真説!井伊直弼と吉田松陰のどちらが江戸時代を終わらせた?

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明治維新』は封建体制を打ち破り、近代日本を形作った画期的な出来事として私たちは学校で教わりました。
本当のところ、あの250余年も続いた徳川幕藩体制が、なぜ西国4藩の力で倒幕がなって行ったのか、『明治維新』は理解しにくいところが多い出来事です。

 

学校ではその”なぜか?”には答えてもらっていません。

 

等々盛りだくさんの問題がありますが、先ずここでは”幕府代表の大老井伊直弼と、『明治維新』の火付け役となって行った長州藩の吉田松陰のどちらが『維新』の扉を開けて江戸時代を終わらせてしまったのか”を明らかにして行きます。
付録で、”井伊直弼”と”吉田松陰”、および”幕末用語”の100字説明をつけましたので、歴史勉強の一助となれば幸いです。

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”諸君!狂いたまえ!”と松下村塾で言った吉田松陰とは?

歴史を学ぶ時に、『勝てば官軍』と云う言葉の存在に気がつくことがあります。
これは戦いに勝った側が自分の都合の良いように物語(歴史)を書き換えてしまう事を言います。

 

書き換えないまでも都合の悪いことはすべて隠すか都合の良い事だけを残したり、解釈を変えたりします。

 

こうして事実とは違う歴史が形作られ事があります。

 

この言葉『勝てば官軍』はこの”明治維新”の結果を指していう事が多いのも事実です。

 

吉田松陰”に関しての私の認識は、”松下村塾”の主催者で教育者・指導者として次世代の人材を育成したものの、井伊大老の始めた弾圧”安政の大獄”に連座して投獄され刑死したと云うものでした。

 

幕末志士の精神的柱”と言われているようで、信奉者やシンパが多く幕末小説の常連と言うべき人で、学校での歴史授業ではそんな感じで紹介されています。

 

人気作家司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』が作り上げた坂本龍馬人気もあって同時に語られることが多く、吉田松陰は伝わっている肖像画のあの落ち着いた印象とともに”勤王の志士の先生”・”偉大な教育者”と言うイメージが定着していったように思います。
となると、、、

 

表題の『諸君!狂いたまえ!』と言うのはそぐわないような感じですね。

 

一体”吉田松陰”とはどういう人物だったのでしょうか?
先ず、簡単な経歴を見て行きましょう。
松陰は文政13年(1830年)長州藩下級藩士杉百合之助(すぎ ゆりのすけ)の次男に生まれ、叔父で山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となり、叔父の死去により同じく叔父で陽明学者の玉木文之進の主催する”松下村塾”で厳しい教育を受けて、9歳で藩校明倫館の兵学師範となりました。

 

その後11歳で藩主に兵学を進講し、15歳で長沼流兵学を修めるなど稀代の大秀才でした。
アヘン戦争での清国の敗北を聞き、西洋兵学勉強のために、嘉永3年(1850年)長崎平戸へ遊学し、次いで江戸へ行き佐久間象山(さくま しょうざん)に師事して西洋兵学を学びます。
嘉永4年(1851年)に江戸で知り合った肥後藩士宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)らと東北旅行へ出かけますが、この時藩の通行手形の未発行が原因で”脱藩”し、この旅行中、水戸にて”水戸学”と接することとなります。

 

嘉永5年(1852年)脱藩が原因で家禄没収・士籍はく奪となります。

 

安政元年(1854年)下田でペリー艦隊への密航を試みますが、失敗して江戸より国元の萩へ送還となって長州藩の”野山獄”に収監されます。

 

その後赦免されて、実家預かりとなった安政2年〈1855年)に叔父玉木文之進主催の”松下村塾”を間借りするような形で、”松陰の国外密航を英雄視する?若者”を集めて私塾を開きました。
これが吉田松陰=松下村塾と伝えられて後に有名(もっぱら司馬遼太郎氏の小説で)になりました。
この後安政5年(1858年)”日米修好通商条約”が締結されると、それに激高した松陰は条約担当?の老中間部詮勝(まなべ あきかつ)暗殺を計画し、それを聞いた(密告されたのではなく、松陰自ら長州藩にこの行動のために兵力を貸せと申し入れたようです)長州藩は松陰を捕縛・投獄し、翌安政6年(1859年)幕府は折しも”安政の大獄”真っ最中でもあり、吉田松陰の江戸送致を命令し江戸伝馬町の獄舎内にて斬首刑となりました。
時間の経過から見た”吉田松陰の生涯(享年満29歳)”は以上です。
冒頭の『諸君!狂いたまえ!』と言う檄文(げきぶん)的な吉田松陰の松下村塾での発言ですが、この歴史年表的羅列の中からは見えにくいような気がします。
それで、、、まとめてみますと、、、

