執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
徳川家康は三河譜代よりも『徳川四天王』を頼りにした!ホント?
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戦国時代を終わらせた男・ファイナリスト『徳川家康』に陰日向なく精勤し、”徳川260年のいしずえ”を築いた4人の武将たちの姿を明らかにします。
徳川家草創期に活躍した『徳川四天王』の真の姿は?
『関ケ原の戦』後に本多忠勝が行なったとされる”真田親子の命乞い”の名シーン!本当はどうだったのか?
女城主・井伊直虎と徳川四天王井伊直政の関係は?
目次
徳川家康は、なぜ『四天王』を重用したのか?
”家康の歴史”が本格的に動き出したのは、永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦』後の混乱の中、太守今川義元(いまがわ よしもと)に管理されていた”松平蔵人信康(まつだいら くろうどのぶやす)”から脱して、岡崎城へ帰還した時からとなります。
確かに三河岡崎の国衆たちは、”岡崎松平家の若君の帰還”を心待ちにしていたとは云うものの、家康の帰還後すぐにひとつにまとまって全軍終結して家康の為に動ける状況にあった訳ではないのです。
何人かは、本気で”若君”を盛り立てて岡崎松平宗家を立ち直らせることを、自分を犠牲にしてでもやるでしょうが、大半は様子見だったのではないでしょうか。
つまり、家康は旧臣の中で、叔父の酒井忠次のような人物を中核に、あとは信頼のおける自分と気脈を通じることの出来る家臣団を作り上げる必要性があった訳です。
その証拠に、三河統一まで大黒柱になっていた酒井家と石川家の内、石川家はその後石川数正が徳川家の家老格となっているにもかかわらず、豊臣家へ出奔する有り様ですから、心底家臣を信頼するのは難しい状況でした。
こんな事情から、祖父の代からの”譜代”とはいっても、若輩の家康にとっては信頼のおける人たちとは言えなかったのです。
そんなことで、家康は少年の頃より自分の近侍として影日向(かげひなた)なく尽くしてくれていた”三傑”へは格別の信頼感を持っていたので、彼らを重用していくと言うのは自然な流れだと考えられます。
異説では、『三河一向一揆』が問題だったと言います。
岡崎を中心とする”西三河”は一向宗の巣窟で、そこを束ねていたのが前述した石川一族なのです。
家康の譜代家臣の中にも”一向宗徒”はごろごろいる訳で、この時の家康の旗本はその動きに絶対加担しない者でなければならないのです。
そこで、よそ者であっても、”反抗する一向宗徒”でなければいくらでも家臣として重用したと言います。
つまり、遠江への侵攻を開始し”浜松”に拠点を設けた時、統治の中心・政治の中心が浜松へ移動し、一向衆徒家臣は西三河岡崎でまとまり、非一向宗徒は浜松へとに分裂して行ったのが、両者の衝突”三河一向一揆”の原因だと言う説です。
ですから、その後も”三河岡崎松平譜代衆”の政権への重用は、本多正信・正純(ほんだ まさのぶ・まさずみ)親子などの例外を除いてほとんどなかったのではないでしょうか。
表面上は、新しく領土となった地域から広く有能な人材を求めたとカッコイイのですが、実は彼ら『三河譜代』を出世させなかったのは”一向宗封じ”だったという話です。
確か、本多平八郎忠勝も一向宗から宗旨替えをしているはずです。
『徳川四天王』重用の理由のひとつはガチガチの狂信的な一向宗徒ではなかったことによるのです。
(画像引用:Yahoo画像 徳川四天王)
そもそも『徳川四天王』とは、だれなの?
『徳川四天王』は誰か?いつ頃、誰が選んだのか?
