『本能寺の変』の覚え方(語呂合わせ)は、これで決まり!

歴史授業で必ず出て来る戦国末期の3大天下人、織田信長豊臣秀吉徳川家康
全員顔をそろえるこの事件、『本能寺の変』の覚え方と意義を手短にご説明します
付録に100文字・200文字の『本能寺の変』の簡単なまとめを入れました

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『本能寺の変』100文字解説とは?

 

『天正10年(1582年)6月2日未明、京都本能寺に滞在中の天下人織田信長と長男織田信忠(二条御新造で)が、配下の武将明智光秀軍1万3千名に襲撃暗殺され、織田政権が崩壊した歴史的クーデター事件です。』(98文字)

 

 

もし、200字とすると追加する内容は、、、

 

『事件後11日目の6月13日には、対峙する毛利軍と和睦し備中高松から驚異的速さで”中国大返し”を演じた秀吉軍に敗れ、明智光秀の政権は三日天下に終わり、この後”豊臣秀吉の天下取り”が始まります。』(前項と合わせて193文字)

 

となります。。。

 

 

情報的に最小限の内容を盛り込んだ最小文字数の記事を書いてみました。少しでも参考になれば幸いです。

 

 

尚、関連記事として以下もご参考にしていただけるとうれしいです。

 

 

 『中国大返しの覚え方(語呂合わせ)』

 

『本能寺の変』の覚え方(語呂合わせ)とは?

テンション 天然  囲碁ハニー

てんしょん てんねん いごはにー)
天正    10年 1582年

 

ロクに開けちゃー三つひでぇー!

ろくにあけちゃーつひでぇー)
6月2日   明智  光秀

 

 

今日の本能 燃え尽きて

きょうほんのう もえつきて)

京都    本能寺  炎上

 

 

下りた 清朝  見つからず
おりた しんちょう みつからず
織田   信長    行方不明
その他で出ている「本能寺の変」のゴロは;

 

1)

「十五夜(1582)に、おきてしまった本能寺」
2)

「十五夜(1582)に、信長自害 本能寺の変」

3)

「信長 イチゴパンツ(1582)で本能寺」

4)

「庇護は不満の明智光秀」
ー引用 Yahoo知恵袋回答記事

 

 

 

 

京都二条城
(画像は京都二条城です)

 

 

 

『本能寺の変』が起きなかったら、その後の歴史はどうなったの?

『歴史イフストーリー』の場合、その事件が起こった時の設定条件を考えねばなりませんが、この『本能寺の変』では、

 

 

1)タイトル通り『本能寺の変』そのものがなかった場合
2)『本能寺の変』は起こったが、信長が何らかの理由で生き延びた場合

 

 

 

 

のふたつはあるかと思います。

 

 

先ず、当時の信長の行動を見てみましょう。。。

 

ここで主役の信長は、本能寺で一体なにをやろうとしていたのでしょうか

 

 

 

通説で言われているこの慶長10年(1582年)5月29日から2~3日の信長の予定ですが、、、

 

 

5月29日  小姓衆を連れただけで安土より上洛、本能寺に入る

6月1日午後~夜 信長が名物名品38点の茶道具を見せながら博多商人の島井宗室(しまい そうしつ)・神谷宗湛(かみや そうたん)らと茶会

 

 

6月2日  中国方面へ羽柴秀吉(はしば ひでよし)軍を応援のため出陣

 

 

となっているようですが、太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』によると、、、

 

 

5月29日 小姓衆20~30人を伴い上洛、すぐ中国へ出陣準備を行う。その間急に”一掃すべき事”が出来たので、片付き次第出陣。

 

 

とあり、通説の6月1日の茶会の記述はありません。

 

別の資料によれば、6月1日午後から大人数の公家たちの訪問を受けており、その対応に大わらわしていたことが分かっています。

 

 

これは、”一掃すべき事”と関係があったようで、真剣に公家たちが陳情に多人数で押しかけていたようで、6月1日は公務多忙と言ったところでした。

 

つまりこの『信長公記』による信長の”一掃すべきこと”の内容が問題ですが、

 

 

 

 

①公家制度の廃止(天皇制を廃止?)

