執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
西郷隆盛が倒幕へ方針転換し『戊辰戦争』を起こしたのは、ナゼ?
スポンサーリンク
将軍家に正室”篤姫(天璋院)”まで出して政権を支えようとした薩摩藩が、徳川幕府の『討幕』の主人公になって行く理由を明らかにします。
西郷が『戊辰戦争』につながる『討幕』を決意した”時期と理由”が明白になります。
『坂本龍馬暗殺、西郷隆盛早とちり説』と言う『坂本龍馬暗殺』の異説の可能性を提示します。
目次
薩摩の藩論はもともと『公武合体論』で、『武力討幕』ではなかった?
薩摩藩は、斉彬(なりあきら)公の時代より、当時の老中首座阿部正弘(あべ まさひろ)の”私的政治顧問”的な役割を実質努めていました。
ぺりー来航後の『日米和親条約締結』は、島津斉彬の助言に基づいて阿部正弘が実行させたとも言えます。
その後斉彬は、第13代将軍家定(とくがわ いえさだ)の正室に篤姫(あつひめ)を送り込むことに成功し、英明を謳われた開明派の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)を第14代将軍にする工作を始めます。
つまり、斉彬はあくまでも”幕政の改革”を目指す方向性で進み、『幕藩体制』そのものを壊す考え方は、全くなかったと言えます。
嘉永6年(1953年)の『ペリー来航問題』に始まる”開国論議”で、老中首座の阿部正弘の政策判断ミス(諸侯に黒船問題の意見を求めてしまった事)があり、それが幕府の権威失墜を招き、次第に眠っていた『朝廷の権威』を目覚めさせるに至りました。
それを受けて、俄かに”勤皇派”と称する動きが各地で惹起し始め、『尊皇攘夷』の運動(反幕府・反政府運動)が活発になります。
今日目立つのは活躍する『尊皇攘夷の志士たち』の動きですが、実際は当時の現実問題として、彼ら尊攘志士(下級武士階級)には、所属する藩(藩主)から幕閣(幕府要路)に具申することで、幕政に関与する方法以外に効果的な政策アピールの方法はありませんでした。
大半は話にもならず、脱藩するしか道はないのですが、開明派の大名(藩主)の場合は、藩士の尊攘志士らに理解があるので、熾烈な藩内抗争は避けて通れないものの、尊攘志士の考えが藩内有力者を動かし”藩論”を構成する可能性もあり得た訳です。
そして西郷の所属する薩摩藩の場合は、斉彬公が幕政関与できることとなった”諸侯”の筆頭となっていましたので、先ずは嘉永6年以降失墜し始めた”幕府の権威”の回復を図ることが薩摩藩の喫緊の課題でした。
そこで考え出されたのが、朝廷の権威を取り込もうとする『公武合体論(皇女和宮の降嫁)』でした。
斉彬公死去以後、主役が久光公に替わってからも薩摩藩のこの方針(藩論は『公武合体論』)に変化はありませんでした。
つまり、後の討幕・維新の立役者となる”大久保利通”なども、『幕藩体制』擁護の為に、まだ藩政の実権者久光公側近として公の手足となって動いていました。(西郷隆盛は久光公に嫌われて『島流し』の憂き目に遭っていましたが。)
当時の薩摩藩を含む武士階級の頭には、ごく一部の過激派を除いて『幕藩体制の破壊』(維新)という選択肢は、まだなかったと言えそうです。
(投稿者2017.07.30撮影:江戸薩摩藩邸跡)
薩摩藩は後の仇敵会津藩と、最初は蜜月状態だった?
