真田幸村!九度山幽閉中の生活はどうだった?幸村の心境は?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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一体、真田幸村はなぜ九度山に幽閉されたのでしょうか?
九度山での生活はどういったものだったのでしょうか?
幽閉されて幸村はどのように思っていたのでしょうか?

こちらでは、真田幸村の九度山生活について
とことん紹介いたします。

 

なぜ九度山に幽閉されたのか?

真田家は天下分け目の関ヶ原の戦いに際して、
上杉討伐に出陣中の宇都宮付近“犬伏”の地で親子3人で話し合い、
徳川家康側近の本多忠勝の娘を嫁に貰っていた兄の信幸は徳川方に、

豊臣方石田三成の盟友大谷吉継の娘を嫁にしていた弟幸村と
父昌幸は豊臣方に分かれることを決めました(犬伏の別れ)。

結果、東軍徳川方の大勝利に終わり、敗軍の将となった真田昌幸・
幸村親子は高野山へ配流、後に麓の九度山に幽閉されることに
なったのでした。

真田親子は徳川秀忠の関ケ原遅参の原因ともなった
上田城の攻防戦を演じて、特に秀忠には恨まれており、
それにしては高野山へ流される処分は軽すぎると思われますが、
そこには兄信幸の助命活動が大きくものをいったようです。

NHK大河ドラマにもあるとおり、家康を“何度も謀った昌幸”は
家康の思う通りにならない“強敵”ですから、、、

本来、家康の性格からして簡単に許すはずなど絶対ないのです。

信幸の正室、本多忠勝の長女小松姫の力は
かなり強力だったのでしょうが、案外家康配下の重臣たちにも
真田親子の人気があったのかも知れませんね。

真田幸村像

 

九度山での生活はどうだったの?普段どうしていた?

九度山の蟄居(配流)生活は、監視役の紀伊藩から年50石の支給と、
兄信之・母山手殿からの仕送りのみで苦しい生活を強いられていたようです。

当時徳川の旗本への扶持が年800石くらいあったとされていますので、
家臣16名を引き連れて来た九度山の生活は信之・山手殿(昌幸の正室)の
仕送りに頼る生活だったのです。

送金をせがむ父昌幸の書簡が今に伝えられています。

その他、、、幸村の妻竹林院の考案した“真田紐”の行商
家臣に手分けしてやらせて糊口を凌いでいたのです。

この行商は各地の情報を集めることが出来て
一石二鳥の効果をもたらしたようです。

幸村の書簡の中に、
「長い蟄居生活はすべてに亘って不自由であり、
自分もくたびれてしまった。」

とか、、、

「自分は病人のようになってしまい、歯が抜け
髪にも黒いところがなくなった。」

とあります。

一部で伝えられるような、日常家臣たちと剣術修行を続けたり、
真田家再興のために徳川を倒す情念を燃やしていた姿とは
程遠い感じを受けますね。

 

 

父昌幸はどんな思いだったのか?

通説では、父昌幸は高野山に流罪となり送られる時に
「家康にこそ,こういう目にあわせようと思っていたのに」と
悔し涙を流したという事ですが、、、

一方で昌幸は長男信之、浅野長政、本多正信らを通じて再三、
家康に対して赦免を願い出ていたのですが、慶長10年(1605年)に
秀忠が第二代将軍に就任すると状況は変わりました。

と云うのは、

第2次上田城の戦いで秀忠を苦しめ関ケ原遅参と云う大失態を
演じさせていたので、秀忠の昌幸に対する恨みは
半端なく、蟄居5年目にしてさすがの昌幸も
赦免を断念したと伝えられています。

昌幸は、大阪冬の陣の少し前の慶長16年(1611年)6月4日に
波乱万丈の生涯を閉じました(享年65歳)。

流刑人のため、長男信之は葬儀をあげることさえ
出来なかったようです。

 

徳川側からの監視は緩かったの?きつかったの?

監視役の紀伊藩の浅野長晟と真田昌幸は交流があったらしく、
配流先高野山蓮華定院の管主からも真田家所縁の寺院と
云う事で、真田親子の扱いに手心を加えるよう九度山の
村民に話もあり、比較的監視の目は緩かったようです。

また、、、

信じられませんが、幸村が京都へ出て出張に来ていた兄信之と
面談した記録まで残っているそうです。

そもそも徳川からの扶持米50石は少なすぎると思われますが、父昌幸は
殿様の暮らしぶりは抜けなかったようで、上田藩主となっている信之からの
仕送りは家臣16名も含めてそれなりの生活をしていたものと想像されます。

昌幸にそんな殿様生活をさせていたことから、徳川方の監視も程度が知れ
ようというものです。

また、徳川方の監視も紀州藩士が付っきりだったわけではなくて、実際は
地元の農民・郷士に任されていたようですから、真田親子に好意的
だった彼らが緩い監視をしていたのは想像に難くないですね。

 

幸村の生活困窮の度合いがひどくなるのは、父昌幸の死後で、家臣の大半も
上田藩に帰参して、幸村の周りには九度山生活で増えた家族と伴回り2~3人だけで、
仕送りも大幅に減額されていたのではないかと推察されます。

 

九度山から大阪城にはなぜ行くことになったの? どうして行けたのか?

