『山崎の戦い』の覚え方(語呂合わせ)はこれで決まり!

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉が天下取りのきっかけをつかんだ乾坤一擲の大勝負『中国大返し』の目的となった戦いです。

この『山崎(天王山)の戦い』に勝利した秀吉は、覇王織田信長の後継として名乗りをあげ、日本最強の織田軍団の筆頭として躍り出ることに成功します。
ここに日本史上重要な戦いの覚え方(語呂合わせ)を作ってみました。
併せて100字説明も付けましたので、歴史勉強はこれでバッチリです。

豊臣秀吉、『山崎(天王山)の戦い』を100字で説明します。

天正10年(1582年)6月13日山城と摂津の国境、山崎の地(天王山麓)で、天下の覇権を争って、豊臣秀吉4万、明智光秀1万6千が対峙、戦いは秀吉軍の圧勝に終わり、秀吉は”天下人への切符”を手にした。』(文字数99)

 

追加で200字まで作りますと、

 

その後、秀吉は織田家重臣の柴田勝家を滅ぼし、徳川家康を臣従させて、天正13年(1585年)に関白の宣旨を受け、九州を平定後の天正18年(1590年)に北条氏を滅ぼして、”天下を統一”を達成する。』(文字数196)

福知山城
(画像は福知山城です)

 

『山崎(天王山)の戦い』の覚え方(語呂合わせ)はこれだ!

 

テンション天然 ロックは以蔵
てんしょてんねん ろっくいぞう

天正10年     6月13日

 

 

天下分け目の 天王山
てんがわけめの てんのうざん

天下分け目  天王山の戦い

 

サルに負け、三日天下のミッツヒデー
さるにまけみっかてんがみっつひでー)
秀吉に敗北   三日天下の光秀

 

明智光秀はなぜ豊臣秀吉に負けたか?

光秀に事を決心させたきっかけ・動機に関して通説では、今風に云えば”信長のパワハラ”だと言っています。要するに、ここでマジ切れして思わず手が出たということでしょうか。

しかし、一介の牢人からここまで苦労して這い上がって来た光秀が今更、それが原因で爆発するものかどうか疑問です。

 

『山崎(天王山)の戦い』の光秀の敗因に関して通説では;

  1. 兵力差
  2. 秀吉の想像を越える行動の早さ
  3. あてにしていた細川・筒井ら畿内有力武将の不参加
  4. 兵力の分散化

 

をあげています。

すべて関連付いていますが、やはり3.の”光秀の織田軍団内部での有力与力大名となっていて、しかも畿内に本拠地を持つ細川藤孝(ほそかわ ふじたか)と筒井順慶(つつい じゅんけい)の離反”はこのクーデター失敗の最大原因となったと考えられます。

改めて光秀の織田軍団内の与力大名を見てみると:

  1. 丹後衆  細川藤孝・忠興       ⇒ 不参戦
  2. 大和衆  筒井順慶          ⇒ 籠城
  3. 摂津衆  高山右近、中川清秀     ⇒ 秀吉軍へ
  4. 兵庫州  池田恒興・元助        ⇒ 秀吉軍へ

 

となっていて、全員に離反されたことが分かります。

光秀の構想のなかでは、味方となるはずだった兵庫衆・摂津衆も敵方に回ったため、当初の大坂での迎え撃ちが出来なくなり、山崎まで防衛線が後退して兵力も満足にあつまらない状態になったのですから、もう勝敗は見えていたようです。

それにしても普通に考えてみて、この秀吉軍と光秀軍の兵力差4万対1万6千は、野戦では非常に厳しいものですね。

200㎞の遠方から急報を受けてドタバタ駆け付けて来た秀吉と、畿内近在を知行地にして満を持していたはずの光秀とで、尚且つ織田軍団内部の軍事的・政治的実力が均衡しているもの同志で、なぜこのような兵力差がつくのか非常に不思議なことです。

先ず、秀吉の機敏な行動との対比にはなるのですが、本能寺の変以後の光秀の行動は妙にのんびりして見えるのです。通説のようにマジ切れして信長を討ったのであれば、もう少しバタバタしていてもいいのです。

緻密で知られた光秀を考えると、この態度はもうすでにすべて手が打ち終わっていると本人が考えていたのではないでしょうか。でなければ、別人のプランに乗っていただけで強い計画性が本人にはなかったことになるのではないでしょうか。

まるで、”やってはみたものの、気がつくと誰も付いて来ない、話が違う”と言う最悪の状況に陥っているのですからね。

あの冷徹な計算家のイメージのある光秀が最後の最後で”お調子者のバカボン”になっているのですから、ここで感じる違和感は非常に大きなものがあります。
対する秀吉の『本能寺の変』以降の行動は、極めて根回しの利いた、計画されていたことのように事態が進行していきます