文久2年(1862年)は、薩摩の島津久光公が上洛を企画し、西郷も3年に及ぶ奄美大島への『島流し』から呼び戻されたにもかかわらず、わずか2ヶ月後には久光公の勘気を受けて沖永良部島へ再度『島流し』に遭った年でもありました。
4月16日に藩兵を率いて京都に到着した久光に京都警備の勅命が下り、4月23日に伏見の船宿寺田屋に集まって京都所司代の襲撃計画していた薩摩の過激派を”上意打ち”にして鎮圧し、朝廷の更なる信頼を得て、そのまま勅使を警護する形で江戸へ下りました。
江戸では、朝廷の権威を背景に幕府への人事介入をし、一橋慶喜の将軍後見職就任、越前藩主松平春嶽の大老就任を決めました。
しかし、江戸からの帰途、神奈川宿付近生麦村で英国人の殺傷事件(生麦事件)を引き起こし、京都へたどり着くも、留守中に長州藩が『公武合体論』から『破約攘夷論』へ藩論を転換させて、京都の朝廷内を引っ掻き回していました。
結果、京都の朝廷内では久光が江戸へ下る時とは一変して長州藩がイニシアティブを握る『破約攘夷論』が席巻しており、朝廷のそのいい加減さにすっかり嫌気のさした久光は薩摩へ帰国してしまいます。
当時京都では、長州藩が黒幕と思われる『尊攘過激派』による殺傷事件が多発して治安は極度に悪化し、その為幕府からの要請で、新たに”京都守護職”として会津藩松平容保(まつだいら かたもり)が藩兵1000名を引き連れて京都に駐屯します。
薩摩藩島津久光は、京都は退いたものの、長州に奪われた政局の主導権を取り戻すべく、今度は新たに進駐して来た会津藩と連携する事を企画します。
偶々、会津藩公用方重臣秋月悌次郎(あきづき ていじろう)と、薩摩藩儒者重野安繹(しげの やすつぐ)が江戸の昌平黌(しょうへいこう)の同期生だったことから、薩摩藩から仕掛けて行きます。
藩論がどちらも『公武合体論』だったことから関係は一気に進み、両藩の重臣同志が会食するなど、ほぼ同盟関係と言うところまですぐになりました。
そして、運命の文久3年(1863年)『八月十八日の政変』を迎えます。
島津久光は、『島流し』していた”西郷隆盛”を再び、急遽赦免して薩摩軍を指揮させ、過激な攘夷論を唱えてテロを行う長州藩と黒幕の公家たちの京都からの追放を行い、薩摩藩は会津藩の力を借りた形で、京都の政局主導権を奪回することに成功しました。
孝明天皇からお褒めの言葉を戴く会津藩松平容保の陰に隠れて、薩摩藩(島津久光)は再び、『公武合体論』を主導する立場を回復しました。
薩摩の西郷隆盛はついに幕府を見限った!いつ?
前章に出た『八月十八日の政変』の後、実権を回復した諸侯らが、長州が進めていた『破約攘夷』の方針の転換を孝明天皇に働きかけを進めていたところ、島津久光のおかげで将軍後見職に就く事が出来ていた一橋慶喜が突然方針を変更して、孝明天皇に『横浜鎖港』を約束します。
つまり、出来もしない『破約攘夷』を天皇に突然約束してしまったのです。
要するに、諸侯とともに実権を握る立場に立った途端に”一橋慶喜”は、久光ら諸侯主導で朝議や幕政が動かされることに不快感を覚え、権力のひとり占めをはかり暴走を始めたのです。
この慶喜の行為と身勝手に驚き呆れ、この重大な違反行為に諸侯たちは、慶喜本人への不信感を高めて、皆、京都を離れてしまいますが、久光の命により必死に慶喜の将軍後見職就任に尽力した大久保利通も一橋慶喜を信用しなくなります。
一方の慶喜は、元々佐幕派の孝明天皇の信認を得て、元治元年(1864年)3月25日に将軍後見職を辞してから、改めて朝廷より「禁裏御守衛総督」に任命されます。
薩摩が、この一連の政治抗争を続けている間に、追放された過激派に主導されている長州勢力は着々と復権の準備に取り掛かっていました。
ついで、元治元年6月5日に新撰組によるいわゆる”池田屋事件”が起こり、長州勢を中心とする過激派の『京都騒乱と天皇動座事件』のテロの存在が発覚します。
