維新の成功者 岩崎弥太郎は、幕末の巨星 坂本龍馬の継承者なのか?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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『もし坂本龍馬が生きていたら、どんなことをしていたのか?』と言うクエスチョンがいつも出て来ますが、その答えのひとつが”岩崎弥太郎”なのかもしれません。

岩崎弥太郎は土佐藩経済官僚として、あの幕末の巨星 坂本龍馬とどのように関係しあって行ったのか?

京都『近江屋』での龍馬暗殺と関係があったのかなかったのかなどを明らかにして行きます。

土佐藩士岩崎弥太郎(いわさき やたろう)が世に出るまでの経歴とは?

岩崎弥太郎は土佐国安芸郡井口村(現安芸市)に天保5年12月11日(1835年1月9日)に、地下牢人岩崎弥次郎と妻美和との間に長男として生まれました。

実家は、曾祖父の時代に生活に困って武士株(郷士株)を売ってしまったために、最下級の武士(郷士)”地下牢人(じげろうにん)”となっていました。

半農半士の身分ながら幼いころより英才の誉れ高く、21歳の時には江戸へ遊学し朱子学者安積艮斎(あさか ごんさい)のもとに入塾しますが、父の不行跡により帰国入牢し、その後失脚していた土佐藩元参政吉田東洋(よしだ とうよう)の私塾”少林塾”に入塾して後の土佐藩参政後藤象二郎(ごとう しょうじろう)の知遇を得ます。

吉田東洋が参政に復帰すると、武市瑞山(たけち ずいざん)の『土佐勤皇党』の監視・探索役の”横目(よこめ)”になり、土佐勤皇党壊滅の一端を担います。

慶応3年(1867年)には、参政になっていた後藤象二郎から、土佐商会主任長崎留守居役に抜擢されて藩の貿易・商務部門の担当となり、脱藩者坂本龍馬が慶応3年(1867年)4月藩に復帰して『海援隊』を組織すると、藩命を受けてその経理を任されました。

こうして、岩崎弥太郎は歴史の表舞台に顔を出すようになります。

岩崎弥太郎画像
(画像引用:岩崎弥太郎画像

岩崎弥太郎は、どうやって後年巨大コンツェルンとなった事業を起こして行ったのか?

前章にあるとおり、弥太郎はあくまで抜擢してくれた上司後藤象二郎の命令に忠実に従い、職務に精を出していました。

龍馬が引き連れて来た形の『海援隊』は、創設早々に『いろは丸事件』を引き起こし、経営に直接関係することだけに、龍馬が相手の明光丸の船主紀州藩との交渉が難航する中、弥太郎は交渉に加わり龍馬とともに解決を図って行きます。

龍馬の死後、明治元年(1868年)に長崎の土佐商会は廃止され、大坂へ本拠地を移し、10月には”九十九商会(つくもしょうかい)”と改称し、明治6年(1873年)には、土佐藩の負債を肩代わりする形で藩船2隻を手に入れて、弥太郎の経営する個人企業『三菱商会(みつびししょうかい)』を設立します。

この背後には、維新後新政府の高官となって行った上司後藤象二郎の大きな力が働いたことは言うまでもありません。

そして、新政府の”全国通貨統一”の政策実施に関して、後藤から事前情報を入手していた弥太郎は紙切れのような藩札を買いまくり、これを有利なレートで新通貨に交換することに拠って莫大な利益をあげて、以後の事業の基礎資金を得ることが出来ました。

まさに暗躍する政商として名前を挙げて行ったわけです。

岩崎弥太郎と坂本龍馬はどこで出会ったの?

2010年のNHKテレビ大河ドラマ『龍馬伝』では、坂本龍馬と岩崎弥太郎は幼馴染のように描かれていたようですが、高知市内出身の龍馬と安芸市出身の弥太郎では絶対的な距離も40㎞(10里)以上離れていて、幼いころの出会いはちょっと考えられません

それに、青年になってからも”佐幕派”である藩の高官にすり寄る弥太郎と、”尊皇攘夷派”武市グループの龍馬では活動域が違い過ぎて、行き会う可能性は低かったものと考えます。

そもそも龍馬は17才で江戸へ出て以来、時として帰国しますが、ほとんど活躍の場は土佐国外であったため、龍馬自身をつかまえることも難しかったんじゃないでしょうか。

と言う事で、結果ふたりを実際に引き合わせたのは、土佐藩参政後藤象二郎と言う事になります。

つまり、後藤象二郎が管轄した土佐商会の支店を長崎に出した慶応3年(1867年)1月からと言う事になります。

龍馬と後藤は長崎で意気投合(つまり敵同士が和解した形)して、後藤は自分が不慣れな”海運事業”に長けた龍馬の利用を考え、土佐藩側からの目付役で責任者として弥太郎を付けます。

この辺りの話がどこかあいまいになる理由は、後藤と龍馬は意気投合したと言っても、龍馬の目指しているものと、後藤の必要としているものが本当は違う事が原因でしょう。

とにかく、この長崎で龍馬と弥太郎は出会って龍馬の死まで土佐藩の商業部門の社員同志として行動していくことになります。

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三菱商会は海援隊なのか?

