執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
西郷隆盛の『名言』が日本の歴史を動かした!ホント?
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明治の元勲西郷隆盛の有名な『名言』と、歴史的事件が結び付きます。
明治維新後に不可思議な行動をする西郷隆盛の本心の一端が見えて来ます。
『明治維新』の真相・内実が見えて来ます。
目次
西郷南洲の『名言』とはなに?
西郷隆盛は政治家・軍人であって文筆家ではないので、著作は残していませんが、書簡・揮毫以外にも詩作などが伝えられています。
残っているまとまった記録で一番有名なものは、荘内藩士が残した『西郷南洲遺訓(さいごうなんしゅういくん)』です。
これは、荘内藩主酒井忠篤(さかい ただずみ)自らが藩士70余名を連れて、明治3年に薩摩を訪れて、100日余りを西郷の身近で共にした荘内藩士の菅実秀(すげ さねひで)・三矢藤太郎(みつや とうたろう)・石川静正(いしかわ しずまさ)らが、帰国してから西郷の言行録をまとめたもので、最初は書き写されて広まりやがて明治23年になって出版されました。
本来『西郷南洲の名言集』となれば、人生の糧になるような西郷の発言を採るのが普通でしょうが、ここでは西郷隆盛が歴史的人物であることに焦点を当て、沢山ある『西郷隆盛の言行』の中から、いくつか歴史の分岐点になるようなものを見てみましょう。
『名言』と言う事なので、出来るだけ西郷本人の”発言”に絞って見てみます。
西郷の行動・考え方(言わば生活信条とか人生哲学など)に関しては、本人の行動と他人の証言・評価などが多数ありますが、”本人の発言(書簡も含む)”に絞るとなかなか難しいものです。
(画像引用:エドアルド・キョッソーネによる西郷隆盛のコンテ画)
『短刀一本あれば片が付く』
これは日本の歴史を動かした”西郷の一番有名なひと言”ではないかと思います。
慶応3年(1867年)12月9日に決行された『王政復古の大号令』(その実は西郷隆盛・大久保利通が倒幕派公卿と組み、明治幼帝を掌中に収めた上で実行した”軍事クーデター”)が実行された直後に、京都御所で『小御所会議』と云うものが開催されました。
これは、明治帝臨席の下に、クーデターで決められた職制である”三職(総裁・議定・参与)が徳川家の処置を決める会議”でした。
出席者は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)・岩倉具視(いわくら ともみ)・福井藩松平春嶽(まつだいら しゅんがく)・土佐藩山内容堂(やまのうち ようどう)・尾張藩徳川慶勝(とくがわ よしかつ)・薩摩藩島津忠義(しまず ただよし)・安芸広島藩浅野長勲(あさの ながこと)らです。
陪席として、大久保利通(おおくぼ としみち)・後藤象二郎(ごとう しょうじろう)・辻将曹(つじ しょうそう)らで、西郷隆盛(さいごう たかもり)は参加をせずに警備を行っていました。
会議は倒幕派公家の岩倉具視が『徳川慶喜の”辞官納地(じかんのうち)”を先ず実行して誠意をみせるべきだ。』との主張を繰り返し、土佐藩の山内容堂が『肝心の徳川慶喜の出席を認めない会議の開催を責めて、この”王政復古の大号令”が、幼帝を担いで、権力を私しようとしている陰謀である』と非難しました。
この指摘は正に事実なので、会議は紛糾し一時休憩となりました。
その合間を見て、陪席していた薩摩藩岩下佐次右衛門(いわした さじえもん)が、早速この会議の経緯を警備で控える西郷に伝えると、西郷がひと言『短刀一本あれば片が付く』と漏らしたと伝えられています。
この場面を、徳富蘇峰は、『近世日本国民史ー”明治維新と江戸幕府(四)”』の関係部分(この部分を下記引用)に、『西郷全集ー西郷伝』より引用して;
隆盛はこの朝議にはわざと列せず、大久保に一切を譲って、自分は外にあって、各所の警戒、諸軍の指揮、諸藩の動静の注意等に奔走していた。岩下は隆盛を非蔵人口(ひくろうどぐち)にわざわざ呼び出し、その意見を求めた。