これに刺激された長州は藩を挙げて、京都攻撃の軍を挙兵します。元治元年(1864年)7月19日に勃発し、京都を火の海にした『禁門の変』の発生です。
再度、遠島を赦免されて薩摩藩兵を率いて京都にいた西郷隆盛は、盟約に基づき京都守護の会津藩兵と協力して、長州藩の京都侵攻を撃退します。
引き続き、孝明天皇より御所に発砲した罪で”長州藩を朝敵として征討の勅”が発せられ、『第一次長州征伐』が始まります。
西郷隆盛は、その征討軍の総督徳川慶勝(とくがわ よしかつ)の参謀となり、実質的には司令官として征討軍を指揮して広島まで行きます。
そこで、西郷は薩摩主導の長州説得工作を続け、結果戦火を交えずに長州を恭順させて、12月27日には征討軍を撤兵させることに成功します。
西郷にしてみれば、佐幕派(幕藩体制維持派)である薩摩藩の一員としてやるべき仕事を成し遂げたわけです。
ところが、江戸の幕閣は、この西郷の行った処置になんと”ダメ出し”をして来ます。”征討軍総督徳川慶勝の戦後処置は長州藩にあまりに寛大に過ぎる”と言うものでした。
結局、『第二次長州征伐』の方針が出されたのです。
西郷が知恵を絞って皆の顔が立つように、現場での穏便な解決に奔走したにもかかわらず、その結果を頭っから否定される事態となってしまいました。
ここに至って、西郷はいかに藩論とは言え、”徳川幕藩体制の護持”にすっかり嫌気がさして、”慶喜・会津容保を含む徳川幕府”に見切りを付け始めたと思われます。
『薩長盟約』を蔭で演出した坂本龍馬が助言をした山内容堂の(土佐藩)『大政奉還』の建白は、本当は徳川家温存政策だったの?
西郷・大久保ら薩摩藩重臣が、一橋慶喜と幕閣を信用しなくなっていた慶応元年(1865年)頃に、以前から長州と薩摩両藩に大変世話になっていて顔の広い”坂本龍馬”が動き始めます。
政治の中心地として復権した京都で主導権争いをし、互いにしのぎを削った同志の薩摩と長州を口説き、手を結ばせようとしたのです。
まぁ、実態はどうであれ、”敵(かたき)同志の藩の歴史的な盟約”が”坂本龍馬”の仲介により、慶応2年(1866年)1月21日に薩摩藩家老小松帯刀の京都私邸で結ばれました(薩長盟約)。
その効果はすぐ現れ、慶応2年6月から始まった『第二次長州征討』に、薩摩藩は参戦せず、大坂まで出征した将軍家茂の死去も手伝って、実質長州軍の勝利に終わりました。
この戦争には、龍馬も伏見奉行の襲撃で受けた傷も癒えて、長崎から長州へ武器を届けがてらに幕府軍との戦闘(海戦)に参加しました。
その後、薩摩の首脳陣は、幕府軍に勝利した長州とともに”討幕行動準備”に謀殺され始めて忙しくなり、龍馬への援助もおざなりで、薩摩の肝入りで作った商社と言うより運送屋の”亀山社中”も経営難に陥りはじめました。
翌年慶応3年(1867年)3月になってやっと、牢人龍馬の原籍地でもあり、海運業に興味を示していた土佐藩の参政後藤象二郎(ごとう しょうじろう)に”亀山社中”を拾ってもらい、会社を”海援隊”に衣替えして、龍馬はふたたび土佐藩に関わり始めます。
長州に敗れた徳川幕府の権威失墜は覆うべくもなく、その復権の可能性が低い中、土佐藩実権者山内容堂は有力諸侯として再度中央政界復権を模索していました。
そこで、参政後藤象二郎は容堂公の片腕として、坂本龍馬から示唆を受けた徳川幕府の『大政奉還(公議政体論)』を土佐藩の新たな政策として建白するに至ります。
坂本は、慶応3年(1867年)の夏以降、この『大政奉還』以後の”新政体構想”の検討に熱中し、秋口には新政府の人材探しのために越前まで出張するほどでした。
後藤が建白した『大政奉還』は、土佐藩侯山内容堂から第15代将軍に就いた徳川慶喜に上申することとなりました。
こうして、土佐藩が上申した『大政奉還』は、慶喜によってあっさり受け入れられて、10月14日に朝廷へ即上奏されました。(実は、慶喜サイドから建白するように督促されていたとの異説があるほどです。)
