執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
西郷隆盛は『西南戦争』で新政府にお灸を据えた!ホント?
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明治維新最大の功労者であり、その後逆賊となってしまった西郷隆盛の謎を解明します。
明治維新後の最大の謎『なぜ、西郷隆盛は西南戦争を起こしたか?』を明らかにします。
当時の西郷隆盛の信奉者たちはどうして西郷を見捨てたかをお話します。
目次
そもそも『西南戦争』ってなに?
明治元年(1868年)の明治維新成立後、岩倉具視(いわくら ともみ)・木戸孝允(きど たかよし)・大久保利通(おおくぼ としみち)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)ら政府首脳は、明治四年(1871年)7月14日に懸案の『廃藩置県』を断行して、ここに明治新政府の中央集権を確立しました。
その4か月後の11月11日に、『廃藩置県』政策への反発勢力からの影響・反動がくすぶる中、その対応を実質西郷隆盛が首班となる”留守政府”に全て放り投げて、欧米視察の旅行に出発します。所謂『岩倉使節団』です。
”使節組”不在中に巻き起こった”朝鮮遣使問題”を巡って”征韓論”へと発展し、閣議決定したものの、帰国した岩倉具視と大久保利通の奇略によって”朝鮮遣使”は葬り去られ、正式な閣議決定を違法行為までして阻止する政府に失望した西郷は、そのまま責任を取る形で明治6年(1873年)10月に下野して鹿児島に帰国します。
帰国後しばらくして、帰国士族の乱れを心配して、西郷を指導者として戴く”私学校”が地元の官民の鹿児島士族の有志多数の協力により一部公費も使って設立され、西郷は行動を共にして新政府を辞した仲間とともに人材の育成を始めます。
その後、西郷の『私学校』は、出身者が県の要職を占め始め、鹿児島政界の中で一大勢力と化して行きます。
言い方を変えれば、鹿児島(薩摩)は、明治新政府の政治方針に従わない”独立国”の様相を帯び始めます。
危ぶみながらも静観していた政府首脳陣(大久保利通)は、こうした西郷の行動をもう看過出来ず反政府行動の準備と見なして監視の目を強め、鹿児島への密偵派遣を実施します。
そうした中、政府が予防措置として、鹿児島にある陸軍草牟田(そうむた)弾薬庫から武器弾薬を三菱商会の赤龍丸にて大阪へ移動させようとしたところ、一部の私学生が暴発して明治10年(1877年)1月29日夜にこれを襲撃略奪します。
これをきっかけとして、西郷の下に集まった鹿児島士族と政府の間が急速に険悪化して、『西南戦争』へと発展して行くことになります。
と言う通説の流れですが、実はすでに早くから政府側の薩摩に対する政策意図は「私学党の攪乱、西郷隆盛の暗殺、間髪入れずに熊本鎮台の軍事出動」であると言う情報が、私学党へは噂のように伝わっており、そこへ、政府側の”鹿児島県令へ無届”での、武器弾薬を上方方面への移送する動きが出たため、すぐに新政府(大久保利通)の弾圧手口に思い当たって、”すわっ!「佐賀の乱」の二の舞か!”と私学党は対抗措置として武器弾薬の確保に向かったのでしょう。
この事件の直後2月3日あたりで、政府の放った密偵”中原尚雄(なかはら ひさお)”が鹿児島警察に捕縛され、噂であった西郷暗殺情報が事実として確認された形ともなり、こうした騒ぎは拡大の一途を辿って、次第に手が付けられない状況になって行きます。