西郷は泰然として言った。「今となっては、口舌(こうぜつ)では埒(らち)が明かぬ。最後の手段を取って頂きたいと、岩倉さんに言ってくだされ」
岩下は直ちに入って、岩倉にこのことを告げた。岩倉はこれを聞いて、静かに首肯(うなず)き、短刀を懐(ふところ)にして、浅野長勲(あさの ながこと)の控え席へ行き、己が決意を告げた。
(『西郷全集ー西郷伝』を引用)
と文献引用して記しています。
この話が前述の『短刀一本あれば・・・』と云う話となり伝わっているのではないかと思いますが、実際この時、西郷は薩摩藩兵を藩主同行の下に3000名引き連れて上洛しており、その圧力たるや相当のモノだったと思われます。
当然、この西郷の”恫喝(どうかつ)”は、非常に効果を発揮して、このあと『小御所会議の山内容堂』は、縮みあがってしまい、発言が全くなくなり、岩倉の思い通りに会議はすすんで行くことなります。
まさに、明治維新の端緒をつける歴史を決めた重要な『ひと言』となりました。
この西郷の恫喝発言が飛び出した背景ですが、奈良本辰也氏の『西郷隆盛語録』に収録された西郷書簡を引用しますと;
(慶応3年12月8日岩倉具視宛て)
・・・わが皇国が今日の危機に立ち至った大罪は幕府の責任であること、これは論をまたず明白なことであります。だからこそ先々月十三日に決定なされた、あの討幕の密勅が出るという事態にもなったわけです。
・・・徳川家の官位一等を降ろし、諸侯の地位にくだし、領地は返上させ、朝廷に罪を謝するところまで持ってゆかねば世論に背くことになり、・・・。
右に伺った徳川家処分案は少しも手をゆるめず、・・・・。
いささかでも私心を以って大事を論じてはならぬこと、かねがね申し上げているとおりでございます。
(慶応3年12月11日付蓑田伝兵衛ー島津久光側近宛て)
・・・朝八時ごろになると二条摂政をはじめ幕府方の公卿が退朝しはじめたので、急いで軍勢を手配して御所を固めて行きました。・・・
・・・あのとき幕府側のほうの手で早く固められてしまえばどうにもならなかったわけで、まったく危いところだったのですが、これを盛り返す良いチャンスになり、薩摩の兵を出して御所の出入口を固めたのです。
会津、桑名のほうは一時ひじょうに仰天していましたが、・・・・事を決行する以前から、会津と桑名は出動してくるのではないかという推測が強かったのですが、その場になって気後れしたのか、さっさと兵をまとめて二条城にひきあげてしまいました。(引用:奈良本辰也氏『西郷隆盛語録』より)
などと、『小御所会議』前日の岩倉卿を激励したり、主君久光には『小御所会議』での手配りと幕府側の動静などを詳しく報告しています。
こうした訳で、西郷隆盛が3000名の薩摩藩兵を率いて幕府側(会津・桑名勢)の軍勢をけん制しつつ、強引に御所警備に付いた様子がはっきりわかり、強い調子で御所会議で奮闘する岩倉卿を、御所を取り囲んで軍事サポートしていたことが判明します。
この西郷が作り出した現場の状況が『小御所会議』出席の諸侯(特に山内容堂)をすっかり黙り込まさせてしまった理由なんです。
西郷の『短刀一本』発言は、ただの威勢の良いホラ話ではなく、この御所を固めた薩摩藩兵の軍事力を背景に言われたものだったんですね。
『今は、ただ”断”の一字あるのみ。』
明治4年(1871年)7月9日東京九段木戸孝允邸に、木戸孝允、大久保利通、山縣有朋、井上馨、西郷隆盛、西郷従道、大山巌らが参集し、明治新政府の重要政策『廃藩置県』が話し合われました。
当日、荒天の中で行われ議論多出してあてもない議論の末、西郷がひと言;
もはや議論の余地はないと思う。どうせ反対するものはあろうが、今はただ『断』の一字あるのみ。実施に当って不穏の事態があったら、その処理は拙者が引き受け申す。
(引用:西田実氏『大西郷の逸話』第一部より)
この一言で、『廃藩置県』は決まり、7月14日には『廃藩置県の大号令』が発せられ、新日本政府の統治形態が決まりました。
この知らせを聞いて、最も驚き、反発激高したのは、鹿児島にいる西郷の主君の父で薩摩藩の最高権力者であった”島津久光(しまず ひさみつ)”だったと言います。
