承久の乱で、院が鎌倉幕府ではなく北条義時の討伐を命じたのはなぜ?
目次
後鳥羽上皇が、北條義時を滅ぼさねばならない理由はなに?
これは、一言で云えば『武家を排し、政治の実権を朝廷に取り戻すため』と言う事ですが、後鳥羽上皇は『そもそも貴族の私兵・用心棒に過ぎなかった身分の低い武士階級が政治力をつけて、朝廷に物申す存在になった事が我慢ならず、武家の棟梁たる北条義時を滅ぼして、かつてのように武士を従えたい』と言う願望を強く持ったためということになります。
この時の後鳥羽上皇の考えを端的に伝える記事は、、、
をよそ、ゐん、いかにもしてくわんとうをほろばさんとのみ、おほしめしける、
(引用:近藤瓶城『改訂 史籍集覧 第十二冊』所収『承久兵亂記 607頁』1968年 すみや書房)
大意は、”後鳥羽上皇は、どんなことをしても関東(鎌倉幕府)を滅ぼせとだけ、思われていた”位の意味です。
この『承久兵亂記』の成立は、鎌倉後期~南北朝期と言われており、『承久の乱』より100年ほど後に書かれた戦記物となりますが、比較的近い時代のものと考えられますので、当時流布していた話と見て良いと思われます。
『北条義時追討令』と言われる後鳥羽上皇の『院宣(いんぜん)』に関しては、、、
近曾関東の成敗と称し、天下の政務を乱る。纔に将軍の名を帯ぶると雖も、猶以て幼稚の齢に在り。然る間、彼の義時朝臣、偏へに言詞を教命に仮り、恣に裁断を都鄙に致す。剰へ己が威を輝かし、皇憲を忘れたるが如し。
これを政道に論ずるに、謀反と謂ふべし。早く五畿七道の諸国に下知し、彼の朝臣の身を追討せしめよ。兼て又諸国・庄園の守護人・地頭等、言上を経べきの旨あらば、各院庁に参り、宜しく上奏を経べし。状に随って聴断せん。・・・(以下略)
承久三年五月十五日 (署名略)
(引用:笹山晴生外3名編『詳説日本史史料集 再訂版 第2部 中世 4承久の乱 88頁』2016年 山川出版)
大意は、”
近頃幕府の命令であると称して、天下の政治を乱している。わずかに将軍としているが、本人は幼少であるのに、北条義時は将軍の名を借りて、好き放題に国政を壟断している。そればかりか自分の権勢を誇り、朝廷の定めた法令を忘れたかのようである。
これは御政道の筋から言えば、謀反と言うべきである。早く全国へ命令を下して、北条義時を討伐せよ。また、諸国の守護地頭たちから、訴えたき事があれば、各自院のところへ出仕して上奏せよ。そうすれば訴えに従って裁定をいたす。
”位の意味です。
要は、後鳥羽上皇が北条義時を悪者にして『鎌倉幕府の武家政治』を否定しているものとなっています。『問題があれば、院に直接持って来い』と言っており、朝廷政治の時代に戻そうと言う後鳥羽上皇の意図は明白です。
ここで、後鳥羽上皇が討滅の院宣の対象が、『鎌倉幕府』ではなく『北条義時』だったと言うことに拘る向きもありますが、歴史学者本郷和人氏によれば、『この当時、武士の政治組織を幕府とする考え方はなく、鎌倉幕府を指す言葉として代表者の北条義時を宛先としたに過ぎない』と述べられており、素直にそのとおりだと考えられます。
前述しましたように、後鳥羽上皇は朝廷への政権奪還を意図した訳で、あくまで相手先を『関東』と言っているに過ぎないようです。

(画像引用:隠岐の島西ノ島ACphoto)
『承久の乱』、後鳥羽上皇の北条義時討伐の院宣に、なぜ全国の武士は従わなかったの?
