”女”の身で、戦国の国人領主(地頭)を張った井伊直虎とは?

戦国時代に一族を背負って当主となり、戦いの時代を必死に生き抜いた”井伊直虎(いい なおとら)”と言う男の名前を名乗った女性がいました。

彼女が守り通した井伊家は、その後徳川時代を通して江戸幕府の重鎮で有り続け、幕末までに当主が6人も大老職をこなすなど、子孫が国を背負って先祖直虎の”やり手政治家のDNA”がホンモノであったことを証明しました。

その歴史に埋もれていた直虎の置かれた”立場”、”人となり”を余すことなくご説明いたします。

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戦国時代の武家の女性像とは?

 

井伊直虎の話『井伊直虎はなぜ井伊家当主になれたの?』に入る前に、戦国女性は一般的にどんな人たちなのかをお話しておきましょう。

 

 

現代に生きる私たちの戦国女性のイメージは、一部の権力者と結びついて稀に権勢を振るう”女帝”的な人物がいたとしても、常に運命に翻弄される”か弱き姫君”、”戦国時代の女性は哀れ”と言うイメージではないかと思います。

 

 

しかし、歴史作家八切止夫氏の著書に、戦国武将が持っていた当時の意外な”女性イメージ”を伝える貴重な資料が紹介されていますので引用させていただきます。

 

『武士の女房は上臈(じょうろう)めきたるより、少し顔付あらあらしきが相応なるものなり、古へ武道をもっぱらせし世は、女の容色の第一とする大切な眉毛を剃り落とし、顔あらあらしく見ゆる仕方、女も武をもっぱらにせしなり。銘々、戦国の時は、女共の合戦における働きは、今時の男子の働きよりまされしなり』(「本多平八郎忠勝聞書」より引用)

とあります。
江戸時代になって、祖先で徳川四天王のひとり”本多平八郎忠勝”が語ったと伝えられる言葉を子孫の本多忠顕(ほんだ ただあき)が祐筆に書き取らせたものです。
これを戦国時代の常識とすると、私の『戦国女性』のイメージ(女性はやさしく、おしとやかで、か弱いお姫様)は江戸時代の儒教的倫理観の中の”淑女・貞女イメージ”が植えつけたもののようです。

 

あの戦国の猛者本多忠勝の伝えるように、実像の戦国女性は幼い頃より鍛えられ、男性より武将として武芸・知略・政治力の優れたひとも多く、系図上は”女子”としか出ずに消えて行った人物の中にも多くの人材がいたと考えられます。

 

最近の徳川○○将軍は女性だったとか、上杉謙信は女性だったとか云う話も”戦国女性の実像”からすると、荒唐無稽な話・ゲーム上の創作と切り捨てる訳にはいかないかもしれません。

 

 

よく考えてみれば、、、

 

『大坂夏の陣』あたりの徳川ー豊臣の重要な政治折衝の場面で、多数の女性が活躍するのは誰しもご存じのことだと思いますが、なぜそうなるのかについて、あまり深く考えたことはなかったのですが、実際に彼女らは”メッセンジャーガール”をやっていたわけでなくて、彼女らが責任のある折衝当事者(全権大使)であったことを認識せねばなりません。歴史に名を残す武将たちが彼女らにその交渉を任せていたという事ですから、信頼感は絶大なものがあります。

 

・・・・・

 

豊臣方:
秀吉側室の淀殿(よどどの)ー淀殿の実妹の常高院(じょうこういん)、淀殿と秀頼の乳母の大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)

秀吉正室の高台院(こうだいいん)-高台院の側近の孝蔵主(こうぞうす)
徳川方:

 

徳川家康側室の阿茶局(あちゃのつぼね)、お梶(おかじ)の方

 

・・・・・

彼女たちの政治力はあの時代を作っていて、彼女たちこそ本当の主役のような感じですね。

 

現代で言うと、各武将を”総理大臣”とすると、彼女たちはその総理大臣を陰で操る”官房長官”だと考えるとよくわかります。

 

こうなると、当時の武家の女性は私が勝手に思っていた”無力な”、”か弱い”イメージとは裏腹に皆、たくましく政治力・武闘力を保持していたようで、イメージを大きく変える必要がありそうですね。

浜松城徳川家康像
(画像は浜松城の徳川家康像です)

井伊直虎はなぜ井伊家当主になれたの?

