徳川家康は、天下人豊臣秀吉に消されなかった!なぜ?

豊臣秀吉がなぜ、徳川家康を滅亡させなかったかの理由と、徳川家康がなぜ豊臣宗家を滅亡させたかについて明らかにします。

本能寺の変』の黒幕候補に豊臣秀吉と徳川家康が上がっている怪しい理由を解説します。

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豊臣秀吉は、なぜ徳川家康を殺しておかなかったのか?

豊臣秀吉が天正10年(1582年)6月13日の『山崎の戦(天王山の戦)』で、明智光秀を破って『主君織田信長の仇討ち』を果たして、6月27日の『清須会議』で織田家筆頭に名乗りを上げて以来、徳川家康と交戦したのは、慶長12年(1584年)の『小牧長久手の戦』だけです。

秀吉は従来から、機略を巡らせた戦いや調略は得意な武将でしたが、意外なことに所謂『暗殺』と言うものには手を染めていないので、家康殺害の機会があるとすれば『小牧長久手の戦』だけだったと思われます。

その『小牧長久手の戦』での最初の交戦そのものは、家康の勝利に終わりましたが後の外交戦で秀吉の勝利に終わり、家康はさっさと陣払いして岡崎へ帰着してしまいます。

学校の歴史勉強では、ここは”そもそも家康が挙兵をした原因でもある織田信雄(おだ のぶかつ)”が、後ろ盾の家康と相談なしに秀吉と和議を結んでしまったため、”出兵の大義”を失った家康が馬鹿馬鹿しくなって兵を引いたと簡単に触れている程度です。

後々のことに考えが至っていれば、この時点で秀吉は全力を挙げて家康を追撃して始末しておくべきだったのですが、逆に秀吉は家康と手を組むことを選択しています。

”退き陣”へ追撃を仕掛けるのは”合戦のイロハ”ですが、なぜか秀吉は追い掛けもせず、千載一遇のチャンスを棒に振った訳です。

家康の脅威について十分承知の秀吉が、なぜ簡単に家康のこの”退き陣”を許し、その後は土下座せんばかりに家康に同盟をせがんだのでしょうか。

ここは、簡単に”退き陣”を許したのではなくて、手が出せなかったと見るのが正しいのではないでしょうか。

家康は、『天正壬午(てんしょうじんご)の乱』のケリをつける時に、北条氏政と和議を結んでいますが、同時に姻戚関係を結ぶことにより北条氏政(ほうじょう うじまさ)と軍事同盟関係となっています。

つまり、徳川家康は対秀吉戦を想定して『保険』まで掛けていて、秀吉はその危険性(北条氏政の参戦)を察知して手を出さなかった訳です。

事実その後、秀吉が家康の上洛(秀吉への臣従)を促す時、家康が言を左右にして応じない間、北条氏政は家康との盟約に従って、配下の武将に”陣ぶれ”をなし、秀吉の三河・関東への侵攻の脅威に出陣の準備までしていました。

秀吉も最後”家康の上洛”を促すため、自分の母親”大政所”を人質に出すことまでやったのは、この徳川ー北条を軸にした東日本軍との分裂状態に陥る政治的な危険性を察知していたからでしょう。

結局、秀吉には家康の慎重な戦略によって”家康を消すチャンス”が見出せないまま、同盟者とせざるを得なかったと言う事になりましょうか。

しかし、家康は秀吉が見込んだ通り『律義者』で有り続け、秀吉の弟羽柴秀長(はしば ひでなが)とともに豊臣政権を支える原動力となりました。

そして、この”家康を取り込んでその後に北条を消した”ことで、大きな対抗勢力をつぶすことが出来て、その結果秀吉は『天下人』となり得た訳です。


(画像引用:Yahoo画像 豊臣秀吉

家康はなぜ豊臣家を滅ぼしてしまったのか?

