日本初の健康オタク!長寿で天下人となった徳川家康の食事とは?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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日本初の健康オタクと言われた天下人”徳川家康”の長寿の秘訣・食生活を解明します。

戦国時代の武将たちの寿命を明らかにします。

合戦の続いた戦国時代の戦時食に秘密・当時の調味料はどんなものだったのかを探ります。

”健康オタク”と言われた家康の日常食はどんなだったのか?

通説では、徳川家康の長寿(75歳)の秘訣は、すばり”『麦飯』と『豆味噌』の食事”と伝わっています。

これはつまり、”粗食”と言う事になりますが、当時の食事としてはどうだったのでしょうか?

徳川家康に関するいろいろな記事に良く紹介される逸話に、、、

いつも麦飯を食する家康を見ていて、近習のひとりが茶碗の底に白米を入れその上から麦飯をのせて出したところ、家康が不機嫌となり、『お前たちは私の考えを察していない。私が単なるケチだと思っているのか!戦場で兵が満足に寝食も出来ないこの戦国の世に、どうして自分だけが贅沢が出来ようか。私が倹約をすれば戦費の足しにもなり、兵たち下々のもを労わることにもつながるだろう。』(『名将言行録』)と語ったとあります。

つまり、家康は麦飯を粗食と考えていたようです。

そして太閤豊臣秀吉にも、『昔貧しい頃、使いで叔母の家に行った折に大碗に盛ってくれた”麦飯”の美味さは、今の美食も及ばない。』と語ったとの逸話(『異説まちまち』)があり、やはり麦飯を貧乏人の主食と考えていたようです。

当時、主食はコメ(玄米)で、(あわ)、(ひえ)などを生活レベルに合わせてコメの増量材(コメの節約用)として使っていたようで、麦もそんな扱いだったのです。

麦飯』は確かに家康の云う”倹約”と云う話に繋がって行きます。


(画像:麦飯)

そして、『豆味噌』ですが、これは、豆味噌産地の地元三河では『三河味噌』と言っていたようで、今で言う東海地方特産の”八丁味噌”・”赤みそ”になります。


(画像:愛知県産豆味噌を使った赤だしみそ汁)

ですから、地元の普通の産物を使っていて、これも”倹約”と言う意味合いになっています。

一方、『麦』は繊維質が多く、コレステロール・発がん物質を除去し、腸内善玉菌を増やし、ビタミン類を合成する働きがあるなど超健康食品で、『豆味噌』の大豆は強壮効果の高いアルギニン酸を多量に含んでおり、脳細胞を活性化する天然グルタミン酸、レシチン、ビタミンE、リノール酸も多く、行動型の人間を養成するには最適な栄養素を含んでいました。

家康の食事は、臣下には『質素倹約する領主』の姿をアピールし、実は体に良いものだけを食べていたと言う”スグレモノ”でした。

戦国時代を終わらせた”天下人”が3人ともこの中京地区出身者であったのも、”地の利”以外にこの”活力の出る食品群”に拠る事もあるのではないでしょうか。

偶々だろうと言う側面も無きにしも非ずですが、、、

例えば、『関ケ原の戦』の時、土砂降りの雨となって火が使えず、「生米」を食べねばならない事態となった時、家康は全軍に命令を出して「消化不良を起こす”生米”」を食べるのを禁止して、コメを水に良く浸し水を完全に切って、よく消化するようにしてから食べるよう指示したとあります。

因みに、『関ケ原の戦』で戦陣の知識に乏しい石田三成は、敗走時に空腹に耐えかねて生米を食し、”腹下し”して動けなくなったところを取り押さえられたと言われています。

このように、家康は”食べ物に関する知識”もあったようですから、『麦飯と豆味噌』も知識を持ちあわせた上で使い、臣下には『これは倹約だ!』と話していたのでしょうね。

武辺一辺倒の戦国武将が多い中、さすが”健康オタク”徳川家康の面目躍如のエピソードですね。

徳川家康自身の日常食としては、、、

”麦飯、三河味噌の味噌汁、香の物、季節の野菜の煮物、時々鷹狩で得た鳥獣肉の焼き物”と言うのが、定番だったようです。

やはり、基本は『一汁一菜』ですね。

しかし、家康は麦飯何杯食べたのでしょうか?

当時の”いくさ時”の兵糧計算ですと5合/人・日(これだけで、2500カロリー)で、毎食ドンブリ3杯くらい食べないといけない計算なりますので、年寄の家康はもっと少ないでしょうね。


(画像引用:photoAC 俵の鼠像

家康は戦陣でなにを食べていたの?

