明智光秀が『本能寺の変』で織田信長を暗殺したって話!ホント?

日本史上最大の謎『本能寺の変』の下手人は明智光秀ではないと言う説を紹介します。

 

『本能寺の変』実行犯は、明智家家老斎藤利三であることを明白にいたします。

 

本能寺の変』謎の実行部隊が消えていたことを紹介します。

 

織田信長の伝記とも言える『信長公記』が、江戸時代では”禁書”になっていた事実を明らかにします。

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明智光秀にはアリバイがあった?

この時代を知る手掛かりの重要な資料として多数の研究者の方々が論拠とされている『言経卿記(ときつねきょうき)』によると、光秀が本能寺へ出向いたのは午前9時頃だったと言います。

 

明智軍とされる軍団が本能寺を取り囲んだのが、午前4時頃で、本能寺が出火炎上したのが、午前7時過ぎ~7時半と言われています。

 

この間に光秀の目撃情報はなく、本人が現れたのは間違いなく、本能寺が焼けてしまい変事が終了した午前9時過ぎだとされています。

 

国会議員選挙のように、結果が出てからおもむろに立候補者本人が選挙事務所に現れると言う構図が頭に入っている現代の私たちには、この光秀の挙動に特段不信感は抱きません。

 

しかし、一世一代の『覇王織田信長の暗殺・クーデター』を企画実行した本人の行動としては相当にヘンだと思われます。

 

実は従来の歴史書群では、丹波亀山から1万3千の軍勢を光秀本人が指揮して、『敵は本能寺にあり』とばかりに、本能寺まで進軍して来たこととなっていますので、この大納言山科言経卿の『言経卿記』6月2日の記事は大きく矛盾する事となりますが、この日記の持つ信憑性からこちらが真相ではないかと考えられます。

 

 

 

また、明智光秀の行動を見ると、クーデター実行の宣言とされる有名な『時はいま天が下しる五月かな』と言う、5月28日に京都郊外の愛宕山で連歌の会に参加した時の”発句”が残されています。

 

 

当日の天気は28日は晴れですが、29日は土砂降りの雨となってしまい、ひょっとすると光秀は下山出来ずに翌日6月1日に弱まった雨を押して亀山へ向かったのかもしれません。

 

そもそもは、5月17日に信長より西国出陣の命を受けて、即刻”家康饗応”の任を離れて安土より坂本へ帰城し、出陣準備のために5月26日本城の丹波亀山城へ入りました。

 

27日に戦勝祈願と称して愛宕山へ登って愛宕社より今般の出陣戦費の調達を行い、翌28日はそのまま愛宕山で里村紹巴(さとむら じょうは)ら連歌のメンバーと連歌の会を催します。

 

そこで、『言経卿記』によると、6月2日の午前9時頃にやっと、光秀は兵3000ほど連れて京都本能寺に現れたとされていますので、これが正しいとすると、天候の事もあったので、どうなったのか判然としませんが、土砂降りの為に29日中の下山が遅れ、亀山からの遠征軍出発時刻に間に合わなかったため、坂本に戻って坂本の兵3000名を連れて上京したようにみえます

 

ところが通説では、当然のように、光秀の指揮のもと丹波亀山から出陣した1万余名の軍勢がそのまま京都本能寺を取り囲んだことになっています。

 

 

この違いはなんなのでしょうか?

 

 

 

実際に、特段指示命令がないのに、御大将が遅刻したからと言って、本隊が大将不在のまま勝手に出発するものでしょうか?

 

普通はあり得ないと考えられますが、、、

 

この点について、この時期の織田軍における光秀軍団は、丹後衆(細川幽斎・忠興親子)・大和衆(筒井順慶)・摂津衆(高山右近、中川清秀)・兵庫衆(池田恒興・元助親子)と坂本衆の計1万5千位の兵力で構成されていました。

 

5月17日に信長からの突然の中国出陣命令を光秀が受けて、各軍団とも一斉に動き始めますが、大和衆の『筒井家記』によると、”その後京都(信長)から、出陣の準備が出来たら本能寺へ来い”との命令が光秀を通さずに直接信長から出ていたとされています。

 

これが事実とすると、丹波亀山城で出陣準備を終え、光秀の帰りを待つ城代斎藤利三のところにも信長の直接命令が届き、帰城が遅れている光秀は直接上洛するものと考え、斎藤利三は急な信長の命令に従ってすでに到着していたはずの丹後衆(細川幽斎)も引き連れて出発した可能性もあるのではないでしょうか。

