『豊臣秀次事件』決定版!秀吉が秀次を切腹させた理由は何か?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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小田原攻め”で強敵北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の天下統一が成し遂げられた後に、不可解な事件が2件発生しています。
ひとつは”千利休切腹事件”で、もうひとつが後継者にと自分で指名した甥の秀次を切腹させた上に、その係累縁者子女ことごとく京都三条河原で公開処刑してしまった残虐な事件『秀次事件』です。
二回に及ぶ朝鮮出兵の狭間の時期に発生したこの『秀次事件』は、秀吉没後から始まった豊臣家滅亡ストーリーの序章となりました。

天下人豊臣秀吉が、なぜこのような行為に及んだのかを徹底的に解明します。

豊臣秀次はどのように切腹を命じられていったのか?

通説では、、、秀次は、秀吉の小田原攻めの翌年天正19年(1591年)関白に任官し、秀吉から後継者として公表され豊臣政権の政庁たる聚楽第に入りました。

しかし、太閤となった秀吉は内政を関白秀次に任せたものの、結局隠居はせず実権は握ったまま『唐入り(朝鮮出兵)』を始め、豊臣政権は”二頭政治”状態となりました。

秀次は関白になっても秀吉との役割分担があったとは言え、何か不安を覚えたのか、なぜか叔父秀吉の大事業たる『唐入り』へ積極的に進んで出兵をしようとしませんでした。

黒田如水など諸将からは、”秀吉の後継者たる秀次は総大将として出陣渡海すべきである、そうしなければあなたは立場を失いますぞ”と諫言されていたようでしたが、聞く耳を持たなかったようで、ついに『文禄の役』が文禄3年7月に休戦するまで秀次の出陣は実現しませんでした。

これには、文禄2年(1592年)8月3日の実子(秀頼)の誕生後の秀吉のパフォーマンスに関係しているのかもしれませんが、公式上は秀次の持病の喘息が悪化して出兵が出来なかったと伝えられています。

一方、秀吉は文禄2年の秀頼誕生でその喜び方は尋常でなく、政権内部でも後継問題に関して秀吉が方向転換し始めている気配を皆感じ始めていたようです。

後継者秀次の補欠扱いとなっていた羽柴秀俊(寧々の兄の子・後年の小早川秀秋)は、文禄3年(1594年)黒田如水によって毛利家への養子が打診され、小早川隆景の養子となることで秀吉の魔手から脱出することが出来ました。

秀次は社交術が巧みで公家達との付き合いもうまくやっていたようですが、秀吉からそれをけん制するように、”秀吉と同じような酒色癖があり”として諫言状を出されていたようです。

当時は、まだまだ秀吉にも余裕があり、秀吉からの諫言状も”俺の真似ばかりするな”くらいのことだったように見えますが、秀吉の頭の中ではもうすでに秀次追い落としのオペレーションが始まっていたのかもしれません。

やがて、文禄4年(1595年)になって、不吉なことが起こり始めます。

秀次の実弟で、秀吉の異父弟豊臣秀長の継嗣となり、大和郡山城主として大和豊臣家を継いでいた豊臣秀保(ひでやす)が文禄4年(1595年)4月16日に取り巻きの若衆との諍いで川に突き落とされて水死する事件が起こります。

しかも秀吉は、秀保に後継を立てることを認めず、なんとあの秀長が作った大和豊臣家をお家断絶にしていまいます。これは豊臣の係累(継承者)を秀頼ひとりに絞って行く布石のひとつとも取れます。そのため、後世の歴史家から秀保暗殺説もささやかれる訳です。

そしてとうとう、秀次は7月3日聚楽第に石田三成、前田玄以、増田長盛、冨田左近ら奉行4名の訪問を受け、彼らから市中で噂されている謀反の疑いにて尋問がなされます。秀次は反論を行いますが、埒が明かず、求められた誓紙の提出します。