全く時間の無駄なく、丹羽長秀に上手く大坂の残留織田軍を引きまとめさせ、京都のイエズス会京都管区長オルガチーノから摂津地域の高山右近らキリシタン大名をまとめさせるのなど、秀吉与力軍を2万近くみつくろってしまうのです。

こんなことが、6月6日に備中高松から馬で走りながら出来るでしょうか?6月11日には、早くも戦場山崎(天王山)の手前20㎞位の摂津富田で関係武将の軍議が開かれているのです。これは、”神業”ですね。

こんな話はよくある”騙された人の末路”に似てませんでしょうか。光秀は”オフサイドトラップ”に引っかかってしまったのではないかと考えると分かりやすい感じがします。

つまり、光秀の”折衝力のなさ、詰めの甘さ”ではなくて、光秀は計画的に梯子を外されたのではないかと考えると、光秀のゆっくりした行動・ずさんな計画も分かるような気がするわけです。

どうやら、江戸初期でも光秀冤罪説はあったようですから、ここで『本能寺の変』には、隠れた犯人がいると考えるのは、自然のような気がします。

いったい誰なのかを示す資料は見つかっていないようなので、今のところ宇宙の謎の天体みたいなもので、”存在は想定出来るが正体が分からない”というやつですね。

 

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秀吉の天下取りへの決断はいつのなのか?

 

前章で”光秀冤罪説”の話をしましたが、ここでまるで”漁夫の利”を得たような、豊臣秀吉がいますので、疑惑の目は当然秀吉に向いて来ます
現在、秀吉への評価は、”主君の仇を討った忠義の人”と”織田家からの政権簒奪者”のふたつが有名です。

秀吉には、黒田季高(官兵衛)と言う軍師がいました。

この時代に武将となったからには、だれもが一度は”天下人”を夢見ていたんだろうと思いますが、この時期に軍師の黒田官兵衛が指南役を務めていたことも秀吉には幸いしたのかもしれません。

信長暗殺の計画までは、官兵衛の仕業とは思えませんが、4月に備中高松に着陣以来2か月間に官兵衛は毛利家外交僧の安国寺恵瓊と関係を深めて、毛利の未来より秀吉に魅力を感じていた恵瓊と意気投合したのではないでしょうか。

毛利との急な和睦は、もう既に両者の間で基本合意があってのことと考えるのが自然です『中国大返し』のカラクリはそんなところでしょう。

秀吉の”天下取り決断の時期”に関しては諸説色々あるかと思いますが、やはり”本能寺の変”の報を受け取って姫路に帰着する6月3日から7日の間と見るのが妥当ではないかと思います。

もし、『本能寺の変』以前だとすると、あの事件の仕掛け人・真犯人は豊臣秀吉と言う事になります。

確かに、”中国(毛利)攻め”あたりから秀吉と信長との関係が悪化していたと言う話もありますので、秀吉の防衛行動(信長に滅ぼされることを阻止する)としてはあるのかもしれません。

 

まとめ

 

今回は、『本能寺の変』の続編としての『山崎(天王山)の戦い』を『覚え方(語呂合わせ)』として、記事にしてみました。

基本的に”信長暗殺の真相”が未だ解明されていませんので、今後も下手人探しは続くと思います。

この事件(本能寺の変)の存在は、日本の歴史の分岐点(戦国時代の終焉)と位置づけてもいいのではないかと思われる大事件でした。
ある意味一番やりそうもない人物(明智光秀)が、しでかしたと言うトピックス性がいつまでも人の心をつかみます。

この『山崎の戦い』は秀吉が天下人になる第一歩となり、天王山麓で行われたため、物事の大事な場所〈時期)になると”ここが天王山ですね”などの使い方を現代でもされる重要語句(成句)となっています。

内容に関しても『ゴロ』を利用して覚えて頂ければ幸いです。

 

参考文献

  • 八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)
  • 八切止夫 『信長殺しは、秀吉か』(2003年 作品社)
  • 八切止夫 『謀殺』(2002年 作品社)
  • 小瀬甫庵 『太閤記(上)』(1943年 岩波書店)
  • 火坂雅志 『軍師の門(下)』(2011年 文春文庫)
  • 火坂雅志 『黒染の鎧(下)』(2012年 文春文庫)
  • 川崎桃太 『フロイスの見た戦国日本』(2006年 中公文庫)
  • 松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史3』(2000年 中公文庫)
  • ウィキペディア 『山崎の戦い』
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