『本能寺の変』が起き、徳川家康は『伊賀越え』で脱出!本当?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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神君徳川家康の最大の危機だったと言われる『伊賀越え』の謎に迫り、果して、家康は信長暗殺本能寺の変』の黒幕だったのかどうかを明らかにします。

戦国の覇王織田信長の跡目を巡るこの騒動『本能寺の変』に、家康はどう立ち回ったのか?

家康が繰り広げる表舞台で大活躍する本多忠勝ら四天王達に比べて語られることの少ない、徳川家の黒子達 茶屋四郎次郎服部半蔵とは何者なのか?実像に迫ります!

『本能寺の変』後の『家康の伊賀越え』は、史実なの?

本能寺の変』の知らせが入った時、家康一行は和泉の堺にいた、又は京都へ向かっていた事は間違いない事実です。

そして、、、

家康一行が陸路使って『伊賀越え』を行ったことに関して、太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』には、桑名より熱田へ渡ったと、大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん)の『三河物語』には白子(現鈴鹿市)より大野(大浜?-現碧南市)へ渡ったと記述されており、渡海ルートの多少の違いはあるにせよ『伊賀越え』は史実と見て間違いないでしょう。

定説では、、、

天正10年(1582年)3月に甲斐の武田勝頼を滅亡させた織田信長は、家康に旧今川領の駿河一国を与え、その”御礼言上”のために、同年5月半ばに安土城を訪れた徳川家康と、武田勝頼滅亡に格別の功があった武田の旧臣穴山梅雪(あなやま ばいせつ)を手厚く饗応します。

その後織田信長は、中国地方征討に向かっていた豊臣秀吉から救援要請の急使が届いた為、明智光秀を与力に命じて秀吉の援軍に向かう予定だとして、家康ら一行へはその準備の間、長谷川秀一(はせがわ ひでかず)を案内人として堺へ見物をするように勧め、信長の出発前に再び京都で落ち合う段取りとなりました。

その時大坂では、四国征討に向かう信長の三男織田信孝(おだ のぶたか)と与力の重臣丹羽長秀(には ながひで)らが、渡海遠征の準備を整えている最中でもありました。

一方、織田信長の嫡男織田信忠(おだ のぶただ)は、中国援軍に同行するためか信長が京都へ向かうのと合わせて京へ向かい本能寺近在の妙覚寺にいました。

そして信長が同年6月1日に京本能寺で公家衆との面談・茶会を終えて就寝していた6月2日の払暁に、備中へ向かうはずだった明智光秀の中国遠征軍1万3千の兵に宿舎である本能寺を取り囲まれて暗殺されます。

いよいよ!歴史上の大事件『本能寺の変』の勃発です。

この時泉州堺に滞在中の家康は、信長から6月2日に本能寺へ集合するような招集がかかっていて、すでにその出発に関して準備が行われていたと思われます。

同行していた家康の御用商人茶屋四郎次郎清延(ちゃや しろうじろうきよのぶ)は、京の信長のもとへ家康の堺の予定が終了した旨を連絡すべく、前日の6月1には京へ向かいました。

そして、6月2日に変事を知ってから急ぎ京を出発したところ、当日先乗りして来た側近本多忠勝(ほんだ ただかつ)と京坂間の枚方(ひらかた)辺りで行き会います

家康は直ちに領地三河への帰国を決意し、当日は山城国宇治田原城へ入り、翌3日近江国甲賀郡小川で宿泊、4日に小川から北伊賀へ入り、柘植から関、亀山、庄野、四日市を経て鈴鹿白子より船で5日には三河大浜(碧南)へ無事戻ったとされています。

通説では、前年の天正9年に信長軍が伊賀国の殲滅作戦をやっていた影響で、伊賀の住民感情は極めて悪く、家康が伊賀を通過するのに落ち武者狩りの襲撃も加わって困難を極めたとされています。

