執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
織田信長か!本願寺か!どちらがなぜ『石山合戦』を始めたの?
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織田信長と石山本願寺の戦いが始まった本当の理由をお話します。
10年も戦い続けることになろうとは、信長は考えてもいなかったようです。
本当は、この『石山合戦』の勝者は、どちらなのか考えてみます。
織田信長と本願寺の間で和睦成立後に、石山御坊の伽藍から出火して全焼してしまいますが、その原因は?
目次
本願寺と織田信長の対立が始まった理由はなんなの?
永禄11年(1568年)9月に、信長は足利義昭を奉じて上洛し、10月に入り三好党を京都から追い払い、摂津・和泉に軍事費の”矢銭(やせん)”を掛けました。
摂津大坂の『石山本願寺(いしやま ほんがんじ)』は、信長から要求の5千貫(この当時のレートでは8億円くらいになります)をすぐに支払って恭順の意を示しますが、この時、和泉の自治都市”堺”は矢銭2万貫(32億円)の支払いを拒み信長軍の包囲を受けます。
信長は従来より宗派で宗教を差別することはなく、恭順する寺院は好意的に取り扱いますし、父信秀の時代より気を使って友好関係を維持していたつもりであったこの『石山本願寺』に対しては、敵対勢力と言う認識は完全に”ノーマーク”だったと言われています。
ところが、2年後の元亀元年(1570年)9月21日、”足利義昭・織田信長”軍が摂津野田・福島砦に立てこもる三好三人衆と交戦中、夜半になって寺内の早鐘が激しく突かれて近隣の大坂に位置する『石山本願寺』が突然、信長軍に反旗を翻し攻撃を仕掛け始めました。
この時から『織田信長』と『石山本願寺』は、休戦・和睦を繰り返しながらも、通算10年にも亘る泥沼のような戦争を続けていくことになりました。
一体どんな理由で『石山本願寺』は、織田信長との開戦に踏み切ったのでしょうか。
永禄11年(1568年)に足利義昭(あしかが よしあき)を奉戴して上洛した織田信長は、京都で政権を担っていた”三好三人衆”を追っ払って、政権を奪取し足利義昭を第15代将軍に据えました。
実は、件の”三好三人衆”と『石山本願寺』は友好関係にあり信長の上洛戦に対しても、既に永禄12年には三好三人衆を助けて本願寺の阿波門徒衆が一緒に上洛信長軍と戦いを行なっていました。
つまり、上洛戦を始めた段階から、もう既に本願寺の一部の門徒衆は、阿波公方足利義栄(あしかが よしひで)を奉戴していた三好三人衆の軍勢として、信長軍の敵となって交戦していたと疑われます。
”三好三人衆”は、永禄8年(1565年)5月19日に松永久秀と共に、第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)を暗殺して政権を握った『永禄8年の政変』を起しています。
その後、本願寺の奈良地区進出の後押しをするなど、この”三好三人衆”は本願寺を厚遇して極めて両者の関係は蜜月になっていました。
将軍義輝が認めていた”バテレンのキリスト教布教”も取り消し、本願寺の求めていた”宣教師の追放”を早速行なっています。
これに対して、義輝の弟義昭を奉戴して上洛し、新たに政権を握った織田信長は、本願寺が懇意にしている”三好三人衆”を追放し、バテレンの再入京と布教を認めます。
当初は関わり合いになるのを避けていた『石山本願寺』も、三好三人衆ら旧勢力に付き従って来た門徒衆からの、クレームの山に突きあげられるように”反織田信長”へ方針転換し、落ち目の”三好三人衆”を助ける為に開戦に及んだものと考えられます。
一方、江戸時代中期に成立した毛利家由来の『陰徳太平記』によると、、、
信長大坂出張幷所々合戦事
・・・、同日ノ晩ニ至テ公方義昭卿御下向有テ、・・・、都合寄手ノ勢六万餘騎ニ成ニケリ、抑今度信長大坂出張差當ル所ハ、三好退治タリト雖、實ハ石山本願寺ヲ可被攻謀計トソ聞ケル。