基本的に、『コメ(玄米)』、『味噌(焼き味噌・味噌玉)』、『梅干し』だったと思われますが、戦国時代の戦時には、各陣営とも『兵糧丸(ひょうろうがん)』と言う携帯食を携行していたようです。

戦国末期の戦術書の伝えるところによると、『兵糧丸』を一日2~3丸食べていれば、ほかには何も食べなくても体力が衰えないと言います。

徳川家康の『兵糧丸』は、「黒大豆」、「黒ゴマ」、「かたくり粉」、「砂糖」を調合したもので、1個の大きさは直径4㎝くらいのものだと推定されます。

一般的には、「干飯」と「味噌玉」を用いたはずですので、『兵糧丸』は本当の非常食だったのだと思われます。

家康は駿府で”鯛の天ぷら”を食べて死んだ!ホント?

通説では、、、

元和2年(1616年)1月21日 ”駿河の田中と言う処”で、家康がいつも楽しみにしている鷹狩をしていたところへ、京都の豪商茶屋四郎次郎が訪ねて来ました。

茶屋は家康の御用商人ですが、若い頃より家康が行なった50以上の”いくさ”のほとんどに、小荷駄隊を自ら指揮して参戦し、家康と苦楽を共にしました。

彼は、家康が心を許している数少ない仲間なので、当然宴会となり、そこで茶屋の紹介した”天ぷら”が丁度領地から届いたでつくられました

ところが、大層気に入った家康は”鯛の天ぷら”を食べ過ぎ、夜半から腹痛を起こしました。

その後、側近の天海和尚の勧めで”納豆汁”などを食して一時は回復しましたが、高齢のこともあり治療の甲斐なく4月17日に死去してしまったと言う話です。

死因は「胃がん」だったと言う説もありますが、前年の慶長20年(1615年)に積年の懸案だった”豊臣家を滅亡させた”ことで、食生活には人一倍気をつけていたはずの家康も、つい気が緩んで魔が差したと言われています。

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戦国武将の寿命は?

一般的に、死去した年齢74歳から考えて、戦国期の人の平均寿命が30歳台とされていますので、徳川家康は大変な長生きとの評価が多くなっています。

この理由として、「戦(いくさ)のやり方」も然ることながら、”健康オタク徳川家康”の食習慣に求める向きが多く、『麦飯』と『豆味噌』が大きくこの長命に寄与したと言われています。

ところが、食文化史研究家で戦国期の復元料理の第一人者である永山久夫氏の著書『戦国武将の食生活』に拠ると、意外なことに主な戦国武将たちの寿命が長命であることが分かります。

 

  • 北条早雲(ほうじょう そううん)    88歳
  • 尼子経久(あまご つねひさ)      84歳
  • 斎藤道三(さいとう どうさん)       63歳
  • 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)       63歳
  • 毛利元就(もうり もとなり)          75歳
  • 松永久秀(まつなが ひさひで)      68歳
  • 柴田勝家(しばた かついえ)          62歳
  • 小早川隆景(こばやかわ たかかげ)    65歳
  • 細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)      77歳
  • 真田昌幸(さなだ まさゆき)          65歳
  • 今川氏真(いまがわ うじざね)      77歳
  • 上杉景勝(うえすぎ かげかつ)      69歳
  • 細川忠興(ほそかわ ただおき)      83歳
  • 宇喜多秀家(うきた ひでいえ)        83歳
  • 本多正信(ほんだ まさのぶ)          79歳

正直、私は驚きましたが、どうでしょうか?

現代人と大差ないことがお判りでしょうか。

ただ、戦国期一般民衆の平均寿命が30歳台であることを考えると、一般人と比べて名を成した戦国武将は、徳川家康に限らず驚くほど長命だったんですね。

これは、一般の人よりも戦国期の武士の体の鍛え方が尋常でなかったことも、大きな原因のひとつではないかと想定されます。

加えて、当時の武士階級の知的レベルは相当に高く、”健康”に関する知識・関心度が現代人と比べて格段に高かったのではないかと思われます。

どうも、家康の健康オタクの事ばかり言いますが、戦国武将は皆それなりに”食”に対する考え方・”健康”に対する関心度は高かったのではないでしょうか。

現代人のように、すべて医者任せに出来ないこともあり、幼少期からの体の鍛え方が現代人とはレベルが違っていたのでしょう。

ひょっとすると個々の体の強さに関して、現代は戦国期よりも大きく後退しているのかもしれませんね。

この当時・戦国時代の食生活とは?

江戸時代に入ってからもそうですが、この時期の食事は1日2回(朝夕)だったようです。

原則、1日2食、玄米、味噌汁、副菜、(一汁一菜)ですね。

豆味噌は戦陣食に使われる貴重品だったため保存され、平素は米ぬかで作った味噌?で代用していたようで、副菜はあればイワシの塩漬けか野菜の煮つけで、無ければ梅干か漬物でした。

農民は玄米は食べれず、粟・稗など雑穀の雑炊を主食としていて、副菜は野草を取って食べていたようです。

 

現代人は、”野草・山菜”の知識を一部の特殊なひと以外持ち合わせていませんので、それらを食べ物として意識することなく過ごしています。

しかし、それらを食材として活用していた当時にすれば、今失われてしまった”里山(さとやま)”と言うのは、薪を取る場所だけではなく、農民の大事な野菜畑だったんですね。

テレビの”旅番組”などで山間部の民宿へ行くと土地の老婆のような人が”ここいらは、田舎でこんなものしかないので、都会の人の口に合うかどうか。”などと、言いながら見事な山菜料理を出すのが定番です。

あれは、今でこそ”珍しいもの”になっていますが、戦国期どころか昭和初期くらいまでは、大都会以外に住む一般国民のごく普通の食材だったのです。

明治期以降に外来種の野菜が日本の食卓を席巻する以前は、今で言う”山菜料理”が一般人の食事だったと考えてもいいのではないでしょうか?

