武士の時代を終わらせた男・坂本龍馬が暗殺された!理由は?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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幕末最大の謎を解明!

巨星・坂本龍馬が暗殺された理由を検討して真相を究明して行きます。

そして、、、

最後に行き着いた意外な真相とは?

坂本龍馬の日本の歴史への貢献・業績とは?

ごく簡単に、学校で教わる歴史の中で坂本龍馬の業績と思われるものを挙げてみます。

坂本龍馬は最初は幕末天保6年(1836年)生れの土佐藩の田舎郷士のひとりに過ぎませんでした。

しかしたまたま17歳の時、剣術修行に出た江戸で”ペリー来航”と言う事件に遭遇し衝撃を受けた龍馬は、その後大きく成長しながら日本の歴史を動かすキーマンとなりました。

今一般的に、後世に知られている龍馬の業績と云うものは:

  1. 日本海軍の前身”神戸海軍操練所”の創設に関与
  2. 日本初の商社・海運会社(亀山社中)の創設・運営
  3. 薩長同盟(盟約)の締結(立会人・裏書人)
  4. 江戸幕府の大政奉還を実現

となり、徳川幕府第15代将軍徳川慶喜の政権返上である『大政奉還』実現後、龍馬の考える”来たるべき新政府”の骨格・人事案の作成途上の慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町で何者かに暗殺されました。

この4つの中で歴史的なインパクトが一番大きかったのは、対立する長州と薩摩を結び付け、倒幕への道筋をつけた3.の”薩長盟約(同盟)”締結の仲人を行なったことでしょうか。

これにより長州藩は壊滅を免れて、逆にその後徳川幕府が崩壊へ向かい、結果明治維新への胎動が始まることとなって、近代日本を作り出す大きな力となって行きます。

まさに、坂本龍馬は”武士の時代を終わらせた”人物となりました。

坂本龍馬像
(この引用画像は坂本龍馬像です)

龍馬が遭難した近江屋事件とは?

前章でも触れましたが、慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町の京都土佐藩邸斜め向かいにある醤油屋近江屋井口新助邸の2階で、坂本龍馬と居合わせた中岡慎太郎(なかおか しんたろうー土佐陸援隊隊長)が何者かに斬殺された事件です。

京都の繁華街の真ん中でまだ宵の口の夜8時頃、しかも龍馬の出身藩の土佐京都藩邸の目の前で起こった事件でした。

土佐藩士など関係者が駆けつけた時には、実行犯たちは既に逃走した後で、当初、遺留品とされるもの(刀の鞘と下駄)から新撰組の犯行ではないかと疑われました。

当時暗殺事件が頻発している幕末の京都の町ではありましたが、犯人は夜の帳(とばり)の中に霞の如く消えてしまい、その頃の風雲急を告げる世情の中、犯人がはっきりしないまま世間のひとびとの記憶からも消えてつつありました。

その後、戊辰戦争の最後に箱館で降伏した旧幕府軍の中から、元幕府京都見廻組の原田信郎(はらだ のぶお)が”坂本龍馬の暗殺”を自供しました。

これで、坂本龍馬暗殺事件は幕府京都見廻組7名による犯行であることが判明しました。

実行犯らは戊辰戦争での戦死者が多いにもかかわらず、原田の自供に具体性があり、その他関連証言もいくつかあることから、現在の関係歴史学会では一応この話が”定説”化しています。

しかし、当時の暗殺直後に現場に駆け付けた土佐藩士の内、後に陸軍中将・学習院院長・子爵ともなった谷干城(たに たてき)はこの説に真っ向から反論し、新選組の犯行に間違いなしと主張しています。

長い間”お尋ね者”として、幕府治安関係者に手配書が回っている坂本龍馬が、今更、治安関係者に闇討ちされる必然性に乏しく、結局歴史研究者の間では”解決済み”とされながらも、相変わらず”謎”とする人が多数存在している事件です。

龍馬が暗殺された理由(動機ー黒幕)は?

