『大坂夏の陣』の覚え方(語呂合わせ)はこれで決まり!

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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『関ケ原の戦い』以後も存在し続けた豊臣政権が、この『大坂夏の陣』で消滅し、名実ともに”徳川の世”となった歴史上の事件ですが、今回記憶用の”語呂合わせ”を作ってみました。意義と合わせて整理して覚えておきましょう。

『方広寺大仏鐘銘事件』語呂合わせ

色石 七月、トヨトミが、

いろいししちがつとよとみが、)

1614年7月 豊臣家

 

奉公していた寺の鐘

ほうこうしていた てらかね

方広寺鐘銘

 

刻んだ八文字、

(きざんだはちもじ、)

八文字

 

家康怒らせ冬の陣

いえやすおこらせ ふゆのじん

徳川家康  大阪冬の陣

 

こっから餡ころ、

こっかあんころ)

国家安康

 

 

クッシ―ホーラク!

ほうらく

君臣豊楽

 

小まとめ

家康が、豊臣秀頼母子へ勧めた秀吉供養のための方広寺大仏再建事業が完成を迎え、慶長19年(1614年)8月3日に開眼供養を迎えることになっていました。

7月21日になってから、京都所司代板倉勝重(いたくら かつしげ)より豊臣家に対して、『大仏鐘銘に関東不吉の語あり』と”待った!”が掛かります

この方広寺の鋳造した鐘にある五山の名僧”清韓(せいかん)”が推敲した銘文を使って、儒学者の林羅山(はやし らざん)、学僧天海(てんかい)らが中心となって、家康の指示で考え付いた『言いがかり』と伝えられています。

 

豊臣恩顧の有力大名がどんどん高齢などで死去して影響力が薄れ、もう”豊臣退治”に向かっても問題なしと判断した家康が、豊臣殲滅作戦を発動した最初の行動となった有名な事件です。

このあと10月になって幕府軍は豊臣討伐へ大軍を大坂へ送り『大坂冬の陣』が始まります。

 

大坂城大天守
(この画像は大坂城大天守閣です)

『大坂冬の陣』語呂合わせ

『大坂五人衆』ゴロ

真田信繁(さなだ のぶしげ)

長曾我部盛親(ちょうそかべ もりちか)

毛利勝永(もうり かつなが)

明石全登(あかし  てるずみ)

後藤又兵衛基次(ごとう またべえ もとつぐ)

 

 

秀頼に、招集された五人衆

ひでよりに、しょうしゅうされたごにんしゅう

豊臣秀頼     大坂五人衆

 

 

真田虫、赤く伸びて繁ってる

さなだむし、あかくびてしげってる)

真田          信繁

ちょっとその壁、森近し、

ちょっとかべもりちかし、)

長曾我部       盛親

明石タコ焼き、てるてる坊主見

あかしたこやき、てるてるぼうずみ

明石          全登

五トン又兵衛、注ぐんかい?

ごとまたべいつぐんかい?)
後藤  又兵衛    基次

 

 

説明

慶長19年(1614年)10月2日に豊臣秀頼名にて、豊臣恩顧の大名衆に”大坂の陣”への招請の書状が使いとともに発せられましたが、徳川幕府の大名はひとりとして参陣せず、真田信繁ら牢人武将らが応じて来ました。

 

ここに挙がった5人衆はその大将格にあたる人材です。その他牢人武士については、関ケ原の戦役後の徳川幕府の厳しい統制により、改易・減封になる大名が続出していたため、豊臣家の呼びかけに対して1か月ほどで10万人余の牢人武士が大坂城に入城しました。

 

『鴫野・今福の戦い』ゴロ

色石いい月  冬の陣、

いろいしいいつき ふゆのじん、)

1614年11月     冬の陣

 

 

いい月風呂に鴫野の野戦
いいつきふろ しぎののやせん

11月26日     鴫野の戦い

 