信長所望本願寺之事
其機体ヲ尋ニ、信長卿大坂石山本願寺ノ地ノ利ヲ見給フニ、日本無雙ノ名城ノ地也、西國ノ押ヘノ爲メ城ヲ築カバ、此所ニ過タルハ不可有ト思ヒ給ヒ、本願寺顯如上人へ使ヲ以テ、本願寺ノ地ヲ賜ハリ候ヘ、・・・、上人即チ下間巳下ノ家老共召集メ、此儀如何可有ト、儉議有ケルニ、皆一同ニ諫ケルハ、織田信長ハ血氣一偏ニシテ、仁怒鮮キ大將ナレバ、今懇ニ宣フ共、此地ヲ乞ヒ取テ後ハ若シ約束ノ旨ヲ變改セラルゝ事モヤ候ヘキ、第一ハ蓮如上人當地ニ伽藍建立シ給ヒテコソ、宗門ノ繁栄モ年々盛ニ、・・・、上人此儀ニ同シ、頓テ以使當寺ノ地可應御所望候ヘ共、蓮如以来此地ニ居住仕ルニ因テ、・・・於此儀ハ蒙御優免候ハヾヤト返答給ケリ、信長此由ヲ聞テ憎キ坊主ノ返事哉、・・・、大キニ怒リ給ヒ、不如大坂ヘ押寄セ顯如父子ヲ討果シテコソ、彼地ヲ奪フベケレトテ犇ト内議評定セラレケルガ、・・・、野田福島ノ城ヲ攻ルニ託シテ、不意ニ本願寺ヲ攻ントゾ擬セオレケル、サレ共顯如早ク敵ノ謀ヲ察シテ・・・・、
信長被攻本願寺事
・・・、如此テ本願寺ニハ、末寺諸山檀越ノ者共、家老一族等ヲ召集メ、・・・、石山本坊ニ早鐘ヲ撞ク事アラバ、信長被寄ト心得テ、面々ハ石山へ來り集ルニ不及所々ニ裏切スベシ、・・・、今度信長ノ出張ハ、三好退治ト唱ルト雖モ、實ハ當寺ヲ可攻謀ト覺エタルゾ、・・・
とあり、つまり、、、
織田信長が大坂出張しての6万にも及ぶ軍勢での”三好退治”の軍事行動は、実は”石山本願寺攻略”の爲だと言う噂があると言うのです。
事実、信長は石山の地を視察して”ここは西国攻略の拠点の城を作る重要な場所でここ以外にはない”と考えて、石山本願寺宗主顕如に、この地を明け渡してくれれば、代替地と十分な運営資金を提供すると使者を立てました。
そこで、顕如は本願寺の首脳陣を集め相談した結果、信長に対して”ここは蓮如上人が伽藍を立てた場所でここを動くわけにはいかない”と断り、その返事を聞いて腹をたてた信長は、野田福島を攻めるふりをして本願寺攻略に乗り出しましたが、事態を察していた顕如は一門を集めて信長の計略を話し、本坊が早鐘を撞いたら、一斉に信長を裏切れと指示を出したとあります。
史料によれば、顕如は一門信徒に”信長から恫喝を受けたので、こちらから攻める”と述べたとあり、この日の軍事行動について解説をしているようです。
一部の資料などでは、本願寺側が突然裏切り攻めかかって来たので、信長は非常に驚いたとありますが、あの戦略家の信長が不意打ちを受けたとは考えにくいので、プロセスとしては『陰徳太平記』あたりが述べていることが、流れとしては納得できそうですね。
それだけ、本当に”本願寺”側にあの『戦国の覇王織田信長』に抵抗できるだけの軍事力・動員力・実力があったと言う事にもなります。
また、織田信長側の資料である太田牛一の『信長公記』では、、、
九月十二日、・・・大鉄炮にて城中へ打ち入れ、攻められ候。・・・敵身方の鉄炮、誠に日夜天地も響くばかりに候。・・・然らば野田、福島種々懇望致し、・・・、御許容これなく、・・・野田、福島落去候はば大坂滅亡の儀と存知候歟。・・・、一揆蜂起候と雖も、異る子細なく候。・・・
(引用:『信長公記 巻三 野田福島御陣の事の条』インターネット公開版)
信長側は一揆勢の蜂起も気にせず、折込済みの対応と言う感じで、そもそもこの戦いは”本願寺側の攻撃を誘発するような三好討伐との一石二鳥”の信長側の挑発だったとも考えられるような記述です。
『石山合戦』が始まった原因は、『織田信長が西国制圧に必要な重要戦略拠点として築城の為に石山の地を召しあげようとしたら、思いがけず地主の石山本願寺側に拒否され抵抗された』為の信長の行動だったと言うのが、取りあえずの真相だったような感じです。
しかし、その後の結果と言うか『本願寺』側のしぶとい抵抗は、信長の想定外だったのではないでしょうか。
(画像引用:Wikipedia顕如像)
織田信長と本願寺との戦いはなぜ長引いたの?