ですから、当然季節季節の野菜・果物が食べ物になる訳です。

歴史家が、”徳川家康は季節の旬の野菜しか食さなかった”とさも特別視していますが、私は至極当たり前な話と受け取っています。

夏目漱石の小説に、家の亭主が午前中にまずその日の献立を考えて、紙に書いて家人に渡すと言うのがあったように思いますが、昔の男はかくも料理・食材に関して知識があり、それが当主として普通だったと言う事でしょう。

夏目金之助(漱石)の家も武家でしたから、そんなエピソードを当たり前のように入れたのでしょうけど、、、

まぁ、武家の当主たる徳川家康が食に対する気配りをしているのは、継続して戦争をやっている軍の司令官としては大事な仕事のひとつなのです。

家康の徳川家は、日本で一番最後に残った武家の統領の代表みたいなものなので、その為記録が他家に比べて一番多く残っていたことが、彼が”健康オタク”に祭り上げられた理由かもしれませんね。

戦国時代の調味料は、今とどう違う?

意外に思いますが、醤油』と云うものは、案外歴史が浅いのです。

戦国期の調味料の代表は、””、””、”味噌”、””ですね。

醤油のもとになる”たまり”が出来るのが、16世紀後半でそれを元にして醤油が作られ始めるのが、17世紀後半の江戸期になり時代が落ち着き始めてからのことになります。

と言う事で、、、

戦国期は、醤油代わりに酒に梅干しを入れて煮だした『煎り酒(いりざけ)』と云うものを調合して使っていたようです。

簡単な作り方は、鍋に日本酒300cc、塩小さじ1/3程度と梅干し1個を入れて火をつけ、沸騰したら鰹節10g程度を入れ弱火にして、汁の量が半量(150ccくらい)になるまで煮詰めて出来上がりです。

最近健康ブームの中で、これが見直されて塩分が多い醤油の代わりに使うひとが出て来ているようです。

味噌は、奈良時代の文献にすでに登場し始めているようで、早くから普及して戦国期には重要な戦略物資として重用され、前出の家康の『三河味噌(豆味噌)』など多種多様に地方ごとに製造されていました。

と言う事で、、、

戦国期の調味料は、醤油がまだ普及していないので代用品(煎り酒)を使っていたほかは、大体今日と変わりないものを使っていたようです。

まとめ

戦国時代を終わらせる代表的な3名の武将(愛知県では”郷土三英傑”などと称しています)の死亡年齢が、織田信長(49歳)豊臣秀吉(63歳)徳川家康(74歳)と家康が図抜けて長命で、尚且つ戦国時代を終わらせて幕府を開いていますので、そ長生きした理由のひとつの『家康の食事』が注目されています。

3人の中で、織田信長は周知のように病死ではなくて、『本能寺の変』で暗殺されています。

しかし、残る文献によっても信長の食のレシピが”極めて塩辛い濃い目の味付”が好みで、しかもかなりの早食いであったことが分かっており、それにあのすぐに感情を高ぶらせる性格から、暗殺されなくても遠からず突然死していた可能性が高いことが医学関係から指摘されています。

このように”食生活”から予想されることは非常に示唆に富みます。

そこで、この長生きの家康の食生活を顧みてみましたが、贅沢をしていなかった以外では、『麦飯』と『豆味噌』を主体にした食事と言う事で、当時の戦国武将の領袖たちのやっていることと比べて、際立った特徴の差があるわけではありませんでした。

しかも名を成した武将たちは意外にも長命で、家康より長生きした人物も多数いることが分かりました。

最後にその家康の死因が、『美味しいものを食べ過ぎたため』と言う、皮肉というか奇妙なもののため、余計に家康の『食生活』が注目されるのでしょう。

ただ、ほっておけばあと10年は命を長らえたのではと言われるくらいですから、普通の病死とは云い難いと思われ、なにか別の理由を暗示する向きがこの奇妙な『美食で死んだ』ことをわざわざ強調しているのかもしれません。

どうも、『家康の健康レシピ』問題は、単なる”長寿の秘訣”を探る話ではなくて、『家康の死の真相』に別の問題があることを先人が示唆しているような気がします。

参考文献

永山久夫 『戦国武将の食生活』(1990年 河出文庫)

青木直己 『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(2007年 NHK出版生活人新書)

味噌の発祥と歴史|味噌のこと|知る・楽しむ|マルコメ

ウィキペディア陣中食

 

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