関ケ原の戦い以降も家康は息子秀忠とお江の方の娘の千姫を
秀頼の妻にするなど、豊臣家との友好関係を
保つことに腐心しています。

しかし、、、

慶長16年(1611年)3月28日の京都二条城での家康・秀頼会見後に、
共存路線を取っていた家康の方向が豊臣家取り潰しへ
大きく転換します。

家康は成長した秀頼の才知を見て、我が子秀忠では
世の人望の面からも太刀打ちできないことを悟り、
徳川家安泰の為に豊臣取り潰しを決意したと
伝えられています。

豊臣側は徳川の将軍世襲に反発して、秀吉恩顧の大名が離れる中、
危機感を強めて牢人集めを既に始めていました。

徳川方は慶長19年(1614年)8月開眼予定の方広寺大仏鐘楼を
ネタにして仕掛けを開始し、双方一触即発のまま

慶長19年10月に真田幸村のもとへ秀頼から大坂城への呼び出しが来ました。

監視の紀伊藩が見逃したとの通説もありますが、
幸村が大坂城へ出発の情報を得ていた紀伊藩は地元村人に
幸村の出発阻止を命じていたようです。

通説では、幸村が村人を宴会に招いて酔わせて
その隙に大阪へ出発したとありますが、

実際は村人が幸村に好意的で深夜に
村人の協力を得て出発したようです。

事実、、、

近隣漁師数十名が幸村に同行して
大坂城入りしていることが分かっています。

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九度山ってどんなところ?現在はどうなってるの?

九度山の所在地は和歌山県伊都郡九度山町です。
人口4320人(2016年2月末)

位置的には、和歌山県の北部で大阪府と接する
ところに位置し、紀の川沿いに遡上すると
橋本、五条があり、高野山の入口にあたります。

古くは霊峰高野山の寺領であり、歴史の古い町です。

町の名前の由来はお母さんが空海に会いに来た時、
高野山は女人禁制のため、ここにあるお寺(慈尊院)に滞在し、
空海はその間に九度も山を下りて会いに来ていた。

との言い伝えがあってこの地が九度山と呼ばれるように
なったと言われています。

気候は年間平均気温が15.4℃で極端に
寒くもなく暑くもなく恵まれた
過ごしやすい地方です。

現在は人口過疎地域ですが、南海高野線
大阪から高野山まで通じており、正に高野山の麓の町、
入口の町として位置し、歴史の町としての
存在感が増しています。

 

九度山への行き方は?

車:
近畿自動車道⇒阪和自動車道⇒美原北IC⇒R309⇒
R170⇒R371⇒R370⇒九度山
所用時間 美原北ICより約60分

ルート地図

JR新大阪駅周辺のレンタカーを調べてみる

電車:
JR新大阪駅を起点にすると、二つの行き方があります(午前10:00に新大阪駅を出発した場合)。

①JR新大阪駅で地下鉄御堂筋線に乗り換え、難波駅から南海高野線に乗る方法
新幹線から案内板に従って一旦改札を出て右へ、もう一階下の階へ降りて徒歩2~3分で地下鉄御堂筋線へ。

地下鉄御堂筋線新大阪駅⇒なかもず行15分(280円)⇒難波駅~徒歩9分~南海線難波駅(南海高野線快速急行極楽橋行790円)⇒63分⇒九度山駅

所用時間 1時間27分
乗車時間 1時間18分
運賃   1,070円

南海線難波駅発九度山方面行の時刻表を見てみる


②JR新大阪駅で在来線に乗り換え、大阪で環状線に乗り換え、新今宮から南海線に乗る方法
新幹線を下車してから在来線への乗り換え改札口を出て、16番線からJR京都線西明石行で大阪駅へ、それから大阪環状線に乗り換え、西九条方面行に乗り、新今宮駅で南海高野線へ。(西九条駅から分岐してUSJへ行く線に乗らないように注意。)

新大阪⇒JR京都線加古川行4分(220円)⇒大阪~待ち9分~大阪⇒環状線西九条方面23分⇒新今宮~待ち23分~南海線新今宮⇒高野線急行橋本行48分(790円)⇒橋本~待ち13分~高野線高野下行13分⇒九度山

所用時間 2時間3分
乗車時間 1時間18分
運賃   1,010円

南海線新今宮駅九度山方面行の時刻表を見てみる

お泊り:
宿坊形式のものを中心に橋本市~高野山までで、
48施設ほど存在します。

宿泊サイトを楽天で見てみる

 

終わりに・・・

戦国時代が終わりを告げた大坂冬の陣・夏の陣で
一躍歴史に残る英雄となった真田信繁(幸村)の
不遇の九度山配流時代にスポットを当ててみました。

NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公でもあり、
様々な資料が存在しますが、関ケ原の敗戦後
歴史の表舞台から姿を消していた真田幸村が

10余年の歳月を経た後に、再び華々しく登場して
大活躍をしたことは周知の事実です。

真田家は戦国の梟雄たちが歴史の表舞台からどんどん姿を消していく中、
戦乱の世をたくましく生き残って、江戸時代には信州松代藩として幕末まで存続し、
幕末には幕閣にも席を置き、維新に際しては早くから倒幕に藩論をまとめて新政府軍に参加して軍功をあげ、明治時代には華族として子爵から伯爵家にまでなりました。

このような昌幸・幸村のDNAが綿々と引き継がれている
その波乱万丈の真田一族への理解の一助に本記事がなれば幸いです。

 

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