世に言う『徳川四天王』とは、、、
- 酒井忠次(さかい ただつぐ)大永7年(1527年)生
- 本多忠勝(ほんだ ただかつ)天文17年(1548年)生
- 榊原康政(さかきばら やすまさ)天文17年(1548年)生
- 井伊直政(いい なおまさ)永禄4年(1561年)生
の4名ですが、徳川家康が天文11年(1543年)生れと言われておりますので、酒井忠次は家康の叔父にあたり一世代上の先輩武将、本多忠勝と榊原康政が少し下の家康の小姓上がりの側近、井伊直政は家康の遠縁で一世代下の側近でした。
永禄3年(1560年)『桶狭間の戦』の翌年くらいから家康は”反今川(脱今川)”の意志を鮮明にして、東三河の今川陣営へ出兵するようになりますが、酒井忠次が家康の別動隊として活躍し、この後の戦も”家康本隊と忠次別動隊”の体制で徳川家康の戦は続けられて行きます。
酒井忠次は、敵将も認める家康の片腕であったことは明白です。
そして家康が”三河”を制圧し、”遠江”へ攻め込み始めた永禄11年(1568年)頃の”徳川軍団の構成”は、東三河が酒井忠次、西三河が石川家成(いしかわ いえなり)、そして家康旗本軍団の三つで構成される『三備(みつぞなえ)体制』と呼ばれる形になっていました。
これは、家康先祖代々の『三河譜代(みかわ ふだい)』と呼ばれる松平家臣団が中心となったものでした。
このように軍団の中心を担う”酒井忠次”と”石川家成”は上級譜代家臣でしたが、その後になると家成の甥の”石川数正(いしかわ かずまさ)”を加えて、それぞれ、武田・後北条・上杉との大名間交渉の取次役として活躍を始めます。
この頃の徳川家康の軍団は、酒井・石川が中心となって動かして行きました。
本多忠勝と榊原康政は同年ですが、幼少時より家康に近侍していて、永禄3年(1560年)『桶狭間の戦』の年末辺りから、戦闘部隊を任されるようになったようです。
そして、天正9年(1581年)の武田軍『高天神城(たかてんじんじょう)攻め』頃には、ふたりが有力な部隊長と認められるようになっていました。
井伊直政も近侍(きんじ)で家康にかわいがられたひとりですが、一番年下だったこともあり、独り立ちさせるのに家康は直臣の”木俣秀勝(きまた ひでかつ)”を与力として付けるほどでした。
井伊直政は、家康から”武田家滅亡後の武田遺臣たち”を引きまとめる役割を与えられ、徳川家中で最強の”赤備え”軍団に成長していくことになります。
その後、家康に非常にかわいがられていた、この”近侍出身の軍団長”3人の中で一番高禄の『近江佐和山18万石』を与えられることになります。
こうした事から、三河時代を作り支えた”酒井忠次”と、拡大する徳川軍団を担って行った”本多忠勝”・”榊原康政”・”井伊直政”を、後世『徳川四天王』と称し、特に家康の信頼厚い近侍出身の3人を『徳川三傑』と言っているようです。
いずれも裏切りが絶えない戦国時代にあって、家康ともっとも深い信頼感で結ばれたメンバーだったのです。
因みに、三河時代を”酒井忠次”とともに支えた大幹部”石川家成”は、後を継いだ”石川数正”が重臣の地位にありながら、豊臣秀吉に調略されて出奔し豊臣家臣となったため、”石川家成”はその功臣の中に入れてもらえなかったようですね。
酒井忠次は家康の”叔父”なの?
酒井忠次は、天才と言われた家康の祖父松平清康(まつだいら きよやす)の娘”碓井姫(うすいひめ)”を正室にしていました。
前述のように、松平宗家の親戚(家康の叔父)として、合戦時に家康本隊と離れて別動隊として格別の働きをする”いくさ上手”で頼りになる叔父さんでした。
三河から今川勢を追い出した後、東三河の守りとして吉田城(豊橋)の城主となり、”東の守り”を受け持っていました。
そもそも松平家と酒井家は共通の祖先をもっていたとされ、非常に近い間柄ですが、酒井家は松平家に仕える重臣の一族となりました。
酒井家は”左衛門尉(さえもんのじょう)家”と”雅楽助(うたのすけ)家”に分派しており、家康の父広忠は”雅楽助家”を重用していましたが、忠次は”左衛門尉家”の方でした。
家康の代になると、”一向一揆問題”で松平家中が揺れる中、忠次は家康を支え続け信頼を獲得して行きます。
その後、家康の近侍たちも成長し”三傑”たちの地位が向上して行くと、徐々に役割を渡していくような感じになり、天正16年(1588年)に家督を嫡子家次(いえつぐ)に渡して引退し、慶長元年(1596年)に死去しました。
本多忠勝はどんな活躍をした?
前述のように、本多忠勝は少年期より家康の近侍に上がり、家康と苦楽をともにしてます。
『桶狭間の戦』のあった永緑3年(1560年)の末頃(岡崎に松平家が復帰後)には、部隊指揮官を任されていたようです。
『旗本先手(はたもと さきて)』と言う仕事で、簡単に云うと平時は主君のそば近くに仕え、”合戦”時には先頭を切って敵方に突っ込んで行く役回りです。
しかも、家康が実施した50数回の合戦で常に先陣を切っていて、致命傷になる傷を一度も受けていないと言う驚異的な人物です。
特に元亀3年(1572年)の武田信玄の上洛戦では、緒戦である”一言坂の戦”で、敗走する徳川軍の難しい殿(しんがり)を務め、無事家康本隊を撤退させています。
『本能寺の変』に巻き込まれて実行した『伊賀越え』の逃避行も旗本として同行し無事家康を脱出させています。
槍の名手で、『蜻蛉切(とんぼ切り)』と言う異名の名槍を持って歩いていました。
榊原康政はどんな活躍をした?
