執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『本能寺の変』真犯人はだれ?明智光秀は冤罪(えんざい)か!
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明智光秀はなぜ覇王織田信長を暗殺したのか?
このナゾをすべて解き明かしていきます。
後の権力者によって作られた歴史のベールが
剥ぎ取られ、刷り込まれた思い込みが消えた時、
あなたの目の前に真実が姿を現します。
目次
まずは『本能寺の変』を知ろう!
通説では、、、
天正10年(1582年)5月15日に徳川家康が
わずかな伴回りだけ連れて、信長の招き
に応じて信長の居城”安土城”
を訪れていました。
当日の家康の饗応役は明智光秀が命じられて
いたのです。
室町将軍足利義昭の側近を勤めていた光秀は
この手の仕事には格別に自信があり、腕に
よりを掛けて季節の食材を集めて
当日に臨みました。
ところが、運の悪いことに当日の気温が高く、
集めた食材の魚の一部に痛みが出てしまい、
宴席が台無しになり、恥をかかされた信長
の逆鱗にふれ、足蹴にされたとも言われます。
饗応役を解かれた光秀に、追っかけ、信長
から中国毛利攻めを仕掛けている羽柴秀吉
の後詰の与力を命じられました。
合わせて、光秀の所領は召しあげ、新領地
は中国攻めの毛利の所領の一部でした。
実は、この指示は信長一流のやり方で、
派遣する諸将を鼓舞する意味合いから
必死な仕事を求めている訳です。
この命令のあと信長も手勢を連れて、秀吉の
応援に出向くつもりで、その与力に光秀を
連れて行くこと、そして領地の転封は既定
の方針だったのですが、、、
饗応の失敗と領地召しあげで頭の中が
真っ白の光秀には通じません。
しかも自ら作った坂本城を召しあげされて
絶望の淵に立たされていました。
命令通り出陣となった天正10年(1582年)
6月1日午後、丹波亀山城を進発した明智
軍1万3千の向かった先は備中高松城では
なく、信長が宿泊していた
京・本能寺でした。
わずかな伴回りだけで京の定宿本能寺に
宿泊していた信長を光秀軍1万3千の兵が
取り囲み抵抗むなしく信長は
あっさり暗殺されました。
なぜ光秀は信長を滅ぼしたのか?
結論から云いますと、なんと今に至っても
光秀がクーデター起こした本当の動機は
分かっていないのです。
日本史上有名な興味深いミステリーです。
いままでに出ている説は;
怨恨説・野望説
実はこれが、今一般に説明される本能寺の
変の説明なんです。
名族土岐氏の一門で室町幕府・朝廷筋の典礼等
に詳しい光秀は信長のいじりの対象になって
いましたが、秀吉のように上手く受け流す
ことが出来ず、恨みをため込んでいた
のが、爆発したと言う話ですね。
緻密な計算で物事に対処して来た冷静な光秀に
それはないだろうとも考えられますが、今の
戦国史家の中では、主流の意見のようです。
朝廷黒幕説
信長は天皇を廃し、自分が王様になるつもり
ではないかと疑われており、事件前の公家の
動きに焦点を当てて、その謀略に光秀が
乗ったと云うものです。
『時(土岐)は今 天が下知る五月哉』
が、5月の公家衆との連歌の集まりで詠んだ
光秀の句で、自分(土岐氏)が天下を取る
ぞと云う意味あいだと言われています。
如何にも有りそうな出来た話ですが、客観的に
見て、公家衆は金銭勘定はしっかりされて
いますので、彼らへの金銭的な日本最大の
支援者である織田信長を誅するのは
考えにくいところですね。