7月5日なって三成から”伏見に出向き、養父でもある秀吉に直接申し開きをされたらどうか”と促されますが関白秀次は応じませんでした。

7月8日に再度、前田玄以、宮部継潤(みやべ けいじゅん)、中村一氏、堀尾吉晴、山之内一豊ら5名の使者の訪問を受け、秀次に伏見城に出頭して秀吉に申し開きするように促されました。彼ら皆秀次の元宿老と元養父などの説得に秀次も折れてとうとう伏見の秀吉に申し開きに向かいます。

しかし、なんと秀吉は伏見城に出向いて来た秀次の目通りどころか、登城も認めずに門前払いにします。

そして秀吉から控えの屋敷にいた秀次に、法体となりわずかな伴回りだけで高野山へ向かうように指示が出ます。秀吉の意図を悟った秀次は夕刻に、秀吉のつけた監視役高野山青厳寺住職 木喰応其(もくじき おうご)らとわずかな側近とともにそのまま高野山へ向かい、10日夕刻高野山青厳寺に到着します。

一方、秀次の妻子側室たちは8日の夜に全員捕らえられ監禁されて、11日に前田玄以らに監視されながら丹波亀山城まで送られました。

13日には、秀次の家老白江備後守が切腹、木村常陸介が斬首と主だった家臣の処分が続きます。

15日になって、高野山青厳寺に福島正則、池田秀氏、福原長堯(ながたか)の3名が3000名の兵を連れて検使に現れ、秀次に秀吉の命である”賜死”を伝え、秀次は四つの刻(午前10時頃)に小姓らに続いて自刃しました。

3使が秀次の首級を持ち帰り、秀吉は検視するも31日には秀次の妻妾公達が亀山から戻され、8月2日に京都三条河原で秀次の首級(さらし首)が見つめる中、秀次の妻妾公達39名全員が公開処刑されてしまいました

本来、『高野山行き』は”追放”の意味で、出家して高野山へ行くのは、死罪から罪一等を減じられたことを世間に公表する意味合いがあります。

例えば、北条滅亡の折、北条氏政は最後まで開城に抵抗したため、切腹(死罪)を申付けられますが、少し早目に降伏して城を出て来た息子の北条氏直は助命されて、高野山へ追放と言う事実があります。

当時の世間常識はそのように理解をするはずですので、この秀次のケースは驚きを持って当時の人々に受け止められているのです。

ここに『秀吉は秀次を殺害する考えはなく、秀次が切腹してしまったのは、政権側の想定外の出来事だった』と云う新説が生まれる根拠にもなって来るのです。真相は不明ですが、新説の通りだとしてもやはり理不尽な秀次の妻妾公達皆殺し処刑の説明に関しては、付かず仕舞いだと言う印象が残ります。

かくも凄惨な結末で締めくくられた事件で、豊臣政権の次の時代を支えるはずの大事な人材家臣を秀吉自身の手で一網打尽に殺害してしまい、来たるべき”秀頼の時代”を自ら台無しにしてしまった歴史的事件でした。

高野山金剛峰寺大門
(この画像は高野山金剛峰寺大門です)

 

豊臣秀次はどんな経緯で秀吉の後継になったのか?

秀次は、永禄11年(1568年)秀吉の姉”とも”と弥助の長男として尾張知多郡大高村の百姓の子として生まれました。秀次は元亀3年(1572年)4歳の時に、織田信長の浅井氏小谷城攻めの攻城責任者となった叔父秀吉によって、浅井方宮部継潤の調略の際に宮部氏へ人質として出されたのが、秀次の波乱万丈の人生の出発でした。

その後秀吉が近江長浜に築城した天正2年(1574年)頃宮部氏から羽柴家に復帰しましたが、四国で長曾我部元親の攻勢に危機感を強めていた三好家が秀吉に接近を試み、天正7~8年頃(1579年~1580年)に三好康長の養子となりました。

天正10年(1582年)の”本能寺の変”後、なぜか三好康長が出奔し、居残った秀次は天正11年(1583年)にはそのまま三好家を率いることとなり、河内北山2万石の大名となりました。

天正11年(1583年)に起きた伊勢の滝川一益の蜂起には2万の大将として出陣し軍功を上げ、賤ヶ岳の戦いにも出陣するなど、羽柴家の2世世代の最年長者として、徐々に注目されるようになります。