しかし、記録に残る日程を見ると、話と違って極めて順調に伊賀国を通過しています。

その後江戸幕府で設置された御庭番に伊賀者が多かったことを思うと、家康が保護していた伊賀者服部一族の『伊賀越え』での大活躍が想像されるところですね。

安土城への信長訪問から同道していた旧武田重臣穴山梅雪ら一行は、変事を知った後に”伊賀越えの陸路で脱出を図る家康一行”と袂を分かち、別行動を取って途上で”落ち武者狩り”の襲撃を受け、討ち取られて落命したと伝えられています。

首実検をした明智光秀が、想像した家康の首ではなく、穴山梅雪の首であることに衝撃を受けたとかも言われていますので、やはり家康討伐命令は出されていたのでしょうか。

ともあれ、無事三河岡崎に帰着した家康は、信長の弔い合戦の軍を挙げて西へ向けて出陣をして行きますが、ほどなく明智光秀討伐済みとの連絡が豊臣秀吉から届き、やむなく岡崎へ引き返します。

定説では、このようになっています。


(画像引用:伊賀上野城

同行していた穴山梅雪はなぜ死んだのか?

戦国武将は油断をした方が負けと言われるほど、皆、人を信用せず細心の注意と緊張感をもって他の武将に接していたようです。

定説では、、、

この旧武田重臣穴山梅雪も、信長横死の報に接した途端に、同道している徳川家康に身の危険を感じ、別行動を選択したと言われています。

しかし、ほどなく”落ち武者狩り・土一揆”の集団に襲われ落命する運命を迎えます。

家康一行は、同行の京都商人茶屋四郎次郎が大活躍し、一行を先導し行く先々に”銭”を土地の土豪たちにばら撒き、家康の伊賀国無事通過の工作をして回ったと言います。

異説では、、、

実は、穴山梅雪の想像通り、彼らを襲ったのは徳川家康一行だとされています。

家康の一行は上京の時は、腹心の重臣・部下40人程度の供連れで安土に入ったとありますが、実は三河へ帰る『伊賀越え』の時は、これにプラスして服部半蔵手配の伊賀者190名が武装して家康一行の警護をしたと伝えられています。

そして、穴山一行を襲ったのが200数十名の”落ち武者狩り”だったと言われており、襲撃者の人数がほぼ一致するため、しかも穴山梅雪は切腹したとなっていて、やはり家康の手にかかって切腹させられたものだと伝えられています。

真偽のほどはよくわかりませんが、家康を巡る”忍者部隊”の活躍はいろいろ噂・物語になっており、”徳川の目となり、耳となった御庭番”のこともありますから、単なる傭兵だったとは言えないのではないでしょうか。

もし徳川家康が下手人だとした場合の穴山梅雪殺害動機ですが、

主家武田を裏切った陪臣穴山を家康が信用していなかったこと

旧武田重臣穴山の力は侮れず、旧武田領の横領に当たって必ず邪魔者になること

などがあげられるのではないでしょうか。

それが証拠に、信長の変事以後、家康の敵対者である東国の大大名後北条氏の旧武田領に対する侵略は素早くて、やはり北条氏政(ほうじょう うじまさ)はただものでなかったことがうかがい知れます。

とは言え、有力な戦国大名である徳川家康も同じことを考えていたのではないでしょうか。

加えて、北条氏政は、信長の武田攻めに関して北条も呼応して攻めているにもかかわらず、徳川には”駿河一国”が与えられながら、北条は全くその恩賞に全くあずかれなかったことに、信長への不満を募られていました。

家康の戦略からすれば、ひとつでも障害になるものを除去しておかねばなりませんでした。

後年の家康であれば、この穴山梅雪を上手く利用することを考えたかもしれませんが、当時は我慢に我慢を重ねて信長の膝下にいたのが解き放たれて間もない頃ですから、一刻も早く自分の東国における覇権を確立する必要があって気持ちに余裕がなかったのだと思います。

まぁ、異説が正しいとも言えませんが、どうも穴山梅雪が殺害されたのは、ただの偶然に”落ち武者狩り”の一団に襲われただけではなかったような気がしますね。

徳川家康は『本能寺の変』後の三河帰還ルートを、なぜ堺から『船』で帰らず、陸路の『伊賀越え』を選んだのか?