康政は、本多忠勝と同年で、少年期より家康に近侍していました。
康政の一族も本多一族と同様、『三河譜代』の中でも古い『山中譜代』とも『安祥譜代』とも言われる家柄ですが、数代前に伊勢の国から三河の国へ移住した一族です。
そのため、親族が少なく一族の規模が小さいために、一族だけで軍団を構成できず、家康から与力を配属してもらい、尚且つ同じような小規模な家臣たちをまとめたり、場合によっては、傭兵を雇ったりして戦闘部隊を作り上げていました。
そのため康政の軍団は、手柄を挙げる為に問題な行動も多くなっていましたが、ある程度徳川軍団の中では、黙認されていたようでした。
天正3年(1575年)『長篠(ながしの)の戦』では、本多忠勝とともに家康本陣へ突っ込んでくる武田軍団から家康を守り切り、天正9年(1581年)の『高天神城(たかてんじんじょう)の戦』では先陣を務めています。
その後徳川家の領地が拡大していくとともに、有力譜代が新規領地へ転出して行き、相対的に軍団内部での地位は上がって行き、後北条滅亡後の徳川関東移封では破格の高禄を得る事が出来ました。
しかし、『関ケ原の戦』の時、”家康の継嗣秀忠(ひでただ)の軍監”だったため、秀忠と一緒に”関ケ原の戦”に遅参してしまいましが、”秀忠に激怒する家康”を取りなして、家康との伏見での面談を実現させ、秀忠から非常に感謝されたとの話が伝わっています。
”関ケ原の戦勝論功行賞”で、”秀忠の遅参”に巻き込まれたのが原因で加増がなかったと言われていますが、実は”遅参”の責任上”加増を辞退”したと言われています。(『名将言行録』)
常に、先陣を務める考えを持ち続け、それを成し遂げることによって家康の期待に応えると言う”徳川四天王”共通の働きは終生変わりませんでした。
井伊直政はどんな活躍をした?
井伊直政は『四天王』の中で一番の新参者ですが、三河の出身ではなく遠江の国衆です。
直政(万千代)の叔母に当たる井伊家当主『井伊直虎(いい なおとら)』の尽力で家康の近侍に加えられた伝わっています。
近侍となった直政は先輩たちに負けず劣らず、先陣を務め大暴れしていましたが、天正10年(1582年)の『天正壬午(てんしょうじんご)の乱』で、後北条方との交渉役を務め、その後甲斐・信濃が徳川領となると”武田の旧臣たち”を束ねる役に大抜擢されました。
天正12年(1584年)の『小牧・長久手の戦』で、その武田旧臣の軍団を引き連れて『井伊の赤備えの軍団』としてデビューし軍功を上げ、『井伊の赤鬼』と恐れられました。
徳川家康が豊臣秀吉に臣従すると、秀吉が徳川家臣の人事にも口を出すようになって家臣で朝廷の叙位任官をするものが出始めますが、特に井伊直政は秀吉に気に入られ、『侍従(じじゅう)』に任官しています。
これは、官位として”公家成(くげなり)”扱いとなり、通常の”大名”が”諸大夫成(しょだいぶなり)”であることから大名より上位となる破格の待遇となりました。
これに伴って、井伊直政の徳川家中における地位は急上昇することとなって行きます。
その秀吉没後の『関ケ原の戦』以降に、井伊直政は近江佐和山(18万石)、本多忠勝は伊勢桑名(10万石)に転出し、慶長5年(1600年)以降、京都・伏見で『天下の経営をすることとなった天下人家康』を警護するため、関東と畿内をつなぐ重要拠点にふたりは配置されることになりました。
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井伊直政と井伊直虎の関係は?
