幕末の池田屋に切り込んだ新撰組沖田総司は血を吐いて倒れた?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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沖田総司(おきた そうじ)は幕末に京都の町を席巻して回った”新撰組”の一番隊組長でした。

 

新撰組局長”近藤勇”を敬愛して共に戦うことに喜びを感じながら、”試誠館道場”で一番の剛腕を発揮して暴れまわります。
日本史で有名な、新撰組の名を上げた『池田屋事件』での沖田総司の真相を明らかにして行きます。

新撰組(しんせんぐみ)沖田総司(おきた そうじ)とは?

沖田総司は天保13年(1842年)頃、現在の東京西麻布にあった奥州白河藩の屋敷で生まれたとされていますが詳細は不明です。

 

 

9歳頃に今のJR飯田橋駅近くの新宿区揚場町界隈にあった”天然理心流”近藤周介主催の「試誠館(しせいかん)」(土地台帳に”試誠館”とあり、巷間言われるような”試衛館”は間違えのようです)道場に弟子として住込み、道場主の養子となっていた近藤勇(こんどう いさみ)らとともにこの流行らない道場に食客のようにしていました。

 

 

文久3年(1863年)正月に、江戸で幕府より”浪士隊”の募集が発表され、これに近藤勇以下”試誠館”勢12名が応募してこの中に沖田総司が入っていました。
そもそも14代将軍徳川家茂(とくがわ いえもち)上洛に際し、上洛前に治安の悪い京都市内の治安回復させるのが主たる任務の浪士隊でしたが、2月末京都に到着早々浪士隊の中心人物の清河八郎(きよかわ はちろう)らの行動を問題視する幕府が”浪士隊”の江戸への帰還命令を出し、到着早々戻ることになります。
しかし、浪士隊を江戸から率いて来た水戸の”鵜殿甚三郎民部少輔(うどの じんざぶろう みんぶしょうゆう)”はこれに困り、残留組を増やすために”京都へ残留した者は京都守護の会津家中の支配下へ世話する”との通達を出しました。
(そうなんですよ!今までに巷間で伝わったように、江戸から連れてこられた”浪士隊”は最初から、京都守護職会津家の配下に正式に入る”身分保障”などなかったんですね。)

 

 

 

 

その鵜殿の話を受けて、近藤ら試誠館組は京都への居残りを決め、取りあえず鵜殿の手配で芹沢鴨ら水戸浪士3名とともに総勢15名で水戸藩邸に寄宿します

 

 

ところが、ほどなく8月18日に政変が起こり長州藩と公家七卿の京都追放が決まり、長州と裏で手を結んでいた水戸藩は立場が危険となったため、水戸の関係者は逃げるように江戸へ去ってしまい、近藤らはまたスポンサーを失ってしまいます
そこへ”七卿政変”時に働きのあったとして近藤ら浪士隊に、京都守護職の会津藩家老西郷十郎右衛門(さいごう じゅろうえもん)から、”隊内の芹沢鴨ら水戸派の粛清をした上なら本来の京都守護職支配下の形にするがどうか”打診がありました。
近藤らはそれならと即座に水戸派の粛清を実行して、正式に会津藩の支配下に入り新たに”新撰組”と名付けられました。(あの私が知っている”新撰組”はこうして出来たのが真相なんですね。今までの歴史関係の本には、京都に来てからすぐ会津藩の支配下に入ったようなことが書かれていましたが、どうも間違いのようです。つまり”新撰組の成立”は芹沢鴨が暗殺された文久3年9月18日以降の事となります。
これで近藤勇を局長とする”新撰組”が出来上がり、沖田総司はこの”新撰組”の1番隊組長兼剣撃師範となりました。

 

 

隊内一の腕前で目にも止まらぬ早さの”三段突き”の名手として知られ、とにかく”剣豪”だったようです。

 

沖田総司引用画像
(画像は沖田総司 引用:『新選組』関連の志士・人物(幕末編)

池田屋事件はなぜ起こった?