前章にもありました、後鳥羽上皇の『北条義時追討の院宣』と言うのは、、、
十九日、壬寅、午刻、大夫尉光季去十五日京都飛脚下着、申云、昨日、十四日、幕下幷黄門實氏、仰二位法印尊長、被召籠弓場殿、十五日午刻、遣官軍被誅伊賀廷尉、則勅按察使光親卿、被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々、關東分宣旨御使、今日同到着云々、
(引用:廣谷雄太郎編『吾妻鏡 第二巻 承久三年五月十九日の条 150頁』1929年 廣谷國書刊行會)
大意は、”
承久三年(1221年)5月19日昼12時頃、京都より15日に京都守護伊賀光季が発した飛脚が鎌倉へ到着。それが伝えるに、5月14日、幕府御家人ならびに中納言藤原実任(ふじわら さねとう)が、後鳥羽上皇の側近二位法印尊長(にいほういん そんちょう)の指示により、内裏の弓場殿(ゆばでん)の軟禁された。
5月15日午刻(お昼12時ごろ)、官軍が派遣され京都守護職の伊賀光季(いが みつすえ)は誅殺され、按察中納言(あぜちちゅうなごん)と呼ばれた葉室光親(はむろ みつちか)が、『治天の君』の勅命として五畿七道(全国)へ北条義時追討の宣旨を発給したとか。関東分の宣旨の使者も、今日5月19日に到着したと言う。
”位の意味です。
このように、後鳥羽上皇の『北条義時追討(鎌倉幕府討伐)の宣旨』が発給され、幕府の京都守護の伊賀光季を誅殺することにより、後鳥羽上皇側から仕掛けて『承久の乱』は始まりました。
後鳥羽上皇とその取巻きの公家達は、鎌倉以前の体制にあったように、天皇・上皇の発した命令に従って、当然『武士たちは禁裏に馳せ参じ、官軍として朝敵を攻撃するものだ』と思い込んでいたようです。
当初は後鳥羽上皇の目論見通り、畿内の武士たちは幕府方も含めて上皇側に付く者が続出し、5月15日には鎌倉側の立場を明らかにしていた京都守護の伊賀光季を討ち取るなど順調にすすみ、この調子なら関東へ出した院宣に応じて、鎌倉でも北条義時追討が始まり、鎌倉幕府は自壊するものと期待して待っていました。
一方、鎌倉側では、5月19日に後鳥羽上皇の院宣も含めて、京都から続々と京都の情勢・官軍の動向が伝えられて来ていました。
こうした中、鎌倉では尼御台政子の御堂御所に東国の有力武士が参集していました。そこで、政子は集まった東国武士を前に、御簾(みす)越しに安達景盛(あだち かげもり)の口を借りて、、、
皆一心而可奉、是冣期詞也、故右大將軍征罰朝敵、草創關東以降、云官位云俸禄、其恩既高於山岳、深於溟渤、報謝之志淺之乎、而今依逆臣之讒、被下非義綸旨、惜名之族、早討取秀康胤義等、可全三代將軍遺跡、
但欲參院中者、只今可申切者、群參之士悉應命、且溺涙申返報不委、只經命思報恩、寔是忠臣見國危、此謂歟、武家背天氣之起、
(引用:廣谷雄太郎編『吾妻鏡 第二巻 承久三年五月十九日の条 151頁』1929年 廣谷國書刊行會)
大意は、”
皆真剣に聞く様に、これが最後の言葉である。亡き頼朝公が朝敵を征伐して、鎌倉幕府を作ってから、官位と言い、俸禄と言い、その恩は山の如く高く、広い海の如く深く、皆の謝恩の気持ちは浅いはずはないだろう。
今ここに我々東国武士団は逆臣のそしりを受け、不法な綸旨が下されている。皆、名を惜しむならば、院の軍の大将藤原秀康、裏切り者の三浦胤義らを討て!源氏三代の将軍の遺産を全うすべし。
ただし、後鳥羽上皇側に行きたい者は、すぐに申し出て去れ! 集まった武士は皆命令に従え! まさに、涙に暮れて仕返しを人任せにせず、命を惜しまず恩に報いる、まことこれが忠臣が国難に立ち向かうことだ。これを言うと、武士たちは後鳥羽上皇の決起を促す綸旨に背いた。
”位の意味です。
と言った尼御台の檄(げき)が飛び、集まった東国武士団は鎌倉幕府側に付いたと言われていますが、そもそも後鳥羽上皇側に付く武士は、この北条邸に集まって来ないので、東国武士団は、最初から頼朝が獲得した武士の権利を、朝廷の干渉から守る立場で行動していたものと考えられます。
つまり、後鳥羽上皇の性急なクーデター『承久の乱』は、折角苦労して獲得した武士の利権が再び侵害される可能性が大きいものと考えられ、多くの武士は自分の利権を守ろうと鎌倉幕府の体制を守る側に回ったと言うのが真相ではないかと思われます。
後鳥羽上皇が北条義時追討軍に自ら兵を率いて先陣にいたら、どうなっていたの?