藩祖以来の主権を新政府に奪取されて、怒り狂い”手打ちにしてくれん!”と怒鳴り散らしたと伝えられています。
これにより、明治新政府は中央集権化へと大きく進み、『近代国家』としてのスタートを切って行きます。
『児孫ノ為ニ美田ヲ買ハズ』
幾たびか辛酸を経て志はじめて堅し。丈夫玉砕、甎全(せんぜんー何もしないでいたずらに身の安全を図る事)を慚ず(はず)。一家の遺事、人知るや否や。児孫のために美田を買わず。
(引用:『西郷南洲遺訓』の第五項より)
西郷隆盛は、18歳から10年間は薩摩藩郡奉行の書役を務めて、地方農村各地を巡視していた為、一般庶民の苦労・人情・風俗に至るまで知り尽くしていて、藩財政にも精通していました。
見かけの茫洋とした感じと裏腹に極めて数字に強く、将来を見渡した財政政策について確たる意見を持つ人物で、そこを当時の藩主島津斉彬(しまづ なりあきら)が目をつけて重用することとなり、西郷は世に出るきっかけを得たわけです。
例えば、西郷が留守政府の首班格になっている明治5年に、東京府から”銀行設立に関する出願”があったところ、大蔵省の反対する中、これを断行したことは有名な話のようです。
後年、日本金融の父渋沢栄一(しぶさわ えいいち)翁が『西郷さんは大度量大見識の反面、財政面でも極めて細かいところに気の付く人であった。』と感想を述べています。
又、、、
會計出納は制度の由て立つ所ろ、百般の事業皆な是れより生じ、経綸中の概要なれば、慎まずばならぬ也。其大體を申さば、入るを量りて出づるを制するの外更に他の術数無し。・・・
(引用:『西郷南洲遺訓』第14項より)
と説いており、『入るを量って出づるを制す』は国家財政の基本ですが、西郷はきっちりと財政の基本を押さえて指摘しています。
こうした事を十分わかった上で、すべて天下公民のためにとして、自ら私することを全くせずに、淡白・清貧素朴な生活を押し通していた西郷の姿勢がうかがわれますね。
『大事にとりかかるとき、機会は自分で引き起こしてゆくのでなければならない』
事にかかわる機会には二つのかたちがある。僥倖(ぎょうこう)の機会と、自分が引き起こす機会の二つだ。
大丈夫は決して僥倖の機会を頼りにしてはならない。大事にとりかかるとき、機会は自分で引き起こしてゆくのでなければならない。
英雄の事蹟を見ると、彼が自分で引き起こした機会が僥倖の機会であったかのように思われるのだが、ここはよく気をつけなければならないところだ。(引用:奈良本辰也氏『西郷隆盛語録』第二章”問答”より)
とありますが、、、
これで、思い出すのが、『戊辰戦争』のきっかけとなった幕府江戸警備役の荘内藩・新徴組による『江戸薩摩藩邸焼討ち事件』です。
西郷は、『王政復古』のクーデターの失敗(小御所会議の結論だけでは徳川慶喜に政権関与の意志を放棄させることが出来なかったこと)から新政体からの徳川家排除に失敗し、このままでは”維新”はなりません。どうしても”徳川家の排除”をするためには、一度武力衝突による”討伐・破壊”をやる必要性に迫られてきます。
そこで、土佐派の板垣退助が組織した”牢人隊”を貰い受けていた西郷は、江戸の三田藩邸に匿っていた彼らの出動準備をさせていました。
この部隊に徳川家のお膝元の江戸で騒乱を引き起こして、幕府側から先制攻撃させる謀略を企み、江戸の薩摩藩邸に匿った”牢人隊(のちに赤報隊と称した)”にテロ活動を命じます。
市中の豪商・幕府の出先を武力で襲っては薩摩藩邸へ逃げ込むと言うあからさまな挑発行為を仕掛けた訳です。
結果は思い通り、江戸市中の治安維持を任務とする荘内藩(治安維持部隊)は、慶応3年(1867年)12月25日に、とうとう”西郷のワナ”に掛かって、テロリストの巣窟と化した江戸薩摩藩邸への砲撃を加えこれを炎上させてしまいます。
これは慶応4年(1868年)1月に入って、幕府軍が薩摩を攻撃する戦争へと発展して行き、西郷の思惑通りに薩長土肥連合軍は『武力討幕』の名目を得て、『戊辰戦争』を始めることが出来ました。
まさに、西郷は自分から『機会を引き起こして』行きました。