 

 

吉田松陰は、、、

 

 

そもそも典型的な長州人気質(激しやすい)を持っている

 

嘉永4年(1851年)宮部鼎三らと東北へ出かけていますが、これは秋田藩で発生した相馬大作事件(藩主暗殺未遂の大事件)の調査に出掛けたようで、途中水戸で水戸学に触れ、藩校日新館の見学までしています。ここで、過激な”水戸学”の洗礼を直に受け、”暗殺”と言う考え方に染まった行った可能性があります。
③時期的に”安政の大獄”と時期が重なりましたが、どうも吉田松陰の死罪(斬首刑)はそれ(弾圧)とは関係がないように思えます。老中暗殺計画に関してはどの時代でも大罪に相違なく、異論はあるにしても政治犯ではないただの犯罪者として処刑された可能性が高いと思います。それから、長州藩もこの処刑には同意しているようです。

 

この時代の水戸藩は相当に過激(狂気に支配されているような)なので、吉田松陰の前述の発言は、この水戸学に影響された結果と見ても良いのではないかと思います。
やはり、自分の思い通りにならないからと言って、その相手を暗殺しても良いと言うのは、通らない理屈(狂気)としか思えません。

 

吉田松陰は履歴を見る限り、嘉永4年(1851年)前後21歳くらいから急速に思想が”過激化(テロ化)”して行ったのではないかと思われます。

 

調べてみると、以上のように今まで私が認識していた”吉田松陰像”とかなり違っている印象が強く感じられました。

 
しかし、当時の松下村塾の塾生の中に、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、品川弥次郎と後の明治の元勲も含めて人材が多かったことから、明治になってから師である吉田松陰の顕彰がおこなわれたものと思います。

吉田松陰のイラスト
(画像は吉田松陰のイラスト)

『井伊の赤鬼』のあだ名の他に、文人・遊び人?とも言われる大老井伊直弼

井伊直弼は、文化12年(1812年)彦根藩第14代井伊直中(いい なおなか)の14男として彦根城にて生まれました。兄弟は多く直弼は庶子だったため、養子の口もなく32歳まで彦根城三の丸の部屋住みとして暮らしました。

 

そんな事もあり、茶の湯、和歌、鼓、兵学などに励み早くから評判が高かったようです。

 

運命のいたずらかその長く部屋住みであった14男の直弼が藩主になり、まさに動乱の時代に江戸城溜間の住人(溜詰)となり、老中として国政を動かす大舞台へ出ることになってしまったのです。

 

井伊直弼はNHK大河ドラマの第一号となった『花の生涯』(昭和38年1963年、原作:舟橋聖一)の主人公でした。ヒロインとして登場した村山たか女は実在の人物で、直弼の愛人となって日本史上初めての政権内の女性工作員と言われ、直弼の側近の国学者長野主膳の片腕として活躍した女性です。
井伊直弼はなかなかドラマチックな人物だったようですが、”安政の大獄”のことがあり、反幕府グループからは弾圧者として日本史上”気の毒なほどの悪役ー井伊の赤鬼と呼ばれる”としてやり玉に上げられています。

 

日米修好通商条約の締結責任者としてよりも、”安政の大獄”の実行者として、勤王の志士たちの恨みを買って行ったようです。

井伊直弼公銅像
(画像は井伊直弼公銅像)

なぜ井伊直弼は『安政の大獄』をやったの?

一般的には、ペリーの黒船来航以来攘夷論が激しく燃え盛る最中に、大老井伊直弼が天皇の勅許を得ずに無断で米国との間に『日米修好通商条約』を締結したことに関して、尊王攘夷派と水戸斉昭率いる過激な攘夷派の水戸藩士から、井伊大老の専横に激しい反対運動が起こり、これを弾圧する為に始めたと言う理解ではないでしょうか?
実際『安政の大獄』の対象は、大名の家来から幕府高官、公家衆にまで及んでいますが、いわゆる尊王の志士も多く処分され攘夷論者がやられたことから、井伊大老の開国政策に反対する者への弾圧が真の目的と受け取られて行ったようです。
理由は多々存在するものと思いますが、井伊直弼の2代前の老中首座にあった阿部正弘(あべ まさひろ)が水戸の徳川斉昭(とくがわ なりあき)を海防掛り顧問(外務大臣に相当)の地位を与えて幕閣へ入れたことから、幕政の歯車がきしみ始めたと言えそうです(何かとうるさい水戸公を身近に置けば抑え込めると考えた老中阿部正弘の判断ミス)。