慶喜が受け入れたのには大きな理由があり、実は土佐の建白は『大政奉還』後の新政体(改造政府)で、内大臣として相変わらず慶喜が政府の実権を持つものだったのです。
徳川の政権存続を認めていない薩長には、全く受け入れられない内容でした。
しかしこの裏で、薩長連合はこの内容であっても慶喜が土佐の上申を受け入れるのに時間がかかると踏んでいて、その間薩摩大久保利通と公卿岩倉具視は、”倒幕”のために朝廷工作を行い”倒幕の密勅”を準備して、まさに10月14日には密勅が下りている手筈した。
ところが、前述の理由で慶喜の対応が予想外に早く、迅速に慶喜より朝廷に土佐案の『大政奉還』の上奏がなされたため、薩長の”倒幕”の大義名分となる”密勅”は空振り(『大政奉還』を受けて、10月21日に”密勅”実行中止のお沙汰書が出されます)に終わりました。
スポンサーリンク
龍馬暗殺後、薩摩は急速に長州と武力討幕へ向かう?
慶応3年(1867年)6~7月頃には、長州にせっつかれる形で徐々に『武力討幕』方針を固め始めていましたが、まだ柔軟に時期を見ている感じの薩摩藩(西郷ら)でした。
しかし西郷は、土佐の『公議政体論』をあくまでも『倒幕』の第一段階と見てある程度容認していたのですが、挙兵準備の為に土佐へ帰国したはずの後藤が9月3日に”まさかの手ぶら”で土佐本国より帰坂して来ました。
そのため、西郷は、土佐の後藤(山内容堂)が『倒幕』ではなくて、徳川を交えた”平和解決”を本気で考えていることに気が付き失望し、もう見切りをつけて土佐を外して動くことに決心したようです。
この時点で、実は、坂本龍馬は訪問した先で聞いた長州の伊藤(博文)の話から、京都の情勢がひっ迫しもはや”武力討幕”しか選択肢がなくなっていることに気が付き、長州木戸孝允への9月20日付の書簡で、後藤を外して武力討幕派の乾(板垣)退助を京都へ行かせると言っています。
慶応三年九月二十日
木戸孝允あて
・・・今日下の関まで参候所、不計も伊藤兄上国より御かへり被成、御目かゝり候て、薩土及云云、・・・・急々本国をすくわん事を欲し、・・・小弟思ふに是よりかへり乾退助ニ引合置キ、夫より上国に出候て、後藤庄次郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕と存申候」
(引用:宮地佐一郎『龍馬の手紙』より)
龍馬は、伊藤のホットな京都政局の話を聞いて、状況が平和主義の『大政奉還』では、もはや何の役にも立たない事に気が付いて、手を打つ(武力討幕)気になっていたようです。
後藤象二郎は優秀な人物ですが、あくまでも藩公の山内容堂に気に入られることが第一義の官僚的人間だったようで、時代の変化について行こうとはしなかったのです。
龍馬は、後藤の考え方のベースは良く知っていましたので、即座に”こりゃ、ダメだ”と判断したのだろうと思います。
一方薩摩・長州は武力討幕の為の挙兵に対して、頑強に反対する国許の藩内勢力を何とか抑え込んで、出兵に漕ぎつけます。
流れからみると、龍馬の暗殺後に、薩長による12月9日に『王政復古のクーデター』が起こり、維新への分水嶺となった『小御所会議』が開かれて、朝議としての『倒幕』が決まり、年明けに『鳥羽伏見の戦い』から『戊辰戦争』へとつながって行く訳です。
武力討幕方針の薩長に対して、『小御所会議』でも大音声で徳川家の政権存続を主張した政権参与の山内容堂は、強力な武力討幕反対派でした。
その部下で有能な官僚である後藤象二郎のことは、問題にしてなかったようですが、薩摩(西郷)が危険視したのは、政治家の坂本龍馬でした。
もし、坂本が存命であったなら小御所会議でも薩長は負けた可能性があったのではないでしょうか。そうなると、9月に土佐を見限った薩摩(西郷・大久保)は、坂本の暗殺を仕組んだ可能性は否定できないのではないでしょうか?