文久3年(1863年)8月18日の政変で京都を追い払われ、藩主・関係した公家もろとも政治的に失脚した長州勢力は、翌年になってから”リベンジ”を誓い再び分散して長州藩士が京都に集まり始めて、巷間では”長州藩正規軍が京に攻め上り御所を攻撃する”と言う流言が飛び交っていました

 

 

そして、長州藩士のテロと思われる暗殺事件が頻発し始めて、状況は長州追放前の文久2年の長州藩過激派が引き起こしていた騒乱状態へ戻りつつあり、京都の治安は悪化の一途と辿っていました。
そうした中、幕府京都守護職会津藩の支配下にあって、過激派テロを鎮圧する警視庁機動隊特殊攻撃隊”SAT”的な役割の担う”新撰組”は、長州過激派の強烈なシンパである薪炭屋・枡屋喜右衛門の逮捕に成功し、その自供から「長州過激派による孝明天皇拉致計画」の存在を探知します。
兵站部を担う枡屋の逮捕により、ロジスティクスを断ち切られた長州過激派は、”天皇拉致・京都騒乱計画”の見直しを迫られ、緊急に会合を持つこととなり、その情報を得た新撰組は会合場所の特定に血眼となっていました
当時草創期の”新撰組”は、40名ほどの隊士しかおらず、この少ない隊を4組に分けて、京都市中を必死で探索に回っていました。
その中で、近藤隊が木屋町三条の旅館・池田屋での長州過激派の会合開催をとうとう突き止めて、間を置かずわずか10名ほどでそのまま切り込むこととなりました。
こうして『池田屋事件』は勃発しました。

新撰組の名を挙げた『池田屋事件』で総司はどんな活躍をしたの?

元治元年(1864年)6月5日夜10:00過ぎの事、”新撰組近藤隊”は木屋町三条旅館・池田屋で会合する”長州過激派”20~30名を発見し、わずか10名ばかりの少人数で”捕縛”が困難の為、”切り捨て”方針で踏み込みました。

 

 

池田屋は間口の狭い縦長の2階建で前と奥に建物が建ちその間に吹き抜けの中庭がある作りで、出口と庭先に隊士6名を配置し、奥座敷の階段から近藤勇と沖田総司が2階に駆け上がり前座敷の階段から永倉新八と藤堂平助が上がって踏み込みました。

 

 

近藤の取り締まりの掛け声に、池田屋は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなり、最初は沖田総司に過激派が切りかかって来たことから始まりました。近藤と沖田は4~5人づつと渡り合い切り結びました。

 

 

階下で出口を守っていた新撰組隊士の安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門のところに土佐脱藩浪人望月亀弥太らが脱出のために切り込み、出口を固めていた隊士は全員が刀傷を受けます。奥沢は即死、安藤と新田は1か月後に死亡となりました。

 

 

2階奥座敷で奮戦していた沖田総司は、4人と切り結びながら近藤とともに階下へ降りて行きましたが、体調の不調で昏倒し、近藤はその沖田を庇いながら、負傷した藤堂平助とともに沖田を旅館の外へ引かせて、近藤勇と永倉新八が二人で過激派を外へ出さないように奮戦中、もう限界かと思われた頃、12~13名を引き連れた土方歳三が駆けつけて来ました

 

 

これで形勢は一気に新撰組に傾き、近藤は”切捨て”から”捕縛”に変更して、その日の戦闘は決着がつきました。

 

 

長州勢は、宮部鼎蔵大高又次郎吉田稔麿杉山松助広岡浪秀ら7名斬殺、負傷4名、召し捕り2名となり、新撰組では、奥沢栄助即死、安藤早太郎新田革左衛門が重傷で1か月後死亡、藤堂平助重傷、永倉新八軽症でした。
沖田総司は近藤勇の信頼厚く、近藤とともに一番で切り込み奮戦しながら体調不良で昏倒しましたが、負傷はしておらず翌日にも奮戦しています。

 

 

現場から逃走した長州過激派を追って、翌朝まで続いた激しい市街地掃討戦では長州過激派は激しい抵抗を見せ、追手の新選組をはじめとする京都守護の治安部隊はこれを”捕縛”するために、会津藩士5名、彦根藩士4名、桑名藩士2名の犠牲を出し、20名ほど捕縛(逮捕)しました。