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『それでは俺どんの身体をあげまっしょう』
西郷は、明治6年(1873年)10月いわゆる『征韓論』に敗れて公職を辞し下野して、新政府に関わり合いになるのを嫌がって故郷の鹿児島へ引きこもりました。
そして中央政府に批判的で下野した西郷に従って職を辞した新政府の文武官はなんと600人以上にのぼりました。
その後の彼らへの対応処遇が、失業した士族対策とともに問題となって来たため、西郷は桐野ら付き従った幹部とも相談の上、明治7年(1874年)6月に教育的意図から『私学校』(銃隊学校・砲術学校・幼年学校・開墾社)の創設を決めました。
掲題の西郷発言は、その私学校生の暴発により、話がどんどん大きくなって行き、ついに明治10年(1877年)2月5日に、西郷が旧鹿児島城址にあった『私学校』の150畳敷きの大講堂で開かれた”大評定”で暴発した私学生たちを前にして、『起こってしまったことは致し方ない』の発言に続けて発言したものでした。
この時から、明治維新期における最後の不平士族の暴動である『西南戦争』が始まることになったのです。
この歴史的な事件(西南戦争)の鎮圧後、日本国内での組織的な武力反乱は終息して、日本は武士が統治する時代を脱却して”近代のスタート”を切ることが出来ました。
『名言』に分類は出来ないかもしれませんが、西郷の”歴史を作る有名な発言”のひとつとなりました。
『晋ドン、ここでよかろう』
明治10年(1877年)2月15日の西郷軍の東上進発により始まった『西南戦争』も、”熊本城包囲戦”に続く、明治10年3月20日に官軍に攻め落とされた『田原坂(たばるざか)の激戦』で峠を越え、9月24日に鹿児島城山への官軍総攻撃で終焉を迎えました。
9月24日の午前6時過ぎから、籠っている城山の岩崎谷の洞から出た西郷は、集まって来た幹部に守られながら前進し、あくまで戦死の形を取る考えだったのか、被弾するまで進み続けて大腿と左わき腹に銃弾を受けてから、『晋ドン、ここでよかろう』と言い、東方の宮城を遥拝した後、自刃し別府晋介が介錯(かいしゃく)をして落命しました。
戦闘は午前4時から9時までの5時間ほどの間で、降伏者も結局銃殺されて西郷軍は壊滅しました。
掲題の西郷発言が、生前最後の言葉となり、”武士階級”が日本から消滅した歴史的瞬間でもありました。
『萬民の上に位する者、己を愼み、品行を正くし、・・・』
萬民の上に位する者、己を愼み、品行を正くし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職時に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤勞を氣の毒に思ふ様ならでは、政令行はれ難し。然るに草創の始に立ながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戰も偏へに私を營みたる姿に成り行き、天下に對し戰死者に對して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。
(引用:『西郷南洲遺訓』の第四項より)
とある中に、西郷が盟友大久保利通も含む新政府首脳陣に覚える不快感を強く感じる事が出来ます。
西郷の理想としていた”維新の新政体”を大きく汚す彼らの所業に対して、ひどく失望を覚えていたことが彼の維新後の行動に大きく表れて来ます。
その観点に立って、新政府首脳陣の出す政策に対しても批判的に行動するなど、失望して彼らから離れていく行動を取ってゆく事になります。
『明治の元勲』としてひとくくりで考えていると西郷隆盛の不可解な行動が奇異に感じられるのですが、上記の観点に立つとかなり理解できるのではないかと思います。
”自分は理想に向かって、心底頑張って来たのに、政治的に姑息に功利的に行動する者ばかりで、一体どうなっているのだ”と言う感じが近いのではないでしょうか。
この辺りに、”西郷隆盛”が維新の英雄としてだけではなくて、万民に愛されるのは、その愛すべきキャラクター以外にその博識と”クソ真面目さ”と言う面が評価されて、『偉人』として尊敬もされているようです。