しかし、これは坂本を良く知らない薩摩の早とちりだった訳で、前述したように龍馬はすでに自分の提案した『大政奉還(公議政体論)』では、事態が収まらないことは察知して、早速”武力討幕”に土佐も参戦する方針を出していました。
私見ですが、薩摩(西郷)はこれを知らなかったのだろうと思います。
あの頃の西郷は、もう武力討幕で頭がいっぱいで、邪魔する者はすべて排除するくらいの勢いだったと考えられます。
11月15日の”京都近江屋”で龍馬が暗殺された時、大久保利通も涙した話がありますが、あれは巻き添えを食った中岡慎太郎を悼んでのことだったようです。
中岡は、大久保と組んで討幕を仕組んでいた公卿岩倉具視(いわくら ともみ)の手足となっていましたので、大久保とは親しかったのです。
坂本龍馬暗殺実行犯は、幕臣旗本で京都見廻組のチーフ佐々木只三郎以下4~5名であることが判明しています。
中でも腕っこきの剣客である佐々木只三郎(ささき たださぶろう)は、当時の京都駐在会津藩公用人手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)の実弟でした。
京都見廻組も新選組と同じ京都守護職松平容保(まつだいら かたもり)の支配下であり、そしてボスは当時の会津藩公用人の手代木直右衛門でした。
従来この手の汚れ仕事は新選組の範疇だと考えられるのですが、この時はなぜか”京都見廻組”へお鉢が回りました。
やはり最初は、当然のように”坂本龍馬暗殺は新選組の仕業”と言うデマが誰からともなく流れました。
『禁門の変』での盟友であった関係から、坂本龍馬のあっせんで薩摩が長州と組んだ後でも、会津と薩摩の藩士同志の個人的な付き合いは続いていたと言われています。
つまり京都見廻組へは西郷が手を回せた可能性が充分存在しますし、私が思っているほど西郷達と坂本龍馬は親しくありませんでした。親しかったのは中岡慎太郎の方だったのです。
勿論証拠はありませんが、この可能性は『龍馬暗殺』の動機論からは有り得るかもしれません。
また、有名な話ですが薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允は、超仲が悪くてお互い話をほとんどしなかったことも、龍馬には致命傷だったようです。
木戸と龍馬の方は、若い頃江戸で”有名道場の師範代同志で剣士仲間”だった為に親しかったですけどね。
仮説に過ぎませんが、”坂本龍馬は西郷隆盛の早とちりで暗殺された”とすると、本当に残念なお話ですね。
信じられませんが、薩摩藩要人たちが倒幕挙兵準備の為に帰国している間、京都に留まっていた見分役?の薩摩藩重役吉井友実(よしい ともざね)は、京都河原町の龍馬暗殺現場に駆けつけていて結果を見分し、そのあと関係先に早飛脚を出していますが、その相手の中に有名なイギリス公使館アーネストサトウがいて、このことはアーネストサトウの日記に記されています。
当時の薩摩藩とイギリスの関係がよく分かる話ですね。
西郷、最後の一手は『赤報隊』による江戸騒乱のテロ行為で幕府を挑発?