説明

『大阪冬の陣』での最大の野戦となった『鴫野・今福の戦い』です。幕府軍佐竹義宣(さたけ よしのり)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)VS豊臣軍木村重成(きむら しげなり)・後藤基次(ごとう もとつぐ)の戦いとなりました。ここは勝敗相半ばでした。初陣の木村重成の活躍が注目されました。

 

『真田丸の戦い』ゴロ

色石  冬の陣、

いろいし  、ふゆのじん
1614年     冬の陣、

豆腐好きよの真田丸

とうふずきよさなだまる
12月4日  真田丸の戦い

井伊と越前 大敗す

いいえちぜんたいはいす)

井伊直孝 松平忠直  大敗

 

説明

NHK大河ドラマ『真田丸』のタイトルになった戦いです。

大坂城南側の出城として構築され、真田信繁が守将として戦ったので、『真田丸』呼ばれています。
12月4日に幕府軍の前田利常隊が真田の挑発に乗り、攻めかかりましたが、後詰の井伊直孝隊・松平忠直隊も含めて数千人の戦死者を出す幕府軍大敗の戦いとなりました。

この後、真田丸への攻撃は控えて、幕府軍は大砲で直接大坂城本丸を攻撃する戦術を強化し、心理作戦で豊臣方を痛めつけて12月22日の停戦に向うきっかけとなった戦いでした。

『講和(停戦)』 ゴロ

色石冬の陣、豆腐好きの夫婦、
いろいしふゆのじんとうふずきふうふ、)
1614年 冬の陣、12月22日、

 

初と阿茶の手打ちなる
はつあちゃてうちなる)

常高院(お初) 阿茶の局 講和

 

 

説明

家康の講和の準備は開戦直後の11月20日から始めていましたが、この時は、家康の側室筆頭格の阿茶の局淀君の妹初(常高院)らが主役となって進みました。

12月19日に行われた本多正純と常高院の第2回目の会談で口頭妥結し、22日に誓紙を交わしたようです。

 

小まとめ

11月19日から、木津川口での徳川方の奇襲から『大坂冬の陣』が始まりました。一番の激戦は、野戦では11月26日の『鴫野・今福の戦い(木村重成・後藤又兵衛 VS 佐竹義宣・上杉景勝)』で、これは引き分けでした。

城攻めでは、12月4日の『真田丸の戦い(真田信繁・長曾我部元親 VS 前田利常・松平忠直・井伊直孝』で、幕府軍は老練な真田軍に数千人の戦死者を出す大敗を喫しました。
これを見てから家康は本格的な攻城戦は手控え、射程距離の長い輸入品の大砲を使い、外郭から大坂城内の砲撃を始めて心理的に豊臣方を追い詰める作戦に切り替え、12月22日に休戦に持ち込みます。
この時の幕府方に有利な講和条件により、大坂方を騙す形で一気呵成に堀を埋め城壁を壊して大坂城の無力化に成功し、休戦から3ヶ月くらい経った4月より再び豊臣軍への戦いを仕掛けて行きます。

 

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『大坂夏の陣』語呂合わせ

『道明寺の戦い』ゴロ

色囲碁ゴロ、夜明けの道明寺、

いろいごごろよあけどうみょうじ、)

1615年5月6日払暁、道明寺

幕府の大和路3万5千、

ばくふやまとじさんまんごせん
幕府大和路軍3万5千

 

真田と伊達の睨み合い

さなだだてのにらみあい)
真田信繁   伊達政宗

 

真田は殿、城へ堂々引きあげる

さなだはしんがり、しろへどうどうひきあげる

真田軍大坂城へ     無事退却

 

 

説明

1615年5月5日に幕府軍は大軍を淀川水系を大回りする形で大坂城南方から、大和口、河内口の二手に分かれて大坂平野へ進出していました。
5月6日道明寺付近で、豊臣軍後藤隊が幕府軍大和路方面部隊と激突、後藤隊は又兵衛の戦死も含めて壊滅、後詰で到着した真田隊3000の活躍であまりの損害の多さに幕府軍は恐れて真田隊を遠巻きにして睨み合いとなり、その後城方より撤退命令が出て豊臣軍は大坂城へ退却しました。