井伊家は、浜名湖の北側に位置する井伊谷(いいのや)と言う地域の国衆でした。
古くは寛弘7年(1010年)頃、朝廷の命令で遠江へ下向した公家の”巡検使(巡検使)”藤原共資(ふじわら ともすけ)に始まる家柄ですが、第22代当主井伊直盛(いい なおもり)のひとり娘(直虎)が生まれるころには、井伊家は南北朝時代の混乱と続く応仁の乱に巻き込まれて、足利氏の親族の今川家に圧迫されている状況でした。
井伊直盛の子は”ひとり娘”の為、伯父の”井伊直満(いい なおみつ)”の嫡男”井伊直親(いい なおちか)”を養子として継がせる方針でしたが、井伊家乗っ取りを図る今川家の謀略によって直満は謀殺され、子の直親も信濃へ逃亡する身となりました。
その間、今川の乗っ取り攻勢をかわす為に、直盛の娘は出家して”次郎法師(じろうほうし)”と名乗ります。
逃亡中に妻帯して子まで設けていた直親が、やっと帰参し井伊家の家督を継ぎましたが、再度『桶狭間の戦』で討死した今川義元(いまがわ よしもと)の跡取り今川氏真(いまがわ うじざね)に”井伊直親”は謀殺されてしまいまず。
やむなく、直親の子虎松(とらまつ)が元服するまで、次郎法師が還俗して『井伊直虎(いい なおとら)』を名乗り、井伊家の第24代目を継ぎます。
そして、この井伊家第23代の井伊直親の子虎松がのちの『井伊直政(いい なおまさ)』となります。
では、、、
なぜ今川家配下の井伊家の跡継ぎ井伊直政が『桶狭間の戦』後は、今川の敵方となった”徳川家康の近侍”に取り立てられたか?
ですが、、、
実は、徳川家康の正室『築山殿(つきやまどの)』は、なんと次郎法師の祖父井伊直平(いい なおひら)の外孫となり、親戚でした。
その事もあり、井伊谷に帰参して第23代を継いだばかりの井伊直親は、徳川家康のいる岡崎へ6歳年下の従兄妹である”築山殿”に会うために度々訪れていました。
今川方の”井伊直親謀殺”は当時敵側へ回った可能性の高い”徳川家康”の元へ何度となく行き来をすることが反逆行為と見做されたのでしょう。
徳川家康は、父親の井伊直親が自分のところに誼(よしみ)を通じて来ていたことが原因で殺害されたことと、尚且つ親戚であることから、井伊直親の嫡男虎松である”井伊直政の近侍取り立て”は決まったものでしょう。
井伊直虎は、叔母・養母として虎松を、井伊家の生き残りを賭けて、徳川家康へ託すこととしたのです。
本多忠勝は『関ケ原の戦』後、なぜ真田正幸・信繁親子の命乞いをしたのか?
2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』とか、池波正太郎氏の小説『真田太平記』などにあるように、徳川家康に対して、本多忠勝が”真田親子を許さねば自分が兵を起こしても”くらいの話で家康に詰め寄って談判する様子が出ていますが、実際はどうだったのでしょうか?
幕末期の館林藩士岡谷繁実(おかのや しげざね)が、15年の歳月をかけて書いた『名将言行録』のなかの”本多忠勝”の項にも、これだけの名演技を忠勝がおこなったにもかかわらず、この戦国武将の色々な発言が述べられているこの本に、この件に関する忠勝の発言・パフォーマンスが全く載っていません。
そんなところを見ると、『命乞い』は戦国期のことですから当然あったでしょうが、どうやら発言内容に関しては、NHK大河ドラマでは三谷幸喜氏、小説は池波正太郎氏の創作という事になりますね。
実際、当時『関ケ原の戦』で戦犯として罪を問われて処刑されたのは、”石田三成(いしだ みつなり)”、”小西行長(こにし ゆきなが)”、”安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)”と首謀者級の人物で、その他の関与者に関しては処刑はされていません。
つまり、それなりの仲介者の”命乞い”があれば、すべて許していたと考えられます。
という事で、、、
真田昌幸の息子信之(さなだ のぶゆき)の正室小松殿が本多忠勝の娘稲姫であったことから、忠勝は当然の命乞いを家康にしたと考えられますが、どうもあの大げさな『命乞い』はそもそも必要なかったと言えそうです。
榊原康政は、なぜ徳川秀忠の後見人か?
前述したように、慶長5年(1600年)9月15日の『関ケ原の戦』の折、中山道を行った秀忠軍35000が『関ケ原の戦』に遅参した事に対して腹をたてている家康を、秀忠軍の軍監をしていた秀政がとりなして、9月25日に伏見にて秀忠を面会させることに成功したなど、秀忠の信頼がハンパ無い事が理由として挙げられます。
その上、家康が『関ケ原の戦』後に康政に論功行賞として、水戸25万石を加増し与えようとしたところ、康政は”関ケ原遅参”を理由にこれを固辞しているようです。(『名将言行録』)
その上、家康は『康政を館林10万石に封じ、関東在住と秀忠の元老を兼任さ、、、』(『名将言行録』)とあり、秀忠の指導役を家康が康政に命じていたことが分かります。
つまり、秀忠を親身になってきちんと指導してくれることが期待できるので、家康自身が秀忠の後見役として側近中の側近である”榊原康政”を指名していたのですね。
井伊直政は、なぜ真田信繁(幸村)の軍団と同じ『赤備え』なの?