本能寺の変』(1582年)当時、徳川家康はまだ後年の『大御所』ではありませんでした。

有力大名ではありましたが、まだ東国三河の国の”田舎者”に過ぎなかったのです。

天正10年(1582年)6月初頭は、前述したように飛ぶ鳥を落とす勢いの織田軍『四国遠征部隊』の渡海作戦が始まろうとしていました。

堺周辺の船と言う船はほとんど織田軍の管理下に置かれていたものと思われます。

家康の同行する御用商人茶屋四郎次郎も京都商人で堺では顔が効きませんでした。

おそらく、今井宗久、千宗室らに頼み込んで、血眼になって探したと思いますが、家康に回せる船(しかも50名程度は乗せる大型船が必要)も急には手配がつかない状態だったと判断されます。

そして明智光秀は、朝廷・織田政権ともに影響力のある有力者・有名人です。

その人物が引き起こした『政変』ですから、誰が見ても”敵方(織田方)”の徳川家康は、格好の標的となるでしょう。

しかも、その織田家ですら、四国遠征軍の長、織田信孝・丹羽長秀が家康の味方とは限らないのです。

これが、戦国時代の常識でしょう。

船は目立ちすぎますし、この時代は泉州堺から三河湾に至るルートに立ちはだかる紀伊半島の沖にある熊野灘の安全な航路は開拓されていませんでした。

つまり、遭難の可能性があるのです。

”落ち武者狩り”のリスクより、こちらの”遭難のリスク”方が大きいと判断されたようです。

この時、幸運なことに家康の伴侍の中に、伊賀者の有力者(上忍)”服部半蔵”が従者として加わっていたのです。

家康は、前年天正9年(1581年)の信長軍団の『伊賀攻め(後期・天正伊賀の乱)』の時に、家康が召し抱えていた服部家を頼って三河へ逃亡して来た伊賀者を危険を犯して匿っていて、この事は伊賀での家康にとって大変有利に働きそうでした。

この時、茶屋四郎次郎の『銭』服部半蔵の『顔』を使って、この難局を乗り切る目処が家康の頭の中にハッキリ浮かんで来たのだと考えられます。

家康はこうした理由で、読めない荒海に乗り出さねばならない”海上ルート”よりも、リスクのコントロールが効く『伊賀越え』”陸上ルート”を採用する判断をしていたのです。

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忍者服部半蔵はどんな働きをしたのか?

伊賀にはかつて、服部(はっとり)家百地(ももち)家藤崎(ふじさき)家の上忍三家があり、その後、服部家が地元を離れて室町将軍家から三河の松平家に仕えて後の伊賀は、北伊賀を藤崎家、中部・南伊賀を百地家がまとめていました。

地元を離れた一族とは言え、古くから服部家は伊賀では名門の上忍の一族でしたので、この地域では”顔”が効き、これが大きくものを言ったようです。

さらに、家康にとっての幸運は続きます。

偶々、信長の命令で家康の堺方面の饗応役となった長谷川秀一(はせがわ ひでかず)が、信長の配下であった宇治田原城主山口長政(やまぐち ながまさ)と懇意であり、その養子が前出の伊賀攻めで織田軍の先導役を務めた甲賀の小川城主多羅尾光俊(たらお みつとし)の一子多羅尾光弘(たらお みつひろ)でした。

その為、宇治田原城の後、信楽小川の多羅尾の城にも宿泊することが出来て、伊賀の柘植まで無事に甲賀衆100名と服部半蔵の手配した伊賀衆200名に守られて行き、この人たちの警護のお陰で、危険な野伏せり達のたむろする加太峠(かぶととうげ)を無事通過することも出来ました。

大久保彦左衛門の『三河物語』に残るように、『伊賀衆の家康に対する恩返し』だけで、この『伊賀越え』が成功したわけではなく、おそらく”その後の雇用関係の保証”を家康が行ったのでしょう。

家康はこの後続く、家康の天下取りの舞台裏で、少なくとも真田幸村(さなだ ゆきむら)の活躍する慶長20年(1615年)の『大坂夏の陣』までは、後年表舞台で大活躍の大和出身の柳生一門とともに家康の”戦略補助”と”陰警護”で彼らを活躍させたに違いありません。

同行家臣団は誰がいたのか?