四国の戦国大名”長曾我部元親”原因説
信長は秀吉の毛利攻めの前に四国の
長曾我部を懐柔して、信長に敵対
する四国の三次一族を攻めさせて
いました。
その長曾我部への働きかけは長曾我部と
関係のある光秀が担っていたのです。
長曾我部がほぼ四国を制圧しかけていた時に、
三好と信長は和睦してしまい、信長の四国
政策は転換することとなり、間に入った
光秀は面目丸つぶれとなります。
近頃、長曾我部元親から光秀の家老格
斉藤利三への手紙が発見されるなど
関係が取りざたされています。
最近になって見直されている説ですが、
まだ評価は固まっていません。
羽柴秀吉黒幕説
すべてはあの鮮やかな”中国大返し”
にあります。
誰しもあんなことはあり得ないと思うのです。
天正10年(1582年)6月2日払暁 本能寺の変
天正10年(1582年)6月4日 毛利と停戦
天正10年(1582年)6月13日 山崎の戦い
天正10年(1582年)6月27日 清須会議
備中高松城から山崎の戦場まで約200㎞で
重装備の軍団3万くらいが5日間くらいで
駆け抜けたことになります。
移動した事も驚異ですが、この手仕舞いの
段取りの良さが問題なんです。
これは前もって仕掛けておいて、事態が
起こるのを準備万端待っていたに違い
ないと言う説ですね。
その後豊臣政権で毛利家が重臣となっていたり、
あの備中高松の現場にもいた毛利の外交僧
安国寺恵瓊が大名になっていたりするのを
みると、毛利は共犯者ではないにしても
この時に秀吉に大きな恩を売ったとみられ
ても仕方のないところですね。
この説もかなりクサイ感じですね。
その後秀吉は首尾よく政権の座について
いますので、どのように都合の悪い証拠
が消されたのかがわかりません。
有力な説だと思います。
徳川家康黒幕説
信長と同盟を維持して行くために、長男と
夫人に嫌疑を掛けて謀殺までして
いる人物です。
その忠誠心から一番あり得ない説として、
しかも本能寺の変の折、信長の身近にいて
ほうほうの体で三河岡崎の居城まで
逃げ帰っています。
この人は被害者であっても加害者の
はずはない、しかも信長に対して無類
の忠義者と歴史上も評価されています。
通説では、不思議に候補に挙がるのですが、
すぐ否定されています。
実は私はこの人が一番怪しいと
思っています。
感覚ですので、無視していただいて結構
ですが、物事は最後に一番得をした
人物が怪しいんですよね・笑。
もうひとつ、、、
私が昔から非常に疑問に思っている事
があります。
それは徳川3代家光公の乳母の『春日の局』
についてです。
今でも東京小石川で大通の名前(春日通)
にも残っているくらい江戸城大奥から
幕府内でも権勢をふるった女傑です。
この方、そもそも何者かご存じですか?
”本能寺の変”の主人公明智光秀の側近中
の側近、家老格の斉藤利三の娘”福”です。
斉藤利三は近江坂本城の近くで捕らえ
られて、京六条河原で処刑されています。
そうです!彼女は”謀反人の娘”なのです。
そんな人物を大事な大事な跡取りの家光公
の乳母には普通しないでしょう。
そうなった理由は、大御所家康の意志じゃ
ないでしょうか。
テレビで昔”春日の局”を主役にした
時代劇ドラマをやっていた時に彼女が
窮地に陥ると最後大御所の鶴の一声で
いつも救われる場面が記憶にあります。
しかも福の一族(稲葉家ー斉藤家の親戚)は
江戸幕府の中で大名となり幕末まで
残っています。
すべて、”おふく”の大出世のおかげ
ですが、徳川家が特別扱いをして
いたのかもしれません。