しかし、天正12年(1584年)の”小牧・長久手の戦い”では、自ら指揮する作戦で家康の作戦に引っかかり岳父の池田恒興、義兄の森長可らが討死する大敗を喫し秀吉の大叱責を受けますが、翌天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めには秀吉の副将として出陣し、戦功をあげて汚名をそそぐことが出来ました。

その年天正13年(1585年)7月に秀吉が関白に任ぜられると、秀次も10月に従四位下右近衛権少将に叙され、天正14年(1586年)春には右近衛権中将、11月参議、天正15年(1587年)11月従三位権中納言、天正16年(1588年)従二位に昇叙。

天正18年(1590年)秀次は北条攻めに参戦し、病気で動けない秀長に替わりに副将を勤め、7月18日小田原開城の後始末がつき次第奥州平定へ向うなど大活躍をし、これらの論功行賞の加増で100万石の大大名となりました。

翌天正19年(1591年)1月、秀長が死去し、8月に秀吉の実子鶴松も死去します。こうした中で、秀次の存在は徐々に若き秀吉後継者としての状況が形作られて行きます。

11月に権大納言に、12月に内大臣となり、そして12月28日に関白に任ぜられて、聚楽第へ入りました。そして、翌天正20年(1592年)1月左大臣に任ぜられ、2月に聚楽第へ天皇行幸を迎えて秀次が秀吉の後継者であることが、天下に公表された形になりました。

3月に秀吉は『唐入り』に専念するため、淀殿を伴って肥前名護屋城へ出陣します。秀次は任された内政の体制固めを着々と行い、5月に従一位に叙せれられ、8月には秀吉母親の大政所の葬儀を取り仕切りました。、12月には”天正”から”文禄”へ改元が執り行われ、秀次の後継は形の上では着々と固まって行きます。

とここまでは、、、

豊臣政権の統治権継承は秀吉から秀次へ順調に進んでいくのですが、翌文禄2年(1592年)8月3日、肥前名護屋城から戻っていた淀殿にお拾(秀頼)が生まれると秀次の運命は大きく変わって行くことになります。

豊臣秀次はどんな人物だったのか?本当に極悪人なの?

文禄4年(1595年)に起こった『秀次事件』の前に世間の広まっている秀次の悪い評判と云うものは、秀吉の後継者と云う事が流布されていたにも関わらず、事前にはあまり見受けられません。例えば、幼年時代から粗暴な性格で、乱暴をして回ったとかの類の話はないのです。

事件後に出て来た悪評は後世伝えられているように多数出現しているようです。

当時の宣教師ルイスフロイスの秀次評はどうでしょうか?

フロイスは著書『日本史』のなかで、『関白の甥の新関白秀次は、若年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急ではなく、物事に慎重で思慮深かった。そして平素、良識のある賢明な人物と会談することを好んだ。』と評価しています。

何よりも女性関係の乱れを嫌うキリシタンの宣教師から絶賛されています。巷間伝えられている『秀次は本来激しやすい性格で、刀の試し切りと称して罪人を切り刻むことを好み、妊婦の腹を割く鬼の所業も成した』と言われている話とかなり距離がありそうです。

”小牧長久手の戦い”での手痛い失敗はあるものの、おおむね戦国武将としての資質には問題のない人物でむしろ優秀であったと評価されていたようです。また近江八幡の領地経営(もっとも秀吉が手取り足取り指南をしていたようですが)でも領民から今なお慕われているなど名君の誉れ高く、”秀次事件”の成敗理由に上がられるような問題人物でなかったことは間違いないようです。

”関白秀次は生来残虐非道な性格の人物で、このような人物に政権を任せることに危険性を覚え、尚且つ謀叛を企てるなど言語道断の人物であり、この度その係累も含めて処断することとした”というようなあらすじで言われているのですが、こうした話が本当であれば、秀次の周りには小姓すら逃げ出していなくなっていたことでしょう。

実際の秀次はこの処分が伝わった折、諸大名から処分再考・助命の嘆願が出て、3泊ほどしながら高野山に行く道すがらの宿所に次々と公家衆はじめ多数のお見舞いが押し寄せる状況は、どう見ても伝えられる”残虐非道の性格の人物”と云う秀次像との大きな乖離があると思わざるを得ません。

どうやら、この強烈なキャラクターの悪行話は、”秀次処分の正統化のため”に創作されたものとみて良いかと思います。

当時の豊臣政権の権力構造は、老境に入った『独裁者』がひとりで絶対権力を掌握していたわけですから、今で言う”なんでもあり”の状態です。

この事件は秀吉が引き起こしたのか?誰か別に仕掛け人がいるのか?