天正10年(1582年)5月15日、徳川家康は、後の徳川四天王(酒井忠次ーさかい ただつぐ、本多忠勝ーほんだ ただかつ、榊原康政ーさかきばら やすまさ、井伊直政ーいい なおまさ)他、石川数正(いしかわ かずまさ)など主だった重臣含めたもわずか30数名の伴を引き連れて、安土城へ織田信長を訪ねています。

更に、信長の命により5月21日には家康一行は安土から京・堺へ出発しています。

まだまだ騒乱が収まらない戦国の真っただ中に、同盟者の誘いとは言え、具足も付けずに無防備な少人数の編成で、本拠地三河岡崎からある意味敵地奥深くに徳川家康は踏み込んでいます

少なくとも1000人規模の大名行列は組んでいたはずだという話もあるようですが、どうやら最小編成のしかも徳川家にとって重要な重臣ばかりを連れて、襲ってくれと言わんばかりに出掛けています。

どこへ行くにも大部隊を引き連れて移動するはずの超慎重な徳川家康にしてはどうしたことでしょうか?

北条氏など徳川家康に敵対する勢力にとっては、暗殺部隊を送り込む絶好のチャンスとも言えそうです。

これはある意味”挑発行為”にほかなりません。

この後起こる大事件『本能寺の変』によってかき消されて、その重大さは問題にされていませんが、これは相当におかしいですね。

”信長暗殺”ではなくて、”家康暗殺事件”が起こっていたとしても不思議ではなかったのです。

件の明智光秀の決起部隊の雑兵ですら、木津川を渡って『敵は本能寺にあり!』の命を聞くまで、この行動は『家康誅殺』に違いないと思っていたと言う話が伝えられています。

この家康の安土行きの供回りの規模を見て、『本能寺の変ー431年目の真実』の著者明智憲三郎氏は、明智光秀と徳川家康の密約説を提起されています。

光秀の”信長誅殺の行動”を事前に知り、申し合わせをしていなければ、このような行為は危なくてできないはずだと言う訳です。

そんな考えに立つと、結果から見れば、折角の”光秀ー家康の共同謀議”を豊臣秀吉に破られていたと言う事でしょうか。

しかし、、、

家康の供回りに、”伊賀上忍家”の服部半蔵が随行していることから見て、おそらく伊賀者の”陰警備”の部隊(判明している話では190名)が家康一行を目立たぬように警備していたことは間違いないでしょう。

つまり家康は過剰警備を信長に見破られないように、万全を尽くしていたのではないでしょうか。

それに、家康と光秀を結ぶ線はほとんど見つかっていませんので、この共同謀議説は少し無理があるような気がします。

それにしても、徳川家康と言い、件の豊臣秀吉と言い、本当に素早く、絶妙のタイミングで事を成しているようです。

準備万端整えていてもこうは上手く行かないだろうと思われるほどで、現代の研究者・作家から”信長暗殺の共同謀議説”を疑われても仕方のないほど見事なものです。

勘繰りたくなるのも無理はないと思います。

家康の安土行きの供回りの人選は、その後に幕府を開いて行く徳川軍団の活躍を見れば、案外家康の人材教育OJTの一環だったのかもしれませんね・笑。

京都の商人茶屋四郎次郎はなぜそこにいたのか?

この時の茶屋四郎次郎は清延(きよのぶ)です。

この清延と徳川家康の関係はただの御用商人と殿様の付き合いの域を超えています。

清延は常に家康の関係する戦闘に付き添い、記録では53回も小荷駄隊?として参戦していて、家康のただのお伽衆・御用商人ではありません。

物資調達担当の家来と言ってもいいくらいです。

家康の生死を掛けた戦いに常に参戦していて、なんとあの『三方が原の戦い』にも一緒にいました。

この家康と苦楽を共にして来た茶屋四郎次郎清延が、この時の家康の安土ー京ー堺訪問にも同道していると言う事は、家康はこの時の安土訪問をただの信長に対する儀礼行動と物見遊山だとは最初から考えていなかったことがわかります。