 

通説では、、、

徳川家康は、慶長5年(1600年)9月15日の世に言う『関ケ原の戦』で、秀吉亡き後の豊臣政権で総理大臣格の石田三成に勝利して政権(天下)を手中にしました。

そして、慶長8年(1603年)には朝廷より征夷大将軍の宣旨を受け、さらに2年後の慶長10年(1605年)には、嫡男秀忠に2代目将軍を継がせ、天下に徳川幕府が継続して行く正統性を印象付けました。

さらに慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)の『大坂の陣』で”秀吉の後継者豊臣秀頼”を大坂城で攻め滅ぼして豊臣宗家を完全に滅亡させ、名実ともに『徳川時代』を開いて行きました

後世の私たちの多くは、『もう時代の趨勢は決まっていたのに、家康はずい分大人げないことをするものだ』との感想を持ち、この事がその後の”家康人気”がイマイチな大きな原因なのではないかと思います。

そこで、、、

大相撲で実力横綱が敗者に土俵際で更に不必要なダメ押しをしたように見えた家康ですが、その後の慎重な体制作り・本人の人物来歴などを見るとその行動はいささか腑に落ちないのです。

あれほどの歴戦を潜り抜けて来た強者の家康ですから、”孫娘の婿の秀頼を滅亡させたあの行動”にはそうせねばならない何か重大な事情があるはずです。

最近の専門家の研究で、、、

以前からささやかれていたようですが、”通説とは違って、徳川家康は『関ケ原の戦』結果で政権を取れてはいなかった”のではないかと言われ始めました。

つまり、『大坂の陣』での豊臣家の殲滅戦が”単なる弱いものいじめ”ではなくて、家康はその一戦に真剣に”徳川家の未来”を賭けて戦ったという事です。

ですから、あれは『ダメ押し』だったのではなくて、『必要な仕置き』だったと言う事なんですね。

では、理由を見てみましょう。

『二重公議体制』のこと

『関ケ原の戦』の結果、220万石の豊臣宗家は畿内三か国65万石に大減封されました。

しかし、通説のようにそのまま政治力も失い衰退して行ったのではなく、どうやら政治的にはそのまま安定していたようです。

先ず、家康は”関ケ原の戦の論功行賞”で、協力してくれた豊臣恩顧の大名に手厚く徳川譜代には少な目の配分をしています。

それから、その通達状『領地宛行状(りょうちあてがいじょう)』を出さずに、異例の使者による口頭通知を行なったことは有名です。

この理由は、正式な書面は”家康名義で出せずに、豊臣秀頼の名で出さなばならなかった”ことによるとされています。

要するに、『関ケ原の戦』に勝利したのもかかわらず、家康は未だに”秀頼の政務を支える業務代行者”に過ぎなかったことが示されています。

つまり、公式文書を家康名で出すことが出来なかった事情があることを伝える事実です。

それは取りも直さず”公議”が相変わらず『豊臣家』にあることを示しています。

年賀の挨拶も朝廷はじめ家康も含めて大名は秀頼のもとへ出かけていたようで、その事実が『豊臣公議』の存在を証明するものだあったようです。

さすがに、慶長8年に家康は将軍任官するととも秀頼のもとへの年始挨拶は行かなくなったようですが、朝廷・各大名は相変わらずでした。

これは、どう見ても武家の統領の”徳川家の公議”と、別格で『豊臣家の公議』が存在し続けたことを示しています。

 

豊臣恩顧の大名対策

ふつう、戦いに勝てば自分に付き従って来た身内の家来に”論功行賞”を手厚くするのが当然です。

ところが、家康の”関ケ原論功行賞”は、徳川からすれば外様の豊臣系武将(豊臣恩顧の大名たち)に手厚くしています。

徳川家の外様である秀吉の身内のような加藤清正に51.5万石、福島正則49.8万石、黒田長政52.3万石などと大盤振る舞いをしています。

大名の配置は、江戸周辺から街道要衝には譜代の徳川系武将たちを僅かな加増で配置し、豊臣系武将は西国方面へ押し込めています。

つまり、形の上では、東日本ー徳川方、西日本ー豊臣方のような分割統治に近い体制ともいえる布陣です。

家康は、十分な加増を豊臣系武将に行い、豊臣家への配慮を十分にして、不満から豊臣系の大名たちが爆発しないようにしているのです。

豊臣秀吉存命下に行われた『朝鮮出兵』で示された各大名の軍事力を十分に考慮に入れ、”徳川打倒”の口実・キッカケを与えないように考えられたものと思われます。

これは以前から言われていることですが、家康はこのように少しづつ『豊臣家の権威』を削ぐ政策を進めながらも、豊臣系武将の寿命の尽きるのをじっと待っていたようです。

 

関係年表

 