 

 

奇妙なことに光秀は、翌日午前9時頃集合場所の本能寺へのんびり現れて、現場を見てびっくり仰天して現状把握の為に午後2時まで現地で捜索・検証をしてみたものの、信長の生死は不明で、安土へ無事帰還の噂もある中、織田家臣としての事態収拾を図るために信長の本城である安土を目指して坂本衆を引き連れて移動したと言う感じなのです。

 

光秀は、起こった事態にオロオロしていると言う感じがピッタリくるほど”計画的に叛乱を起こした武将”としては動きが機敏ではないので、実は家老格の斉藤利三に告げられるまでは何が起こったのかつかめていなかったのではないでしょうか。

 

ここで決定的におかしいのは、光秀が率いたと言われる1万3千名の丹波亀山から出陣した部隊が、事変後にかき消すように消えてしまい、当然亀山の近隣にいて同時に出陣したはずの細川軍が、通説によると、”叛乱を起こした光秀の呼びかけに応えず信長に忠誠を尽くす意味で『髻を落して自宅謹慎』”したと言うではありませんか。

 

そんなはずはないし、それは不可能なのです。間違いなく細川軍・細川幽斎親子は光秀軍の与力として出陣し本能寺の近くにいたはずで、そうでなければあの恐ろしい覇王織田信長の命令に違反することになるからです。

 

光秀は本能寺での惨状をつぶさに見て、その足で御所へ参内したものと思われれ、朝廷より突然”武門の棟梁たるべし”とのお言葉があり、7日には吉田兼見卿が勅使として光秀のところへ下向し、混乱の中で、明智光秀は”征夷大将軍”となりました。

 

しかし、13日に”山崎の戦い”にて豊臣秀吉に敗戦してしまったため、朝廷側も忽ちその宣下を取り消して、まるでそんなことはなかったかのように振舞っていますので、俗に光秀の三日天下』と言われる事となってしまいました。

 

しかし、”山崎の戦い”で、光秀軍として旧室町幕府の奉公衆(将軍の親衛部隊)が本気で戦い多数討死しているところから、その時京都では光秀が征夷大将軍として遇せられていたことはどうも間違いないようです。戦国武将は”昔のよしみ”だけで、命を賭けることはまずしませんからね。

 

どうも『本能寺の変』の『光秀謀叛説』は、この6月2日の午前9時頃に信長の指示通りに上洛して来て、事件を見て気持ちが動転しながらも御所に参内して、『征夷大将軍』などと言う”おだてに”一瞬でも乗った光秀の間違った判断から、”天下の大逆臣”となってしまったような側面があるようです。

 

私見になりますが、、、

 

 

誰がこの巨大なワナに光秀を嵌めたのかはよくわかりませんが、事変後の光秀のパフォーマンスの悪さからみて、『本能寺の変』は、とても”明智光秀”による犯行とは思えないのです。


(画像引用:Wikipedia明智光秀画像

 

当時の光秀軍の陣容は?

前章で述べたように、本来の織田信長の軍団編成による光秀軍団の構成は、

 

寄親(よりおや)明智光秀本隊(丹波衆・坂本衆)

|―寄子 丹波衆(細川幽斎親子)

|―寄子 大和衆(筒井順慶)

|―寄子 摂津衆(高山右近・中川清秀)

|―寄子 兵庫衆(池田恒興親子)

 

摂津衆・兵庫衆は入っていなかったとする説もありますが、いずれにせよ織田軍団の中では”遊軍”として扱われていた畿内の小規模軍団が、配置の関係から畿内を統括した明智軍団に所属される形になっていたものと思われます。

 

天正10年(1582年)当時の明智光秀の実際の石高は、40万石くらいと見られていますので本城丹波亀山城の動員可能兵力は1万余の規模にはなっており、与力大名の総計が1万~1万5千くらいと見積もられますので、『惟任退治記』には、2万とあるようですが、もし西国征討軍として姫路辺りで集合すればそれくらいになる数字だったはずです。

 

この当時の兵力は常備兵ではないため、見積もりが難しいのですが、おおむね1万石で250~300名くらいの兵士動員が可能とされていたようです。

 

ですから、光秀が仮に40万石の大名とすれば1万1千~1万2千人くらいの兵力動員が理論的には可能だとみられるわけです。

 

この光秀軍の構成で目に付くのは、与力大名のほぼ全員が当時はキリシタン系の大名であることです。この点はかなり気になるところです(イエズス会の陰謀説等)。

 

そうなると、、、

6月2日未明に京都本能寺辺りに押し寄せていたのは、どの軍団になるのでしょうか?