撤退の最後尾の殿(しんがり)部隊を真田隊が行ったため、幕府軍は恐れて追撃をあきらめているようです。

 

『八尾・若江の戦い』ゴロ

色囲碁ゴロの明け方に、やや若い

いろいごごろのあけがたに、わかい)

1615年5月6日払暁 八尾・若江方面

 

狸オヤジが現れる
たぬきおやじがあらわれる)
徳川家康出陣

ここで若手の木村のシゲちゃん、

(ここでわかてのきむらしげちゃん、)

木村      重成

とうとう、たかられ冥途行き

とうとうたからめいどいき))
藤堂     高虎に 討ち取られ

 

千成瓢箪、敗走す

せんなりびょうたんはいそうす)

豊臣軍  惨敗

 

 

説明

道明寺付近で、幕府軍と激突した後藤隊とはべつに、幕府軍の合流点である道明寺付近へ向かう徳川本隊を側面から急襲したのは、木村重成・長曾我部盛親の部隊です。急襲された幕府軍藤堂高虎隊と井伊直孝隊は大損害を受け、翌日の戦闘での先鋒を辞退したほどでした。

しかしこちらも、多勢に無勢で、善戦した木村重成は討死するなどほぼ壊滅させられ敗走してしまいました。

 

『茶臼山の戦い』ゴロ

色囲碁ご難続きの 茶臼山

いろいごごなんつづきの ちゃうすやま

1615年5月7日 茶臼山の戦い

 

赤い鎧に 蹴散らされ、

あかいよろいに けちらされ
真田軍 家康本陣壊滅

 

駕籠で逃げ去る タヌキかな

かごでにげさる たぬきかな)

駕籠で逃亡  徳川家康

 

赤い鎧も 多勢に無勢

あかいよろいも たぜいにぶぜい
真田軍   兵力で圧倒され

大将幸村 力尽き、

(たいしょうゆきむら ちからつき、)
真田信繁(幸村) 討死

色囲碁ご難で 落城す

いろいごごなんで らくじょうす)
1615年5月7日 大坂城落城

 

 

説明

茶臼山に陣取った真田信繁(幸村)は、南側に陣取った徳川家康本陣にまっすぐ突撃する作戦を敢行し、家康本陣を壊滅させ、家康・秀忠とも本陣を3里ほど後退せざるを得ませんでした。

家康本陣の”馬印”は武田信玄に”三方が原”で押し倒されて以来2度目の屈辱であったと伝えられています。
しかし、数に勝る幕府軍(15万対5万)はじりじり押し返し、真田信繁も含めて豊臣方武将が討ち死にして、5月7日の内に天下の堅城大坂城も落城しました。

 

『豊臣滅亡』ゴロ

色囲碁ご鉢も 山里来るわ

いろいごごはちも やまざとくるわ
1615年5月8日    山里曲輪

 

おせんを泣かす 父鉄砲

おせんをなかす ててでっぽう

千姫     徳川秀忠 鉄砲撃ちかけ

豊臣の御代も これにて閉幕

とよとみのみよも これにてへいまく

豊臣政権        滅亡

 

 

説明

1615年5月7日夕刻には落城していた大坂城内の山里曲輪(蔵)に淀君・秀頼母子と近習ら20余名が潜んでいました。
5月8日、城を出ていた千姫が秀忠に秀頼母子の命乞いをしましたが、叶わず父徳川秀忠は山里曲輪を取り囲み、鉄砲を撃ちかけて自刃を迫り、ここに豊臣家は滅亡することになりました。

 