『井伊家伝記』に伝えるところによると、出家していた”次郎法師”が還俗して、井伊直虎』と名乗って井伊家当主になったのは、永禄8年(1565年)と云います。

すると直虎の生年は天文5年(1536年)と言われておりますので、29歳と言う事になりますね。(異説では、謀殺された直親が30歳だったので、直虎は2歳ほど年上だったとの話があり、32歳くらいではないかとも言われています)
戦国武将の家督相続年齢としては、若すぎることもなく、ちょうどいい年頃じゃないでしょうか。

 

しかし、幼少時より家督相続の心構えがあったわけではなく、父・直盛、祖父・直宗の討ち死、曾祖父直平は毒殺、養子で当主を相続した直親は暗殺されて、相続者は幼い直親の子虎松(直政)だけになってしまって、井伊家存続のために覚悟を決めて家督相続し、以後今川家の謀略と戦い続けることとなりました。

直虎の政治顧問はだれ?

直虎の曾祖父直平(なおひら)が井伊家の菩提寺として造営した龍潭寺(りょうたんじ)の住持を直平の養子で三男の南渓瑞聞(なんけい ずいもん)が任されていました。

 

その南渓和尚の計らいで、直虎に関しては、井伊家惣領として生まれた者につく名前”備中次郎”を、僧職も兼任する”次郎法師”と変えて名付けられました。
南渓和尚は養子なので、井伊家の直系直虎(次郎法師)を殊更大事にしていたようです。
井伊家の男たちが皆、戦闘と謀略、病気などで亡くなり跡取りがいなくなった後、南渓和尚と直虎の母祐椿尼(ゆうちんに)の相談で、次郎法師の当主擁立が決まりました。
この後も、行政経験のない直虎は、政治向きの相談を南渓和尚としていたと言われます。

 

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前当主井伊直親の子をなぜ徳川家康へ託したか?

永禄11年(1568年)今川氏からの付け家老小野但馬守の謀略で、地頭を罷免された直虎は居城の井伊谷城を追われ、今川氏滅亡により帰還したものの、元亀3年(1572年)には上洛する武田軍の武将山県昌景(やまがた まさかげ)に井伊谷城は蹂躙されます。
直虎率いる井伊谷衆(いいのや しゅう)も徳川方として武田軍と戦っており、直虎も甲冑に身を固めて参陣したはずですが、軍功がなかったのか逸話も記録も残っていないようです。

 

武田信玄の病没により、武田軍は撤退して少し落ち着いた天正2年(1574年)に南渓和尚が鳳来寺に隠していた井伊直親の子虎松を呼び戻し、浜松で徳川家康と会わせることに成功します。

 

それで『虎松の父井伊直親が、家康と内通していたことが今川方に露見して父親の直親は謀殺された』と言う経緯が家康に認知され、その遺児である虎松は家康に格段の扱いで召し抱えられることになりました。

 

ここに長年の井伊直虎と南渓和尚の苦労は報われ、家康より虎松は”井伊の姓”を名乗る事を許され、”万千代(まんちよ)”の名まで下賜されました。
そしてここから、井伊家復活の胎動が始まります

徳川家康と井伊直虎の関係は?

徳川家康の出身母体である岡崎松平家も、井伊家と同じ守護大名の今川氏の被官(つまり配下の豪族)でした。

永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれて、今川の尾張遠征軍(以前は上洛目的と言われていましたが、昨今の研究では尾張征服が目的の侵攻だったようです)が壊滅した折に、家康は岡崎に帰ってから”脱今川親織田”の機敏な動きに出ます。
しかし、今川軍に参戦していた井伊家は当主の戦死も含めて大損害を被ります。
こうした境遇の中、当時跡取りに指名されて万一の為を考えて出陣せず留守居役をしていた井伊直親は、(今川支配から脱する為に)急速に家康へ近づいて行くことになりました。

 