 

 

余談ですが異説では、目撃者の話として、明治の元勲木戸孝允(桂小五郎)は、新撰組と戦わずに一目散に池田屋の2階から飛び出し隣りの屋根づたいに池田屋を脱出したと言われています。
やっぱり、明治まで生き残る人は逃げ足が速いですね・笑。

 

 

新撰組隊士の永倉新八の証言では、激闘途中で昏倒したとなっていますが、ここでの沖田総司は翌日の戦闘も含めて、近藤勇の期待に十分応えたのではないでしょうか。
4~5人の長州過激派相手に刀の先が折れて刃がボロボロになるまで戦って、且つほぼ無傷で生き残った沖田総司の健闘こそを評価すべきでしょう。

総司が吐血(喀血)して戦線離脱?吐血の原因は何?

当日巷間では沖田総司は池田屋で喀血したと言われていますが、どうも喀血したと言う記録はどこにもないようで、昏倒したと言うのも大正期まで存命だったこの時の当事者永倉新八の後日談で言われているだけのようでどうも判然としません
子母澤寛先生、司馬遼太郎先生、浅田次郎先生ともネタ元は、現場にいてなんと大正期まで生存した生き証人永倉新八の『新撰組始末記』だろうと思います。
ふつう状況からして、4~5名を相手に剣を振っていて、体調崩してふらつけばその隙をついて切られてしまうのが当然と考えられますので、沖田総司が後年労咳がはっきりするまでは新撰組の戦闘に力強く参戦していることを考えると、ここで胸の病で昏倒したと言うのはおかしな感じですし、まして喀血したと言うのは小説家の先生たちの創作としかと思えません。
真剣な切り合いの戦場で、相手がひるんだすきに4~5人とも相手をほったらかして逃げると言うのは全く奇妙なことで、まず相手を倒しておいてから脱出するのが普通ではないかと思いますね。

 

 

つまり、もし体調不良を起こしたらまず沖田総司の命はなかったはずです。
それに新撰組で奥座敷に切り込んだのはたった2人ですから、常識的には近藤勇も沖田総司を庇いながらの戦闘継続は出来ないでしょう。

 

 

沖田総司の愛刀は、戦闘でボロボロに刃がかけていたと言われていますので、それこそが沖田総司が離脱せずに、しっかり戦闘に参加していた証ではないでしょうか。
やはり、永倉新八の証言は少しおかしな感じがします。
話を面白くするために永倉新八の思い違いを小説家の先生たちが脚色したと考えるのが自然だと思いますね。

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なぜ土方歳三は体調の悪い沖田総司を池田屋に行かせたのか?

この時の新撰組は、草創期で主力は近藤勇の江戸牛込の『試誠館』道場のメンバーですから、近藤をリーダーに腹心の土方歳三と相談の上、全員40余名を4隊に分けて近藤隊と土方隊が主となって探査行動を開始とされてます。

 

 

それで、元治元年6月時点(池田屋事件当時)の”新撰組編成表”を見ると、局長:近藤勇、副長:土方歳三、副長助勤:沖田総司以下11名となっており、『池田屋事件』当日のメンバーを見ると、近藤と土方は探索隊を分けるにあたって、腕っこきの副長助勤11名の内、5~6人づつ分けて従えたことが分かります。

 

 

という事は、実際には行動隊の主力は近藤隊・土方隊双方に、本人も入れて剣の腕の立つもの6~7名づつで構成し、あとの平隊士は壬生の屯所留守番か探索隊について来るかは本人の意思に従ったのではないかと思われます。

 

 

つまり総勢40名弱を3分割のような感じで、結果指名された者以外では先に飛び出して行った近藤隊には平隊士は2名だけ加わり総勢9名で、あとは土方に続くこととなり、20名くらいになって多すぎるので土方が剣士以外のものを松原忠司に束ねさせて、結果探索3隊(つまり留守番を入れて4隊)となったのではないかと想像されます。

 

 