 

何せ、幕閣は『開国』にてほぼ意見が統一している中に、理屈抜きで攘夷を唱える水戸の斉昭を大臣に据えたのですから、今で言う閣内不一致で、事あるごとに衝突を繰り返す最悪の対立構図を老中首座の阿部正弘は作ってしまったのです。水戸を甘く見た証拠でしょうね。

 

こんな対立構図がある中、13代将軍の後継問題が浮上し、水戸斉昭は攘夷問題で混乱する政局を利用して”家康以来の将軍にはならない御三家水戸徳川家と言う不文律”を犯して、息子の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)を14代将軍に押す露骨な動きを見せ、紀州公徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推す溜詰幕閣と更に対立構図を深めます。
ところが、阿部正弘の後任老中首座の堀田正睦(ほった まさよし)が進まない条約勅許問題の局面打開のために、なんと対立する水戸派への鞍替えの動きを始めた為、その阻止に動いた其の他の溜詰幕閣の総意によって、井伊直弼は”大老”へ推されます

 
そして大老職に就任した井伊直弼は、この政争にケリを付ける為徳川斉昭の一橋派の気勢を制して、紀伊徳川家の慶福(家茂)の14代将軍就任を決定させます。

 

これを受けて、水戸の意向を受けた京の梅田雲浜(うめだ うんぴん)が調停工作をして、井伊直弼の政策(条約の無勅締結と14代将軍の決定)を批判する天皇の密勅(戊午の密勅)を出させ、井伊大老を担ぎ上げた溜詰の幕閣の権威失墜を図り一橋慶喜の14代将軍実現の動きをします。

 

これに対して井伊直弼は、この調停工作をした京の梅田雲浜の捕縛をキッカケとして『安政の大獄』と称するものに拡大させて行きます。その過程の中で、其の他の倒幕の動きが察知され、それに関与する面々が捕縛・取り調べを受け始めます。
つまり、結論から言うと、『安政の大獄』はどこまで行っても『勤王の志士』と言われる人たちと関係のない理由で始まったのであって、進歩的学者や開国派の弾圧を目的として始まったものではないことが明確になります。
彼ら倒幕運動の志士と学者は彼らと無関係の幕府政権内の権力闘争の”あおりを受けただけ”に過ぎないのです。
どうやら勤皇ー攘夷、開国ー攘夷の対立ではなく、ハッキリ言えば、幕内の徳川斉昭一派と江戸城溜詰老中の対立抗争が『安政の大獄』の正体だと考えられます。

 

そんな訳で、ここに勤王の志士・学者の弾圧を目的とした意図が幕閣の中に最初からあったとは思えません。

吉田松陰はなぜ井伊直弼に処刑されたの?

こう云う疑問が出て来る背景には、”安政の大獄”が反幕府・討幕運動の弾圧にあったと言う前提の思い込みがあるからだと思われます。

 

しかし、調べた限りでは、、、
”吉田松陰”は幕府のパージリストにも上がっていない人物だった可能性が高く、『安政の大獄』に連座したと言う事実は全くないのではないでしょうか?

 

 

あくまでも”素行不良者との認定”で長州藩と幕府によって、江戸の小伝馬町の牢内でただの”犯罪者”として処刑されてしまっています。

 

彼の死に”理屈?が付いた”のは、ずい分後になってからだと理解した方が”史実に近い”のではないかと判断します。

 

しかし、薩摩藩の西郷隆盛の計略・挑発(赤報隊による江戸の民間人襲撃を伴うテロ行動)により、この幕末の水戸斉昭と幕閣との混乱劇は朝廷を巻き込んだ武力倒幕へと進行してしまい、勝利した倒幕新政府により都合の良い歴史認識が作られることになりました。

 

 

ここで作られた”薩長史観”では、『安政の大獄』は”反政府活動の弾圧”を目的としたものでなくてはならなかったのだと想像がつきます。これは叛乱を起こして政権を奪取した為政者の良くやる手ですね。

 

 