恨みを買っていたのではないか?
伏見奉行所”寺田屋事件”関係者の恨み説

慶応2年(1866年)1月21日に”薩長盟約(同盟)”成功させた直後の1月23日、幕府伏見奉行所が総勢100数十名の陣容で京都伏見の船宿寺田屋を取り囲み、投宿していた坂本龍馬らを襲った事件です。

龍馬は長州の桂小五郎が警護役に付けてくれた長府藩士三吉慎蔵(みよし しんぞう)とともいましたが、妻のおりょうの急報で体制を整えて応戦し、龍馬は長州の高杉晋作からもらったピストルで捕り方2名を射殺しました。

手傷を負いながらも必死で逃亡を図り、急を知って駆け付けた伏見薩摩藩邸の川船に救助されます(この後、おりょうとともに鹿児島まで療養と身を隠すために有名な日本人初の”新婚旅行”を試みます)。

今で言うと坂本龍馬は”警官殺しのお尋ね者”と言う事になった訳です。

ひとを殺しに行っておいて、反撃されたら恨むと言うのもおかしな話ですが、後に戊辰戦争時に降伏した箱館で供述した元京都見廻組原田信郎(はらだ のぶお)は、殺害理由の中でこのこと(捕り方殺害の件)も上げていたようです。

しかしこの説は、伏見奉行所にいた同僚と言うならまだしも、如何にも無理な動機付けに思われます。

しかし、2009年に新たに発見された当時の京都所司代の記録では、薩摩と長州の不穏な動き(薩長盟約締結のこと)は京都守護職(会津藩)と京都所司代(桑名藩)に察知されており、寺田屋の手入れに関しては入念に準備がされていたとされています。

捕り方100数十名の規模での手入れですから、伏見奉行所だけでなく、京都所司代・京都守護職の合同作戦だったのでしょう。

これを見ると、恨みのレベルよりも対象の”お尋ね者坂本龍馬”がかなりランクの高いターゲットであったことが分かり、ここで取り逃がした後、ふたたび『近江屋事件』を生む原因になった可能性は否定出来ませんね。

紀州藩の恨み説

薩長盟約成立後、”用済みになった?龍馬”がお荷物となった薩摩藩は龍馬と距離を置き、スポンサーに冷たくされた”亀山社中”の経営はたちまち傾き始めます。

その状況を見て、慶応2年(1866年)6月の第2次長州征伐を”薩長盟約”で乗り切って、龍馬に恩義を感じている長州の桂小五郎(かつら こごろう)は、龍馬を元の鞘の土佐藩へ戻すために土佐の参政後藤象二郎(ごとう しょうじろう)に働きかけます。

その結果、土佐藩が”亀山社中”を引き受け、慶応3年4月に”海援隊”として再出発をさせます。

その海援隊の初仕事で、伊予大洲藩から借りて運行していた”いろは丸”が、なんと4月23日に備中笠岡六島沖で紀州藩藩船”明光丸”と衝突し、修理のため鞆の浦港へ曳航中に沈没してしまいました。

この海難事件で、最後国際法に詳しい薩摩藩士五代友厚(ごだい ともあつ)が調停に入り、紀州藩は8万3千両(慶応2年頃の現在価値で4億円強)もの賠償金を支払うハメに陥りました。

この紀州藩士の年間給与分を越える賠償金に藩士一同怒りに燃えたと言われており、龍馬暗殺がその怒り収まらない時期であったために、京都市中ではこの紀州藩士の仕返し説は当時巷間で言われていたと言います。

この説は武士道からすると、ちょっと外れるような気がします。

誇り高き御三家の一員である紀州藩にこれはないのではないでしょうか?

龍馬との政策の違いで政敵化した?
武力倒幕派

この説はよく言われる話ですが、同じ倒幕派であっても龍馬は『無血倒幕』を目指していて、薩長は『武力倒幕と最後の方は方向性が違って行きました。

前述したように薩長盟約成立後に薩摩の首脳の気持ちが龍馬から離れて行き、龍馬は薩長の”倒幕密勅”工作の話すら聞かせてもらっていない状況になっていたようです。

龍馬は龍馬で、『大政奉還』後の新政府の体制について真剣に検討を始め、新政府の財政担当に福井藩の三岡八郎(みつおか はちろう)を口説きに福井藩主の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)のところまで出かけたりしていて、無血革命に夢中でした。