小まとめ

慎重な家康は、『大坂冬の陣』で押し込んで行って停戦に持ち込み、難攻不落の名城”大坂城”の堀を埋め、壁を壊し、真田丸と二の丸三の丸も破却して、”本丸のみの裸城”にしておいてから、いよいよ”豊臣殲滅作戦”の『大坂夏の陣』に取り掛かります。
『大坂夏の陣』は、もう慶長17年(1612年)の段階で”豊臣の血統を断つ”ことを決めていたと思われる徳川家康最後の、そして本当に日本の”戦国時代”にピリオドを打つ最終戦となりました。
私見ですが、この時の家康の考え方からすると、3月末の段階で家康から出た条件を豊臣方が呑んで、秀頼が地方への国替えに応じたとしても、おそらく”禍根を断つ”意味で豊臣宗家の血統は失われる運命であったと考えます。
ただ、この戦いで寄せ集めのはずの”牢人侍”たちの奮戦ぶりには、驚嘆させられます。背後に大坂城があったとは言え、三分の一の兵力で死力を尽くした豊臣軍は”伝説(レジェンド)”になったと云えそうです。

 

この戦いで豊臣軍の勝算はあったのか?

別記事『大坂夏の陣』でも触れたのですが、おそらく豊臣方が勝ち戦にすることは無理だったと思われますが、引き分けに持ち込むことは可能性があったのではないかと思われます。

 

①異説である”徳川家康討死”が事実として、午後の早い段階で家康の死が両軍に広まって呉れる事

②大野治房が秀頼に成りすまして豊臣本陣を作りますが、真田軍の善戦で家康本陣が崩れた時に、上手く本物の秀頼と交代が出来た事

私はこのどちらかで、あの兵力差があっても、停戦に持ち込めた可能性があったのではないかと思います。

理由①として、大坂方が意外に善戦した背景に、”この戦に参戦した幕府軍外様大名たちの戦意のなさ”があげられます。つまり明らかに論功行賞は期待できない戦いだったからです。

理由②として、秀頼が前線に顔を出した場合の豊臣軍の”死兵化”に対する徳川重臣たちの恐怖心です。関ケ原の時の大谷吉継の兵たちが有名のようです。死を恐れぬと言うか、ゾンビになっていると言うか、そもそも腰の引けている幕府軍の外様隊は逃げまどうだろうと考えられます。

現実にはどちらも実現しなかったわけで、そのまま豊臣軍の敗北、豊臣宗家滅亡と言う事態となりました。

 

豊臣家の血筋は残ったのか??

先ず、実在した秀吉の実子の確認しましょう。

正室の北政所との間には、実子がいませんので、13名ほどいた側室に出来た子供を確認してますと、

 

南殿(長浜城主の時代の側室)

長男石松丸(6歳で夭折)
長女名前不詳 (夭折)

 

淀殿(浅井長政の娘茶々)

次男捨 (豊臣鶴松ー夭折)
三男拾 (豊臣秀頼)

 

どうやら、秀吉の実子はこの4人のようです。周知のように慶長20年(1615年)5月8日に秀頼は大坂城で死去していますので、秀吉の実子はひとりも残っていないことが分かります。

 

次にこの秀頼の子はどうでしょうか?
側室との間に、男女ふたりの子供がいた事が分かっています。男子は国松(5月23日京都六条河原で斬首)女子は出家して助命され(天秀尼)ました

ここで秀吉直系の血統は完全に途絶えています。

 

次に秀吉の兄弟姉妹ですね。

 

秀吉の実の姉”とも”(瑞龍院日秀)の子供は3人います。
秀次(豊臣秀次ー謀反の疑いで切腹死)

秀勝(朝鮮出兵時に戦病死)

秀保(病死)

次に異父弟”小竹”(大和大納言豊臣秀長ー子供なし、病死)

 

異父妹”旭”(徳川家康室ー子供なし)

 

結論として、”大坂夏の陣”終了時点で、豊臣秀吉の血統は完全に途絶えていたことが分かります。

 

そこで、、、

 

 

