徳川家康が発令したと言われる『鎖国政策』、本当の命令者は?

欧米人の外交顧問を傍に置くほどの海外通の家康が、海外貿易の道を
閉ざす”鎖国”の道を本当に選んだのだろうか?

真実は、いつだれが鎖国を決断しどのように実施して行ったか?

また、17世紀の欧州の覇者たちが海外進出を進める最中になぜ日本は
鎖国に成功したか?

これらの疑問をひとつひとつ明らかにして行きます。

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本当に家康が鎖国政策を行なったのか?実際は誰?

日本の良くも悪くも250年間の”パックス江戸(江戸時代)”を作った『鎖国政策』は、
徳川将軍の誰が行ったのかと云う話はいつも歴史の話題に上ります。

当然、これは政権を安定させる政策ですから、初代は政権の形をつくり、2代目は
政権を安定させ固める政策を作る。そして、3代目は長期政権を軌道に乗せる
役目と云うのがよく出来た筋書きではないかと思います。

それでは、まず徳川時代の”鎖国政策と考えられる命令および禁教政策”を時系列で追ってみましょう。

1612年   キリスト教禁教令(天領のみ)ー徳川秀忠

1613年   キリスト教禁教令(全国)ー秀忠

同年    バテレン追放令ー秀忠

1614年   キリシタン大名高山右近らマニラへ追放ー秀忠

1616年   二港(平戸・長崎以外)制限令ー秀忠
(下々百姓に至るまでキリスト教信仰禁止を含む)

1619年   京都の大殉教ー秀忠
(京都三条河原で宣教師・信者ら52名処刑 )

1622年   元和の大殉教ー秀忠
(長崎西坂で宣教師・信者ら55名処刑)

1623年   イギリス平戸商館を閉鎖・撤退へー徳川家光

1624年   スペイン船来航禁止令ー家光

1633年   鎖国令(奉書船以外の海外渡航禁止、5年以上の
海外居住者の帰国禁止)ー家光

1635年   鎖国令(日本人の海外渡航と海外居住者の帰国禁止)ー家光

1639年   ポルトガル船の来航禁止ー家光

1641年   オランダ商館の長崎出島への移転ー家光
鎖国完成

徳川家康は1603年に将軍宣下を受けて征夷大将軍となりましたが、2年経った
1605年に2代目秀忠に譲り、さっさと隠居?しています。

つまり、表面上の史実の流れをみると、キリスト教の迫害弾圧禁止をして、
貿易港の制限を始めたのが、2代目秀忠で貿易相手を中国とオランダ
だけに絞って、窓口を長崎出島だけにして鎖国を実行したのが、
3代目の家光と云うことになります。

『鎖国』に関係したところだけみると、家康は全く公式上は関わっていない
ことになります。

家康しかみ像

では、なぜ家康が鎖国をしたというイメージがついているのか?

家康は将軍職を秀忠に譲った1605年から亡くなる1616年まで一体何をしていたのでしょうか?

五大老の一人として前政権関白豊臣秀吉より、秀頼の後事を託されてからの
家康の軌跡を追ってみましょう。
1598年 豊臣秀吉伏見城にて死去

同年  家康は伏見城内にてイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを
引見し、貿易活性化の要請をする

 

1600年 関ケ原の戦いで東軍家康が勝利し政権を握る

同年  島津を通じて中国明朝に秀吉の朝鮮出兵で悪化した関係を
修復する国交回復の意志を伝える

同年  豊後に漂着したオランダ船リーフデ号のイギリス人航海士
ウィリアムアダムズを重用し、外交顧問として側においた

 

1601年 安南国(ベトナム)との朱印船貿易を開始する

同年  マニラのフィリピン総督へ書面を送り、「ヌエバ・エスパー
ニャとの交易を求め、海賊鎮圧」を約束する

 

1603年 征夷大将軍の宣下を受け江戸に幕府を開くと、長崎を幕府
直轄地とし、朱印船貿易の利益と外交関係の主導権の
独占を図った

 

1604年 京・堺・長崎の商人による糸割賦制度を実施して、中国生糸
の利権をポルトガル商人から取り上げる方針を出した

1605年 マニラのフィリピン総督に書面を送り、「キリスト教の布教
禁止・宣教師の追放、長期間のマニラ在留日本人の帰国禁止」を通達したが、
この時点では、江戸から宣教師の追放が行われただけだった