一方薩長は”武力倒幕”に焦点を置いて、もう既に本気で武力行使の準備(”倒幕の密勅”と出陣の)をしていました。

ところが倒幕派へ加担するはずの土佐藩は、龍馬に説得されて武力行使をしない方針となり、薩長の予想外なほど迅速に、将軍徳川慶喜から『大政奉還』をさせてしまいました。

そのため、薩長で朝廷工作をして無理やり少年天皇(睦仁親王ー明治天皇)に出させた”倒幕の密勅”は、慶喜(幕府)が”大政奉還”してしまったため肩すかしをくらった形となりました。

その後の諸侯会議で、徳川家擁護派の土佐藩主山内容堂(やまのうち ようどう)が『大政奉還』の事実を盾に諸侯会議で、徳川存続の方向へ持って行く可能性が出てきたのです。

もう既に薩長は軍(藩兵など)を動かして、後戻りが出来ない状態でした。

そこで坂本龍馬の実力を甘く見ていたことを反省しつつ、武力倒幕派の行く先に大きく立ちはだかって”無血革命”を達成しようとする”邪魔者坂本龍馬”を消すしかないと薩長は考えた訳です。

動機としては、ずい分説得力のある話なのですが、現場の状況証拠・元京都見廻組原田信郎の自供・関係者の証言などが多数出現している今、納得できる実行者の立証が出来ていないように感じます。

政治的には、一番ありそうな説なのですが、どうやって実行したかですね。

実行犯の可能性が高い京都見廻組は前述にあるように幕藩体制護持が任務ですから、間違っても反幕公家筋(三条、岩倉)・薩長からの工作で動くことはないと考えられます。

西郷がすぐ後に江戸で大活躍する特殊部隊(赤報隊)を使ってやったのでしょうか。

佐幕派

治安維持と言う名目でスタートした京都守護職ですが、慶応年間には御所の警護とともに、幕藩体制の維持が大きな仕事になっていました。

崩御する前の孝明天皇はバリバリの佐幕派であり、京都守護職の会津藩主松平容保を非常に頼りにしていました。

つまりいくら倒幕派(長州・薩摩・土佐・肥前の志士)が叫んでも、肝心の孝明今上天皇が佐幕派では倒幕は絶対に叶わないわけで、ここに”超勤皇派とみられている長州”と”倒幕目的の薩摩”の大きな論理矛盾が生じていたことになります。

一体、彼らの”尊皇”とは、どの天皇のことを言っていたのでしょうか?

少なくとも当時の今上天皇(孝明天皇)は強烈な佐幕派なのですから全くおかしな話なのです。
ここで云う”佐幕派”とは、”幕藩体制維持派”のことです。

体制維持が大きな仕事の京都守護職は、配下の特殊部隊の新選組と京都見廻組には、日頃から”不逞浪人”の監視(検挙・殺害)の仕事をさせていました。

その中で、慶応2年1月21日に”薩長盟約”を成立させて反幕の長州と薩摩を連合させた危険人物として”坂本龍馬”に目を付け、1月23日にはもう100名もの体制で寺田屋に龍馬を襲っているのです。

この時伏見奉行所は、龍馬に重傷を負わせながらも薩摩藩の機敏な出動で取り逃がしてしまいますが、翌年の近江屋では取り逃がしませんでした。

この説も弱いのは、現場の本当に目の前に龍馬の出身藩の土佐藩邸があったことなのです。

前年の寺田屋の時は、100名もの捕り方と暗殺部隊がいながら、あのかなり離れた薩摩藩邸でさえ、龍馬を救助して、暗殺は失敗に終わっているのです。

果して、龍馬の味方が多数待機している土佐藩邸に近すぎるこの近江屋を襲うでしょうか?

失敗のリスクが大きい近江屋は避けて、もっと離れた場所でスキが出る時か、罠を仕掛けるかどちらかじゃないとやらないのではないでしょうか?