 

上記の与力大名のほとんどが6月13日の”山崎の戦い”では、敵方の秀吉軍に加わっていたことを考えると、6月2日の未明に本能寺を取り囲んだのは、丹波亀山城から出発した光秀の本隊であったと考えられます。

 

現在の研究では、異説扱いとなっていますが、福知山の杉原衆(豊臣秀吉親戚筋)1千、桑田、船津の細川衆3千余、丹波亀山の内藤党の残党約5千、亀山周辺の丹波衆4千と言う構成ではなかったかと言われています。さらに異説ですが、当日現地で武田系の紀州武田家の分家筋の精鋭4~5百名が長駆紀州から加わっていたとの主張も存在します。

 

れらは、もう明智光秀がこの軍を掌握指揮していたのではないことを前提とした説ですので、通説とはかなり違います。しかも事変後にこの軍団は姿を消してしまいました。つまり現場の確保・維持活動すらしていないのですね。

 

1万3千もの軍勢がまさに、”かまいたち”の如く、戦国の覇王信長に一発かまして消えてしまったのです。その後に光秀と行動を共にしていたのは、旗本衆・坂本衆の3~4千名だったようです。

 

事変後、光秀軍はどこへ?

天正10年(1582年)6月2日未明に勃発した歴史上の大事件『本能寺の変』の不可思議なところは、この400年以上の間、被害者は『織田信長』で下手人は『明智光秀』と言う以外に、あまり話題になっていない事です。

 

まさに、謎だらけの事件なのですが、ほぼ無防備の宿舎本能寺をなんと1万3千もの重装備の兵士が襲ったのですから、その後京都は軍事制圧されるはずなのですが、実はその軍団はそのまま駐屯することもなく風のように消えてしまっています。

 

天正10年(1582年)6月2日当日は、前章にあるような軍団編成となっていたのですが、光秀にクーデター後のしっかりした政権プランが全く見られず、つまり織田信長の暗殺だけを目的とした行動だったとしか考えられないことが、この奇妙な事態を引き起こしてしまったようです。

 

実行者だったはずの明智光秀がその倒した信長の織田軍の軍事力を掌握する手立てが組めないどころか、自軍の掌握にも失敗しているところから、あの仕事師のような人のやったこととはとても考えられず、この事件は光秀に本当に主体性があったのかどうか疑われるところです。

 

 

ですからその直後に起こった『山崎の戦い』の時についても、『甫庵太閤記(ほあん たいこうき)』によると、光秀軍は1万6千ほどで、斉藤利三ら美濃衆2千、阿閉淡路守ら江州勢3千、丹波衆2千、旧室町幕府奉公衆2千、河内衆2千、光秀旗本勢5千の構成となっており、その兵力規模からすると軍団は事変後も京都にまるでそのまま駐屯していたもののように見えますが、どうも中味は前章で想定されている本能寺攻撃軍団とは別のものに入れ替わってしまっているように見えます。

 

これは、斎藤利三が指揮したと言われる本能寺攻撃軍(丹波衆)は、実は対秀吉戦用に光秀が招集したこの軍勢ではない可能性を示しているようにも思われます。

 

もちろん、本来の光秀軍の与力である部隊が”反明智”となりすべて離反する動きに出たため、秀吉の『中国大返し』を受けて、それに対抗する為に光秀が慌ててかき集めた結果だとも見て取れますが、本能寺攻撃軍の主体は丹波勢だったはずですから、この変わり様はやはり奇妙に見えます

 

彼ら”幻の軍団”は『本能寺の変』後にさっさと現場を離脱して行き、本当に丹波の山の中に消えてしまったのでしょうか。

 

光秀が安土へ出かけたり、朝廷とのやり取りをしているうちに軍団は解体消滅していて、これは後年に、”光秀の挙兵に『大義』はなく、単なる『主殺し』であった”事から、人心が離反して兵力が集まらなかったのだと言われています

 

本当に、精神的に追い詰められていた光秀の甘い見通しによる失敗、発作的な行動による失敗だったのでしょうか?

 

 

この事件の奇妙な感じはすべて、こんな大事件を起こしたにも拘わらず、終始不手際な行動を取り続けた知将『明智光秀』の不可解さにあるようです。

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事変当時在京織田軍はどうなっていたのか?