 

1609年 ドン・ロドリゴ前マニラ臨時総督がヌエバ・エスパーニャ
(メキシコ)への帰任途上、難破して千葉御宿へ漂着し、
幕府は手厚く保護する

家康はドン総督を引見し、メキシコとの交易につき会見

同年  肥前藩有馬晴信がポルトガル船ノッサ・セニョーラ・グラッ
セ号を撃沈、この事件処理を巡って、キリシタン大名有馬晴信と幕臣岡本大八
の贈収賄事件
が発覚

1610年 ウィリアムアダムズに作らせた大型ガレオン船をドン総督
に与え帰国させる。その船に家康の使節アロンソ・ムニョ
ス神父と副使の京商人田中勝介を同乗させた。

1611年 返使のセバスチャン・ビカイノがメキシコから田中勝介と
ともに来日する

1612年 キリスト教禁教令(天領のみ)

1613年 キリスト教禁教令(全国)、バテレン追放令

1614年 マニラ・マカオへバテレン追放

同年  大坂冬の陣

1615年 大坂夏の陣(豊臣家滅亡)

1616年 家康死去

 

これを眺めながら、家康の考えの動きを見てみたいと思います。

まず、最初に家康の将軍退任後の立場ですが、よく知れた「大御所
政治」をバリバリ実施しており、将軍の雑事事務を秀忠に渡し、外交
政策を含めた政策決定はすべて家康が行っていたことは
はっきりしています。

武家社会において、戦の大将がその軍団の長です。齢70余歳を
迎えながら現地に出陣し堂々と大坂の陣の総大将であった家康が
すべての決定権を持っていたことは誰も否定できないこと
なのです。

それを念頭において、この年表を眺めてみると、、、

家康は、信長・秀吉のやって来た朱印船貿易による利益の確保・
新技術の導入にきわめて熱心であったことがわかります。

とは云うものの、このころのキリスト教信者が西国を中心に75万
人にも膨れ上がっていることに不気味な脅威をもっていました。

しかし、まだまだ覇権国スペインとの交易の夢を捨てずにいま
したので、本気でキリシタンの排除へは踏み込まずにいました。

そんな折に、、、

1609年に出来した贈収賄事件がキリシタン関係者による領地
問題のやり取りだったことから深刻な危機感を覚えたました。

それで、宣教師を先兵とする覇権国スペインの侵略リスクと
貿易・技術導入の利益を天秤に掛けて来た政策もそろそろ
タイムリミットが近づいて来たと判断したようです。

折よく漂着して来たスペイン王室への影響力のある前フィリ
ピン総督ドン・ロドリゴを利用して、家康はメキシコへ使節を
立てて、スペインとの交易の可能性を再度探る意図で、

子飼いの神父に交易の専門家の京商人田中勝介をつけて
メキシコまで行かせたのです。

翌年スペインは返使のビスカイノを派遣して来はしましたが、
スペインとの交易の可能性は彼の態度からも、田中勝介の
報告からも不調であることがはっきりして来ました。

家康はここに至って、もはやキリシタンを利用するリスクの
方がはるかに大きいとの思案に至ったようです。

 

一方、1611年には、京二条城にて秀頼との会見を行って、
想像以上に成長していることを確認させられました。

ここでもうひとひねりして、秀頼が”バカ殿”ぶりをアピール
する演技力とそれをさせる淀殿の思慮があったら、ずい分
家康は安堵したでしょうし、その後の歴史の展開は大きく
変わって行ったかもしれませんー閑話休題。

このように諸条件が整い始めて、家康はとうとう従来からの
問題である、豊臣の残存勢力と豊臣と勢力範囲が重なる
キリシタン勢力の排除に着手する決断をして行きます。

先ずは、禁教令とバテレン追放を行い、豊臣と連携の
可能性のあるバテレン勢力の動きを封じた上で、豊臣
征伐を開始して行きます。

秀頼の存在は想像以上に徳川家の脅威と化しており、
期待していたメキシコ交易の可能性もなくなったことから、

もはや国内からキリスト教勢力を一掃することが徳川の
利益に叶うとの判断に傾いていったものと考える
のが自然です。

 

そこで、禁教令を発するなど手を打っておいて、家康は
大坂の陣”に臨みます。

このように考えると、最終的に「鎖国」となったこの一連の
動きの企画者は明らかに家康であることがよくわかります。

 

2代目の秀忠は実直で忠実、まじめな人物だったこと、
3代目の家光は家康を心から尊敬していた
ことが良く知られています。

ふたりともに、家康の意図するところを良く相続して、
見事に実行したということでしょうか。

 

家康に鎖国のイメージが付いて回るのは、私のように
こんな見方をする人がかなり多いことを示しているの
ではないでしょうか。

 

 

 

なぜ鎖国を行なったのか?