動機は非常に大きいですし、証言も自供も後年になってから出て来て存在するのですが、やはり私にはこの説は不自然に思えるのです。

それに、当時の政権当事者の幕府治安維持部隊が”お尋ね者の不逞浪人坂本龍馬”の殺害に成功したのですから、このケースの場合は暗殺実行を隠ぺいする(ナイショにする)必要はないはずなのです。

当時の時代背景を考慮しても、この説はやはりどこかおかしいような気がします。

それに、もしこれが京都守護職の仕事なら、前年の『寺田屋事件』の時のように詳細な報告書が上がっているのが普通(公務なのですから)だと思われますが、この『近江屋事件』は報告書が公務であったにもかかわらず発見されていないのです。

これが未だに発見されてないことが、事件が迷宮に入る理由なのだと思います。

少なくとも殺人事件なのですから、当時の警察である京都所司代は何らかの記録は残していると思うのですけど、、、

あのイギリス人のアーネスト・サトウにさえ、”龍馬暗殺事件”の報告が上がっているのですから。。。

発見を待つしかないですね。

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坂本龍馬は利害に反する邪魔者と判断された?
三菱財閥創始者・土佐郷士岩崎弥太郎(いわさき やたろう)の野望

幕末・維新の尊攘志士たちの主役は、下級武士と中の上クラスの武士の若者たちでした。

世界史上で近代社会へ転換していく過程において、『革命』を成功させている主人公の社会階層と云うものは、意外なことに社会の最下層からの蜂起ではなく、政権の№2-3クラスが絡んでいることと、社会の中間層であると言われています。

『明治維新』に際しても、江戸時代の身分制度での搾取されている最下層の小作農民・非人ではなくて、やはり最上階層の武士階級の下級武士が主役でした(農民でも町人でもないのです)。

坂本龍馬にしても土佐藩の下級武士・郷士でしたが、さらに彼の実家は裕福な商人でしたし、他の尊攘志士も比較的裕福な下層武士が多いようです(下層民ではありません)。

そんな中で、土佐の郷士ではありましたが、異色の人物が岩崎弥太郎です(下級武士・郷士ではありましたが、地下浪人と言う下層民に近い人物です)。

岩崎は、維新後の政官界に身を置かず、しかも豪商出身でもない、貧農に近い郷士だった人物の中で日本で最大の金持ちになった人物です。

チャンスは土佐藩士山内容堂の片腕、参政吉田東洋の私塾に入っていたことから始まります。

その後、吉田東洋暗殺後、甥の参政後藤象二郎に重用され、後藤が龍馬の海援隊を始めた時期に、土佐藩からの管理役として海援隊に出向し龍馬と面識が出来ます。

結果から見ますと、龍馬の暗殺後、土佐後藤象二郎は”海援隊”を手に入れ、岩崎に任せます。

そして維新後、新政府の高官となった後藤象二郎の手引きで岩崎は、グラバーが手放す高島炭鉱を手に入れ、西南戦争・日清戦争・日露戦争と続く戦いの武器調達・運送業務に武器商人として大成して、従来の財閥三井・住友・鴻池を尻目に日本屈指の財閥へと成り上がって行きます。

これは、坂本龍馬が”海援隊”を握り続けていれば、スタートすら出来ていない話で、言わば後藤象二郎を上手に操り、軍の御用商人として利権を独り占めした岩崎弥太郎(三菱財閥)の最初の一歩が”邪魔者坂本龍馬の始末”であった可能性の存在を示唆するものです。

龍馬から”船中八策”を示され、それを『大政奉還』の建白として藩主山内容堂を動かした(自意識の強いお坊ちゃま育ちの)後藤象二郎にしても、龍馬を消して全部自分の手柄にしておきたいと言う”動機”は十分なわけですから、(苦労人で策士の)岩崎弥太郎から耳元でささやかれればその気になる可能性は十分です。

勿論この話も、”薩摩藩黒幕説”と同様に実行段階での仕組みが上手く成り立ちません

これを成立させるには、土佐武力倒幕派(例えば谷干城とか中岡慎太郎とか)に実行させないといけませんが、都大路の真ん中で衆人環視の中で、しかも京都土佐藩邸の目の前でやるか?と言う事になります。

岩崎弥太郎
(この引用画像は岩崎弥太郎像です)