こうして、”吉田松陰”と言う人物は司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』で異常に持ち上げられた”坂本龍馬”との相乗効果で、”幕末志士の精神的な柱”とされて、ドンドン人気が出て出世して、今や”神様”の地位まで昇り詰めたのではないでしょうか?
全くの私見ですが、上記のようなプロセスが一番腑に落ちるような気がします。

 

 

まぁ、今の公式の『歴史』と云う点では、勝者である明治政府(長州藩と薩摩藩の下級武士団)の作ったものが教科書に書いてありますので、それを信じておくしかないのですが、、、

 

 

つまり、『”吉田松陰”は、旧体制の幕藩体制を維持しようとする大老井伊直弼によって、反幕府行動を咎められて『安政の大獄』により、”政治犯”として捕縛・処刑された新しい時代を作る人々の礎となって命をささげた偉大な人物。』と云うものです・笑。

幕府はなぜ倒れたの?

徳川幕府は戦国の世が収まり、幕府への”反幕府事件”を起こす可能性がある武家勢力が消滅してからも、徳川家は”関ケ原の戦い”の敗戦で大人しくなった西国大名(毛利家・島津家)への監視を怠りませんでした。
徳川政権の政権を担う幕閣の構成員は、御三家は参政させずに譜代大名に限り外様大名は認めませんでした。

 

注力していた事は、常に幕府の権威を保つ施策を重視して、政権は権威で保つ考え方であったと考えます。
ところが、幕末の老中首座(今の総理大臣)阿部正弘は、雄藩(有力外様大名)藩主の国政参加を許して行きます
そして、ペリー来航以来、開国を巡って国論が2分されるような事態になると、広く国民の意見を求めるような行動にまで出ます。

 

こうした行動はいかにも民主的な良策のように見えますが、徐々に徳川幕府の権威を貶めて行く原因となって行きます

 

徳川幕府は”独裁政権”ですから、民に意見などの聴くことはNGなんですね。こうした行動は、幕府が独占していた政権に関しての参政意識を広く下々にまで拡散させて行きました。

 

それに加えて、問題児で御三家の水戸徳川斉昭を政権内部に引き入れる間違いを犯します。

 

この混乱した政府の様子に、以前は禁止もされ考えもしなかった参政意識の高まりによって、外様の下級武士たちが俄かに中央政治に関する藩論を作り始めます。

 

ここから、関ケ原以来の怨念を抱え、地力を密かに力を蓄えて来た薩摩・長州藩は参政の機会も出始めて、いよいよ時節到来とばかりに少しづつ倒幕行動に動き始めます。
幕閣はあくまでも、徳川幕府による政権運営を目指しており、大老に就任した井伊直弼により叛乱行動を起こし始めた水戸斉昭一派の一斉パージに動いてほぼ成功を収めていましたが、追い詰められた水戸一派は暗殺団を組織して、現役大老の井伊直弼の暗殺を実行します。

 

ここで、大きく政局が変わり在京の長州過激勢力による恐喝行動に朝廷が怯えて、徐々に討幕派が力を得て行く中、水戸一派は死去した家茂に代り15代将軍に一橋慶喜を据えます。

 

 

その後下級公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通による”王政復古の大号令(クーデター)”が徳川慶喜の抵抗で失敗に終わると、西郷隆盛らは赤報隊の行動により幕府側を挑発して先に手を出させ、一気に政権の武力奪取の戦闘行動に向かいます。

 
これが”鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争”です。幕府はこの戦争に負けて、15代将軍の徳川慶喜が政権を投げ出す形で徳川幕府は倒れます。

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『井伊直弼』と『吉田松陰』の100文字説明とは?

井伊直弼

安政5年(1858年)幕府大老に就任した彦根藩主井伊直弼は、同年”日米修好通商条約”を締結する。これに反発する人々を弾圧(安政の大獄)し、安政7年(1860年)桜田門外にて水戸脱藩浪士らに暗殺された。』(100文字)

吉田松陰

天保元年(1830年)長州に生れ、11歳で藩主に兵学を進講して英才で知られ、25歳で国外密航を企て入獄し、2年後『松下村塾』を開いて後の明治の元勲ら人材を育て、30歳で老中暗殺を企てて処刑されました。』(100文字)

幕末用語の100文字説明とは?