この事件の企画命令者はまず”太閤秀吉”その人であろうと思われますが、其の他の人物の仕掛けがあったのでしょうか?関係者を当たってみましょう。

淀君は関係しているの?

この淀殿(茶々)は言わずと知れた、織田信長の妹お市の方と北近江の戦国大名浅井長政の長女ですね。茶々はお市の方の娘であるプライドは相当なものだったと思います。様々な物語で語られるように当初秀吉を”サル”と呼び馬鹿にしていたのは、茶々に自分は秀吉の主筋の信長の一族であるとの強い思いがあったのだと思います。

一転変って秀吉の側室になることを承諾した背景には秀吉が天下を獲りそうな気配が女王様気質の彼女をそうさせた可能性が高いと思います。

さてそこで、秀吉の死後に秀次が天下人になることがはっきりしてから、信長の係累以外のどこの馬の骨かわからない秀吉の姉の息子が天下人になることに一番腹を立てていたのは、実はこの茶々ではないでしょうか。

幸い、文禄2年(1593年)8月3日に秀頼が無事生れてから、茶々の乳母大蔵卿局を参謀に”秀次追い落とし作戦”は始まったのではないでしょうか?

高台院(寧々)はこの動きには加担しないはずです。子供のいない寧々にとっては、秀次は大事な大事な甥ですからね。

秀吉は当初、折衷案のような形で秀頼と秀次の娘を結婚させることによって、秀次の次の関白に秀頼をさせることで折り合いをつけようとしていたようですが、おそらく茶々が承知しなかったのではないでしょうか?

やむなく秀吉は茶々・秀頼かわいさに、罪もない秀次に冤罪を仕掛け切腹させる作戦を発動させることになります。

あの秀次眷属39名全員の虐殺は、秀吉によって一族を皆殺しにされた浅井一族の恨みと織田の血統のプライドが入り混じった茶々の復讐劇だったとも言えそうですね。

相当話が飛躍しましたが、可能性として、動機面では十分に淀殿は有資格者であるような気がします。

石田三成ら奉行たちは関係しているの?

三成は秀吉が長浜に居城を構えた時からの奉公人で、純粋に子飼いの家来です。豊臣家の中の”尾張系”と”近江系”のうち”近江系”です。尾張系に武断派、武功派が多い中、近江系は文治派と呼ばれる実務官僚が多いです。

三成の中には自分を育ててくれた秀吉・豊臣家以外の選択肢は念頭になかったような感じです。

分けて考えると、高台院には加藤清正、福島正紀ら尾張系の武将が集まり、三成には近江系の武将が集まるとすると、小谷浅井家の娘であった淀殿は三成と結びやすいと言うか、近江系の武将は全員が自分の家来くらいに思っているのかもしれません。

こう思うと、淀殿の企画した”秀次謀殺計画”は近江系の三成に密かに下命され、彼らを実行犯として実行された可能性はないとは言えませんね。

まだこの時点で、三成ら奉行たちが秀吉を促す形で自主的に政略を進めていくとは思えませんので、かれらが単独で秀次排除に向かう理由はないような気がします。

しかし、この事件後三成はじめ加増されている大名が出ました。この加増の理由は秀次事件に貢献したと言う理由ですよね。

石田三成 9万4千石加増、山内一豊 8千石加増、中村一氏 5千石加増、田中吉政3万石加増となり、関係者が浮き彫りになったようですね。

やっぱり、怪しいですね。

徳川家康は関係しているの?

