戦国の女城主・井伊直虎は、幕末の大老・井伊直弼の先祖なの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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日本史上有名な幕末の大老井伊直弼(いい なおすけ)は、戦国の女城主井伊直虎(いい なおとら)の子孫となります。

 

直虎が頼った徳川家康は、直虎が連れて来た虎松(直政)をなぜ気にかけ、その上重用して行くのかその理由も明らかにします。
ここで家康の保護を得た井伊家から250年後の幕末に大老井伊直弼が登場することになるわけですから歴史の面白さが凝縮したような話です。
井伊直弼は見方を変えれば、日本の近代化のきっかけとなったとも言えますので、まるで『バタフライ効果』のようですが、ここでの家康の決断は日本の近代化に貢献した可能性があるのです。

 

付録として、『井伊直虎』・『井伊直弼』の100字説明を入れておきました。何かの参考になれば幸いです。

女城主・井伊直虎と幕末の大老・井伊直弼との関係とは?

井伊宗家22代目井伊直盛(いい なおもり)の姫だった”次郎法師(じろうほうし)”が、井伊宗家の跡継ぎとして『直虎(なおとら)』と言う男性名を名乗って井伊家当主となったのは、永禄8年(1565年)の事でした。

 

直虎は、平安末期の井伊家開祖井伊共保(いい ともやす)”から数えて24代目となりますが、江戸時代の近江彦根藩では、当主が女性と言う事を表沙汰にしたくない考えもあり、24代目は存在せずに23代目の今川氏真に謀殺された23代目井伊直親(いい なおちか)を最後に井伊谷(いいのや)の井伊宗家は滅亡したことになっています。
そして、井伊直虎が今川家の魔手から守り通した第23代直親の遺児虎松(直政)が井伊宗家を再興して、彦根藩の藩祖・井伊家初代とされています。
これに従うと、幕末の大老”井伊直弼”は第16代目の井伊家当主と言う事になりますが、本来は40代目の井伊宗家の当主となるはずです。
公けには、旧井伊家は23代で消滅しており(事実、井伊直虎は居城を追われ、後に取り戻したものの公けには井伊谷3人衆の共同統治となっていました)、市井で生き延びた虎松(直政)が徳川家の中で出世し、家康に認められて没落した旧井伊家を再興させたことになっています。

 

まぁ、このように『系図』的にはなっていまして、簡単に云えば『井伊直弼』は藩祖『井伊直政』の養母だった『井伊直虎』から17代目の子孫になります。
念の為、井伊家の菩提寺である東京世田谷の豪徳寺の寺務所で確認してみたところ、井伊直弼は近江彦根藩13代目の当主とされていました。

 

この違いが出る理由は、2代目だった直継(直勝)を記録から外して本来3代目だった直孝(なおたか)を2代目と記録したこと(これには理由があります)と、5代目と8代目を重任した直該(なおもり)と10代目と12代目を重任した直定(なおさだ)を1代で計算されているところから来ているものと思われます。
公式の井伊家の系図ではおそらく菩提寺の豪徳寺の寺務所が言う通りなのかもしれませんが、事実関係から一応ここでは”井伊直弼”は近江彦根藩の16代目の藩主としておきましょう。
実は、2017年度のNHK大河ドラマに『井伊直虎』が決まっています。
面白いことに、NHK大河ドラマの第一作目『花の生涯』(1963年4月~12月)の主人公は”幕府の大老・井伊直弼”なのです
2017年の『井伊直虎』は大河ドラマとしては、56作目となります。
こうして、近江彦根藩井伊家の藩祖を世に出した人物(井伊直虎)と結果的に江戸幕府の幕引きを推進した井伊家の人物(井伊直弼)が、大河ドラマになっているのは非常に興味深いことですね。

 

井伊家の人々はまさに、NHK大河の申し子のようなドラマチックな人たちなんですね。

井伊家の菩提寺豪徳寺
(画像は東京世田谷の井伊家菩提寺”豪徳寺”です)

 

井伊直虎と井伊直弼の関係を家系図で見てみる

 

井伊家の系図
(出典:Yahoo検索井伊家家系図

 

井伊家の家系図はたくさんあるのですが、なぜかあまり一致しません。

 

上記の家系図は井伊直虎と井伊直弼の関係が比較的わかりやすい表示になっていますので、引用させていただきました。

 

 

 

井伊直弼は間違いなく、井伊直虎の子孫です。

 

 

井伊家は後半にずい分跡継ぎ目的の養子の存在が多数ありますが、当時の養子は親族の中から選ばれるのが、原則だったと聞いておりますので、薄くとも井伊直虎と井伊直弼は血統的にはつながっていると見ていいと判断しました。

 

このように徳川家の特別の配慮(養子を問題なく認めている)が感じられる井伊家ですが、神君徳川家康の井伊直政に対する特別扱いが継承された結果なのかもしれません。

 

 

井伊直弼とは(100字まとめ)?