軍事上、戦闘が想定されないのに、輜重隊(しちょうたいーこの場合は小荷駄隊担当茶屋四郎次郎清延)を連れて歩く軍団はいません。

家康が何かしら軍事行動が起こることを想定し、考えていたことは間違いでしょう。

ですから、、、

清延が京商人なので、その場所柄と”ただの偶然と言う可能性”にカモフラージュされているので、よくわからなくなっていますが、この時家康がなにか起こる又は起こすことを想定していた可能性は排除できないのです。

それが、前出の明智憲三郎氏の説が出てくる背景にもなっているのだと思います。

まぁ、結果はご存じのとおり、清延は『伊賀越え』で家康の期待通りの大活躍で、家康隊の行動を見事にサポートして、家康を三河に無事帰還させることに成功しています。

家康の持って生まれた慎重さが幸いした一件でした。

まとめ

歴史上の、驚天動地の出来事『本能寺の変』に、偶々巻き込まれて命からがら逃げ伸びたとされる、徳川家康の『神君伊賀越え』の一連の物語にご案内をいたしました。

徳川250年の基礎を築いた『神君家康公』の、強運を伝える重要な逸話となった出来事のひとつです。

織田信長が遭難した『本能寺の変』は、歴史本ではド派手な『中国大返し』に始まる豊臣秀吉の政権奪取潭のキッカケとなった”秀吉ネタ”となってしまい、残念ながら”家康ネタ”とはなっていません。

徳川家康は、どちらかと云えば『関ケ原の戦い』の方が注目されているかと思います。

しかしよく見てみると、徳川家康も、、、

①『桶狭間の戦い』によって戦国大名の今川義元の重圧から突然解放される

②『本能寺の変』により、魔王織田信長のくびきから逃れる

③『関ケ原の戦い』により天下の帰趨を決める

等々重要なエピソードが多いのですが、じつはこの『本能寺の変』に関連する『伊賀越え』の脱出も大事な徳川家康の出世譚のひとつとなっています。

余りに鮮やかに『本能寺の変』の首謀者とされている明智軍と落ち武者狩りの土民の魔手から逃れて行くので、『本能寺の変』への加担を疑われたりしますが、実際にはしっかりした証拠は見つかっていません。

徳川家の御用商人茶屋四郎次郎清延の動きから、ほんとうは”家康の慎重さが生んだ幸運”だったと考える方がすっきりするような気がします。

それから、徳川軍と服部半蔵(はっとり はんぞう)の指揮する伊賀の忍者部隊(諜報機関)の存在が、この『伊賀越え』に関しては、はっきりして出ているような気がします。

本来、彼らは子飼いの家来ではなく、傭兵に近い存在の軍団だったにもかかわらず、この『伊賀越え』の功労により、以後”新陰流の剣術家 柳生一門”と並んで徳川家に仕えていくキッカケともなっています。

この徳川家康と言う人物は、没落していた柳生家も石舟斎(せきしゅうさい)と宗矩(むねのり)を抜擢して使っていきますので、やはり特殊な人使い、異能を見出す達人だったのだと思います。

参考文献

太田牛一 『現代語訳 信長公記』(2013年 新人物文庫)
中川太古訳

大久保彦左衛門 『三河物語(下)』(1980年 ニュートンプレス)
小林賢章訳

ルイスフロイス 『完訳フロイス日本史3織田信長編』(2000年 中公文庫)
松田毅一・川崎桃太訳

渡邊大門編 『家康伝説の嘘』(2015年 柏書房)

清水昇 『戦国忍者は歴史をどう動かしたのか?』(2009年 ベスト新書)

戸部新十郎 『忍者の謎』(2001年 PHP文庫)

鈴木眞哉 『戦国史の怪しい人たち』(2008年 平凡社新書)

日本史資料研究会監修 『家康研究の最前線』(2016年 洋泉社)
平野明夫編

日本史資料研究会監修 『信長研究の最前線』(2014年 洋泉社)

仁志耕一郎 『玉繭の道』(2013年 朝日新聞出版)

明智憲三郎 『本能寺の変ー431年目の真実』(2013年 文芸社文庫)

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