さて、いよいよ秀吉の最大のライバルの登場です。小牧長久手の戦い後に秀吉に臣従する形で手を結びましたが、基本、天下取りを一番欲している人物です。

ここで、順調に秀吉⇒秀次⇒秀吉と豊臣家内部で権力の世襲が続いて行くと政権の安定化につながり、その定着化に一番衝撃を受けるのがこの人徳川家康です。

後年豊臣家を滅ぼしにかかる手順で、即幕府を立ち上げ、数年を置かずに2代目秀忠に譲り、権力の継承を世の中に見せびらかしましたよね。

同じ発想なんですね。だから、この場面で、絶対に順調に権力の継承をさせてはいけないのです。

この人物の動機が一番強いですね。

ここからは私見ですが、、、

なにか事件が起こるとその下手人と云うのはその事件の結果一番利益を得る者が犯人と相場が決まっていますよね、そうすると、この大虐殺事件で結果一番利益を得た者は、一体誰でしょうか?

私は、誰が何と云おうとこの事件での一番の利益享受者は、”徳川家康その人であることは歴史が証明しているのではないかと思います。

ここで、秀次謀殺の下手人が徳川家康であるということは残念ながら私には証明出来ることではありませんが、”動機論”から云えば間違いなく家康の心証は”クロ”の可能性は高いと思いますね。

『遠謀深慮の人 徳川家康』ならピッタリの”作戦”だと思えませんでしょうか?

バカな海外遠征を秀吉に止めさせることと、老い先短い秀吉の豊臣家の次世代の大事な人材を始末出来、尚且つ豊臣家のスムーズな権力の継承を阻止できる絶好のチャンスだったと考えると、、、

当然飛躍し過ぎのご批判は受けるとしても、案外、、、あるかもしれないと思えませんか?

家康は当時戦国一の諜報組織(伊賀者集団)を配下に抱えていました

”秀次謀反事件”は噂から始まった』と資料が教えています。”噂”を流すことは、戦国時代の諜報機関”乱波(らっぱ)”の重要な仕事のひとつです。得意中の得意なんですよ、こんなことは。

戦国時代はもっぱら情報収集と調略が仕事ですが、家康がもし実行したとしたら、、、これは”謀略”ですね。

この事件の一連の歴史話の中にほとんど家康が絡んで来てないし、後世の歴史のなかでも家康謀略説は話題にもなっていないのが却って怪しいですね。

現代のプロの歴史家の方にどこか見落しがあるのではないでしょうか?これほどピッタリの”犯人”はいないのですが。。。

まず、江戸時代に徳川幕府(御庭番)が徹底的に証拠隠滅したはずですけどね。

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なぜ秀次一族全員虐殺されたのか?

この事件を内外の人々、後世の人々に強く印象付けたのがこの秀次一族(妻妾公達39名)の京都三条河原での公開処刑で、遺体を纏めてひとつの穴に放り込むと云う残忍なむごたらしい行為でした。

日本では、織田信長の荒木村重の謀叛に対する村重の美人の誉れ高い妻の”だし”を始め一族処刑というのが有名ですが、一般にこの根絶やし行為は戦国武将では織田信長以外では多人数のものはありません。

通説では、秀次本人の抹殺だけでは安心できない秀吉が、秀次の子供たちが秀頼にとって代わろうとするのを阻止しようとの考えで一族全員の処刑を実施したと伝えています。

これは日本では珍しいですが、中国では秀次のケースとは違いますが、罪人処刑の形として存在していました。

『族誅(ぞくちゅう)』と云い、封建時代の中国において重罪を犯した者について本人のみならず一族についても皆殺しにすると云う罰則で、『九族皆殺し』とも言われていました。起源は殷の時代に始まり、秦の時代に発展し、なんと清の時代まで存在しました。中国以外でも朝鮮、ベトナム、日本でも行われていたと言われています。

こんな説明が必要なほど珍しく、恐ろしいことを秀吉はしてのけました。

古来、権力者はその権力を維持することに固執し、自分の座を狙うものを全力を挙げて手段を択ばず排除しようとします。最後は誰も信用しなくなり、すべての者が自分の座を狙うものだと言う猜疑心にさいなまれて行くと言います。

異説は色々出ているのではないかと思いますが、結局、秀吉は”独裁者”が陥る狂気のひとつである『反対者の口封じ行動』をおこなったのではないかと判断されます。所謂”恐怖政治”とでも言いますか、信長も晩年その傾向が強くなって光秀の謀叛を誘発しました。秀吉はその信長の失敗も踏まえて、徹底した”粛清”の必要性を感じていたのではないでしょうか?

