大老井伊直弼は本当に独断で開国を進めた?なぜ暗殺されたの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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開国政策』を進めていた幕府の大老井伊直弼がなぜ開国派の志士たちを弾圧したのか?
またなぜ水戸藩の脱藩浪士隊に暗殺されたのか?
それらについてすべて明らかにして行きます。

なぜ開国したのか?開国は誰の判断なのか?

井伊直弼が大老に就任したのは安政5年(1858年)4月23日で、問題の『日米修好通商条約』を結んだのは就任約2か月後の6月19日です。
井伊直弼の最初のお仕事は就任直後の5月に第14代将軍を水戸斉昭(みと なりあき)の推す一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)ではなく、紀州公徳川慶福(とくがわ よしとみ)に内定させ、先ず水戸斉昭の謀略を叩くことでした。

 

そして、6月に『日米修好通商条約』締結だった訳ですが、これが無勅で実行されたために攘夷派に火をつける結果となり、井伊直弼の独断専行の”開国”』と現在思われている原因となった訳です。
ところが、実は2代前の老中首座阿部正弘(あべ まさひろ)の時、ペリーの”黒船来航”の翌年の再来日の嘉永7年(1854年)3月3日に日本全権林大学頭(はやし だいがく)と米艦隊司令長官マシュー・ペリーとの間で日米和親条約(神奈川条約)』を締結して、下田・函館の港を開港し、下田に領事館を設置することが決まっており、これを以って『開国』と云うのが外交史の常識だと考えます。

 

つまり井伊直弼の2代前の老中首座阿部正弘の時に孝明天皇の勅許を得て条約は締結されていますから、”日本の開国”判断した・決裁したのは当時の今上天皇(孝明天皇)ということになります。
要するに安政5年の時点では、”もう『開国』の賽は振られていた”のです。
私は井伊直弼が開国したとずっと思い込んでいましたが、よく見るとどうも勘違いだったという事が分かります。

 

この時老中首座の阿部正弘は海防参与(外務大臣)に強烈な攘夷論者の水戸の徳川斉昭を起用していましたが、当然開国に反対な立場の水戸斉昭はこの後に海防参与を辞任しています。
これを見ると、もう既に幕閣は『開国』の結論を早くから出していたことが分かります。

井伊直弼像
(井伊直弼像:画像引用ウィキペディア井伊直弼

なぜ井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ず、勝手に開国に踏み切ったのか?

前章にある通り日本は、既に国際条約を結んで開国はなされていましたが、井伊直弼はなぜ無勅で『日米修好通商条約』を結んだかと言う疑問になります。
井伊直弼は嘉永6年(1853年)のペリーの”黒船来航”の折に”意見書”の形で外交政策を開陳しています。
内容は:

  • 海防(国防)は一朝一夕にて出来るものではない
  • 鎖国をした昔と違って今は交易を持って経済を富ませる事が必要である
  • 日本人は頭がいいから、航海術も早期に修得できるはずだ

 

 

と、開国の上、貿易で利益を上げてそのお金で国防を図るべきだと言う主旨で、『日米修好通商条約』締結の5年も前に井伊直弼はすでにバリバリの”開国論者”だったことが分かります。
問題は、”勝手に”の部分になりますが、この”無勅”の条約締結は結果的に国内の”尊王攘夷派”を勢いづけることともなりました。

 

 

井伊直弼は手順的には、もともと『無勅』で条約締結の考えはなかったようで、朝廷への上奏はしていました。
しかし、世界の潮流を判断できない天皇は、水戸藩・長州藩と言う当時朝廷に影響力をもっている攘夷派から散々吹き込まれてしまって、即断出来ずに幕府からの政策諮問に慎重な立場を取っていたようです。
そもそも250年に亘って基本的に朝廷に政策諮問をしなかった幕府からいきなり国政の判断を求められても、それなりの助言がなければ返事が出来ないのは当然でしょう。

 

本来変化を好まない佐幕派と云える朝廷と言えども、幕府からの説明不足の状態の中、周りにいる攘夷派から”攘夷”をさんざん吹き込まれれば、不安になりその勢いに負けて慎重になるのは当然と云えそうです。