そもそもの原因とすれば、第一義的には、前述したような『信長公記』に記載されている”一揆蜂起候と雖も、異る子細なく候。(一揆が蜂起したと言ったところで、大したことはないのだ)”ような考え方で、信長が”本願寺勢力の軍事力”を甘く見ていたことでしょう。
江戸期の小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記』にも、、、
信長卿一向替氣色モナク、大坂ハ長袖ノ事ナレハ、別条更ニ不可有、只平攻ニ攻メヨ下知シ給フ、
(引用:小瀬甫庵『信長記 大坂合戦事』国立国会図書館デジタルコレクション)
”本願寺一揆軍蜂起”に関して、信長は問題にせず、大坂(本願寺の事)はどうせ”長袖(ながそで者ー武士ではなく長い僧衣を着た軟弱者だとの侮りの言葉)”だから、策も必要なくただ力攻めに攻めれば十分だとの言い分です。
当初の信長の”読み”としては、武力では高が知れている宗教組織である”本願寺派の本山『石山本願寺』”を叩いてしまえば、地方のその下部組織は、信長に抵抗することなく”織田の軍門に下る”はずだと考えていたはずです。
信長が『本願寺』に拘った理由として、前述したように本山の所在する”石山の地”が、西国討伐のための築城(後の大坂城)に最適の場所であることと同時に、本願寺が莫大な数の末寺・門徒組織を持ち、その多数が”寺内町”を形成していて、莫大な利益を生むその”商業・流通組織”を手中にすることが大きな目標だったと考えられます。
織田信長の行く手を阻む同じ宗教組織とは言え、その山門の政治的なプレゼンスを壊滅させる為だった”比叡山の焼き討ち”とは、どうやら目的が違ったようです。
しかし、信長が考えていたより『本願寺』は、当時既に巨大なネットワークを持つ組織体に成長しており、巨大化した信長の軍事力を持ってしても、簡単に叩ける相手ではなかったようです。
まさしく信長は”パンドラの箱”ならぬ”本願寺の鉄の扉”を開けようとして手を懸けてしまったのです。
『石山本願寺』は、信長軍に反旗を翻す一揆軍蜂起直前に、元亀元年(1570年)9月6日には、諸国門徒に対して宗主顕如(しゅうす けんにょ)上人から、決起を促す檄文(げきぶん)が出されています。
それに呼応する形で、浅井・朝倉軍も出陣し、なんと9月19日には近江の本願寺門徒衆とともに、坂本にある信長軍の宇佐山城を攻め落とし、大津・山科近辺まで進出して、京都を脅かし信長軍の背後を閉ざしてしまいます。
浅井・朝倉の叡山滞陣により、京都に雪隠詰めにあった信長は、朝廷正親町帝の『勅命講和』によって、浅井・朝倉と和睦して何とかこの時の窮地を脱し岐阜へ帰還しました。
しかし、その後も『顕如の檄文』の影響は続き、”伊勢長島門徒衆の蜂起”、”武田信玄の西上開始”、”浅井・朝倉との泥沼の戦い”、”越前門徒の蜂起”等々を引き起こし、将軍義昭との争いを含め、”反織田信長包囲網”が出来上がり、この本願寺との戦いは単なる”石山合戦”に終わらず長引いて行き、信長にとって行く手を阻む大きな壁となって立ちはだかることとなりました。
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織田信長と本願寺との戦いはどちらが勝ったの?