ここに、鎌倉末期に記述されたものと言われる『増鏡(ますかがみ)』と言う歴史記録があります。その該当箇所(北条義時と息子泰時のやり取り)によると、、、
義時「・・・。賤しけれども義時、君の御ために後めたき心やはある、・・・(中略)・・・。」
かくて、うち出でぬるまたの日、思ひかけぬ程に、泰時只一人、鞭を上げてはせきたり。父、胸うちさわぎていかにと問ふに、泰時「軍のあるべきやう、大方のおきてなどは、仰の如くその心をえ侍りぬ。若し道のほとりも、計らざるに、辱く鳳輦をさきだてゝ、御旗をあげられ、臨幸の嚴重なる事も侍らむに參りあへらば、その時の進退は、いかゞ侍るべからむ。この一事をたづね申さむとて、一人馳せ侍りき」といふ。
義時、とばりうち案じて、義時「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて、弓を引くことはいかゞあらむ。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓のつるをきりて、偏にかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはらで、君は都におはしましながら、軍兵をたまはせば、命をすてゝ、千人が一人になるまでも戰ふべし」といひもはてぬに、急ぎたちにけり。
(引用:和田英松校訂『増鏡上 おどろの下 第二 新島もり 33~34頁』1997年 岩波文庫)
大意は、”
義時「・・・。私義時は下賤の身ではあるが、上皇様には後ろめたい気持ちではある、・・・(中略)・・・。」
このようにして泰時が大将として京に向って出陣した翌日に、思いも寄らず泰時がただ一騎、馬に鞭をあてて戻って来た。義時は、やって来た息子泰時に驚いて「どうしたのだ」と問い糺した。
泰時は「戦のやり方は、大体おっしゃられたように心得ております。もしも行く手に思いもかけずに、もったいなくも上皇様が御車に御旗を立てられて、御出馬されて来られた時には、如何取り計らいましょうや? この事をお尋ねしようと思い、一人戻って来た次第です。」と言う。
義時は、しばらく考えて、「お前は、畏れ多いことを聞いて来る男だなあ。その事であるが、まさか上皇様の御輿に向って弓を引くわけには行くまい。その時は兜を脱ぎ、弓の弦を切って、上皇様に畏まりその身を任せるがよい。しかし、そんな事は起こらぬよ。上皇様は御所においでになったまま軍勢を出されてくるはずだから、お前は、命を惜しまず最後の一人になるまで戦うがよい。」と言い終わって、急いで立ち去った。
”位の意味です。
このように『増鏡』によれば、鎌倉武士の北条義時は、いかに自身に「追討院宣」を出されたからと言って、直接後鳥羽上皇に刃を向けることは出来ないと語っています。
とは言え、この当時の武家社会の考え方として、既に『天皇は御神輿(おみこし)で実権は側近の公家達』と言う考え方が基礎にあり、前掲の『北条義時の討伐院宣』が到着した時の尼将軍北条政子の演説の中にも、、、
『・・・而今依逆臣之讒、被下非義綸旨・・・』(・・・今ここに我々東国武士団は逆臣のそしりを受け、不法な綸旨が下されている・・・)
とあり、”上皇の周りにいる逆臣が我々の讒言(ざんげんー他人をおとしいれるために、ありもしない悪口を告げ口すること)をしているから、朝敵にされたのだ”と述べています。上皇自身が自らの判断で勅命を出したのではないと言う認識であり、これは仮に上皇が先陣を切っていたとしても、認識は変わらないと考えられます。
つまり、上皇様は騙されているだけなのだと言う見方で、御家人たちには間違っても朝廷制度を破壊しようと言う考えはみじんもないので、後鳥羽上皇もそう認識していて、鎌倉幕府の攻撃が京に迫ったら、たちまち『北条義時討伐の院宣』を撤回しました。
しかし、幕府側の姿勢は厳しく、後鳥羽上皇自身も命は助けられたものの、厳罰が与えられて隠岐島への追放処分となり、讒言したとされる取巻き貴族らは斬首刑に処せられましたが、京都の朝廷制度が破壊されることはありませんでした。
ここまでの果断な処置・鎌倉幕府首脳陣の強いブレない決意をみると、『増鏡』では、義時にあのように言わせていますが、仮に後鳥羽上皇が兵を率いて美濃に着陣していても、おそらく『お上は殺すな』との命令は出るものの、やはり戦況は変わらなかったのではないかと考えられます。
北条氏はなぜ将軍にならなかったの?