家康謀略説の話が本当にあったとすると、
家康とは斉藤利三が交渉役だった
筈ですからね。
通説では、家康は偶々近くにいて被害者と
なったと云う事ですが、下手人は現場
近くにいるというのも、事件の鉄則
じゃないでしょうか。
岡崎に帰還した家康の行動は早く、
信長の敵討ちどころか、武田氏の
旧領地への進軍を開始しています。
こちらも秀吉同様に準備万端だったの
でしょうか。
家康の安土・堺行きはただの信長への
お礼参りだったんでしょうか。
この説を消せない理由は、徳川家が最後
の権力者になったことです。
勝者は歴史を書き換える力があるのです。
当時の残っている記録であっても
鵜呑みにはできません。
都合の悪いことを消して、良い事を書き
加えることが出来てしまいます。
後世の私たちは残ったものを正しいと
して考えねばならないのですからね。
信長陰謀説
何だか訳のわからない説のように思える
かもしれませんので、説明しますと、、、
これは明智光秀の親族の子孫の方が長年の
調査の上、発表された説です。
簡単にいいますと、信長は自分の地位を
狙うもっとも危険な人物として、家康を
位置付けており、大陸侵攻の前に
どうしても抹殺しておきたかったので、
暗殺を企てたと云うものです。
信長にとって好都合だったのは、家康
の伴回りのものは、徳川の主だった
家臣のほとんどが含まれており、
ここで打ち取る事が出来れば、徳川を
完全に崩壊させることが可能だった
ことです。
当時信長近くに滞在していた宣教師
ルイスフロイスの『日本史』には、
怨恨説であったように、家康の饗応の
を巡って信長と光秀の激しいやり取り
があったと伝えています。
しかし、それは饗応のあとではなくて、
前の打合せの時のようで、しかも信長
と光秀ふたりだけの密談だったと
言っています。
この時に、信長から光秀に家康暗殺
命令が出て、光秀はそれに従って
秀吉応援の軍団をそのまま京へ
向かわせたと言うのです。
光秀軍の兵はみな”信長の家康討ち”
を承知していたと言います。
ところが、実際に討たれたのは家康
ではなくて信長でした。
信長は一旦家康を安土から堺見物に
誘い、そして自ら京に赴いて、家康に
堺から京に寄って帰るように指示を
出しています。
つまり、家康が本能寺に来たところを
光秀軍に襲わせる計画であったのが、
一日早く、本能寺に前乗りした信長
を光秀は襲ったのです。
信長の指令ですから、1万3千もの軍団
が京へ進軍しても誰も咎めるものは
いなかった訳です。
まさに信長は自分で仕掛けた罠にハマった
という話です。
家康は堺から京へ戻る途中から、手際よく
京の豪商茶屋四郎次郎に三河への帰途
の手配をさせており、伊賀越えも
伊賀衆の警護を受けながらすんなり
岡崎へ帰還しています。
これは光秀と家康の事前の密談があった
からと疑いたくなる手際の良さです。
が、、、
この説の弱いところは、如何に光秀の
危機感が募ったからと言って、事後の
展開のお粗末さから見て、とてもあの
慎重な光秀の計画とは思え
ないことです。
家康にしても信長の計画を事前に知れば、
やはり伴回りだけでノコノコ安土には
やって来ないでしょう。
それから、秀吉の電撃的行動に合理的
な説明が出来ません。
成功する条件がいくら整ったとしても
それだけで事が起こせるものでは
ないと誰しも思うものです。
異説では、江戸時代初期には犯人は光秀ではないと云う話は常識だったとも伝わっていると事で、『光秀冤罪(えんざい)説』もあるようです。
そのあと何が起こったの?