②厳しい禁教(日本の国防と火薬・硝石取引の独占化)

徳川家康の暗殺(謀叛の危険性排除)

④信長正室の離縁・殺害(朝廷筋からの降嫁との噂)

 

 

くらいが通説・研究者から唱えられていますが、当初の信長の考えていた”数日で終わるような出来事”の範囲で考えてみますと、③が一番ありそうですね。

しかし、現実に起こったことは逆に”信長の暗殺”の実行でした。下手人は①~④の信長の”一掃すべきこと”と一見関係のなさそうな”明智光秀”とされています。

上記の四つとも信長を殺害する強い動機になりそうです。

 

 

すべての関係者が信長に”一掃”されるのは自分だと思い込み、”窮鼠(きゅうそ)猫をかむ”と言う行為に出たのかもしれません。

 

 

そこで、”『本能寺の変』のイフ”を考えます;

 

条件の1)では、政策遂行能力がハンパでない信長が家康並みの73歳くらいまで生きる(この時点から24年後)と仮定すると、その政策は図らずも豊臣秀吉が信長の死後、”信長の教えを忠実に”実行してくれています。

日本の国力はそんなに変らないと思われますので、結局結果は秀吉と同じことになると思います。

しかし個人的な能力は比較になりませんし、すでに大艦隊を持っているなどしていますので、海外戦は信長の方が強かった可能性が高いと思います。

そして、豊臣秀吉はこのあと16年後(1598年)に亡くなりますので、『本能寺の変』がなかった場合、豊臣時代は来なかった可能性が高く『太閤記』などと言う本は生まれなかったことになります。

家康にしても、豊臣秀吉を利用したまるで宇宙船の”スイング・バイ航法”のようなことをやっていますので、あの魔王のような織田信長が存在し続ければ、家康は信長の与力大名のままであった可能性が高いと考えます。

 

条件2)となると、明らかに信長へのクーデター失敗ということになりますので、①から④のケース(誰が下手人)別に下手人退治が行われ、また信長の逆襲で一気に残りの関係者も始末されてしまうでしょう。

 

いずれにしても、信長が生存して治世が続いた場合の日本はどうなったかに関してはあまり手がかりがありませんのでハッキリ言えませんが、少なくとも秀吉の治世はなかったことと、家康に関しては仮に本当の没年の1616年まで生き延びた(この時点から34年後)としても、がっちり出来上がった織田政権を豊臣政権のように手玉に取れたかと言うと難しかったのではないかと思います。

つまり、江戸時代がなかった可能性が高く、徳川氏の重大な政治決断である『鎖国政策』がとられなかったことがあり得ます。

 

 

そうなると日本の世界進出は桁外れに早くなり、日本と欧州列強との激突が200~300年早まった可能性も出て来ますね。

 

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まとめ

歴史勉強の一助として、『”本能寺の変”の覚え方(語呂合わせ)』を書いてみました。

 

『本能寺の変』は、今でもビジネスマンに人気が高くネットのアクセスも多い『織田信長』が、絶頂期に落命してしまった歴史上の大事件です。

 

この事件の下手人(犯人)は今では”明智光秀”と言う事で世評も、歴史教科書も評価を確定させています。

実は、この件はいろいろ証拠を見せられているにもかかわらず異説が多く、最近は研究が進んで来て『光秀犯人説』に疑問を呈する向きが増えています。

 

 

とは云うものの、これだけ確定している犯人が”冤罪(えんざい)”となると、犯人の見当がつかない状態なのです。

 

それで、諸説百出の状態となっていますが、当然公式的にはあいかわらず『明智光秀』を犯人・謀叛人としています。

 

まぁ、犯人は誰であれ、京都『本能寺』で天正10年(1582年)6月2日織田信長が命を落としたことは動かせない事実ですので、よく記憶しておきたいものです。

 

この『本能寺の変の覚え方(語呂合わせ)』が、歴史勉強のお役に立てば幸いです。

参考文献

ルイス・フロイス 松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史』(2000年 中公文庫)

明智憲三郎 『本能寺の変 431年目の真実』(2013年 文芸社文庫)

明智憲三郎 『織田信長 四三三年目の真実』(2015年 幻冬舎)

副島隆彦 『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(2016年 PHP)

八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

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