 

幕府には朝廷工作の達者な人材が不足していた事と、積極的に説明をしようとする熱意に欠けていたと言うのがこの”天皇の説得工作失敗”の原因と云えそうです。

 
幕府の米国側の交渉相手は、下田に赴任している総領事のタウンゼント・ハリスです。

 
この問題はハリスが安政4年(1857年)12月に江戸城に登城した折に、ハリス側からの要求として『日米修好通商条約の締結』問題が出され、即事前交渉がすでに始まっていたことです。

 

 
当時の老中首座は阿部正弘(あべ まさひろ)から堀田正睦(ほった まさよし)となっており、交渉担当者は目付の岩瀬忠震(いわせ ただなり)で、井伊直弼は責任者ではなかったのです。

 

ハリスとの交渉は、下田奉行の井上清直(いのうけ きよなお)と目付の岩瀬忠震でした。

 

最後の折衝にあたる折、井伊直弼からの指示は『交渉不調なら、延期させよ』、つまり、言いなりで締結するのではなく、こちらが不利なら延期させろと云うものだったようですが、締結推進派の岩瀬忠震は向こうの言いなりで即締結してしまったようです。

 

直弼は交渉当事者の岩瀬を後日左遷としますが、時すでに遅しで日本がずっと苦しむこととなる”不平等条約”の『日米修好通商条約』が締結されました。これが説明されている無勅条約締結の真相です。

 

全権委任されたわけでもない岩瀬と井上に調印出来るのが、かなりおかしな話なので、これは井伊直弼の曖昧な指示が生んだ悲劇なのか、そもそも折衝の要諦を直弼が押さえてなかったからなのか理解に苦しむ事態です。

 
つまり悪く云えば、井伊直弼は結果が悪かったので岩瀬に責任を押し付けたとも疑われますので、真相は闇ですがこの時岩瀬忠震がこの不平等条約に調印してしまったこの条約書が有効になったことは事実です。

 
まぁ、しかしどう考えてもこの責任は井伊直弼にありますね。

 

結果的に、条約締結に前のめりになっていたのは、岩瀬ひとりではなかったと云えるのかもしれません。

井伊直弼の判断は正しかったのか?

前章であげた、井伊直弼のペリー来航時の外交方針の意見書は理に適っていると云えそうですね。

 

後知恵での私の見方では、この時期に『攘夷』などと云うものを大真面目に唱えていた、水戸藩、長州藩、薩摩の『過激派』の時代認識には驚かされますが、幕末になると薩摩に限らず海外との密貿易を始める藩がかなりの数にのぼったと聞いています。

 

とすると、海外情報は十分入手していたはずですから、国内各藩は東アジアの情勢分析をかなり正確に出来ていたと考えていいのではないかと思います。

 

あの当時、実際に欧米列強と戦ったのは、薩摩藩薩英戦争1863年)と長州藩馬関戦争1863年・下関戦争1864年)で、どちらもひどい目に遭って、停戦交渉で課せられた戦時賠償をすべて幕府に押し付けたのも一致しています。

 

そして、その2藩がその後新政府の政権を担っていくのですから歴史は分からないものです。
直弼の対外方針はおおむね間違っていなかったと思いますが、”朝廷”の取り扱いに失敗したというのが本当のとこでしょう。

 

反対に、薩長主体の明治新政府と云うものは、朝廷の権威を巧みに利用して成立したように思います。

 

戦うのは武士ですが、全国の諸藩の大名(政権担当者)は天皇の意向(錦の御旗)がどこにあるのかによって、従う相手を決めたのはないでしょうか。
と考えると、、、

 

徳川政権の失敗は最終的に薩長反乱軍に『天皇の錦の御旗』を取られた形になった事でしょう。

 

 
となると、井伊直弼(幕府政権)の失敗は、有効な朝廷工作を十分してなかったことに起因するのではないかと思います。

 

つまり、井伊直弼は『政策判断は正しかった』のですが、『実際の政治行動のやり方』を間違えた、言い換えれば『朝廷の意向』を読み間違えたと云えそうです。

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井伊直弼は開国を進めたのになぜ『安政の大獄』で開国派を罰していたのか?