ここで簡単に、幕末の大老”井伊直弼”を100文字でまとめてみましょう。
安政5年(1858年)幕府大老に就任した彦根藩主井伊直弼は、同年”日米修好通商条約”を締結する。これに反発する人々を弾圧(安政の大獄)し、安政7年(1860年)桜田門外にて水戸脱藩浪士らに暗殺された。』(100文字)
もう少し加えて、200字にしてみると、
この井伊直弼の暗殺によって、政局は一気に幕府内保守派から一橋慶喜派・改革派へ主導権が移り、事態は”大政奉還”へと進行する。しかし薩長の武力倒幕の動きは止まらず、時代は”明治維新”へと突き進んで行く。』(99文字)

井伊直虎とは(100字まとめ)?

戦国の女城主”井伊直虎”について100字説明をしてみましょう。
天文5年(1536年)頃遠江の国人領主井伊家の惣領として生まれ、戦国大名今川家の謀略に井伊家が滅亡した時、直虎と名乗って家を継ぎ、前当主の遺児を徳川家康の小姓に上げて井伊家の再興を図った女人武将です。』(100文字)

 

もう少し加えて、200字にしてみると、
家康の小姓となったこの少年は、成長して井伊直政を名乗り、”徳川四天王”の猛将のひとりとして旧武田軍団を任せられて『井伊の赤備え』と恐れられた徳川家最大の軍団となって徳川家康の天下取りを支えます。』(97文字)

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井伊家と徳川家の関係は?

井伊家と徳川(旧松平氏)家は、守護大名化した今川氏の被官として、ともに今川家の戦の最前線を任される国人領主でした。

今川義元が今川家の当主になって数年後の天文8年(1540年)頃に、永正11年(1514年)以来今川家に占領されていた井伊家の三岳城(みたけじょう)が返還される事となり、その見返りに井伊家当主井伊直平の娘が今川義元の人質となって駿府へ送られました

その人質となっていた娘は今川方の武将関口親永(せきぐち ちかなが)と婚姻し、後年その娘を今川義元が妹分として徳川家康と駿府で結婚させました。これが家康の正室”築山殿”です。

 

家系図で見てみるとよくわかります。

奥浜名の井伊家の菩提寺”龍潭寺”のHPを参照する

 

つまり、家康の正室”築山殿”は、井伊直虎にとって親戚となります。徳川家康は直虎の曾祖父井伊直平の孫娘の婿になる訳です。家康にも井伊家は親類筋との認識はあったのではないでしょうか?

しかし、天正3年(1575年)武田勝頼の奥三河侵攻に際して、徳川家内部で事件(内紛)が起こります。

岡崎城主をしていた家康の長男”信康(のぶやす)”の配下の岡崎町奉行大岡弥四郎が武田軍に内通し、岡崎城に武田軍を手引きしょうとしたのです。

この事件は、首謀者が処分され終息するのですが、正室築山殿と息子信康の関与が疑われ、そのことが信康の正室である織田信長の娘徳姫により信長へ通報されて騒ぎが大きなります。

 

 

結果、織田家との同盟関係の信頼維持のために家康は厳罰で臨み、長男信康は切腹、正室築山殿は惨殺せざるを得ませんでした
家康の居城遠江浜松城の”織田家との関係推進派”と三河岡崎城の”反織田派(昔から織田家と三河松平家は仲が悪いのです)”の完全なる内紛なのですが、そこを武田勝頼に突かれた形でした。
こんな騒ぎがあって、井伊家出身の築山殿・長男信康のことは家康の大きな悔いとなって残っていたようです。

 

井伊信虎が、元許嫁で前当主井伊直親の遺児”虎松(後年の井伊直政)”を連れて来た時、家康は素性を確かめたあと即決で小姓に召し抱えたと言います。

 

虎松は小姓の中では、一番の若輩ながら、家康のお気に入りとなり異例の大出世をして行くこととなります。

 

直政(虎松)には、徳川四天王のひとりとして、家康虎の子の旧武田軍団(赤備えの武具が有名)の指揮を任せると言う気に入り様でした。
家康は自身の親衛隊にも旧武田勢を使っており、本当に直政を心底信用していたという事になりそうです。

 

戦国武将にありがちな男色の性向を全く持っていなかった家康が直政を寵愛する理由は、その実直な勤めぶりと強さにもありますが、この背景として”信頼できる親族の男”としての信頼性がバツグンだったと云えそうです
家康には、直政の中に自分が死に追いやってしまった長男信康の面影があったのでしょう。後年、跡継ぎの秀忠がドジを踏むたびに”ああ、信康がいてくれたらなぁ!”と嘆息していたと伝えられているほど家康は信康を頼りにしていたようです。
家康は政権を取って以後、明智光秀の家老斎藤利三の娘である”ふくー春日野局”を大変重用しています(このことで”本能寺の変”家康黒幕説が疑われます)。このように家康と言うひとは、昔世話になったり、思い入れのある人物には極めて温かい手を差し伸べる性格を持っているようです。

 

井伊直政の異例の大出世の根底には、親戚筋にあることと、徳川家を拡大させて行く過程において、”井伊の一族”が西遠江攻略の大きな力になっていたことの証ではないでしょうか?