『敬天愛人』
この言葉は、西郷隆盛の所謂”南洲精神”の代表的なものとして広く知られています。
先ず、、、
道は天地自然の道なるゆゑ、講學の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。・・・總じて人は己に克つを以て成り、自らを愛するを以て敗るゝぞ。・・・
(引用:『西郷南洲遺訓』の第21項より)
次に、、、
道は天地自然の物にして、人は之を行るものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。
(引用:『西郷南洲遺訓』の第24項より)
とあり、西郷精神の中核を占める言葉です。
”新政府の幹部連は、自分を愛するがあまり、人の道を外れている”と鋭く指摘する西郷隆盛の気持ちが強く出ているようです。
西郷が新政府に同調しなくなっていく大きな理由はそこにあると考えられます。
『人を相手とせず、天を相手にせよ』
この言葉は、、、
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを盡て(つくして)人を咎めず(とがめず)、我が誠の足らざると尋ぬ(たずぬ)べし。
(引用:『西郷南洲遺訓』の第25項より)
にあるものです。
事が巧く運ばない時に、人の間違いばかりを攻めたてていないで、自分が本当に誠意をもって事に当たっていたかを深く考えなおしてみなさいと言うような意味です。
なかなか素晴らしい言葉で、西郷南洲が『人の道』を説いていることがよく分かる一節ですね。
西郷隆盛の明治維新
江戸時代、”武士階級”の要職の人材は世界でも屈指の知識人であったことは、その後の外国との対応に関しても大きく間違った対応をしていなかったことからはっきりしています。
”幕末から明治期のヨーロッパ諸国から訪れる人々の日本に対する驚き”と云うものは、植民地化を成功させたアフリカ・中南米・中東・東南アジアで経験して来た彼らの常識が大きく覆されたことによるものだったのでしょう。
あれを賞賛(日本人は凄いとか素晴らしいと言うような言葉)と受け取るのは、ちょっと問題で、彼ら欧米人からみれば、日本人はただの蒙昧な未開人だと決めつけて来てみたら、かなり違ったという程度でしょう。
勿論自分たちよりも賢いとは絶対認めていないはずですね。当時はまだまだそう言う時代でした。
そこで、西郷隆盛です。。。
西郷は、青年期より体が大きく力士のような大兵だったため、力任せの乱暴者と見られそうですが、どの社会に入ってもその探求心と物の道理をわきまえた態度から一目置かれる存在になって行きました。
これは西郷が、幼少期より薩摩城下の特徴ある幼年育成組織『郷中(ごじゅう)』の中で、”二才頭(にせがしら)ー指導者”として人望を集めていた(リーダーシップがあった)こととも関係があります。
長じて藩に出仕して下僚として、下積みを10年間も続けますが、真摯に向き合い農村と庶民の生活に通暁し、藩内の経済基盤を調べまくり、下僚(郡方書役)の時に、農民の生活向上に関する意見書を藩庁に上申するなどしていました。
数字と書に強い西郷の意見書は、すぐに藩の中枢の目に止まることとなり、やがて西郷にとって運命の藩主島津斉彬に引き立てられて行く事となります。
このように西郷は『武』だけでなく、『文』の才能も発揮しながら、幕末期に薩摩藩が歴史への再登場を果たす、まさに中央政界への足掛かりをつけ始めた丁度その頃に、薩摩藩の中枢に登りつめて行くこととなります。
運が良いと言うよりは、”時代が西郷隆盛を引き寄せた”と考えた方が、より理解が出来そうな気がします。
下級武士の出身ながら、島津斉彬公に重用された西郷は藩内の嫉妬と羨望の目をものともせず、斉彬公の死後も幾多の苦難を乗り越えて、相棒の大久保利通と共に薩摩藩の政治を引っ張って行き、実権を握って行きます。
嘉永6年(1853年)の『ペリー来航』以来、崩れ始めた徳川の幕藩体制は、安政7年(1860年)の『桜田門外の変』で大きく権威を失墜しました。