英国のアジア政策

私が学校で教わった幕末史で、記憶にある外人の名前は、『ペリー』『ハリス』『グラバー』『プチャーチン』くらいですが、当時の幕末日本を巡る列強の戦略みたいなものは頭にありませんでした。

あくまでも日本国内に話題が集中していて、本当は日本国内の騒ぎが起こった原因は世界情勢にあったわけですから見るところを間違えていたようです。

そこで、改めて勤皇とか佐幕ではなくて、列強からの目で見てみると、日本と言う国は国内に3000万人もの人口を抱え、実数40万人(理論上の動員数90万人)にもおよぶ武装兵(武士)のいる史上まれな軍事国家であったわけで、おいそれと手出しは出来ませんでした。

しかし、武力(軍艦)で脅しながら開港・開国・通商を迫って行くやり方で18世紀末から動き出していました。

安政5年(1858年)『安政5カ国条約』の締結国は、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスです。

当時の最強国はイギリスで日本国内にても、1861年(万延2年・文久元年)には、長崎に出先(グラバー商会)を設置して、アジア戦略を実行する体制を作っていました。

イギリスは、インド・中国と植民地化を進行させていましたが、戦えば自身の損害も大きいことから日本では直接武力介入する方法ではなくて、国内の有力な武装勢力に武器の援助を行い、内乱を起こさせて影響力を行使して行く方針であったと考えられます。

そこで、武力行使(薩英戦争・下関戦争)の結果、親英勢力となった薩長に現政権の徳川幕府を倒させて、新政権を作らせることを企画します。

このような英国の構想の下、英国の武力を背景として徐々に自信を強めていった薩摩と長州が中心となって、倒幕勢力が形作られて行きます。

こんな中で、幕臣にありながら親米派の勝海舟の客分となって勝の為に働いていた坂本龍馬は、勝に連れられて熊本で横井小楠(よこい しょうなん)と会い、長崎で紹介されたグラバー以外にオランダ系アメリカ人宣教師フルベッキと会います。

そして、武器を調達してくれる英国人グラバーとも付き合いつつ、勝・フルベッキの説くアメリカと言う国の”共和制”に興味を惹かれて行きます。

その後、慶応3年(1867年)の夏には英国を後ろ盾とする薩長の武力倒幕の準備は整って来ましたが、この時英国の企てる内乱を起こさせないやり方で政権移譲を目指す龍馬は、土壇場で15代将軍徳川慶喜に政権を返上させる『大政奉還』に成功します。

龍馬にそそのかされた土佐藩の動きは知っていたものの、大したことはないと高を括っていた英国の落胆は大きく、駐日公使パークスの意を受けて英国公使館のアーネスト・サトウは連絡役となっていた薩摩藩士吉井幸輔を通じて、武力倒幕の邪魔をする坂本龍馬の排除を薩摩に命じたというものです。

事実、今も伝わるアーネストサトウの日記には、短く薩摩の吉井幸輔から坂本龍馬暗殺の報告があったことが記載されています

前述のように、このケースも実際の実行法の想定がつかないので、決定打とは言えない状況です。

坂本龍馬は天皇制を破壊するもの見做された?

文久2年頃に長州尊攘過激派と組み、京都(国政)を政治テロで席巻していた尊攘急進派公家たちが、文久3年(1863年)の『8月18日の政変』でテロ実行者の長州藩とともに京都を追放処分にされた後、孝明今上天皇はこれまでに出した勅命を取り消しました

それにより、今上天皇の本意は攘夷であっても倒幕ではなくて、幕藩体制護持であることが鮮明になりました。

そうなると、長州藩の奉じていた『尊皇』とは一体何であったのかを考えねばなりません。

当時は自明のことだったのかもしれませんが、後年の私たちには”天皇”とは何人も犯すことのできない”神的存在とされている人”としか見ていません。

しかし、天皇家は鎌倉幕府の滅亡後に後醍醐天皇と足利尊氏が対立して、尊氏が擁立した光明天皇と、吉野に下って朝廷を開いた後醍醐天皇の二人が並立する南北朝時代(1336年~1392年)がありました。