それを今川からの付け家老の小野但馬守に嗅ぎつけられ、報告を受けた義元の後継者今川氏真に井伊直親は謀殺されます。
一方、家康にとって、井伊一族は遠江への進出にあたり、親今川の国人領主や民が多い遠江の中の橋頭保(きょうとうほ)として大事な一族でした。
また、織田信長の干渉によって、殺害せざるを得なかった正室の築山殿(つきやまどの)は、実は直虎の曾祖父直平の娘で、徳川家と井伊家は遠縁にあたりました。
家康にとって、井伊直親の遺児虎松は年回りから自身の切腹させた息子信康に思えたのかも知れません。

 

 

 

そんな事もあってか、他の譜代の家臣が驚くほどの出世を虎松(万千代ー井伊直政)はして行くことになります。

なぜ直虎は生涯独身を通したのか?

直虎に婿を取って井伊宗家を継がせる”と云う話が決まったのは、祖父の直宗(なおむね)が三河田原城攻めで討死した天文11年の2年後の天文13年(1544年)のことでした。

 

直宗の息子直盛に男子がおらず、娘の直虎だけだったことから、後継者は直虎に婿を取らせて跡を継がせることが一族の総意となったと伝えられています。
相手は祖父直宗の弟直満の息子亀の丞(後の直親)と決まり、ふたりが許嫁になったのは天文13年(1544年)末で亀の丞9歳、直虎11歳ころの話だったようです。
戦国時代の『婚約』は結婚と同じ重みがあり、結婚と同様の道徳観が求められ、婚約中に相手が戦死した場合に女性は仏門に入ることも珍しくなかったと言います。
そんな時代、この幼馴染と許嫁になった直虎は、婚約者の父の直満が今川家の謀略で暗殺されて、婚約者が身を隠した折も夫婦になる日を待ち続けていたのです。
7年ぶりに許嫁の消息が知れ、子供までいる裏切りを知った彼女は、戦国の女性の倫理観で、気持ちの中で”許嫁は戦死してしまった”のではないでしょうか。
そのため、仏門に入った者の立場を貫き通した結果が生涯独身と言う形になったような気がします。

 

 

直虎は父の直盛がいくら説得しても戻って来た許嫁との婚姻を拒絶し続けたといいますから、後に女地頭を張るだけのことはあって、意思強靭・潔癖な倫理観の持ち主だったのですね。

まとめ

戦国時代の女性はとかく、”犠牲になる哀れなひと”のイメージが付きまといますが、本記事の『井伊直虎』は女性でありながら、井伊一族の運命を支え続けた強いスーパーヒーローです。

徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝の残した話から、戦国女性の一般的なパフォーマンスが私の想像を大きく超えるものであることがわかりました。
調べてみると、逸話を残している女性もかなりいることがわかりました。
この当時、記録を細かく残している祐筆たちは女性の合戦での活躍を記録から削除してしまうのがルールになっていたようで、実際にはもっとモンスターのような女性武将がいたのではないかと思いますが、残念ながら記録に残されていないのですね。
ですから、この本多平八郎の『女の武将は本当に強い』と嘆息し、『女も男と同じように戦っている』と言っているのは、極めて貴重な真実の証言なのではないでしょうか。

この『井伊直虎』と言う男性武将名で記録が残った”戦国女性の足跡”は、女性が過去から重要な仕事をし続けていることを証明するもので、私の中の『大和なでしこ』のイメージが大きく変わるものとなりました。

 

今までの映画・テレビで扱われる戦国物は、男性の武将が城の外で戦って、女性は城内でせいぜい鉢巻をしてへっぴり腰で長刀を持つくらいでしたが、どうも実際の戦国の戦いは合戦の足軽から侍大将に至るまで、様々なレベルに女性が参戦していた形跡が感じられます。

 

今のメディアの戦国時代の表現は、サラリーマン社会の如く、女性は家庭に入っている専業主婦的な見方をしていますが、この見方はおそらく、武士のサラリーマン化がはっきりした江戸期に醸成された常識のような気がして来ました。
本記事に出て来る”井伊直虎”が戦国女性のいろいろなことを今の時代の私たちに教えてくれているようです。

参考文献

楠戸義昭 『女城主・井伊直虎』(2016年 PHP文庫)
八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)
ウィキペディア 『井伊直虎』

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