これは、まず『安政の大獄』のキッカケ・原因から見てみなければなりませんが、簡単に云えば、この”大獄のターゲット”が幕閣のすすめる政策に反対する者の”政敵の粛清”にあったことです。

 
言ってみれば、直弼は長州などの一部の過激分子を自分の政敵だとあまり意識はしていなかったと言うのが本当のところだったのではないでしょうか?

 
それほど幕府の大老とは権威のある大物であり、如何に時代の先端の改革思想を広める者であっても、直弼にすれば下々の不平分子に過ぎなかったはずです。

 

この当時の”勤王攘夷”を唱える浪士・書生はその程度の扱いでしかなかったと考えるべきだと思います。

 

今のあの大きな(日本の近代化の潮流を作って行ったような)取り扱いは、薩長政府(明治政府)の作ったいわゆる『薩長史観』の賜物だと言う風に冷静に考え直してみる視点がないとこの問題を公正にとらえることは出来ないのです。

 

 

と言う風に考え直してみると、、、

 

実際に開国派と目される活動家・理論家までしょっ引かれて投獄・処刑されているのは、途中から当局の捜査線上に浮かんで来て巻き添えを食ったような形とみるのが正しいのではないかと思います。

 
つまり、思想史というような観点ではなく、政治史の1ページ(事件)と『安政の大獄』を捉えると開国派と言われる倒幕主義者達が投獄された理由の筋が通るのではないかと思います。

 
現実に井伊直弼が、後世で言う先駆的な開国主義者の”スーパースター吉田松陰”と面談した記録はありません。

 
通常は、歴史上問題な政治指導者の弾圧を行った場合には、その弾圧者は自分の周辺に必ず対象当事者の記録を残すものです。

 

となると、”老中暗殺を計画した不届き者(犯罪者)”として、長州藩から幕府に突き出された形の”吉田松陰”のなどは、ただの犯罪者として小伝馬町の牢内で処刑されたに過ぎないことになり、井伊直弼が政敵の粛清を行なった『安政の大獄』に連座したとは言えないのではないかと思います。

安政の大獄』のキッカケを見ればわかります

 

これは、すべて”水戸公徳川斉昭”から始まります。

 

ついその年、安政5年の正月頃までは、朝廷に姻戚関係を結んで影響力を発揮していた斉昭の謀略は成功しかけていたのです。
つまり、条約締結の勅許を得られない阿部正弘の後任の老中首座堀田正睦は、なんと対立する斉昭と勝手に妥協(勅許の代償に14代に慶喜をつけること)しかけていたのです。
そこを危険とみた幕閣は堀田正睦を罷免して井伊直弼の大老就任を決めたのです。
その後、幕閣の意を受けて4月に大老に就任した井伊直弼は矢継ぎ早に、5月に水戸斉昭の押す一橋慶喜(斉昭の実子)の14代将軍就任を退けて、紀州の徳川慶福(家茂)を14代に据え、6月に無勅で米国総領事タウンゼントハリスと条約調印を行います。

 

ここに至り、水戸斉昭は学者の梅田雲浜(うめだ うんぴん)を使い、姻戚関係を駆使して水戸藩に対して孝明天皇から『戊午の密勅(ぼごのみっちょく)』を出させることに成功します。
内容的には、無勅で条約締結のけん責と公武合体強化くらいのものであったようですが、密勅を出した行為(幕府の政治方針を天皇が批判したー天皇の政治関与)が大問題だった訳です。
斉昭の意図は、密勅による井伊直弼の罷免にあったようですが、直弼の猛烈な反撃を招きます。
これがまず手先となった梅田雲浜の捕縛から始まる『安政の大獄』へ発展して行くことになりますが、斉昭のそもそもの意図は:

 

  • 海防参与にまでしておきながら、自分の意見を全く無視したこと
  • 自分の息子(一橋慶喜)の14代将軍就任を阻止されたこと

 

 

に対する幕閣に対する意趣返し的なものであったと考えられます。

 
つまり、御三家水戸家と譜代の幕閣との政治紛争に、破れた斉昭が仕掛けた場外乱闘(戊午の密勅)に対し、井伊直弼に率いられる幕閣側の”水戸の謀略関係者の一斉検挙・処罰の鎮圧行動”が『安政の大獄』であったと考えられます。

 

これが本線とすると、水戸派への協力者と言う罪状で仮に開国派の闘士・関係者が多く含まれたいたとしても『開国派』の弾圧などという”フレーズ”は、見当違いと見ていいのではないかと思います。

開国で反感を買った?桜田門外の変で暗殺されたのは開国のせい?