前述のように、元亀元年(1570年)に”本願寺のパンドラの箱”を開けて四面楚歌になってしまった織田信長は、もぐらたたきのように出現する敵対勢力を我慢強く潰してまわることとなりました。
- 元亀2年(1571年)9月12日 比叡山焼き討ち
- 天正元年(1573年)4月12日 武田信玄病没
- 天正元年(1573年)7月19日 将軍足利義昭追放
- 天正元年(1573年)8月20日 朝倉氏滅亡
- 天正元年(1573年)9月1日 浅井氏滅亡
- 天正2年(1574年)9月29日 長島一揆殲滅
- 天正3年(1575年)5月21日 『長篠の戦い』にて武田勝頼を大敗させる
- 天正3年(1575年)8月15日 越前一揆殲滅
- 天正6年(1578年)3月13日 上杉謙信病没
- 天正8年(1580年)3月 金沢御坊滅亡
と続き、天正8年(1580年)8月2日に本願寺教如が石山御坊を退出して、この織田信長と本願寺との足かけ11年にも及ぶ『石山合戦』は一応の終息をみます。
この終戦は、朝廷による『勅命講和(ちょくめいこうわ)』の形を取った和睦でした。また、宗主顕如は信長のこれまでの所行をみて、とことん戦って本願寺の脈々とつないできた”親鸞の血脈”が途絶えることに危機感を覚えたものでした。
真宗本願寺は、天皇家と同様に血統がつながっていることを大事にしている宗教組織なのです。
明治初年の全国寺院数は約8万ほどあったことが知られていますが、このうち真宗本願寺系は2万ほどであったことが確認されています。
つまり、戦国の覇者で天下人だった織田信長の家系が、その後はほとんどなくなっているのに対して、本願寺は明治になっても全国の寺院数の1/4を占めるほど大隆盛しているのです。
もはや、『石山合戦』の本当の勝者が本当はどちらであったかは、明らかなような話ですね。
新宗主教如が退出後に、石山本願寺の伽藍が燃上したのはなぜ?
天正8年(1580年)8月2日に本願寺教如(きょうにょ)が石山御坊退出後に伽藍が大炎上したことが史上知られています。
去二日大坂城渡了、近衛殿被請取渡テ後、ヤクル様ニ用意シケルカ、無残二日一夜明三日マテニ皆〃焼了。
(引用:『多門院日記 二十六巻 天正八年八月の条 119頁』国立国会図書館デジタルコレクション)
このように当時の奈良興福寺多門院英俊の日記には記載されており、当時の世評では教如が石山御坊退出時に、出火の段どりを付けて出て行った、つまり教如が信長に渡すことを拒んで燃やしたと考えられていたようです。
ところが、無傷で受け取るのを希望していたあの織田信長がその後、本願寺教如に対してこの責任を問うアクションを全く起こしていない事が分かっています。
そして、信長側の史料である『信長公記』には、、、
大坂退散の事
・・・、
去る程に、新門跡大坂渡し進むべきの御請なり。
天正八年庚辰八月二日、新門跡大坂退出の次第。御勅使、近衛殿、勧修寺殿、庭田殿。・・・
宇治橋御見物の事
・・・、
弥時刻到来たして、たへ松の火に、西風来なりて、吹き懸け、余多の伽藍一宇も残さず、夜日三日、黒雲となって、焼けぬ。
とあり、伽藍の受取部隊のたいまつの火が強風にあおられて失火したものだと分かります。
この結果に責任を取らされたのか、信長軍の『石山本願寺』攻撃総責任者である織田家重臣佐久間信盛(さくま のぶもり)は解任されて失脚し、高野山へ追放となっています。
真相はどうなのか不明ではありますが、信長は受け取り側の失火と言う事で、事を荒立てずに事態を収めたようです。
往々にして、こんな時は世間の噂が正しいことが多いような気がします。
一向宗一揆勢力はなぜ強いの?