前章までの経緯にあったように、三菱商会は土佐藩の商務部門の窓口である『土佐商会』を後藤象二郎の紹介が口利きで、負債を含めて丸ごと岩崎弥太郎が買収(引き受け)して個人事業として立ち上げたものです。

つまり、この会社は後藤象二郎にとってある意味、政治的な資金ポケット・金庫的会社で、後藤に忠実な岩崎弥太郎を責任者としてやらせているもので、後藤の政治資金をねん出するために政商的利益を上げることを目的としています。

一方、龍馬の率いていた『海援隊』は、”海軍操練所”⇒”亀山社中”⇒”海援隊”の経緯を辿っており、”龍馬を中心として新生日本国を作っていく思想結社”でした。

後の三菱商会の舵取りを託された人々は純粋に貿易による利益を日本にもたらすことを目的として、社業に専念されたことと思いますが、この時の弥太郎は自身の商才をもって後藤の期待に応えているだけだったのではないでしょうか。

そのために、利用できるものはなんでも利用する、つまり弥太郎にとっては、『海援隊』の持てる”海運力”が一番の狙いだったのでしょう。

この点において、後の三菱グループの礎と考えられる”日本郵船”へつながる部分で、『三菱商会は海援隊だった』と言えるのではないでしょうか。

岩崎弥太郎とグラバーの関係は?

岩崎弥太郎は、後藤象二郎が新科学技術導入・武器弾薬の調達を目的として慶応2年(1866年)に土佐に創設した『開成館』に関わるようになってから、従来の商務部門”土佐商会”の物産販売と合わせて、長崎との関係が深まって行ったと思われます。

当然商売相手としての英国商人トーマスグラバーとの付き合いは生じていたと考えられます。

時代はほどなく明治を迎えますが、グラバーはその頃の日本の両替商が受けた被害と同じ、大名への貸付金の大量の焦げ付きが発生し、さしものグラバー商会も倒産の憂き目に遭います。

弥太郎はその前後に後藤からの情報を元に、グラバーが手掛けていた”高島炭鉱”の権益をグラバーから買収して、石炭・鉱山事業に手を染めて行き、グラバーを三菱の顧問として遇して行きます。

その後、米国人のビール事業もグラバーのアドバイスで買収し、これが後の”キリンビール”になって行きます。

三菱は、最後までグラバーの面倒を見て行き、海外事業も手広く始めていることから、トーマスグラバー・ジャーディンマセソン・ロスチャイルドのラインでの人脈は大いに利用して行ったものと考えられます。

今日の”三菱グループ”の礎は、新政府での後藤象二郎の政治力、坂本龍馬が始めた”海援隊”と、このトーマスグラバーとのつながりから生まれて行ったものとも言えそうです。

三菱(岩崎弥太郎)は『龍馬暗殺』に関係ないの?

以前別記事でも紹介した事がありますが、政治家暗殺の要件は:

思想的な憎悪

権力闘争

利害の衝突
(出展:瀧澤中『幕末志士の「政治力」』祥伝社新書)

となっていますが、このケースでは③の『利害の衝突』が該当するようです。

この岩崎弥太郎は、前述しましたが、土佐藩参政後藤象二郎の手足となって活動していた人物です。

この慶応3年(1867年)の7月~10月までは、商売向きの話は全部岩崎に任せて、後藤と龍馬は大政治課題『大政奉還』に向けて力を合わせていた時期です。

この時、『手柄問題(大政奉還の本当の立案者が坂本龍馬であると言う事)』くらいで後藤象二郎が龍馬の暗殺を企むでしょうか?

まして、後藤が困ることは一切しない政治色の少ない岩崎弥太郎が単独で龍馬暗殺を企む余地もまずないと見て良いのではないでしょうか?

たとえ、諸説にあるように、武器の供給者であるトーマスグラバーが”フリーメイソン繋がり”で頼んで来たとしても、後藤・岩崎は応じないとみるのが普通だと思います。

以上からこの当時の状況下では、『龍馬暗殺』に関して、”『三菱』の陰謀”はない・岩崎弥太郎は関係ないと考えられます。

まとめ

幕末の巨人・坂本龍馬の足跡の中で、政治面以外で大きなものは日本最初の商社「亀山社中」の創設がありますが、その大きな仕事は”貿易と海運”でした。

慶応3年の春に土佐藩に龍馬の帰藩が許され、「亀山社中」も「土佐藩 海援隊」へと衣替えします。

その頃、土佐藩の経済官僚となっていた岩崎弥太郎は、その「海援隊」の経理・財務を藩の責任者後藤象二郎から任されます。

「海援隊」を動かすのは坂本龍馬でしたが、その帳面を預かるのは岩崎弥太郎だった訳で、互いに従前からの恩讐を捨てて、龍馬と弥太郎は「海援隊」の両輪として、たった7~8か月に過ぎませんでしたが同志として仕事をしました。

その年の11月には龍馬は幕末の狂気によって命を奪われて、その後「海援隊」の仕事は弥太郎の「三菱商会」に引き継がれていきます。

こうして坂本龍馬の世界を股にかける「貿易・海運事業」は、岩崎弥太郎に引き継がれていくことになりました。

これはその後の日本経済を発展させて行く大きな礎となって行きました。

本人は志半ばで命を絶たれますが、龍馬の夢は失われることなく後進に引き継がれて大きく発展して行った訳ですね。

参考文献

松浦玲 『坂本龍馬』(2008年 岩波新書)

平尾道雄 『坂本龍馬 海援隊始末記』(1976年 中公文庫)

瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社新書)

『幕末・維新風雲伝ー岩崎弥太郎 坂本龍馬との出会い
『坂本龍馬人物伝ー岩崎弥太郎

『坂本竜馬と彌太郎』(三菱ポータルサイト
ウィキペディア岩崎弥太郎

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