どうやら客観的に見て、仕掛けたのは政府側だと言われても仕方のない流れというより、今か今かと私学党の蜂起を待ち受けていた、つまり挑発を続けていたと言うのが真相のようです。
西郷率いる薩軍(私学党)は、2月5日に私学校で幹部会議を開き、結果”東上出陣(挙兵)”することに決します。
2月7日に西郷は鹿児島県令大山綱良(おおやま つなよし)のところに出掛けて、西郷自ら大兵を率いて上京し、政府に問いただす行動に出る事を通告し、併せて政府・沿道の府県・鎮台への通知方を依頼します。
2月15日から順次鹿児島を出発しますが、西郷の様子はあくまでも攻め上るのではなくて、幕末に藩主島津久光が1000名の藩兵を率いて東上したように、西郷も陸軍大将として1万6千もの大兵を率いて鹿児島から上京し、『今般、政府へ尋問の筋これ有り』と政府を詰問すると言う体裁でした。
しかし、政府はすでに1月29日の草牟田弾薬庫襲撃がある前から、”鹿児島私学党”の掃討準備を進めており、もはや西郷軍(私学党)に恐れをなしてとか西郷隆盛に同調してなどと言う段階ではなく、満を持して待ち構えていたと言った方がよい状態となっていました。
山縣有朋(やまがた ありとも)陸軍卿(長州出身)は、1月28日には熊本鎮台の司令官に谷干城陸軍少将(土佐出身)を配置し、同時に東京の大山陸軍少輔にも警戒の指示を出し、2月9日には全国の鎮台司令官に警戒令を出しています。
とことん西郷を恐れ嫌う新政府重鎮木戸孝允(きど たかよし)を頭に長州閥を中心に、事実上の西郷討伐準備が進められていたのです。(成立初期の新政府内で木戸と西郷の不仲は有名な話です。)
薩摩出身者は木戸らの意図を感じるだけに、事前に西郷を何とかなだめられないかと西郷の親戚筋の川村純義(かわむら すみよし)海軍大輔(かいぐんだいゆう)などは軍艦で鹿児島まで乗りつけ最後まで西郷との接触を試みようしますが、かなわず西郷軍の進発を迎えます。
2月19日、待ちに待った西郷軍進発の連絡を受けた政府は即座に『征討令』を出し、『戊辰戦争』で東征大監督だった”有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)”を征討監督に据えて、25日には西郷らの官位ははく奪されて、『朝敵』となりました。
こんな状況ですから、西郷軍は政府への”強訴(デモ)”のつもりもあって進発したものの、待ち受ける相手は叛乱軍制圧を目的とする日本陸軍である正規軍でした。
”朝敵”・”賊軍”となった西郷軍に帰順する者など”不平士族”ら以外は出て来ませんし、最初の思いとは大きくかい離して、最初から戦争を覚悟せねばならない事態となりました。
もうこの段階で勝負はついていたと言えるでしょう。
それでも”西郷軍”は政府軍相手に善戦をしましたが、3月20日の”田原坂陥落”の後、徐々に敗走を続け9月24日に鹿児島の城山で西郷の自刃をもって7か月に亘る戦を終え壊滅します。
この明治10年(1877年)の『西南戦争』以後、旧武士階級の騒乱はなくなり、国内を固めた明治政府は内政から外交へと目を転じて行きます。
私見ですが、もし”岩倉使節団”の派遣がなければ、西郷隆盛が『征韓論』に関わる政争に巻き込まれることも、その後の下野、そしてひょっとすると『西南戦争』もなかったかもしれませんね。
(画像引用:ウィペディア西南戦争)
西郷は『西南戦争』に勝つ気があったの?