理由らしきものは、政策企画者家康の項で述べたようなこと、つまり、、、

1)覇権国スペインの宣教師を先兵とする日本への侵略・植民地化政策への防衛

2)海外交易により西国大名が力をつけ、徳川に反抗する勢力とならないように貿易
権を取り上げておく効果

ですが、如何に家康亡き後の秀忠がまじめ実直な人物だったとしても、政策変更
して守りに入らずに実施しないと云う選択肢も可能性がない訳ではなかったと
思うのですが、なぜそのまま実行されていったのかを見てみましょう。

 

メリットは何?

 

 

先ず、、、

1)諸大名が外国勢力と結びつく可能性を排除できること

2)諸外国同志の勢力争いに局外中立が保てること

3)巨大化するキリスト教勢力の排除政策が徹底できる

くらいですが、その後の江戸幕府の政策は、参勤交代制、公共工事の割り当てなど
で諸大名の財政を苦しくさせる事ばかりに腐心していますので、徳川体制を揺るが
す可能性の芽を摘むと言う点が一番のメリットというところでしょうか?

実は、家康没2年後の1618年にヨーロッパでカトリックとプロテスタントの血で血
を洗う『30年戦争』が勃発しています。

 

この戦争は最初は本当に宗教戦争だったのですが、だんだん各国の領土戦争
に発展して行き、史上最初の”世界戦争”になったものです。

この戦争により、当時のバイエルン地方(ドイツ辺り)の人口は3分の1になった
と言われるほどひどいものでした。

これは各国の出先の東アジアでも色々動きがあり、ここで局外中立を保つ
ことも大きなメリットであったと考えられます。

 

デメリットは何?

 

当時の視点と今の視点があると思いますが、今の感覚で歴史をみる
(後知恵)のはタブーですので、可能な限り当事者の視点で
考えてみますと、、、

家康が最後の最後まであきらめきれなかった海外交易(朱印船
貿易)で得られる財貨と情報を大幅に制限せざるを得なかった
ことでしょうか。

後知恵では、、、

 

1)国内だけの閉鎖経済にしてしまったために、農業に頼る農本
経済となり、飢饉・災害などで農業生産に大幅に支障が出た
場合に国の根幹を揺さぶる事態を招来し、その危機管理が
出来なくなっていた

 

2)対外刺激がない状態で生まれた”平和”によって本来持って
いた武力が大幅に後退してしまい、今で言う”平和ボケ”によっ
て危機対応能力を喪失し、幕末を迎えた時にそのお粗末な
軍事力が証明された

 

3)武士による官僚社会化が顕著になり、広い視野に立って
物事を考える人材の育成に関して、幕藩体制のタガがゆる
んでくる幕末まで出来なくなっていた

4)最先端の知識が入って来にくくなったため、産業革命に
完全に乗り遅れる形となり、工業化社会への転換が
大幅に遅れたしまったなど色々ありますね。

 

 

もし鎖国を行なっていなかったらどうなっていたのか?

こんなことも、”歴史のIF”となり、タブーですが、当時の日本を取り巻いていた世界の
情勢が物語ってくれるかもしれませんので、少し見てみる事にしましょう。

13世紀末 マルコ・ポーロ『東方見聞録』で日本を”黄金の国ジパング”と紹介

1492年 コロンブスがジパングを求めて、アメリカ大陸発見

1549年~22年 マゼラン世界一周航海

1533年 スペインピサロによってインカ帝国滅亡

1543年 種子島伝来

1549年 フランシスコザビエル来航

1587年 秀吉バテレン追放令

1596年 サン・フェリペ号事件
(乗組員がスペイン王は宣教師を使って侵略を進めていると恫喝)

1597年 26聖人殉教

1600年 オランダ船リーフデ号漂着(ウィリアムアダムズ来航)