豊臣系武将の死

  • 慶長16年4月没   浅野長政(あさの ながまさ)
  • 慶長16年6月没   堀尾吉晴(ほりお よしはる)
  • 慶長16年6月没   加藤清正(かとう きよまさ)
  • 慶長18年1月没   池田輝政(いけだ てるまさ)
  • 慶長18年8月没   浅野幸長(あさの ゆきなが)
  • 慶長19年5月没   前田利長(まえだ としなが)

と続き、一気に家康の行動は開始されます。

  • 慶長19年8月    方広寺鐘銘事件
  • 慶長19年11月   大坂冬の陣
  • 慶長20年5月    大坂夏の陣 (豊臣宗家滅亡)

 

こまとめ

家康が一番恐れていたのは加藤清正だと言われています。

『関ケ原の戦』以後、『二重公議体制』を容認してまで、一気に豊臣家をつぶしにかからなかったのは、この『豊臣系武将』の力が秀頼に結集するのを恐れたためで、『大坂の陣』で”豊臣家を滅亡”させたのは、”豊臣系武将の力を恐れる必要がなくなった”からです。

その長い猶予期間内(14年間)に、家康も納得するような豊臣宗家から徳川家への『政権・公議(権威)の禅譲』が提案されたのなら、おそらく『大坂の陣』はなかったのではないかと思います。

なんせ、『大坂冬の陣』の時まで、朝廷から秀頼への年賀訪問は続いていたのですから、その『権威』をつぶすには滅亡させるより手がなかったのでしょうね。

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秀吉は家康をどうして関東へ転封(国替え)したのか?

 

秀吉は天正18年(1590年)7月に『小田原の戦』を終了させた後、7月17日に小田原から江戸・宇都宮を経由して会津若松へ”奥州仕置軍”を動かし、『奥羽仕置(おうう しおき)』を行なっています。

『小田原の戦』に入った3月から、秀吉は作事方の益田長盛(ました ながもり)に命じて、奥州につながる街道整備に取り掛からせており、すでに奥羽支配を念頭に入れていたことがわかります。

秀吉は、『小田原の戦』に遅参した”伊達政宗(だて まさむね)”から取り上げた会津の領地を蒲生氏郷(がもう うじさと)へ与え、奥羽仕置奉行浅野長政(あさの ながまさ)に軍を率いらせて、抵抗勢力を制圧しながら8月9日に会津黒川城(若松城)に入ります。

こうして秀吉は奥州支配を確立させ、秀吉の『天下統一』はなりました。

江戸時代より、家康の”関東国替え”について諸説あるようですが、代表的な三つの説を見ますと、、、

 

『優遇説』

交通の要衝である江戸の将来性を見抜いた秀吉が優遇して家康を入部させたとする説

 

『謀略説』

未だ政情不安定な関東に入部させることで、家康に反発する勢力との対立で家康を滅亡させようとしたとする説

 

『敬遠説』

臣従したとは言え、秀吉にとってまだまだ信用できない危険な存在である家康を京からなるべく遠くの地へ遠ざけたとする説

 

 真相

私などは今まで『敬遠説』が妥当かな、なんて思っていました。

 

しかし冒頭に述べましたように、最近の研究では、秀吉自身が奥州まで用意周到に街道整備までして自身で足を運んでいるなど、奥州支配の安定化を真剣に考えていることがわかって来ました。

つまり東国支配で奥州地域まで考えに入れた場合に、関東のど真ん中にあり、しかも交通の要衝である”江戸”に、関東の土地勘が一番あって臣下では一番の実力者で”律義者”である家康に、ここの支配を任せたというのが本当のところのようです。

このあと、慶長3年(1598年)1月には、越後の上杉景勝も会津への転封を命じられており、秀吉の奥州への備えは万全になって行きます。

と言う事で、、、

秀吉は自分の目の届きにくい関東の先のことに関して、信頼できる家康にその支配を任せたと言うのが、この『家康の関東国替え』の真相だと考えられます。

ですから、当然本拠地を『江戸』に決めたのは、家康ではなくて秀吉だったと言う事になります。

家康はなぜ秀吉のように”関白”にならなかったのか?

