に検地の奉行をしていた秀吉は
継続して自分の時代も行い、収獲石高
推定の精度を上げるとともに、さらに
農民の刀狩を実施して”兵農分離
を全国的に進めています。

これは平時も自由に動ける兵を持つ信長
軍団と違い他の大名は農民兵に依存して
いたので、この兵農分離の強化は

諸大名の軍事力を弱める効果が期待出来、
農業を守る政策にもなるので、豊臣政権
安定策として実施しました。

このように着々と豊臣政権安定化の政策
を打って来ました。

しかし、、、

北条を滅亡させて国内の平定が終わり、
諸大名の転封政策のための『唐入り』
を始めた頃から、思惑通り進まず、
そこへ自身の死期が迫り始めます。

最後の仕上げ『唐入り』に失敗した秀吉の
豊臣家を守る次善の策として、考えた制度
が『五大老五奉行制』であったと思われます。

秀吉の最大の理解者である前田利家に
秀頼の後見を頼み、家康には石田三成
らの子飼いの家来の政策後見を期待
していたと思います。

それでも心配な秀吉は、大老に御掟五カ条
、追加九カ条に署名させて、謀反の防止に
心を砕いています。

通説では、自分の死後秀頼が成人するまで
の政治運営は、有力大名と三成ら豊臣家
官僚との合議制で進めるように遺命した
と伝えられています。

しかし、秀吉の遺書とされているものの
内容は、とにかく秀頼のことを頼むと
しか書いてないようで、その後の
混乱の原因ともなりました。

以前の秀吉であれば、もっと周到は文言を
遺したはずですので、準備が出来ないほど
体調の悪化が早かったのかもしれません。

或は、秀吉は自分の死の予感を否定し続け
ていて、準備を怠っていたのでしょうか。

秀吉のこの制度に賭ける期待があったと
すれば、盟友前田利家の睨みが効いて、
政治は家臣団が仕切り、家康の動き
を封じつつ豊臣家が武家の上に
立ち続けると云う事でしょう。

それは役に立ったの?

ハナから家康は秀吉の遺命など守る気はなかった
と思いますが、この体制に臣従した以上政権の
正統性に異を唱えるにはそれなりの大義名分
が必要なわけです。

これがなければ政権を立てることは出来ません。

家康は形の上とは云うものの豊臣政権の一員
として、秀吉を支える年寄のひとりです。

秀吉の存命と盟友前田利家の睨みは十分に効いて
いたと思われます。

そして、秀吉の心配は的中します。

秀吉の死後(1598年)家康は動き始めます。

豊臣恩顧の有力大名を中心とした姻戚関係
作りです。

このあからさまな多数派工作に三成はいきり
立ち、利家を動かしてこの制度上、意見の
相違が出た時に仲裁役として機能する筈

の三中老の生駒親正(讃岐高松17万石)、
堀尾吉晴(遠江浜松17万石)、中村一氏
(駿府府中14万石)の3大名を、詰問使と
して送り込みます。

しかし、家康は相手にしません。

そうこうする内、翌年慶長4年(1599年)3月
に前田利家が死去します。

唐入り後の処遇に関して、三成に恨みを持つ
加藤清正ら7将が利家の死去を待つように、
石田三成を襲い、三成は失脚します。

牽制役の二人が表舞台からいなくなり、
もう筆頭大老の徳川家康に物申す
ものは誰一人いなくなりました。

結果からみると、この制度はキーパーソンが
いて初めて機能するものでした。

秀吉の盟友前田利家の死去によって事実上
何の役にも立たなかったことになります。

しかし、なんと家康を縛る仕組みを秀吉は
用意していました。

ダテに関白を拝命していたわけではなさそうです。

それは公的な『武家の家格』です。

豊臣総家は公家で言う『五摂家』にあたる地位
なっていたのです。

家康ら大名はその下の公家で言う『七清華』と呼ばれる
家格にあたります。

どこまで行っても家康は豊臣家の家臣から抜け出ない
限りこの縛りから出れません。

つまり、公的な文書は家康名では法的拘束力
がないのです(これも大義名分のひとつですね)。

一例では、関ケ原の論功行賞を文書で出せず(出すなら
秀頼名)、口頭で申し渡されたと伝えられています。

なんと、あの関ケ原の戦いの後も家康は秀頼の臣下
であり続けさせられた訳ですね。

これを前提とすると、淀君の種々の上から目線発言も
さもありなんでしょうか。

家康は関ケ原後もこれらの状況が整って自前政権を
作る大義名分が出来るまで14年も待たされた訳です。

家康が天皇より征夷大将軍を拝命し、慶長8年(1603年)
に江戸幕府を開いても、公的には尚、豊臣家の臣下と
云うのはちょっと信じられない事態ですね。

逆に、これを見越していた秀吉恐るべしでしょうか。

『三中老』って何なの?

生駒親正 (讃岐 17万石)

堀尾吉晴(浜松 12万石)

中村一氏(駿河府中 14万石)

の3名です。

秀吉の決めた制度で、『五大老五奉行制』の
一部です。(異説では後代の作り話で、実際
には中老と云う制度は存在しなかった
とも言われています。)

豊臣政権では政(まつりごと)は五大老五奉行の
合議制にて行うこととされ、もし意見の相違
が出た場合に三中老が調停に入るのが役割
となっていました。

記録にはほとんど実績はなく、唯一動いたのは、
秀吉の亡くなった後に、家康が有力大名との
姻戚関係作りに動き回った時です。

慶長4年(1599年)1月のことでした。

秀吉の決めたご法度に触れていることを質す
奉行側の詰問使として家康のもとへ三中老
が役目として出掛けました。

反対に家康に恫喝されて引き揚げたと伝え
られています。

調整役と云う目立たない役職なので、確認され
ている事はあまりないのですが、それなりに
機能していたのではないかとの推測は
あるようです。

まとめ

秀吉は征夷大将軍とならずに関白になり、武家として
豊臣家の家格を公家並みに上げておくこと
をしていました。

その上、実際の政権担当能力を維持する為にこの制度
(五大老五奉行制)に期待をしていたと思われます。

口頭での話は種々伝わっており、ポスト秀吉の政権
構想は関係者を集めてやっていたようですが、
肝心の遺言には秀頼のこと以外なにも
記載されていません。

これは、1598年に入ってからの病魔が秀吉の正常な
状況判断能力を奪っていたとの説もありますが、

関白になったことから、政権の大義名分は豊臣家
にありとの、思い込みが強かったのも後事の
手抜かりの一因ではないかと思います。

いずれにしてもこの『五大老五奉行制』は秀吉
の思惑通りには全く機能しなかった
と云えそうです。

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