1609年 肥前藩がポルトガル船撃沈

1612年 キリスト教禁教令

1613年 バテレン追放令

1616年 二港制限令(第一次鎖国令)

1623年 イングランド(イギリス)日本撤退

1624年 スペイン船来航禁止

1639年 ポルトガル船来航禁止

1641年 オランダ商館が長崎へ移転(鎖国の完成)

ここでヨーロッパから日本がいかに遠いかと言っても、フィリピンを既に植民地に
していたスペインも含めて、ただの一か国も日本に武力攻撃を仕掛けていない
ことに注目してほしいのです。

ザビエル以来の宣教師からの詳細な報告により、ヨーロッパでは日本の軍事力の
凄まじさは十分認識されていたことが分かります。

様々な記録からも当時戦国末期の日本は、世界一の軍事力を有していた事が
判明しています。

どの国からも日本を他の地域のように軍事占領を企てる冒険者は現れない
可能性が高いのです。

 

おそらく、鎖国をしなくともキリスト教のコントロールさえ実現出来たなら、
ヨーロッパ諸国に侵略される可能性は低かったと考えられます。

となると、考えられるシナリオは、東南アジア諸国での欧州勢との軍事衝突と、将軍
に取り入った外国人の口車に乗って、秀吉の企画した大陸侵攻の可能性はあると
思います。20世紀に起こった事態が相当早くに到来した可能性の方が高いですね。

しかも、この時期にアメリカは存在しませんので、一体どうなったでしょうか?

 

それはこの稿での内容を飛び越えますので、この辺りにいたします。

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鎖国中にも貿易が許された国はあるのか?

揉めた欧州勢は結局、オランダ一国が残り、中国とともに長崎を拠点とし、
朝鮮とは対馬藩を、琉球王国とは薩摩藩を、蝦夷地のアイヌとは松前藩が
窓口となって、合計4ヶ所の交易窓口が開けられていました

全く世界への窓を閉じてしまった『鎖国』と云うのとはかなり違うと云うイメージ
になりますね。

1)長崎口 ― オランダ、中国

オランダは長崎港内出島に建設された”オランダ商館”に平戸から1641年に
移転し、これにて徳川幕府の”鎖国体制は完了”となりました。

また中国は当初清朝が認めていないために、密貿易の体裁になってい
ましたが、1716年に清王朝が認めたため、公式のものとなりました。

長崎郊外に出島に倍する面積の”唐人屋敷”を建設し、中国の関係の
取引はすべてこの屋敷内で行うことになりました。

 

この町は幕府の直轄領のため、”長崎奉行”がおかれ采配をしています。

明治維新までは取引量の多い中国船の入港が非常に多く繁栄を
極めました。

 

2)対馬口 ー 李氏朝鮮

窓口は対馬藩の宗氏で、交易ばかりでなく、外交窓口としても宗氏は働き、
徳川幕府と李氏朝鮮の橋渡しを行っていました。

 

朝鮮側は秀吉の出兵から日本側を警戒してその上陸を認めず、釜山に
「釜山倭館」を作り、その施設内にて諸事行っていました。

朝鮮からは、朝鮮の品物だけでなく、中国品も朝鮮経由で交易されて
いました。

秀吉の出兵の9年後に国交が回復し、1607年から『朝鮮通信使』が
江戸の徳川幕府に派遣されるようになり、将軍の交代期などに合わ
せて、江戸時代に12回実施され、その招聘にまつわる交渉は
すべて対馬の宗氏が担って来ました。

3)薩摩口 ー 琉球王国

1609年に薩摩藩は琉球に武力侵攻し、以来薩摩藩の保護国となって
います。

しかし、琉球王国は清王朝の朝貢国としても存在し続け、薩摩藩は
鎖国をしている清国との交易を琉球王国を通して行うことが
出来ました。

 

結果徳川幕府は外様の島津氏に外交窓口としての役割を与え、
琉球王朝は李氏朝鮮と同様に、徳川幕府に朝貢使節を定期的に
派遣させられ、1634年から幕末の1850年まで18回の”江戸上り”
が実施されました。

琉球国王即位の際は「謝恩使」、幕府将軍襲職の際は
「慶賀使」と称されました。

 

この薩摩口もまた、琉球の産品のほかに中国品を交易品と
しました。

 

4)蝦夷口 ー 北海道アイヌ

松前藩の財政基盤は、徳川幕府の統治原則の農業が寒冷地のため
耕作が出来ず例外的に”アイヌとの独占交易権”に依存していました。

 