 

これは、家康が鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもと よりとも)に深く傾倒していたことから、武家の統領である『征夷大将軍』を選んだと思われます。

では、武家の統領のはずの秀吉がなぜ将軍にならなかったかと云えば、良く知られていますように、将軍職は”清和源氏(せいわ げんじ)”の子孫でなくてはなりません。

秀吉は尾張国中村の百姓であったことが、広く知られており今更ねつ造は困難な状況でしたので、公家の近衛前久(このえ さきひさ)に頼んで『猶子(ゆうし)』にしてもらい関白職に就きました。

武家出身の家康の方もかなり怪しくて、やはり近衛前久に頼んで清和源氏の系譜にねじ込んでもらったようですね。

秀吉は世襲制の『武家関白』の継続を狙っていたようです。

豊臣家がこの『武家関白』の世襲を狙っていたので、対抗上家康は『征夷大将軍』と武家に通りのいい方を選んだこともありそうですね。

家康と秀吉は、本当は『本能寺の変』を事前に知っていた?

このような疑問が出る背景は、どちらも行動が異常に早すぎるからです。

秀吉は、備中高松にあって強敵毛利軍と対峙中で、信長に援軍要請するほど苦戦していたにもかかわらず、なんと『本能寺の変』の起こった翌日にはもう”退き陣”の準備に取り掛かり、有名な『中国大返し』をやってのけます。

天正10年6月2日に『本能寺の変』が勃発し4日の夕刻に変事の情報を得て即座に毛利と和議を成し、重装備の2万もの将兵を率いて備中から200kmの距離を踏破し、6月11日の夕刻には、尼崎に到着しています。

そして6月13日には、京都山崎で明智光秀軍を破っているのですから、疑われない方がおかしいです。

一方、家康は6月2日に泉州堺にいて、堺から伊賀の山中の間道を強行突破して『伊賀越え』をやってのけ、驚くべきことに6月4日にはもう三河岡崎に帰着したと言うのです。

この行程も200kmくらいありますが、これをほとんど馬(と徒歩)で走り抜いたと言います。

どちらのケースもはっきりしていることは、『本能寺の変』の発生日と各々の到着日だけです。

常識的に云って、十分準備がなされていても実現はかなり困難なタイムスケジュールなのです。

しかし、これは実際に起こったことなので、それがはっきりした到着日で実現しているとすると、結論としては出発日がおかしいとしか考えられません。

”おかしな出発日”が実現している原因は、その事件『本能寺の変』が起こることを事前に知っていた可能性が高いという事になります。

実際は何の証拠もありませんので、後に『天下人』となったこのふたりは『奇跡の対応力』を実現した”超人・英雄”と言う事になっています。

そうしたことから、『怪しい』と思われているわけです。

ふたりがこの怪しさから『本能寺の変』の黒幕ではないかとも言われているくらいですからね。

まとめ

豊臣秀吉が『危険な競争者である徳川家康をなぜ滅ぼしておかなかったのか』と言う事について、秀吉が”消すより協力者として利用する方針”で臨んだのがその主な理由と考えられます。

また、家康は『大黒柱の秀吉を失った豊臣宗家を孫娘まで嫁がせておきながら、なぜ滅亡させる道を選んだか』については、通説とは違って”『関ケ原の戦』で家康が政権を掌握出来ていなかった”ことが原因と考えられます。

最近の研究で、徳川家と豊臣宗家の『二重公議』状態を容認せざるを得ない政局だったことが指摘され、豊臣系の有力武将が亡くなるまで待ってから、豊臣宗家の『権威』を消滅させるためには滅ぼす以外の選択肢はなかったと結論付けられます。

高齢の家康がもう時間的に待てないと言うこともあったのかもしれません。

”『本能寺の変』の黒幕の疑い”に関しては、”時間のトリック”が解けない以上、やはり、このふたり”豊臣秀吉と徳川家康は怪しい”と言わざるを得ないと思います。

参考文献

渡邊大門編 『家康伝説の嘘』(2015年 柏書房)

岡本良一 『大坂冬の陣夏の陣』(1983年 創元新書)

黒田基樹 『戦国北条氏五代』(2012年 戎光祥出版)

日本史史料研究会監修 『家康研究の最前線』(2016年 洋泉社)
平野明夫編

瀧澤中 『「戦国大名」失敗の研究』(2014年 PHP文庫)

八切止夫 『信長殺し光秀ではない』(2002年 作品社)

平山優 『天正壬午の乱』(2016年 戎光祥出版)

ウィキペディア徳川家康

ウィキペディア豊臣秀吉

 

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