事件が起こったのは、6月2日の払暁ですが、
秀吉はこのニュースを36時間後くらいには
知ったようです。
6月4日の夕刻備中高松城主清水宗治の切腹によって
和議が成立し、直後に毛利軍に本能寺の変が
伝わりましたが、毛利軍は動かず、6月6日から
秀吉軍の移動(中国大返し)が始まります。
6月11~12日には合戦の行われた京都山崎に着陣
していますので、ほぼ4~5日で200㎞を3万の
軍団が駆け抜けて、地元勢1万を加え、秀吉
軍4万と明智軍1万6千の戦いとなりました。
明智軍は善戦しましたが、兵力差はいかんとも
し難く、秀吉軍の完勝に終わり、敗走途中に
落ち武者狩りにあって落命し、わずか11日の
天下に終わりました。
敗因として、
1)信長の遺体を発見できなかった為に、
他の大名に信長生存の可能性を考えさせて
しまったことと
2)全員遠方に戦闘中にて来れないはずの織田軍が
事変後わずか8日で大軍を率いて現れたことです。
そのため、光秀は準備が間に合わず手勢1万3千+α
の僅かな兵力で織田の大軍(秀吉軍)を相手に
せねばならなかったのです。
いくら戦国の世とは言え、主殺しは大罪です。
正々堂々と破ったのならまだしも、明らかな
騙し討ちを行った明智光秀に対して、共感
する有力大名がひとりもいなかったことが、
致命的でした。
どうしてこんなことになってしまったのか、
動機とともに不思議なことです。
秀吉は、備中高松の中国大返しの際に諸大名に
向かって信長生存の誤報を多発したことが
知られています。
どのみちあの時間内に兵を動員できる大名は
畿内の大名に限られていますから、少なく
ともそれくらいの根回しは出来ていないと
あの天下の大事は起こせないはずなの
ですが、おかしいですねえ。
どうしてもこの話は見落しがあるような気
がして仕方ありません。
この大事決行におよんであの光秀がなにも
遺していないのも妙です。
これは、後の権力者によって処分されたと
みるのが、妥当じゃないでしょうか。
処分しなければいけないものであれば、それは
ことの真相がその権力者に都合の悪いもの
と云う事です。
私は何か”大きな物語”が隠されている
ような気がします。
その後の政権異動;
1582年 本能寺の変(信長死去)
1585年 秀吉関白任官
1598年 秀吉死去
1600年 関ケ原の戦い
1603年 徳川家康征夷大将軍に任官
(徳川幕府を開く)
家康が正式に政権を取るまで本能寺から
約20年ですね。
明智一族のその後は?
光秀の行動は、当時の戦国大名としては
特別な行動ではなかったと思われますが、
直後に光秀を主君殺しの敵討ちと銘打って
世に出た秀吉のお陰(4か月後に秀吉は
『惟任退治記』と云う報告書を纏めて各方面
に宣伝しまくったようです。)ですっかり
光秀は”犯罪者”に仕立て上げられてしま
いました。
よって明智話は大きく取り上げ
られることを憚られてしまった感じです。
妻女熙子は幼子たちと坂本城の落城で
亡くなり、長男光慶、次男十郎は
山崎の戦いで落命しています。
勿論生き延びた方も多いでしょうが、
あまり話題になりませんでした。
悲劇としては取り上げられています。
その代表が光秀の娘細川ガラシャ
(明智珠)です。
三女の珠は細川忠興に嫁していましたが、
関ケ原の戦で夫忠興が東軍に組したため、
大坂の留守宅が三成に狙われ、珠は
人質になることを良しとせず、自害
して果てました。
そのことが、西軍に影響を与え、三成は
東軍の武将の家族を人質に取れずに西軍
敗北の一因となったと伝えられています。
細川ガラシャの話として有名です。
図らずも珠は父親の仇を討った形になる
のかもしれません。
その他の一族郎党では、美濃守護代斉藤家の
一族で光秀の家老格、斉藤利三です。
斉藤利三は山崎の合戦後、近江坂本城付近
の堅田で捕らえられて、光秀の共犯者として
京都六条河原にて処刑されました。
その娘福は母方の実家である稲葉家に保護され、
その後長じて、徳川家光の乳母にまで出世
します。
かの有名な『春日の局』となりました。
(話は家康黒幕説にて述べました。)
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本能寺はどこにあったの?