『本能寺の変』当時、信長の各軍団は方面軍として前線に出払っており、京都近辺には光秀所管の近畿方面軍と、安土には信長が中国戦線へ同行する旗本衆が待機していたのみでした。

 

しかし、、、

 

天正10年頃には、天下人であった上様織田信長の動きに対応するため、居城のあった安土だけでなく、政治の中心地京都にも諸大名の屋敷が40以上は有ったと言われています。

 

 

その大名屋敷には、護衛兵が40~50人/軒はいたはずで、合計すると少なくとも2000名前後の守備兵が在京していたはずなのですが、なぜか京都所司代を除いてただのひとりも事変後に天下人の信長救援に駆け付けていないのでしょうか。

 

当時は情報機器が未発達な時代ですが、そのために戦国時の大名たちは始終密偵を放ち自己防衛のために情報収集に努めていました。

 

こんな事件が出来すれば、ものの20~30分で応援隊を派遣出来る能力を持っていたはずです。

 

記録には織田家臣団の京都在住部隊の応援の記事が残っていません。つまりこれは全く動いていなかったことを示しています。

 

 

後年、各大名家の『家史・家記』には、京都に屋敷がなかったようなことが記載されているようですが、これは真っ赤なウソで当時在京の公家衆の日記などでその存在は明らかなようです。

 

誰しも、『上様信長公』の危急へ駆けつけなかった不手際を隠そうとしているようです。

 

この各大名家が、結果的に信長親子を見殺しにしたような行為を、一斉に行ったとみられる大きな理由として、、、

 

信長公御上洛の事

五月廿九日、信長公御上洛。安土本城御留守衆、津田源十郎、賀藤兵庫頭、野々村叉右衛門、遠山新九郎、世木弥左衛門、市橋源八、櫛田忠兵衛。二丸御番衆、蒲生右兵衛大輔、木村次郎左衛門、雲林院出羽守、鳴海助右衛門、祖父江五郎右衛門、佐久間与六郎、簑浦次郎右衛門、福田三川守、千福遠江守、松本為足、丸毛兵庫頭、鵜飼、前波弥五郎、山岡対馬守。是れ等を仰せつけられ、御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り侯て、御一左右次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、今度は、御伴これなし。さる程に、不慮の題目出来侯て、
(引用:太田牛一『信長公記 巻十五』町田本ネット上公開文献 

 

この『信長公記 信長公ご上洛の事』の文の最後の『御一左右(ごいっそう)次第、罷り立つ(まかりたつ)べきの旨、御触れにて、』に関して、

 

・・・すると信長は、中国へ出陣するに先立って、「何かを一掃する目的」で上洛した事になる。そしてその何かは京都にあった。
(引用:八切止夫『信長殺しは光秀ではない』作品社)

 

との”歴史小説家 八切止夫氏”の解釈があって、これはどうも『信長による徳川家康の謀殺』が実行される可能性が高い内容と考えられる箇所ですが、ここはその為に、京都所司代村井貞勝(むらい さだかつー二条城にて信忠とともに討死)から各大名屋敷に『信長命により、騒ぎがあっても絶対出動するべからず』の禁令が出ていたのではないかとされています。

 

信長が本当に在京大名に対して”禁足令”を出したのかは確証はありませんが、もし”家康謀殺が目的”ならその可能性は高いのではないでしょうか?

 

実行犯とされる明智家家老斉藤利三(さいとう としみつ)はなぜ”信長暗殺”をやった?

斎藤利三は、織田家直臣ながら明智家の付け家老として出向させられていた人物で、名前から察するとおり”美濃衆”です。

 

信長は生来執念深い性格なのか、父織田信秀(おだ のぶひで)の時代から尾張勢が多数の犠牲者を出していた遺恨で、美濃を平定して岐阜城へ乗り込んでからも”美濃人”を本気で信用することはなかったようです。

 

これは信長が、自分の織田弾正忠家相続問題の頃から、舅(しゅうと)の美濃国主斎藤道三(さいとう どうさん)の助けを借りながらのし上がって来た負い目の裏返しなのか、元来尾張人は美濃人を嫌っているからなのか、道三の娘で舅の威光を笠に着た嫁の”帰蝶(きちょう)”に偉そうにされていたことへの意趣返しなのか判然としませんが、天下の大勢が決し始めていたこの頃、美濃勢を使い捨てにして行く傾向は確かに強まっていました。

 

どうやら、宿敵武田家を滅亡させた後に見られる、信長の徳川家康や力のある重臣たちに対する考え方と同じ発想のようですね。

 