もし、誰かが見かねて反対に秀吉を諫めようものなら、たとえそれが寵臣の三成であったとしても切腹か、打ち首を覚悟せねばならなかったでしょう。

これは、秀吉が耄碌したとかではなくて、秀次に関白職を譲りながら結局形だけで、財産も権力も何ひとつ譲らなかった秀吉の”権力に対する執着”が作り出した狂気なのではないでしょうか。

この事件が起こった本当の理由は何なのか?

周到に後継者を決めて体制固めをして行った家康ですら、本当は秀忠に全権力の委譲はせず”大御所政治”を行い、自らの死の瞬間まで権力を握り続けていたように思います。

最初は秀吉も豊臣家の繁栄のためにしっかりした後継者に自分の跡目を継がせて、自分は引退したいと思っていたかもしれません。

しかし、秀次を後継として関白に任官させるに当たって、領地と権力は渡さないことにしたものの、周囲の関心が秀次に集まり始めて行くのを見て、秀次が権力者になって行くように感じ、今度は自分が追い落とされるのではないかと云う猜疑心にさいなまれて行ったのではないでしょうか。

そして、良い機会が訪れます。茶々が男子を出産したのです。この際、本当の父が誰かなどどうでもいいのです。自分の愛妾に生まれた自分の子なのですから、この子に後を継がせることを口実に他の継承権利者を排除してしまえば、自分の不安は払しょくされて権勢は続きます。

常識的な冷静な感覚では、後世に配慮して自分が最善の時期に身を引いて行くのが、一族の長たるものの責任だということは、誰でも一族を率いて来た者なら持ち合わせているものでしょう。

しかし、時としてその常識に逆らう者が出ます。例えば、武田信玄は父親を追放していますね。政権の簒奪者に至っては山といます。失敗しましたが、明智光秀もそうですし、かく云う秀吉もそのひとりですよね。そして徳川家康もです。

この話はサラリーマンに引き直しても同じです。特に優秀な中興の祖なんて呼ばれるような人がよくやりますが、後継者に優秀な者を絶対に選びません。必ず愚直な者を選び、間違っても自分を排除しない人物を後継に据えます。大手の上場企業を見ていると分かりますよね、10年以内くらいに皆後継者が問題を起こしていますね。一度握った権力の”魔力”は事ほど左様に魅力的なのです。

戦国大名とサラリーマンを一緒にしては失礼かもしれませんが、案外この『秀次事件』の本質はこんなことなのかもしれません。秀吉が思っていたより、秀次が優秀だと言う事が周囲から伝わり始めたのでしょう。それに秀吉には前科があります。師匠だったはずの千利休を謀殺しています。秀吉が耄碌したの、子供の秀頼かわいさのと云いますが、事の本質はこの”権力に対する飽くなき執着”が理由だと私は考えています。

信長をまねて、優秀な人材を身分にかかわらず登用して、ドンドン大きな仕事こなしていた頃の、家族思い、ひと思い、情もあって義に厚い颯爽とした秀吉の姿は、天下人となってからはすっかり影を潜めてしまい、そこにあるのは権力の魅力に虜となり、それを守るために執念を燃やす老人だったのでしょう。

こう云う人物の末路は自身のような簒奪者にやられるしかなく、それが徳川家康だったということではないのでしょうか。

もしこの事件がなかったら、その後の豊臣政権はどうなっていたのか?