そもそも”西郷隆盛の戦”は、”徳川幕府を倒す戦『戊辰戦争』”で終わっていたのではないかと思います。
つまり、徳川幕府を壊してしまった後の、期待していた新政府の惨状に義憤も感じ、”倒してしまった徳川家に申し訳が立たない”と迄感じていたようです。
かの福沢諭吉は『西郷は生涯で二度政府の転覆を図って、最初は成功し、二度目は失敗した』と述べているようですが、西郷の最初の『倒幕(戊辰戦争)』はその通りだと思いますが、二度目の『西南戦争』は、最初の戦争で討幕後のビジョンの無かったことに気がついていた西郷が二度目もビジョンの無いまま戦争(政府転覆)を企てたかと云えば”否”でしょう。
彼は、社会の大変革をもたらした『倒幕』が、武士階級の失職・没落を招き、それに対する納得の行くビジョンが描けない現実に激しく失望し、岩倉・木戸・井上らのように『倒幕』して浮かれてなどいないのです。
戦争のもたらす『変革』、言わば”政治の現実”に、『岩倉使節団』のお陰で、全部”留守政府首班”として引き受けることとなり、政治の持つ重圧に西郷はほとほと疲れ果てていたに違いありません。
やはり、西郷は武人・思想家であっても政治家ではなかったのです。
西郷の従兄弟の大山巌(おおやま いわお)はその西郷の苦悩する姿を見て、『軍人に徹する生き方』を選び、政治には手を出さず生涯軍人を貫き、公爵・元帥・元老と出世し74歳で没するまで晩節を汚すことはありませんでした。
当初、西郷が『征韓論』に敗れて下野してしばらくしてから『私学校』を開設した目的は、将来の人材育成ということですが、裏には『不平士族』を吸収して新時代への再教育をして新生日本の人材にすると言う西郷なりの思いがありました。
しかし、西郷の声望のもとに集まった人材は鹿児島の政官界の重職を徐々に占めて行きます。
そうした中、膨れ上がる”私学党”の勢力の中で、逆に西郷自身がそのエネルギーの呑みこまれて行くことなります。
”鹿児島は私学党で動く”ような状態となり、新政府の統制が行き届かないことが、『大久保政府』をいら立たせていきます。
最初の明治10年1月29日の『草牟田(そうむた)弾薬庫襲撃事件』が起こった時に、狩猟旅行に行っていた西郷はその知らせに『しまったっ!』と声を発して、自宅へ飛んで帰り控えていた私学生を怒鳴り上げたと言います。
これは、大久保政府の仕掛けた挑発・ワナに不用意に乗ってしまったと言う事なのです。
前述しましたように、もう大久保は最初から『鹿児島の私学党』を掃討するつもりだったのです。
この瞬間から、この『西南戦争』は西郷の手を離れたと言えそうで、西郷も最後は『それでは、俺(おい)どんの身体(からだ)を上げまっしょう!』と、流れに身を任せるスタンスへ入って行きました。
作戦・準備・実行はすべて西郷の腹心桐野利秋(きりの としあき)、篠原國幹(しのはら くにもと)ら任せて、自分は口出しをせず薩軍1万6千の神輿(みこし)の上に乗りました。
この流れですから、『やる気』と言うような言葉で捉えてはいけないのでしょうが、西郷は勝ち負けではなくて『時の流れに身を任せ』てしまったようです。
新政府内部で、最後まで西郷と対立していた長州の木戸孝允は、西郷と時を同じくするように西南戦争の最中、明治10年(1877年)5月26日に病死しています。
最後の言葉が、”西郷、もういいかげんにせいよ。”だったと伝わっています。
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西郷はなぜ『佐賀の乱』の江藤新平を助けなかったのか?
『征韓論』論争のあと、『明治六年政変』で、西郷以下5参議の辞職下野と言う事態のあと、西郷は一連の”士族の反乱”は読んでいたようです。
大久保は薩長以外の非主流派の台頭を喜ばず、特に江藤新平(えとう しんぺい)・板垣退助(いたがき たいすけ)の動きには注意していました。
毛利敏彦氏著の『明治六年政変』によると、10月23日に西郷の辞表が出された折に、大久保が黒田清隆に送った書簡によると”辞表は今日西郷一人差出し相成りたる由に御座候、実に意外”とあり、大久保のこの政変の狙いが、西郷以外の4名の排除にあることは明白であると言います。
大久保は徹底的に江藤を追い詰めて行きます。
『佐賀の乱』の首謀者として、最後刑死へ追い込みますが、この佐賀の乱そのものが”大久保の江藤謀殺の為”に仕組まれたものだとも言われています。
大久保政権にとって江藤が邪魔者だったと言う事なのでしょうが、これはとりもなおさず”西郷がうんざりしていた権力争い”で江藤と大久保が対立していたことを示しています。
つまり、西郷にとって、江藤は”権力争いをする政治家”であったわけです。
表面上『佐賀の乱』と云う形で不平佐賀士族を糾合して政府に叛乱を起こしたようになっていますが、この乱は前述したように”江藤討伐の為に仕組まれた可能性が高い”もので、士族の為に挙兵した訳ではありませんでしたし、そのそも反乱を起こすつもりのない西郷が、追い詰められた政治家江藤に救助の手を差し伸べる選択肢は西郷にはなかったものと考えて良さそうです。
西郷のシンパたちはなぜ西郷の挙兵の動きに呼応しなかったのか?