簡単に言えば、この当時は武家の政権運営者と『将軍』と言うタイトルが一致していないからと言えると思います。
鎌倉幕府の創設者たる源頼朝ですら、武家政権のトップの『鎌倉殿』に(1185年)なってから、『将軍』に任官する(1192年)まで少し間(7年間)がありました。
一般的には、、、
- 幕府首脳陣(北条氏)の官位は、四位どまりである
- 将軍の御家人の代表であり続ける事が、関東武士対策上必要と考えられた
- 新しい政権ではなく、あくまでも頼朝が作った鎌倉幕府の仲間と言う立場を取り続けるため
『北条政権』ではなくて、『鎌倉幕府』の運営者であることを大事にしたのでしょう。御家人たちには仲間なのだから、いつでもその立場を北条氏と替われるのだと思わせて、実は北条氏がトップを取り続ける。
事実上は北条氏が政権トップとなっていたので、あまり意味がないように思えますが、やはり、自軍の育成にかかるコストと時間を考えると、北条氏のやり方がスピーディでよかったのだと感じます。
後の天下人である豊臣秀吉も徳川家康も、名実ともにトップに立ったため、自身の出自・家柄をねつ造するのに苦労していたことを考えると、北条氏は実を取ってうまくやったのかもしれません。
『承久の乱』を鎮圧して、鎌倉幕府が日本全国の支配権を得た時期、世界史ではどんな時代だったのか?
『承久の乱』は、承久3年(1221年)5月に勃発で、13世紀の始めの頃の日本の歴史的な事件となります。
東アジアでは
ヨーロッパでは
小まとめ
まとめ
『承久の乱(じょうきゅうのらん)』は、承久三年(1221年)5月15日に後鳥羽上皇が引き起こした政治クーデターであったと言われています。
後鳥羽上皇は、古代から続いた天皇中心の政治を理想とし、天皇の外戚となって政治を壟断する貴族藤原北家を抑えて、10世紀に醍醐天皇と村上天皇による親政が行われた『延喜・天歴の治(えんぎ・てんりゃくのち』に憧れ、今回は武家政権を抑えて、その時代のような天皇親政の実現をねらったものだったようです。
ただの荘園の管理人・禁裏の用心棒に過ぎなかった武士が力を付けて、朝廷政治を大きく左右する現況に怒りを覚え、武家を統率する組織を破壊して、ふたたび天皇・朝廷に従わせようとした後鳥羽上皇でしたが、後鳥羽上皇の思惑は外れて東国の武士団は一致して鎌倉幕府擁護に回り、大軍勢を上洛させるにおよび、上皇は院宣を引っ込め降伏するに至りました。
そして、後鳥羽上皇の隠岐の島への追放も含め鎌倉幕府の断乎たる処置は、朝廷の権限を大きく制限し、天下の政治の大方の権力は幕府に握られることとなり、朝廷はただの一権門に過ぎない存在に陥り、ここに江戸末期まで続く『武家政治』の流れがはっきり形作られる事となりました。
この『承久の乱』は、日本の政治の大きな転換点となった歴史上の大事件となりました。
また、この13世紀はユーラシア大陸の西側では、9世紀に西ローマ帝国の後継たるフランク王国が分裂し、北欧バイキング(ノルマン人)の侵略を受けつつも、ローマカトリック教会の影響下、現在の西ヨーロッパ諸国の原型が出来始めていました。
ギリシャ正教を国教とする東ローマ帝国はモンゴルの侵略を受けロシア諸侯は占領されモンゴル支配下となりました。
ユーラシア大陸東側でもモンゴル帝国の侵略が激しくなって、「宋」の末裔「南宋」も『元(モンゴル帝国の国号)』によって1279年には滅亡し、ここにユーラシア大陸(朝鮮半島も含め)に巨大なモンゴル人の国が出現します。
つまり、日本では鎌倉幕府が承久3年(1221年)に『承久の乱』を鎮圧して、武家政治の基礎固めをしていた頃に、世界では、モンゴル地方に1206年突如現れたジンギス=ハーン率いるモンゴル帝国が、強力な軍事力を背景にユーラシア大陸で膨張し続け、1274年には日本へも渡海侵攻して来たと言うそんな時代でした。