親鸞上人(しんらん しょうにん)が開祖となったこの”浄土真宗(じょうど しんしゅう)”は、親鸞曽孫の覚如(かくにょ)が親鸞の正統性を主張して”3代目(三世)”を名乗り、元享元年(1321年)に”本願寺(ほんがんじー大谷廟堂・大谷本願寺)”を建立したところから、『本願寺』と呼ばれます。また、八世である蓮如(れんにょ)の時に教団は大きく成長し、親鸞の弟子たちの系統である他の真宗派を圧倒し始め、この時期から『一向宗(いっこうしゅう)』とも呼ばれるようになります。
しかし、蓮如の代まで”本願寺”は、天台宗の”末寺”に過ぎず、取るに足らない無名の存在でした。
そして長禄元年(1457年)に”京都大谷本願寺八世”を継いだ、”中興の祖”と言うより”開祖”と言ってもいい”蓮如”は、大谷本願寺を叡山勢力に破却されて以来、本拠地としていた”越前吉崎御坊(えちぜん よしざきごぼう)”から文明15年(1483年)に京都山科に、『京都山科本願寺』を建立し以後の拠点とし、さらに明応5年(1496年)蓮如の御文(おふみ)により、『石山御坊(石山本願寺)』の建立が始まります。
徐々に信徒を増やす本願寺の台頭により、侵された自分達の権益回復を図る目的で、比叡山延暦寺西塔の山門の僧兵によって寛正6年(1465年)に”大谷本願寺”は破却されますが、その折、蓮如上人は武力抵抗せずに、本尊と祖師御影像を護持して近江へ退去し難を逃れます。
つまり蓮如上人は日頃から、『念仏者は戦うべきではない』と言う姿勢を堅持しており、この折もそのとおり争うことなく退去したわけです。
では、”こんなことをモットーにしていた蓮如上人”の弟子たちとも言うべき『本願寺の門徒衆』は、いつから・なぜ蓮如の教えに反して、武装集団・恐怖の軍団として戦国の覇王織田信長の前途に立ちはだかり、悩ませる存在となったのでしょうか。
先ず第一は、蓮如上人の分かりやすい言葉による説法と、熱心な布教活動の賜物で、信徒数の急速な増加がベースにあったことです。
そして、蓮如の”本願寺八世”相続後、戦国時代の真っただ中で、生き残りに必死な地元の有力者たち(土豪・国人領主など)も、蜂起した本願寺門徒衆と合流し、本願寺組織は武力(兵力)・資金力ともに増加の一途を辿りました。
しかし、前述のように比叡山山門の荒法師の襲撃を受けて、大谷本願寺を破却され、蓮如は再び流浪の旅へ出ることとなりますが、近江の門徒の処に身を寄せて更に巡教に身を入れます。
その後は、文明3年(1471年)に越前吉崎で御坊再建を成して以降、本願寺蓮如上人は局外中立を保ちつつありました。しかし、本願寺後援者の越前守護代甲斐氏と、越前守護朝倉氏との争いに端を発した加賀・越前の政情不安は、吉崎の寺内町を束ねる”多屋衆(たやしゅう)”に、戦乱による吉崎御坊および末寺の武力防衛を決議させました。合戦を静観視していた蓮如も次第に戦国の乱世に巻き込まれて行きます。
決議された門徒衆と御坊の防衛の為に、そもそも地元の土豪である大坊主たちは、あっと言う間に兵力を整え、ネットワークがつながって大きな軍事勢力となって行きます。
甲斐氏・朝倉氏の中にも本願寺の門徒衆は多数存在するので、『本願寺門徒衆』の存在は戦国大名にとっても、徐々に大きな脅威となって浮かび上がって来ます。
一過性の戦乱であれば、お寺を守るために集まっただけで終わりだったかもしれませんが、この時期は『応仁の乱』がはじまり、戦国時代に突入する騒乱の時代でした。
そんな混乱の中でも底辺の人たちを巻き込みながら成長を続ける本願寺の組織は、織田信長の時代には、その動員兵力の大きさがすでに大名クラスのものとなっていて、下剋上の世の中に台頭する戦国大名たちとの衝突は時間の問題であったとも考えられました。
その上、戦乱を意識した訳じゃないでしょうが、蓮如の教えの中に”死ぬことこそ究極の救いである”と言う『浄土往生』の教えがあったことです。
この教えを頑なに信じ、死をも恐れない狂信的な門徒衆に支えられて、『本願寺』は蓮如の死後100年もしない間に、実態として巨大な”戦国大名”として、君臨し始めていたと言う事が言えそうです。
しかも、織田信長が最も欲しがっていた、本願寺寺院の中に形成される”寺内町”の持つ自由民たちの経済力(マネー)が、他の戦国大名たちを寄せ付けない強力な”パワー”を与えていました。