こんな流れの編成になっており、当時は「天皇拉致計画」が判明して騒然としており、近藤が沖田総司を含む6名を指名して飛び出して行ったとすると、土方が沖田のことを考える間もなく事態が進行したのではないかと考えます。

 

 

しかし、沖田総司も咳ばかりして具合の悪そうな感じがあれば、近藤は指名をしないはずですから、表面上は平静を装っていたのではないかと思います。

 

 

江戸牛込の”試誠館道場”時代から皆道場の食客のようにごろごろと群れていた極めて親密な間柄ですから、沖田の体調が致命的なものであれば当然近藤・土方は知っているはずで、近藤・土方ともに沖田は問題なしと見ていたと考えて間違えないでしょう。

 

 

と言う事で当たり前のように『池田屋事件』の当日の沖田総司の病状悪化について昏倒といますが、実際はどうだったのかは記録は見当たりませんので、もし昏倒したとすると暗がりで相手が倒れれば誰かが沖田を切り倒したのかと勘違いしてそのまま旅館を脱出しにかかることはあるかもしれません。

 

 

昔の人の暗がりの視力と云うものは現代人では考えられないくらいありますので、私は沖田総司が相手の対決中に切られずに倒れたのはおかしいと考えています。

 

 

やはり、永倉新八の勘違いが記録に残り、当日の沖田は『血を吐いて昏倒』すると云うようなことではなかったと思います。

池田屋事件で沖田総司の愛刀「加州清光」が折れたというのは本当?

資料に出てくる話では、後日近藤勇が江戸へ送った手紙の中に、池田屋事件で沖田の刀の先が折れたというのがあり、この事実を下敷きに沖田総司が日頃の差料として「加州清光」を使っていたことから、『池田屋事件』当夜に「加州清光」が折れたとなっています。
ところが、当日に沖田総司が「加州清光」を使っていたかどうかは本当は確認できていないのです。
命のやり取りをする大事な道具ですから、いつの時代でも”使える性能の良い武器”と云うものはやはり値段が高いものです。

 

 

当時の武器は基本本人が用意するのが前提ですから、この「加州清光」も模造刀ではないので現代の価格にすれば200~300万円くらいはするものだと言います。

 

 

下級武士の子息だった沖田総司にしてみたら大変な出費なのでしょうが、仕事に使うものだと考えるとどんなものでもそれくらいはかかるのかなと納得させられます。

 

 

しかし、どの刀かは別としても戦闘で使う真剣が折れると言うのは、当夜の切り合いが凄まじい激闘だったことを物語るものです。

 

 

たった二人で10名以上いたと思われる長州過激派の剣士たちを相手によくも体力が続くものです。

 

 

さすがに新撰組一番の剣豪・剣術オタクと言われた沖田総司ですね。

その加州清光ってどんな刀?

沖田総司の愛刀だったと言われているのは「加州清光」です。

 

 

これは17世紀後半に加賀に住んでいた6代目長兵衛清光の作になる名刀を云います。

 

 

加賀藩主前田綱紀が寛文10年(1670年)に建てた”窮民収容所”で名刀を打っていたことで有名で、江戸時代初期の名工のひとりです。

 

 

この名刀『加州清光』を使っていた人で知られている人は、この新撰組沖田総司、陸軍大将・首相東条英機らが有名です。

 

 

沖田総司はこのほかに「大和守安定(やまとのかみやすさだ)」も佩刀としていたと言われています。

 

 

この時代の実戦型剣士は討ち入り時には、実戦刀は2本以上持って行くのが常識なんだそうで、この池田屋事件当日も沖田は「加州清光」と「大和守安定」を持って行った可能性は高いとみて間違いないと思います。

 

 

因みに「加州清光」が細身の突きが得意の総司には使いやすい刀だったのに対して、この「大和守安定」は切れ味当代随一と謳われた刀で、江戸時代の試し切りでは、罪人7体重ね切りを一刀両断で行なったとの記録もあるほど凄まじい切れ味だったようです。

沖田総司はどこで最後を迎えたの?