勤王派

嘉永6年(1853年)のペリー来航をキッカケとして過激化した攘夷運動の内、天皇に忠誠を誓い、幕府に政権を返上させ王政復古実現を目的とした活動家で、土佐藩武市半平太を中心とした土佐勤王党が有名です。』(98文字)

佐幕派

幕末思想の勤王派の対極にあるのが、”佐幕(幕府をたすける)派”です。徳川政権を認めて、その存続繁栄を助ける勢力です。代表格が会津藩と配下の新選組、井伊直弼の彦根藩で、勤王倒幕派の薩長と対立しました。』(99文字)

禁門の変(蛤御門の変)

元治元年(1864年)6月、長州藩は2年前朝廷命で京都から追放された名誉回復の為出陣、再度孝明天皇の退去命令出るも、7月19日市街へ進軍し蛤御門で会津軍と激突し敗走、久坂玄瑞はこの戦いで戦死しました。』(100文字)

王政復古

幕末の”王政復古”とは、慶応3年12月9日(1868年)に公卿岩倉具視と薩摩など5藩が新政府樹立を目指したクーデターのことです。徳川慶喜の政治的抵抗もあり、その後鳥羽伏見の戦いへと突入して行きます。』(99文字)

大政奉還

幕末に開国・通商条約締結問題で国内が混乱、将軍徳川慶喜は事態打開の為重臣会議を招集して政権返上を諮問、その結果『大政奉還』を天皇に上表し、慶応3年(1567年)10月15日朝議にて大政奉還が決しました。』(100文字)

鳥羽伏見の戦い

慶応3年(1867年)10月の大政奉還後も、徳川慶喜は政権残留工作を続け、1868年元旦には討薩命令を出して上鳥羽で新政府軍と優勢な旧幕府軍の軍事衝突が始まり、遂に1年半に及ぶ戊辰戦争が始まりました。』(100文字)

まとめ

日本の近代化のきっかけとなった『明治維新』の扉を開いたのは”井伊直弼”か”吉田松陰”のどちらか?という問いに関する答えですが、、、
ある歴史家の本を見ていて知ったのですが、『革命』とは誰が成すか?と言う答えに近代の「革命の主役」は、日本の教科書には”庶民の蜂起”と云う言葉がよく出ています。
では庶民なのかと思いますと、この本曰く、世界の革命でいままで庶民の蜂起だけで成功したケースはないと言います。
つまり、成功した革命と云うものは常に政権のナンバー2、3が関係しているとのことでした。
その言に従えば、幕末の政局は複合的に絡み合い混とんとして分かりにくいですが、『井伊直弼』が原因を作ったと言った方が、事件・証拠がたくさんあって正解のような気がします。
とにかく、『吉田松陰』の真相は明治になって「顕彰」されるまで埋もれていた可能性が高いので、良い悪いは別として、『井伊直弼』の存在が「政局」を動かしていたことは間違いないですから、彼を巡る出来事が明治の扉を開けて行ったものと考えられます。

 

私が今まで覚えていた幕末の騒動を巡る”井伊直弼と吉田松陰”に関して、『井伊直弼ー悪人、吉田松陰ー英雄』の認識に加えて、別の見方があることを知りました。

 

やはり、『歴史』と云うものは”片方の真実が他方の嘘っぱちになる”と言う”性格”を持っている事がよくわかります。

 

今の日本の政府は偶然でしょうけど、総理大臣が山口県(旧長州藩)の選挙区出身で相変わらず”薩長政治”が続いている事に改めて気づかされます・笑。

 

幕末の状況に関して、司馬遼太郎氏のいわゆる”司馬史観”と云うものが、大きく歴史教科書に影響している感じです。

 
本来『事実』によって『歴史』は記録されるはずだと思い込んでいましたが、案外フィクションが多いものだなと言う事に留意しておく必要があると気がつきました。何事も鵜呑みはいけないのですね。

 

稀代の英雄『吉田松陰』も稀代の悪役『井伊直弼』も双方に説得力のある違った見方・異説が存在することを知る必要もありそうです。

参考文献

安藤優一郎 『「幕末維新」の不都合な真実』(2016年 PHP文庫)
瀧澤中 『「幕末大名」 失敗の研究』(2015年 PHP文庫)
瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社)
原田伊織 『明治維新という過ち』(2015年 毎日ワンズ)
一坂太郎 『司馬遼太郎が書かなかった幕末』(2013年 集英社新書)
ウィキペディア 『井伊直弼』
ウィキペディア 『吉田松陰』
ウィキペディア 『安政の大獄』

 

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