そのため、政権の主導権が徐々に”江戸の徳川幕府”から”京都の朝廷”へ移り、以後の政局は京都を中心に動き始めます。
そして文久3年(1863年)の『薩英戦争』以来、国内で260年ぶりに本格的な軍事行動が頻発するようになり、西郷隆盛の活躍の場は大きく広がって行きます。
慶応2年(1866年)の第2次長州征伐の敗戦によって、幕府は完全に政治の求心力を喪失し、慶応3年の年末から慶応4年の年初に向かって、西郷隆盛を中心として『戊辰戦争』と云う名の『薩長軍事クーデター』が起こされ、慶応4年(1868年)4月にとうとう幕府は”クーデター政府”に降伏することとなります。
そこに至る西郷の最後の軍事行動(武力討幕)にかける迫力はすさまじく、この時ばかりは日頃の聖人君主の仮面をかなぐり捨て、無辜(むこ)の民である一般人の殺戮さえものともしない西郷の暴力性(獣性)を発揮して行きます。
そのため、所謂『明治維新』は、西郷ひとりの軍事統率力で成し遂げたと言って良い実相となりました。
慶応4年(1868年)4月に江戸城を開城し、江戸幕府を政権の座から引き摺り下ろした後の西郷は、もはや暴力性・獣性は消え、目的を失った世捨人のような気持ちになっているようです。
気を取り直して、新生日本を建設する政府づくりを始めた西郷の目に映るのは、幕府を倒してすっかりいい気になり、傲慢になって腐敗しているクーデター政府の要人たちの態度でした。
西郷の理想とは大きくかけ離れた、権力に溺れる低俗な元志士たちに大きく失望し、うんざりして、すっかりやる気を失くした西郷は、没落した士族階級の救済に頭を悩ます日々となります。
さすがの西郷もこの対応プランが浮かばなかったようですね。
まとめ
西郷隆盛は、『明治維新』の大功労者であり、また明治新政府の大重鎮ですが、明治10年からは一転して、『朝敵』・『反逆者』・『賊軍』となり、波乱万丈の人生を送りました。
しかし、元荘内藩士たちが作成した『西郷南洲遺訓』によって、西郷隆盛の『言行』が広く一般に広まることとなりました。
この『西郷南洲遺訓』は、
- 人生観に関すること
- 政治に関すること
- 経済に関すること
- 自己修養に関すること
- 教育に関すること
などに大別されていますが、全体が教育書のようなものになっています。
そんな訳で、西郷南洲は大教育者として、尊敬されているようです。
本稿は、冒頭で述べましたように、西郷隆盛として幕末明治の歴史を動かして来た折々の『名言』に注目してみました。
私見ですが、本来粗暴ではなく、温和な性格の西郷が、鬼となって『武力倒幕』まで仕掛けて、新政体を作り上げたはずなのに、出来上がった新政府は西郷の思いとは全く違うもので、その失望たるや想像に余りあります。
西郷の理想の政府は、『西郷南洲遺訓』に書かれているように、腐敗することなく、国民を圧迫せず、『天道』を踏み外さない政府でなければならなかったのです。
西郷の嘆きは、『西郷南洲遺訓』の第4項に出て来ます。
西郷が自ら壊し、潰してしまった『武士階級』ですら持っていた倫理観が、新政府の幹部たちには見られず、盟友の大久保利通さえもその動きに感化されていることに、西郷は深く失望し、傷ついて行きます。
人は、大西郷は軍人としては大成功者だったが、所詮『政治家』としては失敗者だったとも述べています。
これは、、、
”偉人西郷”にも読めなかった、”凡人の業(権力欲)”が彼を殺したと言う事なのでしょうか。
ここに挙げた『西郷の名言』が西郷隆盛の作った歴史と結びつけて理解していただければ幸いです。
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参考文献
〇西田実 『大西郷の逸話』(2013年 南方新社)
〇山田済斎編 『西郷南洲遺訓』(2000年 岩波文庫)
〇奈良本辰也/高野澄 『西郷隆盛語録』(2010年 角川ソフィア文庫)
〇徳富蘇峰 『近世日本国民史-明治維新と徳川幕府(四)』(1979年 講談社学術文庫)
〇原田伊織 『大西郷という虚像』(2016年 悟空出版)
〇安藤優一郎 『幕末維新消された歴史』(2014年 日経文芸文庫)