平和解決派(徳川家の参政維持)の土佐藩山内容堂・後藤象二郎らが実現させた『大政奉還』へ対抗するように、慶応3年(1867年)12月9日に武力解決派(徳川家の追放)の公卿岩倉具視と薩摩大久保利通らが進める『王政復古の大号令』と言う政治クーデターが進められました。
しかし、将軍慶喜は着々と手を打って行き、引き続き政権を徳川家が担当して行くことをどんどん内外に印象付けて行き、武力解決派(武力討幕派)のクーデターを骨抜きにして行きます。
このままでは”倒幕”の意味を失ってしまいそうになり、徳川慶喜の粘りによって政権からの徳川家排除が進まない事に業を煮やした西郷隆盛は、武力衝突のきっかけづくり(幕府への挑発行動)を始めます。
それは、慶応3年(1867年)11月15日の『近江屋事件』であの坂本龍馬と一緒に惨殺された土佐藩陸援隊長中岡慎太郎(なかおか しんたろう)が、慶応3年6月22日に結ばれた”薩土盟約”に先立って、5月21日に西郷を訪問しており、その折土佐の過激派板垣(乾)退助(いたがき たいすけ)を薩摩の西郷隆盛に紹介したことから始まりました。
その時同席した者は、薩摩が西郷隆盛、家老小松帯刀、吉井友実、土佐は中岡慎太郎、乾(板垣)退助、谷守部(干城)、毛利恭助(吉盛)で、西郷と板垣は初対面でした。
・・・中岡の日記に曰く、
乾退等と此の夜、小太夫邸に会し、西郷、吉井集居。
・・・・中略・・・・
乾はいう。「我が藩論常に佐幕に傾く。まことに恥ずかしい。しかし余ら同志の徒も、亦決して寡なくはない。今や断然藩を脱して兵をあげ、討幕の師に加わりたいと思う。・・・」
隆盛言う。「誠に立派なるお考え、感服の外ない。ご意見を聞いて、大いに意を強うする。ぜひ力を合せてもらいたい」
乾言う。「ここに一つお願いがある。江戸に中村勇吉外数名の浪士ーこれは筑波の残党であるがーを匿っておる。まさかの時には役に立つ人物と思う。そのままにして上京したのが、気にかかる。何とか工夫はあるまいか」
隆盛言う。「御心配には及ばぬ。直ちに人をやって田町の邸に潜匿さするようにしよう」
討幕に関する乾と隆盛の一種の密約は、かくして成立したのである。(西郷全集)
(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 明治維新と江戸幕府(二)』《講談社学術文庫》より)
とあり、土佐過激派の板垣退助が組織した浪士隊が薩摩西郷に引き継がれました。
これが西郷・大久保の考えていた武力討幕戦の準備が始まる端緒となりました。
その後在京の西郷は、薩摩浪士が連れて来た江戸育ちの武闘革命の勤皇志士小島四郎(相楽総三)を9月下旬に江戸へそっと送り出しました。
10月上旬に三田の江戸薩摩藩邸に到着した相楽総三(さがら そうぞう)は、西郷が板垣より預かった浪士隊に加えて、各地に潜伏する過激派志士たちへ激を飛ばして、三田の江戸薩摩藩邸への参集を呼びかけます。
慶応3年の12月時点で、薩摩の江戸藩邸にはこうした経緯で、西郷(相楽総三)の命令一下で動ける「水戸天狗党の残党」などを中核にして集められた浪士隊(約500名ほど)が組織されていました。
この『浪士隊』がのちに『赤報隊(せきほうたい)』と呼ばれる西郷の討幕非合法活動部隊になります。
通説では、慶応3年(1867年)11月半ば以降、西郷の指令を受けたこの『浪士隊(赤報隊)』が、”江戸市中騒乱”を引き起こし、『市中強盗暴行致し候に付き』と言う状態で、治安悪化を創り出し、その徒党を組んで悪事を働く下手人たちは皆、三田の薩摩藩邸へ逃げ込んで行くことがはっきりしていました。
江戸の治安維持に責任を持つ幕府に揺さぶりを掛け、社会不安を醸成することによって『幕府の権威失墜』を謀り、幕府側から攻撃を仕掛けさせる為の西郷の”テロ”行為だったと言われています。