慶応3年(1867年)以降、隊士仲間にもはっきりわかるような病状の悪化があり、新撰組の第一線で働くことは難しくなり始めました。
記録によれば慶応3年の秋から冬にかけて悪化して重篤な状況となり任務には耐えられない病状になっていました。

 

 

冬までは京の近藤の妾宅で療養をしていましたが、そこを元御陵衛士の一団に襲われるなどしたため、江戸へ移動しています。

 

 

その後沖田総司は幕府の医師松本良順の手引きで江戸千駄ヶ谷の植木屋にかくまわれていました。

 

 

当時、結核の場合は喀血をしてから半年から1年で亡くなっているケースが大半(例えば、高杉晋作は喀血してから7か月ほどで死に至っています)ですので、沖田の死が慶応4年(1867年)5月末なので喀血したのは、慶応3年(1867年)の秋・冬と言う可能性が高くなります。

 

 

そうした面からも元治元年(1864年)6月5日夜10:00過ぎの『池田屋事件』で喀血した可能性は非常に低いと言えそうです。

 

 

もし、池田屋事件の昏倒の原因が諸先生方の小説のように喀血だったとしたら、その後の沖田総司の活躍はあり得ないことになります。

 

 

話が横道にそれました。。。

 

 

沖田総司は、敬愛する近藤勇の斬首から2か月後の慶応4年(1868年)に、近藤の死を知らないまま江戸の医師松本良順宅(現東京都台東区今戸1丁目)で亡くなっています。

 

 

あれだけの剣豪で畳の上で亡くなったのは、ある意味幸運なのかもしれませんが、本人はどこまでも敬愛する近藤勇と一緒にいるか、同じ人生を歩みたかったに違いありません。

 

 

最後まで『近藤先生はどうされていますか?』と気にしながら床に就いていたと伝わっていますので。。。

沖田総司終焉の地
(画像は東京都台東区今戸1丁目にある沖田総司終焉の地の碑です)

まとめ

幕末に、奥州白河藩の江戸詰めの下級武士の家に生まれた『沖田総司』は剣術が好きで好きでたまらない、剣を振っているだけで幸せな今で言うとスポーツオタクのようなアスリート系の若者だったと思います。
剣の道で尊敬する近藤勇と一緒にいるだけで幸せだったんでしょう。

 

 

近藤勇の養父近藤周介は、幕末の騒然とした世の中で治安悪化を受けて、町道場が江戸府内で雨後の筍のように現れていた頃に地方より江戸に出て来て牛込で天然理心流道場を始めました。

 

 

その経営の苦しい”試誠館道場”の跡取り近藤勇が、苦し紛れに”幕府の浪士隊募集”に応募したことから、道場に食客で居候していた沖田総司の物語は始まって行きます。

 

 

天性の剣豪だった総司は、近藤の道場でめきめき腕を上げ、たちまち食客(居候)仲間の内では一番の腕前になり、近藤をも上回っていたとの噂も伝わっています。

 

 

しかし、近藤の応募したこの幕府の浪士隊は京都で日本の歴史にその名を残す”新撰組”へと成長して行き、この激流に否応なしに”名もなき「剣術オタク」”に過ぎなかった沖田総司も巻き込まれて行きます。
そしてまさに、その”新撰組”に名を成さしめた『池田屋事件』の準主役として、沖田総司は歴史の表舞台に主役の近藤勇とともに登場することになるのです。

 

 

あまりにも鮮烈なデビューでした。。。

 

 

そのため、後世の私たちは、小説で、映画で、テレビドラマで彼の姿を見ることが出来るのです。

 

 

そして沖田総司は間違いなく、日本史に残る”幕末・維新の群像”のひとりとなりました

参考文献

八切止夫 『新撰組意外史』(2002年 作品社)
前田政記 『新撰組全隊士徹底ガイド』(2004年 河出文庫)
瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社)
原田伊織 『明治維新という過ち』(2015年 毎日ワンズ)
ウィキペディア沖田総司
ウィキペディア近藤勇
ウィキペディア池田屋事件
ウィキペディア新撰組
pixiv審神者さん向け豆知識4<刀剣編2>

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