来歴
創建は1415年(応永22年)の法華宗の大伽藍ですが、
その後幾度となく焼失し、1538年(天文17年)ごろ
に日承上人が中京区蛸薬師通あたりに再建しました。
日承上人は種子島あたりまで布教活動を行い
、鉄砲・火薬にも明るく、戦国大名との関係
が深く、信長も帰依し保護して、京滞在中の
宿所に利用していました。
光秀が攻め込んだ時にも寺内で爆発があったと
伝えられており、火薬類が置いてあったの
かもしれません。
『本能寺の変(天正10年、1582年)』で焼失後、
秀吉によって1592年(天正20年)に現在地
(中京区寺町通御池下ル)に移転再建
されました。
参拝
参拝時間: AM6:00~PM5:00
参拝料金: 無料
本堂にて、毎日朝夕のお勤めをしています。
夕方には法話もあり、本堂は椅子席です。
※大寶殿宝物館は別途一般500円
現在の本能寺
〇京都駅から地下鉄で行く
新幹線口から地下鉄乗り場へは:
新幹線東乗換改札を通って、東地下通路を
まっすぐ進むと地下鉄線への改札口があります。
少し分かりにくいので、案内板に従って行くのが
ベターです。徒歩約10分程度。
乗り方:
京都駅⇒烏丸線(国際会館方面)3つ目⇒烏丸御池⇒
東西線(六地蔵方面)次の京都市役所前 260円約10分
京都市役所前駅から本能寺は出てすぐです。
〇京都駅からバスで行く
新幹線口からバス乗り場へ:
烏丸中央口を出てすぐ1Fへエスカレーターで
降りて、駅ビルの一番手前のA乗り場のA1、A2から
京都市役所前バス停下車均一料金大人230円小人120円
所要時間:20~30分
5系統(A1乗り場)⇒時刻表を見る
17系統(A2乗り場)⇒時刻表を見る
205系統(A2乗り場)⇒時刻表を見る
〇京都駅からタクシーで行く
新幹線口からタクシー乗り場へ:
烏丸中央口を出てすぐ1Fへエスカレーターで
降りて、駅ビル出てすぐ右手から。
料金:1410~1680円くらい
所要時間:約10分
〇京都駅から徒歩で行く
所要時間:目的地までは、3.4㎞ 40分~1時間程度
新幹線口を出てすぐエスカレータで1Fへ
方向は京都駅から北東へ、京都タワーの前塩小路通を右へ向かう。
高倉塩小路の交差点から河原町七条へ向かう。到着したら、河原町
通を北上し、五条を通り過ぎて寺町通を左へ北上する。
寺町通を御池通手前まで直進し、梅安ビルのところを
右折すると本能寺敷地内に入る。
京都の街並みをじっくり観ながら行けますが、
とにかく時間がかかるので、スケジュールの
タイトな方にはお勧め出来ませんね。
因みに京都でのお泊りが必要な方はこちらへ
まとめ
日本史上最大の謎のひとつ”本能寺の変”に関して
見てみました。色々研究が進んで来て、その内
確たる証拠が世に出てくるかもしれませんが、
今のところ、”よく分かっていない”と
云うのが公式理解のようです。
しかし、、、
幾つかの可能性は出て来たような気が
します。
仮に、最後に挙げた光秀一族ご子孫の作家明智憲三郎氏
の説が正しいとすると、簡単な話が、信長暗殺を光秀が
企画し、家康がそれに乗り、秀吉が上前を
ハネたと云う事になります。
私のような歴史好きのウォッチャーが歴史の
結果から判断すると、面白いなぁと思うのは、
後に政権を奪った秀吉も家康も下手人の行動
に一枚乗った可能性があるという事ですね。
やっぱりねぇ。。。
時代の政権を奪取する人物はそれなりの政治
行動を起こして行くものだと思います。
家康はこの本能寺の変(1582年)から
秀吉が亡くなる1598年まで待ち続けて
『天下を獲る』のですから、権力を
手中にすると云うのは、生半可な
忍耐力では出来ないと云う事
でしょうか?