その後、北朝に一本化されて現在の天皇家はそのまま北朝系とされています。

ところが、長州藩の”尊皇”は、藩内若手の思想指導者であった吉田松陰が深く”水戸学(尊皇と南朝正統論)”に傾倒したことから、楠木正成を功臣とあがめる南朝系となっていました。

従来、朝廷内部でも表面上今上天皇を頂くものの、北朝は武家である足利尊氏が自分の都合で担ぎ上げたものとして、本来の皇統は南朝系であるべきと言う根強い考え方がありました。

しかし、徳川家康により厳しく朝廷の政治関与を規制され、朝廷は自由に論壇風発という訳にはいかず、陰に籠ったまま武家への反発から公家衆は南朝待望派が多かったのです。

その中にあって、孝明帝は北朝維持・幕府に追随の姿勢の『佐幕派』で南朝支持の公家衆とは一線を引いていました。

朝廷内はこの南朝を推す勤皇派と孝明帝に同調する佐幕派に分かれていたようです。

こんな中、佐幕派の孝明帝が崩御し、次は南朝派の天皇を奉戴しようとする動きがあったと伝えられており、あとを継いだ睦仁親王(明治帝)の”真偽”を巡っていろいろ取り沙汰されています。

それくらい騒ぎになっていた状況の中、坂本龍馬が政権の返上『大政奉還』を実現させる政治力を示しました。

しかし、予てより坂本龍馬は天皇制を否定するアメリカ風の『共和制論者』であることが伝えられていたらしく、どちらかと言うと過激な南朝系公家はこの共和論者坂本龍馬の政治的台頭を極めて危険視する空気が醸成されていました。

そこで武力倒幕派に龍馬の抹殺を依頼したと言う筋書きです。

ここでは、龍馬の親友ではありますが、陸援隊隊長中岡慎太郎が南朝支持公家衆のとの付き合いが深く、特に事件前に頻繁に岩倉具視のところに出入りしていたことから、中岡慎太郎実行犯説がまことしやかに伝わっています。

もし、これが本当なら親友龍馬を斬殺した中岡はある意味自殺的に自身も死んだ(駆け付けたもしくは最初からいた土佐藩士谷干城ら武力倒幕激派に殺して貰った)ことになるのかもしれませんが、かなり苦しい実行劇説明となりそうです。

この説は動機面での可能性のみを語っているようです。

まとめ

先ず、実行犯の可能性ですが、やはり証人・証言・自供の数から京都見廻組7名の犯行の可能性が一番高いのではないでしょうか。

この暗殺実行者から”黒幕”も実行犯佐々木只三郎(ささき たださぶろう)の実兄でその上司である会津藩公用人の手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)ではないかと言われています。

あと、わずかに可能性があるのは土佐藩士谷干城の”龍馬暗殺は新撰組の仕業”と言う執拗な決めつけ発言が、逆に疑いを持たせている中岡慎太郎他武力倒幕激派(谷干城も含む)の犯行説ですね。

動機面(黒幕)からは、どの説も根拠はあると思います。

それで、”時期的な必然性”を決め手にしてみると、坂本龍馬のその直前に出した『大政奉還』によって、政治的意図が妨害された勢力ということで、”武力倒幕激派”の可能性が濃厚です。

この”武力倒幕激派”の中には、記事中で述べたように:

  1. 薩摩藩西郷隆盛
  2. 英国公使館グループ
  3. 過激派公家岩倉具視と薩摩藩大久保利通

の3グループが考えられます。

この中で一番怪しいのは、3.の岩倉ー大久保グループですね。

もうひとり、維新(龍馬がいなくなって)で一番大儲けした岩崎弥太郎もあやしいと疑いは捨てきれません。

参考文献

司馬遼太郎 『竜馬がゆく(七)』(1998年 文春文庫)
磯田道史 『龍馬史』(2013年 文春文庫)
加治将一 『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)
松浦玲 『坂本龍馬』(2008年 岩波新書)
瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社新書)
アーネスト・サトウ/坂田精一訳 『一外交官の見た明治維新(下)』(1960年 岩波文庫)
ウィキペディア近江屋事件
ウィキペディア坂本龍馬
ウィキペディア京都見廻組
ウィキペディアトーマスグラバー

 

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