高台院(北政所)は最終的に、実兄”木下家定(きのした いえさだ)”の孫”木下利次(きのした としつぐ)”を自分の養子として後を継がせ、豊臣家の存続を徳川家康に認めさせています。
と言う事で、木下利次”は徳川幕府公認の豊臣宗家後継となり、『旗本寄合・近江木下家』3000石として江戸時代も存続しました。
秀吉と北政所との間に実子がいなかったことから、徳川幕府では形の上では豊臣家は存続させたものの、秀吉の血統が途絶えていることから問題なしといて認めたという事なんでしょうね。

高台院と徳川家康の関係もさることながら、幼少時に世話になったことから高台院に恩義に感じている徳川秀忠の力があったことは、言うまでもないことでしょう。

まとめ

今回は、『大坂夏の陣』の覚え方に重点を置いた記事にいたしました。

別記事『大坂夏の陣』のダイジェスト版のようになりましたが、なにかのお役に立てれば幸いです。

 

『関ケ原の戦い』以降も徳川家康は”天下取り”を拙速に事を進めるようなことはせずに、あくまでも順序立ててまるで”詰将棋”のように、一手一手詰めて行くのが分かります。

 

そのスピードの遅さが、家康の”迷い”と”躊躇”に受け取られて、豊臣との共存を考えていたような記述が多いですが、私は最初からそんな考えは家康になかったと思います。

 

冷徹な計算のもとに着実にことを進めて行った、またそのようにマネージ出来る、傑物だったのでしょう。

家康は最初から、豊臣宗家からの権力奪取を企画していて、そのために有効な手を手ぬかりなく打って行ったわけです。

”情に流されない”そんなやり方を誰もが感じるために、やはり庶民に人気がないのでしょうね。

家康の手法は企業経営者の経営判断としては満点なやり方でしょうが、政治家としては庶民の人気も必要ですから難しいところですね。

こうして見て来ると、豊臣家の関係者が次々と亡くなっていく運のなさを”高台院”と豊臣一族に感じますが、実際誰も何も手を下さずに、そんなに家康にとって都合よく豊臣・豊臣譜代関係者が次々と亡くなっていくものでしょうか?

家康が伊賀者の”乱波(らっぱ)”の軍団(情報組織)を充実させていたことは知られていますが、歴史の表面には決して出て来ません。唯一”家康の伊賀越え”での活躍が目を引く程度です。この人たちの本業は”謀略”です。

その後、徳川時代になってからもこの組織は、幕府の裏仕事をする(非合法情報組織)柳生宗矩(やぎゅう むねのり)の”柳生軍団”と、服部半蔵(はっとり はんぞう)指揮下の伊賀軍団が”御庭番”として厳然と存在したことは比較的有名な話です。

当然、、、私見ですが、このあたりが”家康の天下取り”と深く関係しているような気がします。

 

 

そうです。。。『内府殿は怖ろしい人なんです』・笑。

 

ちょっと余談ですが、大坂城落城後の豊臣家の金庫に金2万8千枚(28万両)、銀2万4千枚(2万両)が残されていたことが伝えられています。当時の1両を現在の30万円くらいと計算するとなんと900億円にもなります。

あれだけ、家康が豊臣家に散財させて(多数の寺社修復・建立、大坂の陣の戦費)いたにもかかわらず、そんな大金が残っていたようです。最盛期に秀吉は一体いくらの資産を持っていたのでしょうか?

信じられないお話ですが、ひょっとするとこのお金には『本能寺の変』で消えた織田信長の遺産も入っていたのかもしれませんね。

 

参考文献

津田三郎 『北政所』(1994年 中公新書)
岡本良一 『大坂冬の陣夏の陣』(1972年 創元新書)
丸島和洋 『真田四代と信繁』(2015年 平凡社新書)
Yahoo知恵袋inakanokenshi2009/8/22『豊臣秀吉の系統』
ウィキペディア『豊臣国松』

 

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