最初の計画どおり、伏見城をただの隠居所にして、秀吉が大人しく太閤のままでいたら、ということになるのでしょうけど。

秀吉ー秀次の間が良好であったら、あとの簒奪者はおそらくつけ入るスキを見つけるのは大変なのではないかと思います。

その後秀次が上手く秀頼に政権移譲することが出来れば、豊臣政権は鎌倉幕府か足利幕府くらいは行けたんじゃないでしょうか。

家康は拝命後たった2年で征夷大将軍を2代目秀忠に渡して、自分は大御所になり”院政”と云うか”大御所政治”を続ける訳ですけど、なんと3代目にまで口を出して、秀忠と妻江(ごう)の押す三男国松を押しのけて、家康が家光の乳母に抜擢した春日野局を使って次男で竹千代の家光を”長幼の序の理屈”で3代目に押し込んだ。

家光は家康に恩義を感じ、日光東照宮を造営し家康を大権現として祭っています。ここまで家康は読んでいたかどうか分かりませんが、秀忠も家康の死後7年後の元和9年(1623年)に家光へ将軍職を愚直に継承しています。

話を元に戻しますと、この事件は先に考察したように、起こるべくして起こっていますので、前提を覆すことになるかもしれませんが、秀次が最高権力者としてあり得た場合では、おそらく慶長の役(第二次朝鮮出兵)はなかったのではないでしょうか。

とすると、、、

蔚山城攻防に関する一連の事件もない訳ですから、武功派と文治派の諍いはまず発生していなかったでしょう。となると関ケ原の戦いで、東軍に与した豊臣恩顧の大名は皆西軍へ参戦したでしょう。むしろ関ケ原の戦いそのものがなかった可能性がありますし、もしあっても西軍の勝利の可能性が高いと思います。

秀次の存在は案外大きなものですね。どうも秀吉は最後に大失敗を重ねたようですね。

様々な推測の結果、切腹させた本当の理由とは?

この歴史上の大事件”秀次切腹”は関白になった秀次は、”刀の試し切りに辻斬りをするは、妊婦の腹を割いて胎児を出すはの乱行があり、あろう事か反秀吉派と語らって謀叛を企てた”という理由で断罪された事件です。

しかも問答無用で高野山へ連行されるように行かされて、さらに数日後切腹の命令が出されて、3000人の兵に取り囲まれて自刃させられました。しかも秀次の妻妾公達(さいしょう きんだちー正室、側室、子供たち)39名が全員、京都三条河原で処刑されると言う極めてひどい結末でした。

石田三成ら詰問使が聚楽第に到着してから、秀次の妻妾公達が処刑されるまでたったの1か月でした。秀吉はまさに満を持して実行したかのように電光石火の皆殺しを演じて見せて、世の評判を大きく落とし、その死後の関ケ原の戦いで西軍豊臣派が大敗する原因ともなり、その15年後の慶長20年(1615年)にとうとう豊臣宗家が滅亡する原因ともなってしまいました

まさに秀吉の作った豊臣政権の大きな分水嶺となる大事件だった訳です。

なぜこのような事件が発生したのかをしっかり見て来ましたが、結局は秀吉があまりにも大成功だった”天下取り(政権奪取劇)”だっただけに、その権力に執着する気持ちが天下人になった時から芽生えていてその執念に周りの者が巻き込まれていったというのが真相のような気がします。

当初、私は結果から見ての犯人探しで、有力な候補は徳川家康でした。秀吉の考えを深読みして煽る行為は可能だったので、相変わらず有力な被疑者ですが、今のホンボシは秀吉そのひとだと思います。

動機は”秀吉本人の権力に対する執着”で、”秀頼へ確実に継承させるため”と云うのは単なる理屈に過ぎないのではないでしょうか。

異説に『秀吉は切腹を命じた証拠はなく、秀次が冤罪に抗議する形で自決としての切腹を実行したので、秀吉・三成の政権側は大慌てで、”謀叛”の嫌疑に正統性を持たせる意味であの秀吉眷属への処刑を実行した』と云う新説がありますが、たとえ起こった事件の真相がそうだとしても、その冤罪の嫌疑を掛ける動機面が今ひとつ納得できるものはなく、やはり動機は秀吉の権力に対する執念とする方が腑に落ちる気がします。

家康も秀吉と同じ立場に陥ったら、同じだったかもしれませんね。

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