最近、この『本能寺の変』に関して一部の説で、丹波亀山から軍団を指揮して本能寺を取り囲んだのは”斉藤利三”とされ、斉藤利三が親戚関係にある長曾我部救援の為、四国戦略をいきなり転換して信義を裏切った信長の四国征服を阻止することが目的だったとされています。

 

しかし、2014年6月に岡山市の林原美術館所蔵の『石谷(いしがい)家文書』から、『本能寺の変』関連の重大発見がありました。

 

それは、天正10年(1582年)5月21日付斎藤利三宛の長曾我部元親書簡で、長曾我部元親は信長の言い分を認めて、言わば帰順する考えであることが述べられています。

 

 

と言う事は、斎藤利三が進めていたクーデター計画は、本来の大義名分を失っていたようですが、日付から見て恐らく間に合わなかったか、或は利三の考え方が変わらなかったかのどちらかなのでしょう。

 

もし、本当に『本能寺の変』の原因がこの”四国討伐”にあったのだとしたら、もう一か月この長曾我部元親の決断が早くされていれば、歴史は大きく変わっていたのかもしれません。

 

信長も利三(光秀)も運がなかったのか、そうなる運命だったのか、今となっては分かりません。

 

太田牛一の『信長公記』は江戸時代に禁書になっていた?

歴史作家八切止夫(やぎり とめお)氏の調べによると、今、信長研究の第一資料とされている『信長公記』は、明治14年(1881年)に出された旧岡崎藩士で漢学者の近藤瓶城(こんどう へいじょう)編集の日本国史叢書『史籍集覧(しせきしゅうらん)』の通番356の19冊目に収められて、一般公開されたのが世に出た最初だと言います。

 

 

つまり、太田牛一の『信長公記』は、江戸時代を通じて『禁書』扱い、事実上公開禁止の”ご禁制本”だったと言う事になります。

 

ずい分当時の為政者に配慮した記述がなされていると思われるのですが、それでも豊臣家・徳川家にとっては隠したい記事・癇に障る記事が山ほどあると言う事なのでしょうね。

 

この『信長公記』が記述している時代で、隠したくなる内容としては、秀吉と家康と信長に関係するものと出自問題などの単独の件があるのかもしれません、

 

ここでは、なんと言っても『本能寺の変』を巡る問題でしょうか?

 

秀吉は『本能寺の変』のほどなく(早ければ4ヶ月目くらいに)真相を『犯人は明智光秀』とした『惟任退治記』なる本を出して謀叛人明智光秀を世間に印象付けました。

 

秀吉が都合が悪いという事は、本当は明智光秀が犯人ではなく、秀吉が犯人だと言う事でしょうか。

 

秀吉は直接の政権簒奪者ですから、わからないでもないのですが、家康が隠したがるのは一体どういう事なのでしょうか。

 

あれだけ豊臣家の排斥をやった徳川家が260年も隠していたと言う事は、『本能寺の変』の真犯人は明智光秀でも、豊臣秀吉でもなく、徳川家康だったと言うことでしょうか。

 

 

物事はそんな単純なものではないでしょうから、たまたまお蔵入りしてしまったこともあるでしょうが、隠し持っていた人物が存在すると言う事は、やはり徳川家にとって不都合なことが記載されていると言う事になります。

 

となると、下手人(実行犯)と思しき斎藤利三の娘だった『福(ふく)』を極めて重用した家康と、家康没後も時の老中をもしのぐ”春日局(福)”の権勢を、彼女が死没するまで許した徳川宗家の様子を見るにつけ、家康と斎藤利三のつながりを考えざるを得ないと言う方向性を示唆するものではないでしょうか。

 

やはり、徳川家康は『本能寺の変』に何らかの重大なつながりを持っていたと考えるのが至当であり、それはこの『信長公記』の公開すら拒んで来た徳川家の歴史が示唆するように思えます。

 

また、それを一般公開したのが、神君家康が忌み嫌っていたような三河の岡崎松平家の関係者だったと言うのも面白い話ですね。

 

まとめ

通説・定説である『戦国の英雄織田信長が天下統一の一歩手前で、京都本能寺において休んでいるところを、天正10年(1582年)6月2日の未明に配下の武将明智光秀の謀叛により暗殺された』と云う話は、学校の歴史の時間にずい分聞かされています。

 

数々の小説となり、ドラマにも映画にもなり、『敵は本能寺にあり』と言う光秀が言ったと言われる流行語大賞みたいな言葉ととも、長らく『本能寺の変』に関することは日本人には非常に有名です。