渡島半島の南部の”和人地”を拠点として、それ以外の蝦夷地は日本
の領土外であったため、鎖国中の幕府の例外として松前藩は
北方の外交担当として存在していました。

 

アイヌの交易は大陸の沿海州にも及び山丹と呼ばれる民族を通じて
中国産品の交易も実施されていました。

 

このように、鎖国(海禁)中にも拘わらず「四つの口」は開いており、
徳川幕府の「鎖国」とは完全に外国との無交渉ではなかったのです。

 

主人公は1特権都市長崎と3人の大名という訳ですね。

鎖国をしたことによって世界からどう思われていたのか?

宣教師を先兵に使い、アメリカ・アフリカ・アジアで強力に侵略と簒奪を
推し進めていたカトリック国家スペインは、1588年に自慢の無敵艦隊が
イングランドに破れると、勢いに翳りが出始めました。

加えて新旧キリスト教会派の壮絶な対立が1618年にヨーロッパにおける
史上初の世界大戦である”30年戦争”を引き起こし、
国家として疲弊を始めていました。

そんな状況に乗じた形でプロテスタントのオランダだけを窓口として残し、
キリスト教勢力も同時に一掃する”鎖国政策”を実施した徳川幕府に
対して、武力に訴えても変更を迫る欧州国家は現れませんでした。

これは当時世界最強クラスの軍事力を持つ日本とまともに戦える国が
存在しなかったことが禁止と言われて素直に従った理由のひとつ
で、加えてヨーロッパサイドでは覇権争いに集中せざるを得ない
事態となっていたことも助けになったようです。

また、100年以上下った1795年に出版された、かの有名な哲学者カントの
政治哲学の著作「永遠平和のために」の中で、17世紀の初頭の日本の
鎖国政策は極めて賢明な政策だったと評価されています。

近隣諸国との交易の窓口は前述のようにきっちり開いており、まず
当事者のキリシタン信徒以外からは疑問を呈されることはない
状況であったと考えらえます。

このように紆余曲折はあるものの、日本はこれから250年もの間
世界のひのき舞台から決然と姿を消すことになりました。

 

まとめ

現代に住む私たちは結果を知っているだけに、どうしても上から目線で過去の
人たちを批判しがちですが、歴史の当事者たちが生きた時代に身を置いてみて
から、改めて考えてみることが必要な気がします。

 

学校で習って来た「徳川幕府の鎖国政策」は、この政策のお陰で18世紀半ばから
ヨーロッパで始まった”産業革命”と云うイノベーションに乗り遅れてしまった
というマイナスイメージが先行しています。

 

しかし、いままで見て来た家康と云う人物は、大変な読書家で極めて博学の
武人達人で非常に見識の高い人物でした。

 

その上、戦においては常に現場に立ち強者の侍大将たちを直接動かし、強力な
リーダーシップを発揮して軍団を勝利に導いて来ました。

加えて若いころから信長と同じように仏教勢力の一向宗徒との血みどろの戦い
を強いられて来ていた苦い経験があることを考えると、宗教に関するクール
な見方が充分備わっていて、キリシタンに関しても対処法をきちんと持って
いたと考えられます。

 

また、戦国時代の熾烈な駆け引きを勝ち抜いてきた、冷徹な政治家である
ことも確かな事実だと思います。

政権を担当してからは、イギリス人三浦按針(ウィリアムアダムズ)を外交顧問に
据えるなど、同時代の世界の政治家と比肩しうる人物でした。

ヨーロッパ各国の外交政策に十分な知識があったこの家康が熟考の末に、
決めたのが、『鎖国』であったと云うことを理解する必要があるようです。

当時は、対外政策に時間をかけるよりは、徳川体制の基礎固めに十分な手を
尽くす時期だったことも、家康をして”鎖国”に向かわせた理由のひとつ
だったのではないかと思います。

外交政策としては、1697年に清朝康熙帝がジューンガルを服属させていますが、
この辺りから強国清朝の気が緩んでくる時期なので、幕府として対外政策を
推し進めていく好機に入っていたのではないかと思います。

もし、家康がいたならこの事態の変化に合わせて鎖国の緩和に入り、東南アジア
への進出を考えたのではと思います。いずれ農本経済が逼塞することは明らかな
わけですからね。

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