 

こんな事が、井伊直虎と徳川家康をつなぐ糸ではないかと思います。

豪徳寺の井伊直孝公墓所
(東京世田谷豪徳寺 井伊家を躍進させた3代目井伊直孝公の墓所)

 

井伊直弼の井伊家の後継で最後の彦根藩主井伊直憲(いい なおのり)は幕末をどう生き抜いたの? 会津松平容保(まつだいら かたもり)との違いは?

本記事は井伊直虎ー井伊直弼に特化したものなので、本来この小見出しのテーマは直接関係はしないのですが、あの井伊直虎が必死の思いで存続を図り、そして会津松平家同様に”徳川命”のような井伊家が、最後は会津藩主松平容保のように幕府と心中しないで明治の世まで生き延びた理由を少し探っておこうかと思います。

 

大老井伊直弼は、通説では悪逆人と一部で言われています。

 

その主な理由は、、、

 

  1. 天皇の勅許も得ずに無断で条約に調印して開国を決めた日米修好通商条約の締結
  2. 将軍の跡継ぎを徳川家茂に決めた(一橋派と最後まで争って慶喜に14代目を渡さなかった
  3. 大量の政治粛清を行なった安政の大獄

と言う事でしょうか。

 

 

これらの行為に関して、当の井伊直弼が桜田門外で暗殺されてから、幕政の政局は保守派から一橋派へ主導権が移り、井伊直弼は幕閣の合意で動いていたはずなのに、ただひとり”独断専行の罪”を問われて、彦根藩は10万石減封の処分がなされ、30万石から20万石となりました
とは云うものの、実は徳川幕府の決まりでは、理由を問わず”当主の横死”は「お家取り潰し」と決まっているそうです。ところが、この井伊家は減封処分だけで済み、家督は子息の直憲に引き継がれました。
その後、新当主井伊直憲は家臣一丸となって、直弼の汚名返上の為、幾多の幕末の戦闘に参加して幕軍の先鋒として活躍をします。
しかし、幕政を握る一橋派にはあまり目を向けられることなく、家臣団には不満が募り始め、大政奉還以後徐々に幕府から距離を置き、新政府寄りのスタンスへと転換します。

 

 

一方、井伊家と同じ『徳川絶対主義』を藩是としている会津藩松平容保(まつだいら かたもり)の場合はどうだったでしょうか?

 

井伊家の場合は、一ツ橋派の幕府の指導方針に疑問を持ち始めて独自の動きも始めたわけですが、会津の松平容保の場合は、おかしな幕府・徳川慶喜の動きにも自分の利を考えるのではなく、あくまでも徳川の世を守ろうと真摯に行動をして行き、徳川慶喜が政権を投げ出した後も旧体制を守ろうと奮闘を続けると言う悲劇に見舞われ、大損害を出して敗退することとなります。

 

これは、、、

 

彦根藩は譜代筆頭ではあってもあくまで臣下の立場であり時局に左右されても仕方ないわけですが、会津藩は親藩・御家門の家格であったことから時局に迎合することをせず、又徳川を守る意識が人一倍つよい松平容保が藩主だったことも災いしたようです。

 

井伊直弼の息子の井伊直憲は最後は徳川の世を見限り、他藩に後れを取ることなく上手に新政府軍に協力して行き、戦国時代に女城主・井伊信虎が必死で守った名家井伊家を明治の世まで残すことに成功しました。

まとめ

戦国でも珍しい女城主(地頭)井伊信虎が徳川家康を頼って井伊家を再興させてから、徳川家の重臣として貢献して来た井伊家の子孫たちのほぼ最後の時期に徳川政権の最高権力者として井伊直弼が登場しました。
養子の多い井伊家ですが、ごく薄くとも血縁は続いてはいるようですので、”直弼”は”直虎”の子孫だと考えて良いようです。
話せば長くなるので、直弼と直虎それぞれに”100字のまとめ”を作ってみました。なにかのお役に立てれば幸いです。

 

徳川家康が井伊直政(虎松・万千代)を寵愛した理由の中に、親戚関係がありそうだという事も分かって来ましたので、家康に警戒もされずに実現して行くあの異常な井伊直政の大出世の理由も少し納得が行きそうです。

 

慶応3年(1867年)に大政奉還で徳川家が朝廷に政権を返上するまで、井伊家は250年以上も徳川家の重臣・譜代大名として、日本の政治を支えていたことになります。
日本の近代化・夜明けの中に、あの遠江国の山奥で戦国大名の今川家にいじめられていたこの井伊家が絡んでいることに改めて歴史の面白さを感じる次第です。

参考文献

楠戸義昭 『女城主・井伊直虎』(2016年 PHP文庫)
渡邊大門編 『家康伝説の嘘』(2015年 柏書房)
瀧澤中 『「幕末大名」失敗の研究』(2015年 PHP文庫)
ウィキペディア 『彦根藩』
ウィキペディア 『井伊直弼』

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