 

そこへ、歴史作家八切止夫氏が1967年に『信長殺しは光秀ではない』を刊行されて一石を投じ、その後明智光秀の末裔だと言われる作家明智憲三郎氏が2013年に『本能寺の変ー431年目の真実』を刊行されて、今までの定説に対して、はっきり『織田信長暗殺犯は光秀ではない』と反論を始められました。

 

八切氏の主張に対しては史学会も横を向いたままだったようですが、21世紀ともなり明智氏が発表される頃となると、研究者サイドでの動きも出始めて、『本能寺の変』の研究は進み始めたようです。

 

 

明智光秀の経歴に関しても、従来、土岐一族明智氏の出身で、長らく浪々の身でありながら、鉄砲術の腕を買われて越前の朝倉氏に俸禄5百貫で仕官し、偶々朝倉氏を頼って来ていた足利義昭にも認められて、なかなか上洛しようとしない越前朝倉氏から売り出し中の岐阜の織田信長へつなぐ重要な役割を果たしたとして一躍世に認められる存在となって行くと言う『光秀の出世譚』が語られていました。

 

しかし、ここにも研究のメスが入り、種々出てくる公家衆の日記・大名家の家記などから、光秀は最初からかなりの資金力を持っている人物であったことが、明らかになって来ました。

 

例えば細川家に伝わる『細川家記(ほそかわかき)』によれば、織田信長と足利義昭を”美濃の立政寺”で対面させた永禄11年(1568年)7月27日の最初の面談時に、光秀は私兵500余名を率いて足利義昭を先導したと言います。

 

また、元亀2年(1571年)2月30日の『言継卿記(ときつぐきょうき)』では、信長は岐阜城より上洛して、京都二条の明智光秀邸を宿所として泊り、3月1日に禁裏へ伺候予定と書かれているようです。

 

光秀は信長に500貫(およそ500石)で召し抱えられたと私たちは歴史書で学んできましたが、それでは馬一頭に従者2名くらいがやっとで、ここにあるような500名の家来を連れたり、信長を千人以上の配下とともに泊める邸宅を持つとなると、そもそも2万石以上の大名と比肩出来るクラスの人物であったことになります。

 

どうも明智光秀がただの牢人だったと云う話ではないようですね。常識的に考えて、流浪の身とは言え奉公衆を連れて歩く”足利義昭(あしかが よしあき)”と尾張・美濃2か国の太守となっていた”織田信長(おだ のぶなが)”を信用させ話をまとめるためには、通説のようなただの素浪人ではやはり無理だったであろうと思われます。

 

明智光秀が最初から、それなりの人物であったことが分かり、初めて光秀への信長の信頼が特別であった不思議が腑に落ちるわけですね。

 

本記事では、、、

 

 

『本能寺の変』での、通説の『明智光秀犯人説』に対して、当時の”光秀のアリバイ”があった可能性が高く、丹波亀山から本能寺を囲んだ軍団の指揮を執っていたのは、光秀の家老斎藤利三であったことを紹介いたしました。

 

確かに信長の小姓森乱丸が叫んだ”明智が手の者と思われます”と言う言葉どおり、本能寺を取り囲んだのは”明智の手の物”だったようですが、明智光秀の指揮を受けて行動していた軍団ではなかった可能性が高いことも明らかになりました。

 

そして、斎藤利三によって特別編成された部隊は目的を果たした後に、主力部隊は丹波方面へ消えてしまい、反乱の首謀者に祭り上げられた光秀は、一時的に”征夷大将軍の宣下”を受けますが、驚異的な短時間で攻め寄せる豊臣秀吉への対抗するために改めて兵士をかき集めたものの間に合わず、『山崎の戦い』で敗れ去って『三日天下』に終わった経緯が分かります。

 

ここでは、”『本能寺の変』の黒幕”を明らかにするものではありませんが、後々の受益者を見てみれば、誰がこの事件のプロデューサー・被疑者であったのか臭ってくる感じですね。

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参考文献

〇八切止夫 『信長殺しは光秀ではない』(2002年 作品社)
〇谷口研語 『明智光秀』(2014年 洋泉社)
〇小瀬甫庵著・桑田忠親校訂 『太閤記(上)』(1984年 岩波文庫)
〇谷口克広 『信長の天下所司代』(2009年 中公新書)
太田牛一 『信長公記』町田本ネット公開版
〇藤田達生・福島克彦編 『明智光秀ー資料で読む戦国史』(2015年 八木書店)

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