『桜田門外の変』と言うのは、前章の後半で説明したように『尊王攘夷』だ『開国』だと云う話ではなくて、単に水戸の老公斉昭が原因で発した、まるで水戸藩弾圧のような『安政の大獄』に対して、逆恨みした水戸藩の過激藩士(一人薩摩藩士がいたようです)が脱藩して、時の大老井伊直弼(総理大臣)を襲撃したテロ事件というのが真相でしょう。
この”時の総理大臣を襲う”と言う思想は、極端な国粋主義による水戸藩で広がっていた『水戸学』で言う”テロ容認”説から来ているようで、この後、昭和の軍部(長州藩の後裔である陸軍)でも繰り返されることとなります。

 
ひいては、この発想は日本全体を破滅させるような大東亜戦争に引き込む要因のひとつになっていることに、私たちはもっと注目せねばならないのです。

 

水戸学に影響を受けた”吉田松陰”とその塾生たち(この中に日本陸軍の重鎮山縣有朋もいます)は、『開国』と言う面で評価されているようですが、そもそも『勤王』を旗印にした『攘夷』派であったことに注目せねばなりません。

 
おかしなことですが、事実は日本で起こった『開国』と云うものは”幕府が推し進めていたもの”で、決してペリーに脅かされたから開国をしたのでも、まして尊王攘夷派の勤王の志士でもないことを知らねばなりません。

 
どうも史実の辻褄があわないような気がして、私は昔からそこのところが違和感がずっとあったのですが、今の私が知っている歴史は、『薩長史観』がすべて都合の悪いことは徳川幕府の責任にして『勝てば官軍』方式であとから書き直したものだと考えるとすっきりするようです。

 

歴史にイフはありませんので、良い悪いはないのですが事実は知りたいものです。
と言う事で、、、

 
『桜田門外の変』は、井伊直弼が”開国”したからと言うよりも、井伊直弼の政治力にしてやられた水戸藩が、『井伊直弼暗殺』と言うテロ行為で意趣返しをしたと見た方が良いようです。

まとめ

大老井伊直弼は、『開国』をしたとされていますが、実際の開国はそれ以前の2度目のペリー来航時(1954年)に『日米和親条約』を締結することに拠り、下田と函館が開港されてすでに『開国』されています。

 

つまり、井伊直弼の締結した『日米修好通商条約』でさらに開港地が増えているので、開国の印象が強いのかもしれません。

 

とは言え、ペリー来航時の1853年にすでに井伊直弼は『開国』の意見書を出しており、立派な”開国論者”だったことがわかります。
問題は、『日米修好通商条約』が極端な不平等条約であったことで、極めてずさんな対応であったと批判されているところです。

 

『開国』方針は間違っていなかったと云えますが、残念な事にその進めて行く計画がずさんであったと云えそうです。

 

『幕末・維新』は個人的な英雄譚にとらわれることなく、もう一度真剣な検証が必要な時期に来ているのかもしれません。

 

東アジアの隣国たちとの関係抜きに21世紀の日本が語れない状況が日々報道されていますが、今の日本人がこの解決策を考えるに当たって、案外日本の『幕末・維新』の為政者たちの考え方を探る事がそのヒントを与えてくれるような気がします。

 

参考文献

瀧澤中 『「幕末大名」失敗の研究』(2015年 PHP文庫)
安藤優一郎 『「幕末維新」の不都合な真実』(2016年 PHP文庫)
永江新三 『安政の大獄』(1966年 日本教文社)
原田伊織 『明治維新という過ち』(2015年 毎日ワンズ)
ウィキペディア 『井伊直弼』
ウィキペディア 『安政の大獄』

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