具足の『赤備え』は、もともと旧武田軍団で使用されていたものです。
真田家はもともと武田信玄の配下の国衆なので、『赤備え』を使っていたようですが、井伊直政に関しては、家康が甲斐・信濃を領有するに当たって、大量に傘下に入れた旧武田国衆を直政に付けたため自然にそうなったのです。
天正10年(1582年)の武田氏滅亡に伴い、徳川家に取り込まれた旧武田家臣は判明しているだけで、830名以上はいたと言われていますが、井伊直政に付けられた旧武田軍団は一条・山縣・土屋・原と名のある4隊74名にのぼり、直政の旗本部隊は家康軍の中でも最も勇猛な”赤備え軍団”となって行きました。
そうした経緯から、真田と井伊が同じ『赤備え』の具足をつけることとなったようです。
四天王は『なに譜代(ふだい)』なのか?
徳川家康の家臣団は、所謂『譜代家臣』を中心に構成されています。
家康が遠江侵攻以前の家臣を『三河譜代(みかわ ふだい)』と呼びますが、更に、家康の祖父清康の時代に移動した拠点別に”山中(やまなか)譜代”、”安祥(あんじょう)譜代”、”岡崎(おかざき)譜代”と言う細分化がされることもあります。
こうして分かるように、『三河譜代』の家臣の中心は(酒井・石川・本多・鳥居・内藤・天野・大久保等々)ほぼ西三河地区の国衆たちであることです。
徳川家が東三河から今川勢力を追い出し、遠江へ侵攻し始めて以降、遠江・駿河の旧今川家臣、甲斐・信濃の旧武田家臣、関東の旧後北条家臣などを吸収しながら徳川家臣団は拡大して行きます。
四天王では、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政はバリバリの『三河譜代』です。
井伊直政が井伊家の跡取りとして認知された上で、家康の小姓として近侍することになったのは、家康が元亀元年(1570年)浜松に築城して以降の天正3年(1575年)だと言われています。
つまり、天正3年(1575年)の『長篠の戦』で織田・徳川軍が武田勝頼を破り、以後武田軍が守勢に回り始めた頃という事になります。
徳川家が拡大を始める頃で、三河を離れて、新しい家臣団が増え始めた時期ですから、縁戚筋にも当たる井伊直政は丁度新しいタイプの『譜代家臣』と言えそうですね。
まとめ
徳川家康の初期を語る場合に、『徳川四天王』・『徳川三傑』の話は外せない名前ですが、当時言われていたわけではなく、後に『徳川家康の神格化』が始まる頃に名付けられたのではないかと思います。
家康も人質生活など苦難の時期を国元を離れて過ごしており、本当の意味での側近を育てることから始めねばならなかったようです。
草創期を支えたのが、武勇・知略ともに優れた叔父の酒井忠次であり、その後は近侍として育って行った本多忠勝と榊原康政が1期生で、徳川が三河大名から飛躍を始めた遠江侵攻後の2期生として井伊直政がいると言う感じだと考えられます。
いずれも絶対に家康を裏切らない・忠誠心の塊のような勇猛な若武者たちでした。
『徳川四天王』はそうして形作られて行きました。
彼らは旧世代の『三河譜代』にある”一向宗徒”の足枷もない、旧弊に囚われることもない人材で、新たに大きく飛躍していく徳川家康にはどうしても必要な人材だったと言えます。
『神君』と神様になってしまった家康とともに、彼らも実態と違った神様扱いになって行きますが、命懸けで家康を支えて”徳川幕府の礎”を作り、日本に260年もの”平和”をもたらした功績は称えられてしかるべきでしょう。
参考文献
日本史史料研究会監修 『家康研究の最前線』(2016年 洋泉社)
平野明夫編
渡邊大門編 『家康伝説の嘘』(2015年 柏書房)
丸島和洋 『真田四代と信繁』(2015年 平凡社新書)
丸島和洋 『真田一族と家臣団のすべて』(2016年 新人物文庫)
岡谷繁実 『名将言行録(七)』(1997年 岩波文庫)
岡本良一 『大坂冬の陣夏の陣』(1983年 創元新書)
楠戸義昭 『女城主・井伊直虎』(2016年 PHP文庫)
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