結果、ものの見事に幕府は西郷の計略に引っかかり、慶応3年12月25日未明に江戸取締の庄内藩ら4藩の藩兵が江戸薩摩藩邸へ押し寄せ、午前7時頃から攻撃が始まり、江戸薩摩藩邸は焼失します。(薩摩藩邸焼き打ち事件)
これを原因として、幕府と薩摩藩の戦争がはじまり、結果的に幕府(幕藩体制)の息の根が止まる『戊辰戦争』・『明治維新』のきっかけとなりました。
この『浪士隊(赤報隊)』は、薩摩藩が江戸市中の”ゴロツキ”をかき集めて、豪商や一般商家に強盗暴行をやり放題にやったテロ事件と捉えられがちですが、実際には勤皇の志士たちで構成されるきちんとした部隊行動をとった敵後方攪乱・王政復古促進を目的とする軍事行動だったのです。
10月中に攻撃対象の幕府御用商人たちの内定調査を行い、先ず”野洲挙兵隊”・”甲府城攻略隊”・”相州襲撃隊”の40~50人づつの3部隊に分けて部隊編成を終えた相楽総三(さがら そうぞう)は、11月24日から順次出発をさせて地方から作戦を開始します。
各地で小規模な戦闘が行われますが、すべて幕府軍に敗退し、残存者は三田の薩摩藩邸に撤退します。
地方での活動(戦闘)を終えた『浪士隊(赤報隊)』は、12月に入り、今度は江戸市中の幕府に対する激烈な挑発活動を開始します。
攻撃に当って、隊士たちに次の規則を守らせました。
「一二幕府ヲ佐クル者、二二浪士ヲ妨害スル者、三二唐物商法スル者、此ノ三者ハ勤皇攘夷ノ讐敵ト認メ誅戮ヲ加フベキモノトス。私慾ヲ以テ人民ノ財貨ヲ強奪スルヲ許サズ」
(引用:長谷川伸『相楽総三とその同志(一) 中公文庫』より)
事実、個人宅を襲った浪士一名が薩摩邸内で処刑されているようです。
最初の”幕府を助ける者”とは、幕府の御用商人たち、2番目の”浪士を妨害する者”とは、荘内藩についていた”新徴組”、”新整組”、”幕府別手組”、”撤兵組”などです。
薩摩の浪士隊はこの原則を厳しく守って行動しており、通説にあるような手あたり次第に民間人を残虐に殺害はしていなかったようです。
前述の軍事行動など順序立てて作戦を展開しているところから、通説にあるような夜盗まがいの活動・無差別なテロ活動はなかったと見ていいようです。
とはいうものの、当時は”薩摩”を名乗る強盗が横行し、江戸の治安は極度に悪化していました。
彼らの大半は、実は、無頼漢の変装した者、旗本の三男坊などで遊蕩に身を持ち崩した者が多かったようです。
当時、幕府を始め諸藩の財政状況は極度に悪化しており、御家人に対する家禄も半高が”御借り上げ”となり、つまり年収半減していて、生活難から”薩摩を名乗る強盗”に変身するケースが後を絶たなかったようです。
薩摩藩もその意味では、とんだ濡れ衣となったものですね。
まとめ
薩摩藩は、島津斉彬公の頃より幕政に参加する外様雄藩大名のポジションを目指して対幕府政策を進めていました。
それが、幕末五賢候たち、蘭癖(らんぺき)大名と言う改革派の領主たちと連携する動きとなって行きました。
260年も続いた徳川幕府の鎖国政策が世界の時流の中で、もはや維持することが不可能になりつつあり、国防問題、外交問題にどう対処して行くかの主権者としての徳川幕府の政治能力が問われる時を迎えていました。
徳川の”幕藩体制”と云うものは、”武士社会”の基本構造を支えており、基本的に幕府は気に入らなくても”幕藩体制”に替わるべき政体が想像できずに、この体制の変更『維新・革命』と言う考えが武士階級には皆無であった言えそうです。
つまり、”維新”に対して新たな”政体転換”をイメージするのは、完全に歴史の後知恵であって、当時においては、せいぜい”天下取り”とか”徳川に取って代わる”くらいの感覚ではないかと思われます。
薩長の重役たちも、徳川幕府が世界の時流に対応できないがゆえに、新しい考えを持っている自分達の”幕政への参政”を求めるところから入って行く訳です。
所謂幕末の五賢候たちの発想もそこまでだったと思われます。