友人勝海舟はなぜ西郷に加担しなかったの?
作家江藤淳氏がその著書『南洲残影』で語るところによると、勝海舟は政治的に一度も失敗しなかったと言います。
『江戸城無血開城』に導いた相手方の西郷が決起した『西南戦争』の時も、巧みに政治資金を操作して旧幕臣の生活を支えてやり、旧幕臣を反乱軍・警視庁抜刀隊のどちらにも只の一兵も参加させることなく、静観視させることに成功しています。
しかし、個人的には、この政治的大失敗者たる西郷南洲を追慕して止まず、明治12年(1879年)に西郷の記念碑を、密かに東京葛飾浄光寺境内に建立をしています。
加えて、薩摩琵琶で愛唱される名曲『城山』を作り、西南戦争の情景と思しき様子を唱ってみせます。
政治的判断では西郷にとてもついては行けないが、友人としては大いに共感して追悼をすると云う立場でしょうか。
旧幕臣まで巻き込んで騒乱状況を演出されては、新生日本の妨げになると言う危機感・バランス感覚が、政治家としての”勝海舟”の判断・センスなのだろうと思われます。
荘内藩はなぜ西郷に呼応しなかったの?
官軍の悪名高い下参謀世良修蔵(せら しゅうぞう)は、”会津と荘内は、たとえ降伏しても許すべきではない。”と語っていました。
京都の警備担当の会津、江戸の警備担当の荘内は、薩長軍にこれほど憎まれていました。
本来の『戊辰戦争』は、江戸城開城で事実上終結していましたので、その後の東北・北海道の戦いは、明治維新の汚点ともなる官軍の余計な虐殺行動でした。
会津藩と荘内藩は単に幕府から命令を受けて、武家として徳川将軍家から下命された治安維持の任務をこなしていたに過ぎないのですから、正に、薩長(特に長州人)の私憤を晴らす単なる私闘(リンチ)だったと言われても仕方のない所業でした。
西郷は征討軍の司令官でしたが、一定の線は守っていて、官軍(長州)の狂気のような行動には顔をしかめていたようです。
こんな中、西郷は荘内藩降伏に際し、非常に寛大な処分を下します。
これには、些か理由があると評論家佐高信(さたか まこと)氏は『西郷隆盛伝説』の中で以下のように語っています。
それは、薩摩の新進気鋭の実力家老小松帯刀(こまつ たてわき)が、薩摩の近代化の一環として長崎のトーマス・グラバーに英語教師の推薦を頼んだところ、後に酒田の本間家当主となった洋行帰りの本間郡兵衛(ほんま ぐんべい)が長崎からやって来て、薩摩の近代化に大きく尽くしたことがあり、進歩派の薩摩藩士と荘内藩はつながっていました。
西郷が戊辰戦争時に”酒田湊は本間(号:北曜)先生の生まれた土地であり、政府軍が勝ちに乗じて醜行を行ってはならない。”と前線司令官の黒田清隆(くろだ きよたか)に厳命していることからも荘内藩に対する態度が伺えます。
そのように、西郷とは関係の深い荘内藩でありますが、西南戦争時には、当時薩摩に留学していた荘内藩士の数名の子弟以外は、旧藩士として西郷軍に参加する者はいませんでした。
西郷とも親しく交友があり私淑もしている”荘内の西郷”と言われた荘内藩の重鎮菅実秀(すげ さねひで)が、荘内藩士の挙兵を断固として阻止したのです。
政府首脳は、大久保利通が荘内藩に疑惑の目を向け、岩倉具視は山形へ一大隊を派兵する準備を指示しているほどでした。
しかし、荘内藩士はひとりたりとも行動を起こすことはありませんでした。
菅の考えは、実力のない今の荘内藩士が立ったところで犬死に過ぎないこと、荘内10万の民に兵火が降りかかること、留学中の旧藩主にも迷惑が掛かることなどを考えていたとなどを挙げており、むしろ生き残って新日本の建設に尽力することこそ西郷先生に報いる道だとしています。
もし仮にこの西南の役が西郷先生の本意なら、自分にも事前に連絡があったはずであり、この挙は西郷先生の本意でなく、西郷先生は鹿児島人士への義に一身を捧げたのだろうと菅は考えていたと、佐高氏は語っていますが、当時の西郷の考え方としては十分推測し得ることではないでしょうか。
黒田清隆はなぜ西郷と行動を共にしなかったか?