本願寺の強さの源泉は、”宗教に裏打ちされ死をも恐れぬ兵士で組織された軍事動員力”と、”とてつもない経済力であった”と考えられます。
まとめ
織田信長が天下人へなって行く過程において、大きな障害となったのが、信長自身で担ぎ上げた15代将軍”足利義昭(あしかが よしあき)”と問題にもしていなかった石山本願寺の宗主”顕如(けんにょ)”です。
とちらかと言えば、同じ檄文の”紙鉄炮”を撃つにしても、足利義昭の”空砲”に対して、顕如は”実弾”の趣があります。信長は最初に『本願寺』に手を打たねばならなかったようです。
見てみると、あの時期の戦国大名はほぼほぼ全員が、”一向一揆”の嵐に見舞われています。
その鎮圧には非常に苦労し、多大な被害も出していますが、歴史本では一般農民の姿をした”本願寺門徒衆”が、戦国大名たちに皆殺しにされる記述・絵柄が必要以上に多く出回り、別に肩を持つわけではありませんが、戦国大名たちは”悪者扱いされて分が悪い”ようです。
その際たるものがこの”織田信長”ではないでしょうか。
相手が軍人(武士)ではなくて、民間人(農民・女子供)であり、かつ信長に攻め殺される被害者ばかりだと言う見方からそうなるようです。
ここで見て来た『本願寺勢』・『一向一揆衆』は、信長が日頃相手にしている戦国大名クラスの兵力と武装をしているもので、誰がどう考えても農機具と莚旗のただの農民ではないことが分かります。
所属が武家ではないと言うだけで、織田信長にしてみれば、自分の行く手を邪魔する武装勢力に変わりはないのです。
しかも狂信的な”宗教武装”か”マインドコントロール”された凶悪集団とも見えるわけで、多少なりとも”武士のプライド”を基準とする戦国武将たちにとっては強敵であったはずですね。
本当に歴史は現在の道徳・価値判断で見てはいけないと言う典型的なケースかもしれません。
扨て、話を元に戻します。。。
織田信長と石山本願寺との衝突は、元亀元年(1570年)9月21日、”足利義昭・織田信長”軍が摂津野田・福島砦に立てこもる三好三人衆と交戦中に始まります。
信長側の史料では、突然石山本願寺側が仕掛けて来たと述べています。
しかしその他史料から、どうやら石山本願寺の立地(信長の大坂城築城候補地)と、本願寺に属する『寺内町(じないまち)』の経済力の支配に魅力を感じていた織田信長側の戦略行動だったと考える方が筋が通るような感じです。
本願寺と比叡山を一緒くたには出来ないと思いますが、宗教勢力の政治性を削ぎ落すと言う目的に関して、信長の行動は同じだと考えられます。
どちらも織田信長にしてみれば、行く手を阻む”不届き者”なのです。
叡山は朝廷に近いところにいたエリート集団だったのですが、本願寺は広域ネットワークが機能する社会の底辺の草の根集団が主力だったことが、信長の想定を大きく超え、対処法に困ったのではないでしょうか。
結局信長は、本願寺とは一時的な和睦を結ぶだけに終始して、解決を見る天正8年(1580年)までに10年もの歳月を費やしました。
これがもっと早く解決出来ていれば、ひょっとすると『本能寺の変』を迎えることはなかったかもしれません。
武将たち(武士)よりも、信徒たち(平民)のほうが、信長にとっては手強かったということになります。
時間が掛かった事が、政界に暗躍する京都の公家たちを含む黒幕たちの動きに余裕を与えたのかもしれません。
私見ですが、油断ならないのは、やはり朝廷公家勢力なのだと思います。
近代では、徳川家康が折角封じ込めた公家勢力が、幕末に飛び出してしまいましたしね。
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参考文献
〇神田千里 『信長と石山合戦』(2008年 吉川弘文館)
〇山折哲雄 『蓮如と信長』(2002年 PHP文庫)
〇『陰徳太平記 合本3 巻四十七 198~200頁』国立国会図書館デジタルコレクション
〇武田鏡村 『織田信長 石山本願寺 合戦全史』(2003年 ベスト新書)
〇信長公記 巻三 野田福島御陣の事の条』インターネット公開版
〇小瀬甫庵『信長記 大坂合戦ノ事』国立国会図書館デジタルコレクション
〇谷口克広 『織田信長の外交』(2015年 祥伝社新書)
〇『信長公記 巻八 大坂退散の事および宇治橋御見物の事の条』インターネット公開版
〇朝倉喜祐 『吉崎御坊の歴史』(1995年 国書刊行会)