案外一番進んでいたのは、”徳川慶喜”だったのかもしれません。
慶喜はかなり早い段階(将軍になる前)から”藩制度の廃止と郡県制への移行”を考えていました。
政体変更で一番重要なのは、本当はここなので、明治新政府にしても西郷が『廃藩置県』をやって初めて”本当の政体転換”が出来ているのです。
島津久光などは、最後に気がついて『廃藩置県』に猛烈に反対しています。冗談でしょうが、久光は『西郷は、俺をいつ将軍にしてくれるんだ。』と言っていたと伝わっています。
中央集権制と統一国家の認識が全くないのです。こんな人が幕末政治を動かしていたのですから、あとは推して知るべしでしょう。
西郷隆盛は、軍事に強い国際政治家として、”討幕を決意”したあたりから、新政府のイメージが出来上がっていたのではないかと思います。
最初の頃に、土佐藩後藤象二郎の『公議政体論(大政奉還)』に乗っていたのも、260年間も続いた徳川家を排除するならその段階を踏む位のことも必要かと思っていたからではないでしょうか。
しかし、後藤の上に立つ”山内容堂の発想”が徳川をトップに置いた雄藩会議の枠を全く脱却できない事が判明すると、土佐との政治的連携には見切りをつけて、徳川体制を完全に解体する武力討幕の方向へ舵を切ります。
すでに慶応3年(1867年)5月末に土佐武闘派の板垣退助と出会った後の段階では、朝敵にされた為に政局の表舞台に出て来れない長州重臣たちと過激派公卿岩倉具視や土佐藩陸援隊長中岡慎太郎を介して、盟友大久保利通、家老小松帯刀らとも意見を合わせて『武力討幕』の方針は固めていたと考えられます。
それでも、長州にイライラされながらも土佐藩後藤の倒幕挙兵に期待して、『大政奉還』に付き合っていたのでしょう。
あの時、後藤は山内容堂を説得出来て、土佐藩が薩摩に付き合って本格的に挙兵していたら、ひょっとすると新政府での後藤総理大臣、板垣総理大臣もあったかもしれませんし、日本での自由民権運動は存在しなかったかもしれません。
坂本龍馬も途中で薩摩の動きに気がついて、土佐に小銃を数百丁急遽船で送ったりして後藤象二郎の側面支援をしますが、頑迷な山内容堂には全く通じなかったようです。
西郷隆盛の”江戸騒乱”演出による、幕府への挑発行動における『赤報隊』の乱暴狼藉に関して、ならず者を多数使って一般商家を襲い殺戮をしたい放題したと言うような話は、前述のとおり、どうも薩摩の名を語った別人たちの犯行だったようで、薩摩藩邸の浪士隊の行動にはきちんと行動基準と規範があったことが判明しました。
しかし、『赤報隊』はその後官軍の一員としても戦闘を行ったにもかかわらず、維新の汚れ仕事を行なったことが原因なのか、逆賊として処刑されてしまいます。
新政府は『赤報隊』の存在そのものを消したがっていたようで、要するに『赤報隊』の討幕志士たち・若者たちは、結局”政治の捨て駒”されたことが分かります。
そこに『明治維新』と言う歴史的な大きな政治事件の怖さを見ることになりました。
スポンサーリンク
参考文献
〇星亮一 『戊辰の内乱』(2006年 三修社)
〇福地源一郎 『幕末政治家』(1989年 平凡社)
〇安藤優一郎 『幕末維新消された歴史』(2014年 日経文芸文庫)
〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 明治維新と江戸幕府(一)~(四)』(1979年 講談社学術文庫)
〇宮地佐一郎 『龍馬の手紙』(2008年 講談社学術文庫)
〇アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新(下)』(1983年 岩波新書)
坂田精一訳
〇安藤優一郎 『「幕末維新」の不都合な真実』(2016年 PHP文庫)
〇長谷川伸 『相楽総三とその同志(上・下)』(1991年 中公文庫)