黒田は天保11年(1840年)薩摩の下級藩士の長男として生まれ、西郷のひと回り下で12歳年下です。
鹿児島は西郷の生まれた鍛冶屋町出身者に維新の大物が多数育っていますが、黒田は西郷とは”郷中(ごじゅう)”も違い、幼少期に西郷の薫陶を受けることなく独自に薩摩示現流(さつまじげんりゅう)の使い手(免許皆伝)として世に出ます。
島津久光の東上の一団にも加えられ、『生麦事件』に遭遇していますが、その時抜刀する仲間の藩士を抑えに回ったと言う話で有名になっています。
薩摩軍は西郷が軍のトップに座って、黒田は西郷の膝下で如才なく立ち回って行き、”子分格”として出世の階段を上って行きます。
西郷の庇護を受け、明治3年にはロシアの圧力を受ける樺太開拓次官となりますが、明治6年の『征韓論』の時には、『ロシアとの樺太紛争解決が優先』と西郷に反旗を翻して”内政重視”の立場に回って、西郷を離れて大久保派に鞍替えをしています。
そんな事から、『西南戦争』の西郷挙兵当時は完全に”大久保の子分”となっていました。
西郷によって引き立てられて”南洲腹心の部下”とも見られがちな”黒田清隆”ですが、戊辰戦争後の明治政界では、西郷に敵対する”大久保利通の派閥”に属していたようです。
弟西郷(従道)はなぜ兄西郷と行動を共にしなかった?
従道は西郷の15歳年下の3番目の弟でした。
幼少期より兄西郷の薫陶を受け、改革派の『精忠組』に属し、文久2年(1862年)島津久光が1000名の藩兵を率いて上京した折に発生した『寺田屋事件』に大山巌らと連座しましたが、文久3年(1863年)7月の『薩英戦争』発生で謹慎を解かれました。
維新後は兄がトップで居座る新政府軍の幹部となり、長州閥の山縣有朋らの”欧州視察”に同行し、山縣らの推し進める『徴兵制』推進に力を尽くし、しぶしぶ認めた兄西郷と距離を置く関係になって行きました。
維新後失職した50万人以上の士族の行く末を考えている兄西郷と、徴兵制によって士族に配慮することなく軍制を整備しようと考える新政府側に付いた弟西郷(従道)は違う道を歩むこととなりました。
そのため、『西南戦争』の兄西郷の挙兵に対しても、大久保首班の新政府側に立って行動をすることを選んで行きます。
しかし、東京目黒区青葉台にある『西郷山公園』には、1941年まで旧西郷従道邸が建っていましたが、これは弟が兄西郷が帰還復職した時に住む家として用意したものだったと言われています。
最後まで、従道は兄西郷の帰還を信じていたものと思われます。
まとめ
西郷隆盛と云えば、明治維新の立役者・江戸城無血開城・征韓論・西南戦争・上野公園の銅像などで有名です。
そして西郷のヒストリーを語る時に、この『西南戦争』は外せない大事件です。
前述したように、かの福沢諭吉は『西郷は2回政府の転覆を図って、最初は成功したが、二度目は失敗した』と言う事を語っています。
明治維新最大の功労者から、反逆者へと転じる大変ドラマチックな展開ですが、その最後がこの『西南戦争』でした。
通説の伝える話では、西郷隆盛は明治6年(1873年)に『征韓論争』に敗れて下野したのち、国元鹿児島に戻り『私学校』を創設しましたが、その私学校生の暴発により結局鹿児島士族を中心とする不平士族が糾合する”西郷軍”が結成されて、明治10年(1877年)2月政府軍との戦いである『西南戦争』が始まりました。
しかし、軍事力に勝る政府軍に敗れて明治10年(1877年)9月24日に鹿児島の城山で西郷は自刃して最期を迎えます。
この鹿児島帰国後に西郷が開校した『私学校』ですが、人材育成とは言え、不平士族を”陸軍士官”に育成するの為に、幼年学校・銃隊学校・砲隊学校・開墾社を開校しています。
『私学校』の出資者は西郷隆盛大将、鹿児島県令大山綱良、桐野利秋少将で、あとなんと参議大久保利通まで出資しています。加えて、経費負担は私学校と云う名にも拘わらず、県の予算から拠出されていました。
つまり、西郷が在野で政府に協力すると言う立場で、不平士族の慰撫政策を兼ねて”政府陸軍士官”の育成を始めた施設だったわけです。
しかし、大久保が初めから危惧していたように、育成した士官候補生たちは『西郷の私兵化』して行き、”西郷の真意”とは違う方向へ事態は動いて行きます。
そして、西郷当人もその暴発エネルギーに突き動かされるように反乱軍と化した『薩摩兵たち』の大将として担ぎ出されて行きます。
西郷がここへ至る流れに身を任せる心境になって行った最大の理由は、自分が信じて作り上げた新政府が盟友大久保利通も含めて腐敗してしまったと言う思いではないでしょうか。
『西郷南洲遺訓』にある以下の文言
萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正くし、驕奢を戒め、節倹に勉め、職事に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤勞を氣の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戰も偏へに私を營みたる姿に成り行き、天下に對して戰死者に對して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。
(山田済斎編『西郷南洲遺訓』第四項より引用)
西郷の新政府に対する心情は、これに表される気持ちがすべてだったのではないでしょうか。
つまり、、、
西郷は新政府を”潰す・ひっくり返す・乗っ取る・天下を取る”つもりはなく、日本を壊さないように騒乱を起こして、新政府首脳(盟友だった大久保と巨魁岩倉と木戸を中心とする汚職長州人たち)に諫言したのではないでしょか?
だから、軍事作戦的には愚策を採り続け、当然負けるような、しかし”堂々と善戦敢闘”する戦い方をして行きました。最初の目論み通り、そのまま東京まで行けるなら良し、しかし、新政府の対応をみて敗戦で収束させることを決めていたのではないでしょうか。
『征韓論』も死に場所を求めていたような感じですが、『西南戦争』もそんな戦仕立てにしたのではと勘繰りたくなります。
若者を巻き込んでしまったのは、新政府の権力欲に犯された首脳陣に冷や水を掛けるためと、不平士族の暴発するエネルギーをまとめたと言う事ではないでしょうか。
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参考文献
〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 西南の役(一)~(七)』(1980年 講談社学術文庫)
〇安藤優一郎 『西郷隆盛と明治』(2017年 洋泉社)
〇毛利敏彦 『明治六年政変』(1979年 中公新書)
〇江藤淳 『南洲残影』(2001年 文春文庫)
〇佐高信 『西郷隆盛伝説』(2010年 角川文庫)
〇山田済斎編 『西郷南洲遺訓』(2000年 岩波文庫)